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   <title>未だ破られぬ幕内97場所</title>
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   <summary>【国技に黒船　高見山（１０）】 　病院のベッドで悔し泣きした。厳しいけいこで流し...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（１０）】

　病院のベッドで悔し泣きした。厳しいけいこで流した涙を「これは汗よ」と言ってごまかした高見山が、この時ばかりは人目も気にしない。ねんざした左足首を恨めしげに見て、涙をポロポロ流した。
      　１９６４年（昭３９）夏場所で初めて番付にしこ名が載って以来、休むことなく土俵に上がり続けた記録が止まった。８１年秋場所前の新潟巡業中に左足首を痛め、無理して初日こそ土俵に上がったが、ついに５代目高砂親方（元横綱朝潮）に説得されて休場した。１７年半、無休で１４２５回出場は歴代４位。幕内連続出場１２３１回は今も残る最多記録だ。

　東関親方「あのときは、がっかりした。師匠が無理だからすぐ入院しろと。私はそれまで大きな故障が１度もなかった。今の若い力士は故障ですぐに休むでしょ。自分自身、本当によく頑張ったと思いますね」。

　それまでも休場のピンチは何度もあった。７３年九州場所。夜中に激痛に襲われ、救急車で病院に運ばれた。尿道結石だった。治療を受け翌日も土俵に上がった。数年後にも結石に苦しんだが、連続出場記録を張り合いに「皆勤」を守った。

　記録が止まり、引退が現実味を帯びてきた。しかし、高見山の気持ちはなえていなかった。十両陥落寸前から１年、３８歳で小結に復帰。このころは毎年、正月に家族の前で「４０歳まで相撲を取る」と誓い、気持ちを奮い立たせてきた。

　目標の４０歳まで約１カ月となった８４年夏場所、ついに「その時」が来た。前年の九州場所で左ひじを剥離（はくり）骨折して途中休場。強行復帰した初場所も途中休場に追い込まれ、十両に陥落した。再入幕を果たせず、この場所は「負け越せば引退」を家族にも宣言して臨んでいた。９日目で１勝８敗。まげを切る決意を固めた。

　千秋楽。長男の弓太郎（３２＝米大ヤンキース通訳）は、その日の父親の大きな背中が忘れられないという。「朝、母と一緒に父を『いってらっしゃい』と見送った光景は今でも覚えている。土俵を降りて花束を渡されて泣いていたのをテレビで見た。（４０歳まで）あと１場所でゴールだったのに。悔しかったと思う」。

　東関親方「４０歳までできなかったのは残念だったけどね。ハワイから日本に来たとき、そんな長くやるとは思わなかった。若いときに、けいこしてきたおかげ。相撲がいやなときもあった。調子が悪いときもあったですね。ケガのときも。でも、私は出た。幕内９７場所。それが一番の誇り」。

　日本人が好む努力と辛抱を重ね、引退時に史上１位記録を１７も残した。横綱朝青龍を筆頭に、今や当たり前となった外国出身力士の源流が高見山だった。「外国人はギブ・アンド・テイクのつき合いというイメージがあったが、彼は義理人情に厚くてね。部屋は違うけど、よく面倒を見てくれた」。同期入門の武隈親方（元関脇黒姫山）はしみじみと言う。「生まれ変わっても力士になりたい」。引退会見での言葉は、相撲ファンの胸を熱くさせた。高見山は心も日本人だった。（この章おわり＝敬称略）【西尾雅治】

　◆高見山引退時の史上１位記録　２０年を超える土俵生活で、引退時には１７もの記録を塗り替えた。のちに通算出場回数こそ元小結大潮と元関脇寺尾に抜かれたが、幕内在位９７場所。幕内出場１４３０回など現在でも１１項目は１位のまま。中でも幕内連続出場１２３１回は、２位の元関脇巨砲の１１７０回を大きく引き離し、１３年４場所以上続けて出場しなければならない大記録だ。横綱、大関との対戦に関する記録など、いかに長い間、幕内上位で戦ってきたかが分かる。
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   <title>エリート相手に燃えた雑草魂</title>
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   <published>2008-05-28T15:00:39Z</published>
   <updated>2008-05-29T02:07:25Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（９）】 　昭和４０年代から５０年代前半、高見山は相撲人気を...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（９）】

　昭和４０年代から５０年代前半、高見山は相撲人気を支えた数々の名勝負を演じた。中でも、横綱初代若乃花の実弟の大関貴ノ花、学生横綱から角界でも綱を張った輪島らエリートにはライバル心を燃やした。
      　「まげがなかったら相撲は取れない」。貴ノ花が残した名セリフは、高見山との一番で生まれた。

　１９８０年（昭５５）秋場所７日目。高見山の突っ張りをかいくぐった貴ノ花はもろ差しから左を抜いて右下手投げ。高見山も左から小手投げを打ち返した。２人はほぼ同時に倒れた。行司軍配は貴ノ花。だが、物言い。貴ノ花のまげが先に土俵についたとして高見山の勝ちになった。

　東関親方「あれはよく覚えている。私も投げを打った。倒れたとき、貴ノ花の方は見えなかった。負けたかなと思った。でも、私の勝ちになってビックリしたね。まげの差だったけど貴ノ花に勝ててうれしかったですね」。

　これが実に４５度目の対戦だった。巨漢の“ガイジン力士”と小兵のプリンス。ハワイから日本の国技に挑戦したハングリーな雑草と入門時から注目されたエリート。弁慶と牛若丸の対決にも例えられた対照的な２人が、相撲ファンを熱くした。昭和を代表するライバルストーリーの象徴的な名勝負が「まげ差勝ち」。それが最後の対戦でもあった。

　東関親方「けいこで貴ノ花と初めて対戦したのは、札幌巡業だったと思う。向こうは昭和４０年５月が初土俵でしょ。私は２年目。けいこで１０番やって全く勝てなかった。貴ノ花は体は小さかったが、とにかく腰が重かった。本当に強かったですね」。

　幕内での初めて顔を合わせたのは、６９年初場所の１２日目。西前頭６枚目の高見山と同１１枚目の貴ノ花の対戦は、この場所で２９度目の優勝を果たした大横綱大鵬の取組以上に注目された。結果は、押した高見山が引かれてバッタリ前のめりに倒れた。ここから４連敗したが通算では１６勝２９敗と健闘した。

　もう１人が、学生横綱として鳴り物入りで角界入りした輪島だ。史上２位の獲得金星１２個のうち、７個が輪島から。下半身の弱さから、あっけなく転がることもあった高見山だが、初土俵から１年足らずの５場所で入幕した超大物にはキラーぶりを発揮した。

　学生相撲には当時、大型力士が少なかった。正攻法の四つ相撲が主流だっただけに、押し相撲の高見山は天敵だった。「大きい相手は好きじゃなかった。高見山は立ち合いでガツンと当たる。（突っ張られて）手の跡が３日ぐらい（胸に）残ったこともあった」と輪島は振り返る。

