法大を支えてきた男
成田監督の意識改革

 「育ててもらった法大に恩返しがしたい」。これは成田監督が1999年に三田工業コーチから法大コーチへ就任したときの言葉だ。その後、2000年に監督に就任。箱根駅伝予選落ちも珍しくなかったチームを7年連続して、本大会出場に導き、その中で戦後最高位の4位を2度記録した。成田監督はチームをどう変えたのかを検証していきたい。


1999年 成田コーチ就任〜改革と手応え〜 箱根駅伝 10位

 「長距離を走れない選手が多い。長期的な練習メニューがない」。

99年、成田がコーチ就任当時のチームの印象である。理由は明白で、練習量が極端に少ない選手が多かった。まずはそこから変えた。

「とにかく長距離を走れない選手が多かったので、初年度はとにかくペースを関係なしに距離をこなせることを目標に掲げた。夏合宿に30km18分ペースで走らせる為に、春から一週間に一回20kmを走らせる練習をさせた。」。

単に練習量を増やすだけではない。選手達に目的意識を植えつけた。

「大学で記録が更新できないのは見てて寂しい。特に高校で実績をだした選手は。それで腐って陸上を辞めるものもいる。入学して来た選手には卒業するまでになんでもいいから必ず自己記録を更新しろと話している。これはコーチ就任してから、ずっと。」

選手の反発を覚悟していたが、当時のエース・坪田とコミュニケーションがうまくいき、選手達は成田の思い描いた練習メニューをこなした。そして、初めての箱根を迎える。結果は10位。17秒差で惜しくもシード権を逃してしまう。しかし、成田は手ごたえを掴んでいた。

「上出来だと思った。自分の考えた練習さえ選手がこなせればなんとかなるかなと思った」。

2001年 コーチから監督へ〜快挙の恵み〜 箱根駅伝 4位

 監督に就任し、順調に進んだ2001年の箱根。総合4位という快挙を遂げる。

「練習を積み重ねすれば3,4年で伸びてくるということの現れ。2年間が実った勝利だと思う」。

また、4位という結果が思わぬ効果をもたらした。

「4位になってからスカウトが楽になった。今まではとれなかった高校からいい選手が入ってきた」。

2002,2003年 故障に苦しみ、全てを見直す 箱根駅伝 途中棄権,16位

2002年も2003年も箱根までは極めて順調だった。しかし…。02年はエース・徳本の途中棄権。03年は怪我人が続出し、16位。怪我に泣かされた2年間だった。

「チーム作りは箱根まではうまくいっていたが、選手を壊したのも事実。風邪や怪我はとにかくさせないように、練習方法から全てを見直した」。

2004年 再び大躍進 箱根駅伝 4位

 全てを見直し、怪我人もなく万全の状態で臨んだ2004年の箱根。またもや4位という大躍進を遂げる。それでも監督は戦後最高位タイの4位という結果よりもなによりも嬉しい事があった。

「シード権を取れたことが一番嬉しい」。

就任以前の箱根へ出場できないことが多かった頃を知る監督の目標は

「常に目標はシードをとること。チャンスがあれば上を狙う。将来的にもずっとシード権をとるチーム作り」

2005年 悲願の36年振り2年連続シード権へ 箱根駅伝 ?位

 そして、今大会。監督の悲願である35年ぶりとなる2年連続シード権への挑戦が始まる。前期は主力の多くを怪我で欠き苦しんだ。チームの雰囲気は悪かったが、「4位は忘れてくれ。夢だから。」と選手達にいい聞かせたのが功を奏した。夏合宿を順調にこなすと、出雲駅伝はまずますの7位。続く、日体大記録会では多くの選手が自己記録を大幅に更新し、チームの状態は「例年並み」にまで戻ってきた。

 就任当初は練習をしない選手が多かった。それはが今では練習をしすぎる選手が多くなり、練習を止めることに苦労している。選手達の意識は確実に変わった。今大会もシード権を獲得すれば、監督の目標も優勝へと変わるかもしれない。

★現在のチーム状況について
「(チーム全体のチーム状態は)いつもどおり。少しリラックスしすぎかな。緊張感があっても。うちは毎年ですけどね。(期待すること)今ある力をだしてほしい。余計なことをせずにいつも通りに。」

スポーツ法政
成田道彦(なりた・みちひこ)監督
西目農業高校から1974に法大へ。法大時代に急成長。2年次から3年連続で2区を任され、4年次では瀬古を破り、法大に15年ぶりとなる区間賞をもたらした。1989年に現役を引退。以後、3チームでコーチを務め、1999年に法大コーチ、2000に同監督に就任。


[03年の陸上コメント集へ] [03年春の陸上記事へ] [02年の陸上記事へ] [01年の陸上記事へ
▲箱根駅伝トップへ