大河連載「伝説」

2008年05月21日

型破り高砂親方に導かれ日本へ

【国技に黒船 高見山(3)】

 高見山を相撲界にスカウトしたのは、型破りな人物として知られた4代目高砂親方(元横綱前田山)だった。1964年(昭39)2月のハワイ巡業。関取衆のけいこ相手として、ハワイ各島からアマ相撲の代表者十数人が呼ばれた。マウイ相撲クラブに所属していた19歳のジェシーもいた。

 東関親方「初めて見たプロのお相撲さんは大きくてね、ビックリした。大鵬関、栃ノ海関、若羽黒関とかね、みんな怖い顔していた。けいこをつけてもらうために順番に並んでいるときは、ドキドキした」。

 初日のけいこの後、1人だけ高砂親方に呼ばれた。「日本に来ないか? 5年は面倒を見る」。ジェシーは驚いた。だが同時に、いいようもない喜びがわいてきた。

 東関親方「うれしかったね。日本に行けるチャンス。私の友達、日系3世も多かった。日本はどんな国か、いっぱい見たい。フジヤマも見たいと思った」。

 高砂親方はその2年前に、親交ある明大相撲部監督の滝沢寿雄から、まわし姿のジェシー少年の写真を見せられていた。マウイからわざわざジェシーを呼んだのも、スカウトするためだった。

 当時、相撲は日本人のものという考えが一般的だった。だが、高砂親方に閉鎖的な考えはなく、新しいもの好きな面もあった。横綱時代の49年10月。休場中に、日米野球で来日中していたサンフランシスコ・シールズの試合を観戦。オドール監督と握手している写真が新聞に掲載された。これが大騒動になり、責任を取って引退。後に「シールズ事件」と呼ばれた。51年には藤田山、大ノ海らを連れてアメリカ巡業に出るなど前衛的で特異な存在だった。

 「高砂親方がラスベガスに行ったとき、洋式トイレを初めて見て『これはケガ人にいい』と買って帰ってきた。だから、高見山が来る前から部屋には、まだどこにもなかった洋式トイレがついていた」と、高田川親方(元大関前の山)は証言する。

 ハワイ原住民のカナカ族の血をひく19歳に相撲界の扉を開いたのも、高砂親方が海外に目を向けていたからこそ。ジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルアの運命が、思いもよらぬ方向に進んだ。

 東関親方「日本に行きたいとお母さんに相談したら『家族をみるのはお前しかいない』と泣いて反対された。でも、マウイ相撲クラブの小笠原さんが説得してくれた」。

 もう1つの問題は、ハワイの州兵として6年契約していたこと。まだ10カ月しか務めていなかった。だが、当時のバーンズ州知事がすんなり許可を出した。「日本とハワイの関係がよくなるんだから、君は向こうで頑張ってこい」。64年2月22日、周囲に後押しされ、ジェシーは希望を胸に、あこがれの日本へ出発した。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆前田山英五郎(まえだやま・えいごろう) 本名・萩森金松。1914年(大3)5月4日、愛媛県生まれ。29年春場所初土俵。37年春場所新入幕。入幕4場所目で大関になり、44年秋場所で9勝1敗で初優勝した。47年秋場所で第39代横綱に昇進、戦後初の横綱になった。突っ張りが得意で双葉山や羽黒山に激しくぶつかる取り口は土俵を沸かせた。49年秋場所限りで引退。引退後は4代目高砂親方として横綱朝潮や大関前の山、関脇高見山を育てたほか、海外への相撲普及にも尽力した。71年8月17日、57歳で死去。

May 21, 2008 12:00 AM

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