　東関親方「私は、ただぶつかっただけ。合口がよかっただけですね。私は欠点もある。つかまったらダメだからね」。

　通算対戦成績は４３戦して高見山の１９勝（不戦勝１含む）２４敗。輪島にも貴ノ花にも数字の上では負け越しているが、ファンのまぶたには高見山の「強さ」を焼きつけた。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆高見山のライバル　最も対戦が多かったのは貴ノ花との４５回。「弁慶と牛若丸の対決」と例えられた人気者同士の一番は、通算１６勝２９敗だった。次いで多いのが北の湖（８勝３５敗）輪島（１９勝２４敗）との４３回。輪島にとっては２１敗（２３勝）した北の湖の次に多くの黒星を喫した相手だ。輪島が横綱に昇進した後も１３勝１７敗と互角に近い成績を残した。そのほか三重ノ海と３９回（１６勝２３敗）魁傑とは３８回（１８勝２０敗）対戦している。
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   <title>親方になるため「日本人」に</title>
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   <published>2008-05-27T15:00:12Z</published>
   <updated>2008-05-27T22:47:51Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（８）】 　引退後の青写真を描き始めていた高見山は、思わぬ形...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（８）】

　引退後の青写真を描き始めていた高見山は、思わぬ形で決断を迫られた。日本人でなければ、親方にはなれない－。１９７６年（昭５１）秋場所後の理事会で、日本相撲協会は親方になるために必要な年寄名跡取得の条件に「日本国籍を有する者」という条項を新たに加えた。
      　それ以前は、幕内を１場所以上、または十両を連続２０場所、もしくは通算２５場所務めれば資格を得られた。日本の国技としての伝統を尊重し、保守的な考えが大勢を占めた当時の相撲界。明らかに「外国人・高見山」の動向を意識した突然の改定だった。

　東関親方「なんで私だけダメなのか。最初は恨んだね。協会に残るには、日本人になるしかない。悩みましたね」。

　相撲協会が衝撃的な発表をする４カ月前、高見山は涙にくれていた。夏場所直前の５月６日、最愛の母リリアンが５３歳で他界。糖尿病を患い、片足を切断するなど長い闘病生活の果てだった。「いつか母を日本に連れてくる」という願いはかなえられなかった。だが、高見山は悲報を周囲には隠し、帰国することなく場所を全うした。

　相撲のために日本に行くことには当初猛烈に反対したリリアンだったが、高見山の一番のファンでもあった。ラジオに耳を傾け、電話や手紙で励まし続けた。心配をかけ続けた母の死。引退も視野に入ってくる３１歳の小結（当時）は、気持ちを奮い立たせた。

　東関親方「私は長く相撲を取りたいと思った。相撲しか自分にはなかったから。（４代目）高砂親方（元横綱前田山）が亡くなる１年半ぐらい前に呼ばれて、言われたことがあった。『お前の将来のことを考えている。相撲界に残したい』。親方になることを勧められました」。

　相撲協会の規則改定で夢をかなえるには日本国籍を取得しなければならなくなった。数千万と言われる名跡取得資金も必要になる。タイミングよく、ＣＭ出演など副収入を得られるようになった。だが、以前から懸案となっていたのが税金の問題だ。市民権を持つ米国と住民票のある日本と二重払いしていたからだ。

　東関親方「妹やハワイの知り合いに、将来のことを聞かれて『親方になりたい』と言った。誰も反対しなかったですね。みんな『いいんじゃないか』と言ってくれた。女房も賛成だった」。

　決意は固まった。７９年５月に１１代目東関親方（元前頭朝登）が角界を去った。株が空いたため、同年９月に国籍変更を申請。翌８０年夏場所後の６月３日、異例のスピードで許可された。夫人の旧姓としこ名から命名した「日本人・渡辺大五郎」が誕生。長男弓太郎、長女理江も同時に日本人になった。

　だが、親方として東関を襲名するのは、これから４年も後のこと。高見山は天国の母に見守られ、土俵に立ち続けた。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆年寄名跡　「年寄株」と「親方株」とも俗称される。協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名称で、現在は１０５ある。引退した力士は年寄名跡を襲名継承して初めて協会に残ることができ、弟子の育成や協会運営にあたる。襲名継承資格は（１）日本国籍を有する者（２）幕内通算２０場所以上、幕内・十両通算３０場所以上、３役１場所以上のいずれかを満たすか横綱・大関を務めた力士に限られる。定年は６５歳。特例として一代年寄がある。
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   <title>「プロレス転向」大騒動</title>
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   <published>2008-05-26T15:00:15Z</published>
   <updated>2008-05-27T02:57:25Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（７）】 　１９７５年（昭５０）５月１日、相撲界をにぎわす大...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（７）】

　１９７５年（昭５０）５月１日、相撲界をにぎわす大騒動が起こった。高見山がプロレスに転向する－。３０歳を超え、引退もささやかれていた人気者の格闘技転向は、その数年前からうわさされていた。日刊スポーツは、ハワイの有力プロモーターと契約していた事実をキャッチ。「ホノルルに高見山レスリングジムを開設」と報じた。
      　当時から、角界からプロレスへの転身は決して珍しいことではなかった。戦前には駿河海、昭和３０年代には元横綱東富士、元大関の力道山らがマットで活躍。全日本プロレスのジャイアント馬場も「ぜひ来てほしい」とエールを送った。だが、高見山は一貫してプロレスラー転向を否定し続けた。

　東関親方「私はプロレスに行くつもりはなかったですね。でも実はね、サインはしました。引退した後、もしプロレスに行くならマネジメントさせてほしいという契約。その人たちが、あんまりしつこかったから」。

　騒動ぼっ発前年の九州場所でのことだった。「Ｇｏ　Ｆｏｒ　Ｂｒｏｋｅ（当たって砕けろ）」と刺しゅうされた化粧まわしを贈るなどハワイで高見山の後援会的な存在だった４４２除隊クラブのラルフ円福が米国の弁護士を連れ、高見山に話を持ちかけたという。ハワイにプロレスのジムを構え、日本だけでなく米国マットにも進出する具体的なプランまで考えていた。

　東関親方「その人たちは、私が相撲に行くことを勧めたのに、なぜプロレスに誘うのか分からなかったね。でも、女房も反対した。私もまだ相撲をやめる気持ちはなかったですね」。

　本人の考えとは裏腹に、なぜ周囲はその気になり、話題が独り歩きしたのか。それは持ち前のサービス精神が発端だった。地方巡業に出ると、高見山は余興で“プロレスごっこ”をやっていた。

　東関親方「巡業のとき、けいこの最後に、私は『いいとこ（冗談などで話を面白くする）』ばっかりしていた。エルボーとか空手チョップとか、マネをしていた。大げさなアクションでよろめくとかね。そうやるとお客さんが喜んだから」。

　ひょんなことから大騒動に発展していった。揚げ句の果てには、断り切れずマネジメント契約まで交わしてしまうとは…。もっとも、プロレス転向に興味がなかったからこそ、サインをしても構わなかった。引退などまだ考えてはいなかったのだ。

　東関親方「よく聞かれるのは、なぜ曙や小錦が今、親方やってないのかということ。彼らは３０歳ぐらいでしょ、引退したのは。３０歳ならまだほかのことをやりたいエネルギーがいっぱいあるね。私も、もし３０歳で引退していたら、何をやったかは分からなかったけどね」。

