2008年05月28日
親方になるため「日本人」に
【国技に黒船 高見山(8)】
引退後の青写真を描き始めていた高見山は、思わぬ形で決断を迫られた。日本人でなければ、親方にはなれない-。1976年(昭51)秋場所後の理事会で、日本相撲協会は親方になるために必要な年寄名跡取得の条件に「日本国籍を有する者」という条項を新たに加えた。
それ以前は、幕内を1場所以上、または十両を連続20場所、もしくは通算25場所務めれば資格を得られた。日本の国技としての伝統を尊重し、保守的な考えが大勢を占めた当時の相撲界。明らかに「外国人・高見山」の動向を意識した突然の改定だった。
東関親方「なんで私だけダメなのか。最初は恨んだね。協会に残るには、日本人になるしかない。悩みましたね」。
相撲協会が衝撃的な発表をする4カ月前、高見山は涙にくれていた。夏場所直前の5月6日、最愛の母リリアンが53歳で他界。糖尿病を患い、片足を切断するなど長い闘病生活の果てだった。「いつか母を日本に連れてくる」という願いはかなえられなかった。だが、高見山は悲報を周囲には隠し、帰国することなく場所を全うした。
相撲のために日本に行くことには当初猛烈に反対したリリアンだったが、高見山の一番のファンでもあった。ラジオに耳を傾け、電話や手紙で励まし続けた。心配をかけ続けた母の死。引退も視野に入ってくる31歳の小結(当時)は、気持ちを奮い立たせた。
東関親方「私は長く相撲を取りたいと思った。相撲しか自分にはなかったから。(4代目)高砂親方(元横綱前田山)が亡くなる1年半ぐらい前に呼ばれて、言われたことがあった。『お前の将来のことを考えている。相撲界に残したい』。親方になることを勧められました」。
相撲協会の規則改定で夢をかなえるには日本国籍を取得しなければならなくなった。数千万と言われる名跡取得資金も必要になる。タイミングよく、CM出演など副収入を得られるようになった。だが、以前から懸案となっていたのが税金の問題だ。市民権を持つ米国と住民票のある日本と二重払いしていたからだ。
東関親方「妹やハワイの知り合いに、将来のことを聞かれて『親方になりたい』と言った。誰も反対しなかったですね。みんな『いいんじゃないか』と言ってくれた。女房も賛成だった」。
決意は固まった。79年5月に11代目東関親方(元前頭朝登)が角界を去った。株が空いたため、同年9月に国籍変更を申請。翌80年夏場所後の6月3日、異例のスピードで許可された。夫人の旧姓としこ名から命名した「日本人・渡辺大五郎」が誕生。長男弓太郎、長女理江も同時に日本人になった。
だが、親方として東関を襲名するのは、これから4年も後のこと。高見山は天国の母に見守られ、土俵に立ち続けた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】
◆年寄名跡 「年寄株」と「親方株」とも俗称される。協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名称で、現在は105ある。引退した力士は年寄名跡を襲名継承して初めて協会に残ることができ、弟子の育成や協会運営にあたる。襲名継承資格は(1)日本国籍を有する者(2)幕内通算20場所以上、幕内・十両通算30場所以上、3役1場所以上のいずれかを満たすか横綱・大関を務めた力士に限られる。定年は65歳。特例として一代年寄がある。
May 28, 2008 12:00 AM
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