2008年05月23日
屈辱ハワイ巡業バネに十両
【国技に黒船 高見山(5)】
大阪市南区(現中央区)の久成寺内にある高砂部屋には、早朝から約50人の報道陣が集まっていた。1967年(昭42)3月4日、高見山にとって人生最高の日だった。大阪場所の番付が発表され、ついに十両昇進が正式に決まった。初土俵から3年。日系人を除いて初めての外国人関取の誕生だった。
東関親方「うれしかったね。付け人も2人ついたね。でも、すぐに幕下に落ちる人もいる。えらそうにする人もいましたけどね、私は、ちょっとしたことは自分でやりました。大きかったのは給料が出ること。5万5000円だったけど。その時からお酒とか遊びを覚えた。(関取になったからできる)うれしい遊びね」。
付け人になるか、付け人がつくかは、地獄と天国の差があるといわれる。関取になるまでに、何人もが厳しいけいこと上下関係に嫌気がさして辞めていった。高見山もホームシックには何度もかかった。来日1年目はガムシャラ。東京五輪が終わり、秋風が冷たくなるころから寒さ、つらさが身に染みてきた。
東関親方「パスポートはおかみさんが金庫にしまっていたから私は帰れない。よく一流ホテルに行ってお母さんに国際電話したね。でも『みんながジェシーの活躍している情報を待っているよ』と言われてね。ハワイの知らない人からも手紙が来た。もう少し、頑張ろうと励まされた」。
もう1つ、幕下で壁にぶち当たっていた高見山が、猛烈に発奮する“事件”があった。66年6月のハワイ巡業。各島を順々に回り、マウイ場所のときだった。ちょうどその日(16日)は高見山の誕生日。最前列の席には、母リリアンをはじめ家族、親族が陣取っていた。巡業では取組前のけいこも観客に見せる。関取衆が若い弟子やアマ力士を相手にしたが、そのとき、高見山がぶつかりげいこの相手に指名された。
東関親方「柏戸関(横綱)や豊山関が胸を出してくれた。関取が相手をしてくれるのは、本当はありがたいこと。でも、何度も倒され、ぶっ飛ばされるから、お母さんは私がいじめられていると思ったみたい。後で聞いたけど、泣いていたらしい」。
高見山にとってはご当地場所。国内の地方巡業でも地元力士に花を持たせることがある。高見山は相撲界に入ってから初めての帰国で、ハワイでは熱烈な歓迎を受けていた。先輩力士たちが「タコになるな」(てんぐになるな)とかわいがった(厳しくけいこをつけた)わけだ。
東関親方「悔しいというか、もっと頑張ろうと思った。次は、絶対に関取になって帰ってくると思った。次の場所から4場所連続で勝ち越して、十両になったね」。
忘れられない誕生日の屈辱をエネルギーに変え、高見山が相撲界の歴史をも動かした。十両を5場所で通過し注目された新入幕の68年初場所で9勝6敗。いきなり敢闘賞まで獲得した。(つづく=敬称略)【西尾雅治】
◆十両と幕下 厳しい番付社会の中で一人前として扱われる待遇の分かれ目。十両以上は「関取」と呼ばれ、協会から100万を超える月給が支給される。大銀杏(おおいちょう)や絹の締め込み、羽織はかま、けいこ場での白のまわしが許され、幕下以下の付け人がつく。部屋は十両昇進で個室を与えられることが多い。化粧まわしを締めての土俵入り。仕切り前に塩をまいたり水をつけてもらえるのも、原則として関取だけ。元幕内力士といえども、幕下に落ちればその特権を失う。
May 23, 2008 12:00 AM
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