　高見山はプロレスより、むしろ親方業に興味を持ち始めていた。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆力士とプロレス　大柄な体を生かしてプロレスラーに転身する例は多い。「日本プロレス界の父」と呼ばれる力道山は、４８年夏場所に殊勲賞を獲得した元関脇。元横綱輪島は８６年に全日本プロレスに入門し、元前頭筆頭だった天龍との戦いでマットを盛り上げた。現役では曙（元横綱）維新力（元十両）田上明（元十両玉麒麟）力皇猛（元前頭力桜）安田忠夫（元小結孝乃富士）らが活躍している。
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   <title>ハスキーＣＭの陰に悲話</title>
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   <published>2008-05-25T15:00:18Z</published>
   <updated>2008-05-26T00:53:12Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（６）】 　ボルサリーノをかぶり、ピンストライプのスーツでき...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（６）】

　ボルサリーノをかぶり、ピンストライプのスーツできめた高見山が、軽快にタップダンスを踊る。２００キロ近い巨漢からは想像もできない軽い身のこなし。「トランザム！」。独特のしゃがれ声で叫ぶ。ＣＭ大賞まで受賞した松下電器の新小型テレビのＣＭは、茶の間の話題をさらった。
      　１９７７年（昭５２）２月、このＣＭでデビューした関取は、愛嬌（あいきょう）のあるコミカルなキャラクターと、いかにも相撲とりというようなつぶれた声が受け、次々とＣＭに登場した。同年には「ニバイ、ニバーイ」のフレーズで一世を風靡（ふうび）した寝具メーカー丸八真綿、富士通ワープロ、Ｐ＆Ｇの洗濯洗剤など１３社・団体で起用され、力士のイメージを変えた。「ニコニコっとした笑顔。あれは人徳だね。うらやましいぐらいだった」と同期入門の武隈親方（元関脇黒姫山）は振り返る。

　東関親方「ＣＭはよかったね。アルバイト。当時は十両で（給料は）５万円程度、幕内でも１０万円ぐらいと場所手当だけ。ＣＭが（１本）いくらだったか、もう忘れたけど、家を建てたね。私は恵まれてました」。

　ＣＭでの年収は４０００万円近くになった。７４年２月に渡辺加寿江と結婚した高見山は、ＣＭのギャラを資金の一部にして東京都内の高級住宅地に当時で１億３０００万円と言われた７ＬＤＫの白亜の豪邸を建てた。現在では、テレビドラマのロケにも使われているという。

　相撲での最高位は関脇だったが、ＣＭ出演効果もあって人気は横綱だった。７代目となる現高砂親方（元大関朝潮）は「あんなに大柄なのにリズム感がいい。１度、小鼓をたたいていたのを見たことがあるが、うまくて驚いた」という。だが、一般人にもモノマネされた独特のハスキーボイスは後天的なもので、実は悲話から生まれたものだった。

　来日３年目の６６年春場所前。東幕下１７枚目だった初場所中に風邪をひき、扁桃（へんとう）炎を患った。１勝６敗と初めて大きく負け越し、場所後に手術を受けた。２週間ほど休み、春場所に向けてけいこを再開。ある日、ぶつかりげいこで相手ののど輪が入った。

　東関親方「親指がのどの骨の部分にグイッと入った。すごく痛かった。１週間ぐらい固いものは食べられなかった。手術すれば治ると医者に言われたが、けいこを休むわけにはいかない。休んだら親方も怒る。関取になった後も米軍の病院に行ったけど、２度と相撲が取れなくなるかもしれないと言われた」。

　もともとは、今では想像できない美声だったという。十両に上がるために必死だった高見山は、声をつぶしたままけいこを続けた。声を代償に、１年後に悲願の十両昇進を果たした。後にそのハスキーボイスで親しまれ、ＣＭ横綱の個性になるとは思いもしなかっただろう。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆力士とＣＭ　昭和５０年代が花盛りで、中でも高見山は「ＣＭ横綱」と呼ばれた。千代の富士は８１年初場所の初優勝を機に鉛筆や湿布、日本酒などのＣＭに出演。２代目横綱若乃花も美男で人気だった。輪島と貴ノ花は引退直後に男性化粧品ＣＭで共演。旭国や麒麟児、魁傑、朝潮、琴風らも土俵とは一味違ったユニークなキャラクターを出していた。当時の契約金は推定５００万～２０００万円。最近では朝青龍や白鵬、琴欧州、高見盛などが出演している。
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   <title>屈辱ハワイ巡業バネに十両</title>
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   <published>2008-05-22T15:00:11Z</published>
   <updated>2008-05-22T22:26:01Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（５）】 　大阪市南区（現中央区）の久成寺内にある高砂部屋に...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（５）】

　大阪市南区（現中央区）の久成寺内にある高砂部屋には、早朝から約５０人の報道陣が集まっていた。１９６７年（昭４２）３月４日、高見山にとって人生最高の日だった。大阪場所の番付が発表され、ついに十両昇進が正式に決まった。初土俵から３年。日系人を除いて初めての外国人関取の誕生だった。
      　東関親方「うれしかったね。付け人も２人ついたね。でも、すぐに幕下に落ちる人もいる。えらそうにする人もいましたけどね、私は、ちょっとしたことは自分でやりました。大きかったのは給料が出ること。５万５０００円だったけど。その時からお酒とか遊びを覚えた。（関取になったからできる）うれしい遊びね」。

　付け人になるか、付け人がつくかは、地獄と天国の差があるといわれる。関取になるまでに、何人もが厳しいけいこと上下関係に嫌気がさして辞めていった。高見山もホームシックには何度もかかった。来日１年目はガムシャラ。東京五輪が終わり、秋風が冷たくなるころから寒さ、つらさが身に染みてきた。

　東関親方「パスポートはおかみさんが金庫にしまっていたから私は帰れない。よく一流ホテルに行ってお母さんに国際電話したね。でも『みんながジェシーの活躍している情報を待っているよ』と言われてね。ハワイの知らない人からも手紙が来た。もう少し、頑張ろうと励まされた」。

　もう１つ、幕下で壁にぶち当たっていた高見山が、猛烈に発奮する“事件”があった。６６年６月のハワイ巡業。各島を順々に回り、マウイ場所のときだった。ちょうどその日（１６日）は高見山の誕生日。最前列の席には、母リリアンをはじめ家族、親族が陣取っていた。巡業では取組前のけいこも観客に見せる。関取衆が若い弟子やアマ力士を相手にしたが、そのとき、高見山がぶつかりげいこの相手に指名された。

　東関親方「柏戸関（横綱）や豊山関が胸を出してくれた。関取が相手をしてくれるのは、本当はありがたいこと。でも、何度も倒され、ぶっ飛ばされるから、お母さんは私がいじめられていると思ったみたい。後で聞いたけど、泣いていたらしい」。

　高見山にとってはご当地場所。国内の地方巡業でも地元力士に花を持たせることがある。高見山は相撲界に入ってから初めての帰国で、ハワイでは熱烈な歓迎を受けていた。先輩力士たちが「タコになるな」（てんぐになるな）とかわいがった（厳しくけいこをつけた）わけだ。

