大河連載「伝説」

2008年05月22日

猛げいこ…「泣いてません、汗です」

【国技に黒船 高見山(4)】

 初めて見る雪だった。1964年(昭39)2月23日、ハワイから羽田空港に到着したジェシーは日本の寒さに震えた。東京・両国の高砂部屋で初めて迎えた日本の夜は、布団を何枚も重ねて寝た。

 東関親方「次の日の朝、窓を開けたら真っ白。屋上に上がって見たね。でも、まだそのときは寒さは我慢できた。これから、たくさん日本を見るんだと思っていたから」。

 5日後には大阪で行われる春場所のために移動。早朝からの厳しいけいこが始まった。「股(また)割りのときは、1人が手を持って前から引っ張って、もう1人が後ろからグイグイ押す。よく『ギャー』って叫んでたよ」。兄弟子だった高田川親方(元大関前の山)は懐かしむ。

 東関親方「股割りが一番きつかったね。私、下半身が硬い。当時は5時から昼の12時ぐらいまでけいこした。ある親方にはよく『はい、しこを万回やって』と言われた。私は万回って分からない。エンドレスってことだった」。

 春場所の前相撲は本名のジェシーで取ったが、翌夏場所を前に「高見山」を贈られた。優勝制度が誕生した1909年(明42)夏場所で優勝した高見山酉之助の由緒あるしこ名。4代目高砂親方(元横綱前田山)の期待の表れだった。師匠は英才教育のため、元十両の響矢を特別コーチに指名。マンツーマンで指導させた。部屋全体のけいこが終わると、高見山のぶつかりげいこが始まるのが恒例だった。

 東関親方「毎日、私だけが、かわいがられた(厳しくけいこをつけられた)。30分ぐらい。なんで私だけ? どうしてこういうことをしなきゃいけないの? と思った。この野郎、覚えておけ。早く関取になると思ったね」。

 中村親方(元関脇富士桜)が振り返る。「響矢さんとのけいこは、見ていても大変だった。苦しかっただろうね」。序ノ口、序二段と連続優勝するなど番付はグングン上がったが、けいこはいっそう厳しくなった。あまりの苦しさに泣きながら耐えた。意地もあった。

 東関親方「東富士さん(元横綱)に『ジェシー泣いているのか?』と聞かれたけど『違います。汗です』と言ったのを覚えている」。

 けいこ場を離れれば、ちゃんこの恐怖が待っていた。来日当初こそ、おかみさんの好美が、高見山のためにから揚げや卵焼き、ホットケーキなどを作ってくれた。だが、それも数日間だけだった。

 東関親方「白い魚がダメだった。でもおなか減るね。体重も減った。もう、我慢して、少しだけ汁をすくって食べた。高砂親方は食べ残しにうるさい人だった。でも、私は全部は食べられないときもあった。あるとき、それを見たおかみさんが『ジェシーよこしなさい』って、私の丼を奪って食べ始めた。ビックリした。おかみさんは普通、そんなことしないですよ。だから私は『ダメ、ダメ』って慌てて取り返して、必死に食べましたね。ちゃんこは1年ぐらいでやっと慣れたね」。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆歴代の高見山 「高見山」のしこ名を最も古く確認できるのは江戸時代、1794年11月場所の勝負付。番付に名前がない高見山が三段目格で登場する。翌年3月に「高見山彦五郎」が載るが翌場所から名前を消し、わずか2場所の短命力士だった。その後は高砂部屋の由緒あるしこ名として受け継がれ、現東関親方は14代目の「高見山」である。中でも8代目はその後に高砂浦五郎と改名し、初代高砂親方になった。11代目は1909年夏場所、旧両国国技館が完成して、優勝制度ができた場所に優勝した。

May 22, 2008 12:00 AM

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