2001年の第77回大会、2区徳本(一善=現・日清食品)の快走で奪った首位の座を守り、70年ぶりの往路優勝を飾るべく山登りに挑んだ当時4年生の大村一さん。中大・順大に抜かれ3位でのゴールとなったものの、強風吹き荒れる山中を必死に駆け上がり、三つ巴の激闘を繰り広げた姿は、今もハコネ史上に残る名場面として語られている――
本紙箱根駅伝特集号では大村さんへのインタビューの一部を掲載しましたが、今回はその全容を公開します。紙面に載せきれなかったエピソードも満載です。
――法大入学のきっかけは?
「北信越大会で優勝した時に、当時の主将が見に来ていて声をかけられ、翌週にコーチが会いに来たことから話が進みました。自由な感じのチームの雰囲気を聞いて、自分に合っているなと思いました。他にも何校か誘われたのですが、大学生にまでなって縛られた環境で走りたくないというのがあったのが一番大きいですね」
入学後、1年次はチームが予選会敗退。その悔しさをバネに翌年には予選会を突破し、本大会への出場を果たす。
――箱根への憧れは?
「高校時代は全くなかったですね。1年の時、(沿道で)整理員をしてから変わりました。何で自分が走っていないのだろうと。箱根は出るものだと思いました。だから、2年生で予選会を通った時には大泣きするぐらいうれしかったですね」
9区を任された大村さんは、10人の思いを一本のタスキでつなぐべく必死に走った。しかし・・・ わずか十数秒間に合わず、その手に握り締めたタスキを渡すことができなかった。
――無念の繰り上げスタートでした
「最後の最後、あと1人つなげばいい、というところでタスキをつなげられなかったということは、みんなに合わせる顔がないぐらい悔しかったですね」
翌3年次、初めて任された山登り。チームの順位こそ落としたものの、当時の法大記録を樹立する力走を見せた。
――初めて挑んだ山の印象は?
「噂に聞く通りの辛いコースでした。誰かにやめていいよと言われたら、やめたいぐらい辛かった。でも前年のキャプテンに、『チームを引っ張れる奴じゃないと山は登れない』と言われたので、何があっても走りきろうと思っていました」
そして4年次。予選会を通過した瞬間に監督から再度5区を任された。いよいよ迎えた最後の晴れ舞台。小田原で待つ大村さんのもとに、タスキはトップで届けられた。その座を守るべく、大村さんは前半から攻めの走りを展開した。
―トップでタスキを受けて
「とにかく絶対誰にも抜かれないという一言でした。上位で来る気はしていたのですが、トップで来ることは予想していなかったですね。70年ぶりというのは走り終わってから知ったので、気負いはなかったです。単純にトップでゴールと言うことしか考えていなかったですね」
――前半からハイペースで飛ばしていました
「よくそう言われますが、本人しては予定していたペースでした。最後の年なので、勝負して勝って終わりたいと思っていたので。風もあって、他の選手はペースを抑えていたようなのですが、自分としてはいいペースだなと思って走っていました」
――当時はものすごい強風でした
「山に入ってから(前半)はそんなに感じなかったというのが正直なところですが、15キロ手前ぐらいから吹いてきた感じがして、頂上付近では暴風でした。走っているのだか、歩いているのだかわからない感じで、その場で足踏みしているんじゃないかと思うぐらいキツかったです」
――当時、テレビ中継の取材では「気持ちだけは負けたくない」と
「走るだけで大変なコースなので、そこで弱気になるのはやめようと思っていました。相手が強くて負けるのではなく、自分に負けるのだけはやめようと。前の年に法大記録を出しているという自信もありました」
―― 一番つらかった地点は
「風が吹いていた16キロ手前の最高点あたりですね。あと、抜かれた(箱根神社の)大鳥居のあたりも、もう一度風が吹いていてつらかったです。ちょうど下りが平らになるところがあって、そこではもう足は動かなかったですね」
終盤、追いすがる順大・中大との三つ巴のトップ争い。1万mの持ちタイムでは劣っていた大村さんだったが、ライバルたちに一歩も引かない走りを展開した。最後は力尽き3位でのゴールとなったものの、その力走は多くの人の記憶に刻まれた。
―― 一度はトップに並ばれた後、再度スパートで突き放すシーンもありました
「一度抜かれて負けそうになる時にちょうど下りに入ったので、このタイミングで抜き返さなければ置いて行かれてしまうと思ってスパートしました。でも、スパートした時点でもう自分の足では下ってないなと感じていました。脚は冷え切っていて、下りを利用して動いているだけという感じで、自分の力は使い果たしていましたね」
――3位でゴールした後は
「全部の力を出し切って、もう一歩も動けない感じでした。体が冷え切っていてとにかく寒かったのですが、体が暖まってくるにつれて、ものすごく悔しさが出てきました。皆に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」
――山の過酷さを表現するとすれば?