　東関親方「悔しいというか、もっと頑張ろうと思った。次は、絶対に関取になって帰ってくると思った。次の場所から４場所連続で勝ち越して、十両になったね」。

　忘れられない誕生日の屈辱をエネルギーに変え、高見山が相撲界の歴史をも動かした。十両を５場所で通過し注目された新入幕の６８年初場所で９勝６敗。いきなり敢闘賞まで獲得した。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆十両と幕下　厳しい番付社会の中で一人前として扱われる待遇の分かれ目。十両以上は「関取」と呼ばれ、協会から１００万を超える月給が支給される。大銀杏（おおいちょう）や絹の締め込み、羽織はかま、けいこ場での白のまわしが許され、幕下以下の付け人がつく。部屋は十両昇進で個室を与えられることが多い。化粧まわしを締めての土俵入り。仕切り前に塩をまいたり水をつけてもらえるのも、原則として関取だけ。元幕内力士といえども、幕下に落ちればその特権を失う。
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   <title>猛げいこ…「泣いてません、汗です」</title>
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   <published>2008-05-21T15:00:14Z</published>
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   <summary>【国技に黒船　高見山（４）】 　初めて見る雪だった。１９６４年（昭３９）２月２３...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（４）】

　初めて見る雪だった。１９６４年（昭３９）２月２３日、ハワイから羽田空港に到着したジェシーは日本の寒さに震えた。東京・両国の高砂部屋で初めて迎えた日本の夜は、布団を何枚も重ねて寝た。
      　東関親方「次の日の朝、窓を開けたら真っ白。屋上に上がって見たね。でも、まだそのときは寒さは我慢できた。これから、たくさん日本を見るんだと思っていたから」。

　５日後には大阪で行われる春場所のために移動。早朝からの厳しいけいこが始まった。「股（また）割りのときは、１人が手を持って前から引っ張って、もう１人が後ろからグイグイ押す。よく『ギャー』って叫んでたよ」。兄弟子だった高田川親方（元大関前の山）は懐かしむ。

　東関親方「股割りが一番きつかったね。私、下半身が硬い。当時は５時から昼の１２時ぐらいまでけいこした。ある親方にはよく『はい、しこを万回やって』と言われた。私は万回って分からない。エンドレスってことだった」。

　春場所の前相撲は本名のジェシーで取ったが、翌夏場所を前に「高見山」を贈られた。優勝制度が誕生した１９０９年（明４２）夏場所で優勝した高見山酉之助の由緒あるしこ名。４代目高砂親方（元横綱前田山）の期待の表れだった。師匠は英才教育のため、元十両の響矢を特別コーチに指名。マンツーマンで指導させた。部屋全体のけいこが終わると、高見山のぶつかりげいこが始まるのが恒例だった。

　東関親方「毎日、私だけが、かわいがられた（厳しくけいこをつけられた）。３０分ぐらい。なんで私だけ？　どうしてこういうことをしなきゃいけないの？　と思った。この野郎、覚えておけ。早く関取になると思ったね」。

　中村親方（元関脇富士桜）が振り返る。「響矢さんとのけいこは、見ていても大変だった。苦しかっただろうね」。序ノ口、序二段と連続優勝するなど番付はグングン上がったが、けいこはいっそう厳しくなった。あまりの苦しさに泣きながら耐えた。意地もあった。

　東関親方「東富士さん（元横綱）に『ジェシー泣いているのか？』と聞かれたけど『違います。汗です』と言ったのを覚えている」。

　けいこ場を離れれば、ちゃんこの恐怖が待っていた。来日当初こそ、おかみさんの好美が、高見山のためにから揚げや卵焼き、ホットケーキなどを作ってくれた。だが、それも数日間だけだった。

　東関親方「白い魚がダメだった。でもおなか減るね。体重も減った。もう、我慢して、少しだけ汁をすくって食べた。高砂親方は食べ残しにうるさい人だった。でも、私は全部は食べられないときもあった。あるとき、それを見たおかみさんが『ジェシーよこしなさい』って、私の丼を奪って食べ始めた。ビックリした。おかみさんは普通、そんなことしないですよ。だから私は『ダメ、ダメ』って慌てて取り返して、必死に食べましたね。ちゃんこは１年ぐらいでやっと慣れたね」。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆歴代の高見山　「高見山」のしこ名を最も古く確認できるのは江戸時代、１７９４年１１月場所の勝負付。番付に名前がない高見山が三段目格で登場する。翌年３月に「高見山彦五郎」が載るが翌場所から名前を消し、わずか２場所の短命力士だった。その後は高砂部屋の由緒あるしこ名として受け継がれ、現東関親方は１４代目の「高見山」である。中でも８代目はその後に高砂浦五郎と改名し、初代高砂親方になった。１１代目は１９０９年夏場所、旧両国国技館が完成して、優勝制度ができた場所に優勝した。
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   <title>型破り高砂親方に導かれ日本へ</title>
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   <published>2008-05-20T15:00:07Z</published>
   <updated>2008-05-21T00:13:33Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（３）】 　高見山を相撲界にスカウトしたのは、型破りな人物と...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（３）】

　高見山を相撲界にスカウトしたのは、型破りな人物として知られた４代目高砂親方（元横綱前田山）だった。１９６４年（昭３９）２月のハワイ巡業。関取衆のけいこ相手として、ハワイ各島からアマ相撲の代表者十数人が呼ばれた。マウイ相撲クラブに所属していた１９歳のジェシーもいた。
      　東関親方「初めて見たプロのお相撲さんは大きくてね、ビックリした。大鵬関、栃ノ海関、若羽黒関とかね、みんな怖い顔していた。けいこをつけてもらうために順番に並んでいるときは、ドキドキした」。

　初日のけいこの後、１人だけ高砂親方に呼ばれた。「日本に来ないか？　５年は面倒を見る」。ジェシーは驚いた。だが同時に、いいようもない喜びがわいてきた。

　東関親方「うれしかったね。日本に行けるチャンス。私の友達、日系３世も多かった。日本はどんな国か、いっぱい見たい。フジヤマも見たいと思った」。

　高砂親方はその２年前に、親交ある明大相撲部監督の滝沢寿雄から、まわし姿のジェシー少年の写真を見せられていた。マウイからわざわざジェシーを呼んだのも、スカウトするためだった。

　当時、相撲は日本人のものという考えが一般的だった。だが、高砂親方に閉鎖的な考えはなく、新しいもの好きな面もあった。横綱時代の４９年１０月。休場中に、日米野球で来日中していたサンフランシスコ・シールズの試合を観戦。オドール監督と握手している写真が新聞に掲載された。これが大騒動になり、責任を取って引退。後に「シールズ事件」と呼ばれた。５１年には藤田山、大ノ海らを連れてアメリカ巡業に出るなど前衛的で特異な存在だった。

　「高砂親方がラスベガスに行ったとき、洋式トイレを初めて見て『これはケガ人にいい』と買って帰ってきた。だから、高見山が来る前から部屋には、まだどこにもなかった洋式トイレがついていた」と、高田川親方（元大関前の山）は証言する。

　ハワイ原住民のカナカ族の血をひく１９歳に相撲界の扉を開いたのも、高砂親方が海外に目を向けていたからこそ。ジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルアの運命が、思いもよらぬ方向に進んだ。

