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194号1面より(2006/12/15発行)
 幼い頃、僕は録音された自分の声を聞いてがくぜんとした。自分がいつも聞いて知っている声とまったく違って聞こえたからだ。すぐに家族や友達に聞き比べてもらったが、誰もが口をそろえて「同じ声に聞こえる」と言った。なんとただ僕ひとりだけが自分の本当の声を知らなかったのである▼最近、これと似た体験に出くわした。録画された自分の姿を見たときのことだ。鏡で見る慣れ親しんだ自分の姿と比べると、どこかちぐはぐに感じられたのである。僕は再びあのときと同じ衝撃に襲われてしまった▼こんな出来事は誰にでもある、ごくありふれたものだと思う。でも、僕は自分と他人との間に思わぬ意識の隔たりがあるという事実に妙にひっかかりを覚えてしまった。というのも、ある心配事が生まれたからだ。その隔たりが時に気まずさを生むかもしれない、という心配である。例えば、音痴なのにうまいと勘違いしてうたい続けてしまえば、聞き手の心に悲鳴が上がる。でも音痴だと気付けば、それもなくなるだろう。つまり、人はその隔たりに気付かなければ、気まずい空間の主役を演じてしまうかもしれないのである▼そんな心配事はまた新たな心配事を生んでしまった。僕もその舞台の中心にいるのかもしれない、というさらに大きな心配である。これまで根本的な隔たりにも気付かなかった自分。他にも何かしら思わぬ隔たりに気付いていないと考えるのが自然だ。ひょっとすると、いつも人を笑わせていると思っていても、実際はただ笑われているだけなのかもしれない▼こんな心配事を減らすにはどうすればいいだろう。僕はより深く自分を知るのが一番いいと思う。そのためには、客観的な視点を持つことが大切だ。「人のふり見て我がふり直せ」。僕にはこんな言葉が浮かぶ。他人は自分を写す鏡というわけである。客観性を養うには、他人に自分を重ねて見るのが何より得策なのだろう▼ありふれた出来事から生まれた、僕にとっては大きな心配事。僕はこの大きな心配事をちょっとでも小さくするために、自分をもっと知ろうと思う(高見亘)