「何と言えばいいのかな・・・ 誰もが走りたくないところをたった一人で走っていくところですかね。箱根の山にひとりで立ち向かわなくてはならないことはすごくつらいことだと思います」
――山登りで得たものとは?
「いろんな人に感謝できるようになったのは大きいですね。ひとりで走っていたのだけど、たくさんの人に支えられたから負けられないという気持ちになれたし、登りきることができたという点では今でも感謝しています」
――機会があったらまた走りたいですか?
「複雑ですね。走りたい気持ちもあれば、二度とカンベンしてという気持ちもありますね」
――今でも当時の力走を思い出す駅伝ファンは多いようです
「自分は勝負して負けた人間。勝負して負けたことは恥ずかしいけど、結果じゃないことに対して喜んでくれたことはうれしいですね。うれしさ半分、恥ずかしさ半分って感じですかね」
前回大会での法大の躍進も芦ノ湖のゴールで見守っていたという大村さん。現役の後輩選手たち、そして法大ファンの方々へのメッセージも頂くことができた。
――今回山登りに挑む佐藤選手へ
「僕の法大記録を塗り替えた子に何も言えることはないけど、最後の箱根というのは独特なものがあると思うので、それを胸に刻んで楽しんで走ってもらいたいですね。自分より小さいのにはビックリしました。記録を抜かれたことは悔しいけれど、見ていて嬉しかったですね。同じ体格の持ち主として(笑)」
――陸上部の後輩たちへ
「目指すものに対して門が開かれた、他の大学と比べてもいい環境だと思うので、自分を見失わず、今ある素敵な環境でがんばってもらいたいと思います。(今季は)チーム状態がよくなかったのかもしれないけれど、箱根は特別なので、チーム一丸になればしっかり成績が出せるのではないかと思います。期待したいです」
――駅伝ファンの方へ
「昔も今も個性豊かな駅伝チームだと思うので、ぜひ応援して欲しいですね」
気持ちあふれる「根性の走り」で箱根路を沸かせた大村さん。その熱い思いは今の後輩たちにも確実に受け継がれていることだろう。インタビューの最後には、法大に入って「文句なしによかった」と語られていた。これから箱根に挑む選手たちにも、自分の持てる力を十分発揮し、悔いの残らないような走りをして欲しいものである。ベストを尽くした走りができた時、オレンジの戦士たちは5年前のあの時のように、再び多くの駅伝ファンを魅了するに違いない。 (大山 裕樹)
|
大村 一(おおむら・はじめ)
1978(昭和53)年12月19日生まれ。長野県立田川高校から法大へ。箱根での成績は2年次区間12位、3年次区間7位、4年次区間7位。現在は地元、塩尻市役所に勤務の傍ら、卒業時目標に掲げた「日本一足の速い公務員」を目指して、競技活動を続けている。
|
▲箱根駅伝トップへ |