　東関親方「日本に行きたいとお母さんに相談したら『家族をみるのはお前しかいない』と泣いて反対された。でも、マウイ相撲クラブの小笠原さんが説得してくれた」。

　もう１つの問題は、ハワイの州兵として６年契約していたこと。まだ１０カ月しか務めていなかった。だが、当時のバーンズ州知事がすんなり許可を出した。「日本とハワイの関係がよくなるんだから、君は向こうで頑張ってこい」。６４年２月２２日、周囲に後押しされ、ジェシーは希望を胸に、あこがれの日本へ出発した。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆前田山英五郎（まえだやま・えいごろう）　本名・萩森金松。１９１４年（大３）５月４日、愛媛県生まれ。２９年春場所初土俵。３７年春場所新入幕。入幕４場所目で大関になり、４４年秋場所で９勝１敗で初優勝した。４７年秋場所で第３９代横綱に昇進、戦後初の横綱になった。突っ張りが得意で双葉山や羽黒山に激しくぶつかる取り口は土俵を沸かせた。４９年秋場所限りで引退。引退後は４代目高砂親方として横綱朝潮や大関前の山、関脇高見山を育てたほか、海外への相撲普及にも尽力した。７１年８月１７日、５７歳で死去。
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   <title>アメフトのため母のため</title>
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   <published>2008-05-19T15:00:46Z</published>
   <updated>2008-05-20T01:14:26Z</updated>
   
   <summary>【国技に黒船　高見山（２）】 　外国人力士として史上初めて幕内優勝した高見山は、...</summary>
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      【国技に黒船　高見山（２）】

　外国人力士として史上初めて幕内優勝した高見山は、高校時代はハワイ・マウイ島で無敵を誇るアマ相撲の強者だった。だが、決して日本で力士になるために相撲に励んだわけではない。
      　東関親方「高校入学前のサマースクールで、アメリカンフットボール部に入った。コーチはラリー宍戸さん。日系２世だった。下半身を鍛えるために筋トレと相撲をやらされた。週に２、３回はマウイ相撲クラブに通った。面白かったけど、相撲はアメフトでうまくなりたいからやっただけ」。

　ハワイ州になった記念日（６月１１日）や米国の独立記念日（７月４日）にオアフ、マウイ、ハワイの３島相撲大会があった。ジェシー少年は高校１年のとき、警察官ら地元の猛者数人と一緒にマウイ代表として初めて出場。１８５センチ、１３５キロの体にものをいわせ、体ごとぶつかっていく相撲で圧倒した。

　東関親方「勝ったら商品がもらえた。時計つきのトランジスタラジオとか、砂糖、缶詰とかね。勝ち抜きで３番勝ってしょうゆ１瓶もらった。家に持って帰ったらお母さんが喜んでね。よーし、来年も頑張るぞって」。

　ジェシー少年は終戦前年の１９４４年６月１６日に、６人兄弟（男３、女３人）の長男として生まれた。大柄で知られるハワイ原住民のカナカ族の中でも特別大きく、４９００グラムで誕生した巨大ベビーだった。決して恵まれた家庭ではなかった。父親は別居状態で、ジェシー少年が母リリアンを支えた。将来は警官になることが夢だった。

　相撲大会に初出場した翌６１年、転機が訪れた。日本から学生相撲の横綱ら２人を連れ、明大相撲部監督の滝沢寿雄がハワイにやってきた。マウイ相撲クラブのコーチで日系２世のイサム小笠原が「１度見てほしい子がいる」と推薦したのがジェシー少年だった。

　同行した北条巌氏（元明大相撲部監督）は「大きくて力強かった。外国人にしては、意外に足腰が強い」とマウイの怪童に圧倒された。

　その夜、滝沢はジェシー少年を宿舎へ呼び「日本に来ないか」と勧誘した。だが答えは「ＮＯ」。まだ１７歳の高校生にとって、夢のような話だった。

　東関親方「滝沢先生に写真だけでも撮りたいと言われた。私はパンツの上にまわしをつけていた。まわしだけと言われ、恥ずかしかった。夜だし、誰も見てない。ちょっとだけだからと思って、パンツを脱いで初めてまわしをつけた。変な感じだった」。

　その１枚の写真が、ジェシー少年の運命を切り開いた。滝沢監督は帰国後、懇意にしていた４代目高砂親方（元横綱前田山）にマウイの怪童の存在を教えた。２年後の６４年２月、同親方を団長とする大相撲の一行が、ハワイ巡業のためにやってきた。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】

　◆ハワイと角界　これまで海外最多９度の巡業が行われている。１９１４年を皮切りに、６２年６月は戦後初の巡業を実施。高見山を含め７人の関取を生み、巨体と愛嬌（あいきょう）あるキャラクターで人気だった力士が多い。元大関小錦は現役時代の高見山にスカウトされ、史上最重量力士として３度優勝。１１度賜杯を抱いた曙は９３年春場所で外国出身力士初の横綱に昇進した。０３年九州場所で引退した第６７代横綱武蔵丸を最後に、ハワイ出身力士はいなくなった。
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   <title>大相撲300年　衝撃の一日</title>
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   <published>2008-05-18T15:00:02Z</published>
   <updated>2008-05-19T00:39:42Z</updated>
   
   <summary>　ハワイからやってきた大男が、大相撲の新時代を切り開いた。ジェシー・ジェームス・...</summary>
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      　ハワイからやってきた大男が、大相撲の新時代を切り開いた。ジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア。厳しいけいこに耐え、文化・風習の違いを乗り越え、高見山として外国人力士初の幕内優勝を果たした。横綱朝青龍、白鵬らモンゴル勢が勢力を拡大するなど、今や相撲界は外国人力士花盛り。そのパイオニアが、元関脇高見山の東関親方（６３）。異国の国技に挑戦した苦闘、葛藤（かっとう）、奮闘に迫る。
      　大相撲の長い歴史を変えた瞬間だった。１９７２年（昭４７）７月１６日、名古屋場所の千秋楽。東前頭４枚目の高見山が初優勝した。史上初めて外国人力士が賜杯を手にした。表彰式ではニクソン米大統領（当時）の祝電が読み上げられ、１９２センチ、１６０キロの大男が肩を震わせた。表彰式で英語のスピーチが流れたのは、このときが初めてだった。

　東関親方「うれしかったね。外国人で初めてとかじゃなく、お相撲さんとして優勝できたことがよかった。一生懸命、けいこしてきたおかげだと思った」。

　最後まで優勝を争った「角界のプリンス」大関貴ノ花が目の前で敗れていた。もし高見山が負ければ、優勝決定戦にもつれ込む。館内のファンの大半は、対戦相手の旭国（現大島親方）に声援を送った。「高見山はやりやすい相手。負ける気はしなかった」と自信たっぷりの旭国だったが、右上手を引かれて寄り切られた。

　１３勝２敗で日本の国技を制した外国人の偉業は称賛される一方で波紋も呼んだ。翌日の日刊スポーツは「国技大相撲敗れる」「大相撲３００年　衝撃の一日」と報じた。柔道界では、６１年の世界選手権、６４年の東京五輪でアントン・ヘーシンク（オランダ）が優勝。外国勢力が日本のお家芸に脅威を与えていた。同じように高見山を“黒船”と見る向きも少なくなった。

　東関親方「私は、１９歳のときに日本に来て、みんなと同じようにけいこしてきた。ずっと頑張ってきた。自分は運もよかった。その場所は、珍しいことがたくさん重なったからね」。

　場所前、高砂部屋に一門を超えて力士が出げいこにやってきた。二子山部屋、出羽海部屋勢を迎え、けいこ場は活気づいた。「当時では珍しいこと。なぜかは分からないけどね。私は最高のけいこができた」。もう１つは気候。７月の名古屋場所は、蒸し暑さが力士泣かせでもある。だがその年は、後に「昭和４７年７月豪雨」と名づけられたほどの大雨が続き、ハワイアンの味方になった。

　場所が始まってからも幸運が続く。横綱北の富士が前代未聞の「不眠症」を理由に途中休場。大関大麒麟は右腕骨折、関脇三重ノ海も急性肝炎に倒れ、次々と上位陣が休場する異例の事態となった。千載一遇のチャンスだった。

　東関親方「千秋楽の前の晩、先代（４代目高砂親方＝元横綱前田山）のおかみさんから『優勝してよ』と電話があった。優勝したいというプレッシャーで寝られなった。硬くなったけど、本当に勝ててよかった。先代は１年前（７１年８月１７日）に亡くなっていた。私を相撲にスカウトしてくれた人。先代がいなければ、今の私はなかったと思いますね」。

　ハワイ・マウイ島で体力トレーニングのために始めた相撲が、人生を大きく変えることになった。（つづく＝敬称略）【西尾雅治】
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   <title>激動の人生…孤独が親友</title>
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   <published>2008-05-15T15:00:42Z</published>
   <updated>2008-05-15T23:54:02Z</updated>
   
   <summary>【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（１０）】 　王の野球に対する執念は凄まじい...</summary>
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      【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（１０）】

　王の野球に対する執念は凄まじい。０６年７月、胃を全摘した際も、内視鏡での手術を選択したのは、開腹より早期復帰できるからだという。あれから１年もたたないうちにベンチに立ち尽くして指揮をとる姿は、痛々しく感じるときもあった。
      　王「それが不思議なんです。ぼくはつくづく野球と出会って幸せだと思っています。２０歳、３０歳、４０歳…、その都度取り組み方が違うし、野球ってマージャンと一緒で同じ手はないわけです。でも、バットを持たなくなっても、巨人からホークスに環境が変わっても、野球にだけは新鮮な気持ちになれるんです」。

　プロ入り後、新人時代に人種差別的な野次を飛ばされたこともある青年は、本塁打世界一に輝いた。そして巨人の王からホークス監督に就いた後も、生卵をぶつけられ、脱税事件、スパイ疑惑にも巻き込まれた。挙げ句にダイエーからソフトバンクへの球団売却を体験するなど波乱の連続だった。それでも王はグラウンドに立つことにこだわった。そして、２０年連続Ｂクラスに低迷していたホークスを、常勝軍団に変えてみせたのだ。

　セ・パ両リーグで優勝した監督は、三原脩、水原茂、広岡達朗、野村克也に次ぐ史上５人目。今後は再度、巨人監督にという待望論もある。だが、王はその可能性をきっぱりと否定する。

　王「この年でジャイアンツに入ると死んじゃうよ。川上（哲治）さんも５４歳で（巨人監督を）辞めたんですからね。巨人の監督は年寄りがやるべきじゃない。若い人がやらないとダメだと思います。コミッショナー？　それも立ち消えたと思っています。確かに野球を通しての人生観、人には負けない経験もしてきました。でも、コミッショナーとなれば他の人以上にわからないこともあります。球界のリーダーとして引っ張っていかなくてはならない責任感もあるし、簡単な役職ではないです」。

　求道者、人格者…。世界の頂点に立ってから王の存在は常に特別視されてきた。胃に腫瘍があることが判明し、休養が記者会見で正式発表される３日前のことだ。ある人物から記者のもとに電話が入った。「王さんの体調が相当悪い。食事会も取りやめになりました。でも（新聞には）書かないでくれますか。本人も望んでいないし、自分から話すはずです…」。王は胃摘出手術のためグラウンドを離れる直前、律儀に身近な関係者に根回ししていた。巨人Ｖ９監督で、恩師の川上哲治は王に宛てて「人間は病気では死なない。人間は寿命で死ぬものだから、必ず治るから」と手紙をしたためた。

　手術後は、生活面での制限がある。しかし、これまでも、食事のときも、酒席でも、カラオケに興じるときも取り乱すことなく、どんなときも王貞治は“世界の王”の姿勢を崩さなかった。背筋をシャンと伸ばした生き方はこれからも変わらないのだろう。これから王はどこに向かうのだろうか。

　王「最終的にはこのままグラウンドで死にたいと思っていたんだけど…。それも無理みたいだ。本当はユニホームを着たままコトッと死ねればと思っているんですけどね。それは神のみぞ知るかな…」。

　最後に王に「王さんにとって孤独とはなんですか？」と聞いてみた。王は「僕にとって孤独？　親友みたいなものですかね」と言い残して、再びグラウンドに向かった（この章終わり＝敬称略）【寺尾博和編集委員】

　◆王貞治（おう・さだはる）　１９４０年（昭１５）５月２０日、東京都生まれ。５７年、早実のエースとしてセンバツ優勝。５９年、巨人に入団。７７年にハンク・アーロンの持つ７５５号本塁打の大リーグ記録を抜き、初の国民栄誉賞を受賞。１３年連続を含む本塁打王１５回、打点王１３回、首位打者５回、７３、７４年には２年連続三冠王に輝く。８０年に現役引退。通算成績は２８３１試合、８６８本塁打、２１７０打点、打率３割１厘。助監督を経て８４年、巨人監督に就任。５年間でリーグ優勝１回（８７年）。９４年野球殿堂入り。９５年からダイエー（現ソフトバンク）監督に就任し、９９、００、０３年と３度リーグ優勝、９９、０３年は日本一に。０６年春のＷＢＣで日本代表監督として世界一に導いた。
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   <title>被弾投手への思いやり</title>
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   <published>2008-05-14T15:00:14Z</published>
   <updated>2008-05-14T23:05:50Z</updated>
   
   <summary>【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（９）】 　王に世界記録７５６号を打たれた元...</summary>
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      【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（９）】

　王に世界記録７５６号を打たれた元ヤクルト投手の鈴木康二朗は現在、福島県内でサラリーマン生活を送っている。

　「もう３０年も前のことですからね。すっかり忘れました。だから申し訳ありませんが、取材はお断りしてるんです…」

　歴史に残る１球を配した瞬間から“打たれた男”の代名詞が付きまとった。しかし鈴木は王の言葉に救われたことを覚えていた。アーチを放った翌朝の新聞を読んだ鈴木の心は震えた。
      　鈴木「そんなこともありましたね…。王さんが『巡り合わせなんだろうが、鈴木はしんどい思いをしたことだろう。申し訳ない気持ちだ』と語っていた。あれでこのまま終わっちゃダメだ、王さんに失礼になると思った」。

　王「あの雰囲気の中でピッチャーは投げにくかったと思います。フォアボールを出すとスタンドからブーイングがおこったしね。鈴木は運が悪かった」。

　いかなる時にも相手を思いやる王の人柄を表すエピソードは、兄の鉄城とのやりとりが原点にある。

　早実に入学した５６年（昭３１）春、日大三高戦に「５番投手」で出場し、４－０の完封劇を演じた。喜びを体で表現する弟に対し、東大球場にきていた兄の鉄城は「そんなに楽しいのか。相手の気持ちを考えろ」と説教した。以来、王が派手なパフォーマンスをみせることはなくなった。それは鉄城をして、「うれしいときは素直に喜び、悔しいときは耐えればいいのに、あれほどとは…。自然な生き方をさせてやれなかった」と、後に後悔させるほどだった。もちろん、父仕福の生きざまも他人を思いやる王の人生哲学に有形無形の影響を与えた。

　王「うちの父親は中国人だったし、日本に受け入れてもらったという気持ちが強かったんです。戦時中には第三国人として収容所に入れられたらしいし…。でも中国で生活するのが苦しく、日本で商売させてもらって曲がりなりにも店を出せるようにまでなった。兄も間違っていない。僕も生き方を悔いたことはありません。周りの人間への感謝の気持ちというものは、自分の心の中に知らず知らずのうちに入ってきたように思いますね」。

　頂点に上り詰めても、王は変わらなかった。８０年１０月１２日の対ヤクルト戦（後楽園）で、現役最後の８６８号を打たれた神部年男（６５＝前オリックス投手コーチ）もその人柄を認める１人だ。

　神部「ユニホームを脱いだ後、近鉄のコーチ時代にキャンプ地の日向の宿舎でばったりお会いしましてね。向こうから言葉を掛けてもらった。ぼくは相手打者に感情を読まれるのを避けるのに帽子を目深にかぶるほうでね。（南海ホークスのエース）杉浦さんに『バッターとは視線を合わせないほうがいい』と教えられたんです。それでも王さんのにらみつけるような鋭い目つきは怖かったですよ。まさかあれが最後のホームランになるとは思いませんでした」。

　王の頭に「引退」の２文字が浮かんだのは、８０年夏のことだ。８６８号はこの年３０本目のアーチ。１９年連続で３０発の大台に乗せながら現役を退くのも、完璧主義の王らしい。

　「王貞治のバッティングができなくなった」

　１１月４日、引退会見の席上、その名言を残して、王は静かにバットを置いた。

　選手、助監督、監督時代を通して３０年間、巨人のユニホームを着続けた。充電期間を経て９５年ダイエー（現ソフトバンク）監督に就任し、今季が１４年目のシーズンとなる。果たして待望論が絶えない巨人復帰はあるのだろうか。王は静かに語り始めた…。（つづく＝敬称略）【寺尾博和編集委員】
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   <title>国民栄誉賞にためらい</title>
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   <published>2008-05-13T15:00:50Z</published>
   <updated>2008-05-14T00:53:47Z</updated>
   
   <summary>【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（８）】 　１９７７年（昭５２）の夏の終わり...</summary>
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      【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（８）】

　１９７７年（昭５２）の夏の終わりは「Ｘデー」に日本列島がわき上がった。王の通算ホームラン世界記録が国民的注目を集めた。

　前年、王はまずベーブルースを抜く７１５号を記録し、世界２位となった。これには、政府も動いた。首相の福田赳夫が閣議で「国民栄誉賞」新設を決め、王がその第１回受賞者に選ばれたのだ。
      　授賞式は世界記録達成後に行われることになっていたが、王は外国人籍でいることが胸につかえていた。今ではスポーツ選手が帰化するケースは珍しくない。だが、王は今でも中国国籍でいる。

　苦い思い出がある。早実２年の５７年センバツで初優勝、夏の大会もノーヒットノーランを達成するなど活躍したが、秋の国体に出場することが許されなかった。「参加資格は日本国籍を有するものに限る」。この規定に抵触した。

　実は、王は０６年ワールド・ベースボール・クラシック（ＷＢＣ）で、代表監督の打診を受けたときも就任をためらっている。「ぼくは中国籍だから…」。しかし、迷った末に受諾し、堂々と日本代表チームを世界一へと導いた。

　そんな責任感の強い王の生きざまは、父親仕福の厳格な教えと無縁ではなかった。仕福は１９２２年（大正１１）、２２歳で初めて日本の地を踏んだが、翌年関東大震災の直後に仲間と強制送還された。翌年再び来日し『五十番』というラーメン屋を営んだ。だが、４５年３月の東京大空襲でＢ２９の猛撃にさらされ、店は焼け落ちた。

　王は母、登美に背負われ火の粉を避けた。仕福は敗戦の中、木材やトタンを集め、その夏にはバラック建ての『五十番』を再開。日本で必死に生き抜いた両親。父親仕福から王は「絶対人に迷惑をかけるな！」と厳しく諭されながら育った。

　国民栄誉賞を受けるまで逡巡はあった。だが、父の教えを忠実に守ってきた息子に、何が最良であるか判断を下すのに時間は掛からなかった。

　王「選んでくれた福田さんの顔をつぶすわけにはいかないでしょ。自分１人がもらうんじゃない。野球界全体がもらうんだという気持ちでいただいた」。

　７７年９月３日。国民のだれもが、この瞬間を待った。対ヤクルト２３回戦。後楽園球場。ハンク・アーロンを上回る、王の世界記録７５６号が生まれた。３回裏１死。カウント２－３。鈴木康二朗が投じた１球を振り払った打球は、ゆっくりと上空に舞い上がった。滞空時間４・２秒。落ちたのは右翼席だった。

　ＮＨＫ解説の仕事でネット裏にいた川上哲治は、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。「よくやった。ほろりと来た」。世界最高峰のアーチに日本全国が酔いしれた。すでに『五十番』を閉めて悠々自適だった仕福と登美がグラウンドに降りて息子を称え、何度もスタンドに向かって頭を下げた。

　異常なほどの熱狂。その中で、もっとも冷静だったのは当の王本人かもしれない。痛恨の１発を食らいマウンドで沈んだ男が、王貞治の偉大さを痛切に感じたある出来事がある。それは翌朝のこと…。現在、打たれた鈴木は、みちのく福島県にいた…。（つづく＝敬称略）【寺尾博和編集委員】
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   <title>阪急山田を沈めた劇弾</title>
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   <published>2008-05-12T15:00:24Z</published>
   <updated>2008-05-13T00:27:29Z</updated>
   
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      【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（７）】

［３］巨人２勝１敗（１０月１５日・後楽園）
　阪急　０１０００００００－１
　巨人　００００００００3X－３
【急】山田－岡村浩【巨】関本－森、吉田孝［勝］関本（２試合１勝）［敗］山田（２試合１敗）［本］王２号（３ラン＝山田）

　通算２８４勝。球史に残るサブマリン、山田久志の鼓膜には、今でも痛恨の１発の打球音がこびりついている。
      　山田「普通は『グシャ』というんだけど、圧縮バットの『カキーン！』という音だった。覚えているのは、その音だけ…。すぐにひざから崩れた。なにも見えないし、立ち上がれなかった。現実を受け止めるほど経験もなかったし、帰りのバスに乗ってバスタオルをかぶって初めてわかった。えらいことしたなと…。いつまでたっても、俺の背中からあの１本が消えない」。

　７１年（昭４６）１０月１５日。後楽園球場。阪急との日本シリーズは、１勝１敗で第３戦を迎えた。プロ３年目でシーズン２２勝の山田は、８回まで巨人打線をわずか２安打に抑えていた。スコアは１－０。９回裏２死一、三塁。あと１人にこぎつけたところで、４番王を迎えた。

　山田「その前の長嶋さんがカーブに泳いで、バットの先っぽに当たった二遊間へのボテボテのゴロ。ゲームセットと思ったら、何を思ったか先輩の阪本（敏三）さんがボールに飛び込んでる。そんな打球じゃなかったのに、足が動かなかったのかもしれない。止まるような打球がセンターの福本さんの前までいった。太鼓やトランペットの応援はなかった時代だから、長嶋さんが出塁すると、『ウォー』という歓声が起きた。球場が揺れるというか、圧迫感を感じた。王さんを迎え、キャッチャーの岡村（浩二）さんがマウンドに来て『思い切って来い。大丈夫や』と言われ、うなずいたのだけは覚えている」。

　初球はストライク、２球目ボールと、続けざまに真っすぐを投げた。山田の持ち球は直球とカーブの２種類で、のちに強力な武器となるシンカーはなかった。カウント１－１。続く３球目。王は山田が自信をもって投じたストレートを打ち砕いた。打球は逆転サヨナラ本塁打となって、右翼席で弾んだ。

　山田「打たれっこないと思っていたのに…。いくらプロでも緊迫した場面では、ちょっと固くなったり、しぐさも変わるものなのに、王さんは打席に入る前も、入ってからも全てが変わらなかった。ネクストでバットを振り込んでから打席にはいる人だった。足場を固め、両手にふっと息を吹きかけ、手をこね、そしてバットを持ち上げて構える。寸分もリズムが変わらない。成熟した打者と未熟な投手、技術の差もあっただろうが、経験の差で打たれたホームランだった。でも今思えば、山田はあの１本で育てられた。本物のすごさというか、ああいった厳しいところを封じないと飯を食っていけないことを教えられた」。

　その日、山田は故郷の秋田から初めて母親ヨシさんと兄弟を三塁側スタンドに招待していた。母がマウンドに立つ息子を見たのは、２０年間のプロ野球人生の中で、最初で最後だった。

　阪急監督の西本幸雄は、しゃがみ込んで動けない愛弟子を迎えに来た。マウンドで動けない敗戦投手を、監督が抱き起こすのは極めて珍しい光景。それほど衝撃的だった。

　一塁手の加藤英司はうつむいたままベンチに下がった。

　加藤「やられたと思った。俺たちにとってリーグ優勝は当たり前だった。春のキャンプから、どうしたら巨人を倒して日本一になれるかをずっと考えていたから…」。

　巨人監督だった川上哲治は「実力的には阪急のほうが上でした。あのホームランがなければ、９連覇はなかった」と言い切る。７３年セ・リーグ初の三冠王、７４年も連続して獲得。監督が川上から長嶋になった２年目の７６年１０月１１日には、あのベーブ・ルースを抜く７１５号を記録。ついに『世界の王』に上り詰めた。（つづく＝敬称略）【寺尾博和編集委員】

　◆山田久志（やまだ・ひさし）　１９４８年（昭２３）７月２９日、秋田県能代市生まれ、５９歳。富士鉄釜石から６８年ドラフト１位で阪急入団。２年目の７０年に１０勝を挙げて以来、８６年まで１７年連続２ケタ勝利を記録。この間７６年から史上唯一の３年連続ＭＶＰを受賞した。７６年には２６勝をマーク。オールスター通算７勝は最多記録になっている。オリックスの投手コーチとして９５年リーグ優勝、９６年日本一に導く。９９年中日コーチ、０２年監督。実働２０年で６５４試合に登板し、２８４勝（史上７位）１６６敗４３Ｓ。ＮＶＰ３回、最多勝３回、防御率１位２回、勝率１位４回。現在は日刊スポーツ評論家。
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   <title>ＯＮは「競っても争わず」</title>
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   <published>2008-05-11T15:00:05Z</published>
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      【王貞治　すべてがアン・ビリーバブル（６）】

　王と長嶋。２人の頭文字をとった『ＯＮ砲』は、米大ヤンキースの大打者ミッキー・マントルとロジャー・マリスの『ＭＭ砲』になぞらえた愛称といわれている。長嶋は引退した川上に代わる「４番」で、王が「３番」に起用された。王の一本足打法が完成したとき、長嶋は「美しいね」ともらしたという。
      　常勝巨人の両輪を取材した日刊スポーツ記者の三浦勝男（６８）は、長嶋に王の存在について聞いたことがあった。

　三浦「両雄並び立たずといわれるが、長嶋さんが王について『競っても争わず』と話したのが印象的でした。２人に相手をおとしめるとか、感情的な対立はなかったと思います。いつか新聞でＯＮそろっての企画を組んだ。取材現場は長嶋家だったが、王はいやがることなく、それも夫婦そろって訪問したほどだから。長嶋さんのファンは多かったが、王さんのことはみんな好きというより立派だという目で見ていた」。

　王が本塁打と打点のタイトルを獲得した６２年（昭３７）から、長嶋が最後に首位打者になった７１年までの１０シーズンで、２人で獲得した打撃３部門（打率、本塁打、打点）のタイトルは計２６個。名将の川上哲治は、ＯＮが引っ張った巨人不滅の９連覇を振り返った。

　川上「みなさんはＯＮのことばかりとり上げるが、２人だけで強い巨人は築けなかった。柴田がいて、黒江、高田、土井もいてお膳立てができた。投手でも別所、杉下、宮田、中村、城之内らを、相手の欠点を調べ尽くした森がうまくリードしたのです。長嶋も王も、自分がいなければ勝てなかったなんて絶対に思っていませんよ。野球は組織と一緒でチームプレーなんです。２人は性格も違いましたし、ミーティングでは全員を前に、わざと長嶋を名指しで叱ってチームを引き締めたこともありました。彼は根に持たない明るい性格でしたからね。でも王は性格も違ったし、なにかあれば彼１人を呼びつけていました。長嶋は『天才型』で、王は『努力型』でした」。

　その後、王と長嶋の打順はしばしば入れ替わるようになった。７０年の王はセ・リーグタイ記録の５試合連続本塁打を放ち、７２年には通算５００号、７３、７４年は２年連続三冠王になった。７０年代になって、長嶋との立場は逆転する。

　他球団も必死に王封じを画策した。６４年、広島監督で、のちに巨人ヘッドコーチに就いた白石勝巳が、内野手を極端に右に寄せた「王シフト」を実戦した。流し打てばすべてがヒットになる。それでも王はライトスタンドへのアーチにこだわった。

　そんな王が初めて大スランプに陥ったのは７１年だった。９年ぶりに４０本塁打を割る３９発で止まりで、８年続けてきた打率３割が２割７分６厘に低下。監督の川上は「２本足に戻してはどうか」と助言したが、頑として譲らなかった。

　この年、７連覇のかかった日本シリーズで劇的なアーチを放ち、一本足打法の継続を無言で宣言した。それが、史上最強のサブマリン山田久志に浴びせた、あの一撃だ。（つづく＝敬称略）【寺尾博和編集委員】
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