大河連載「伝説」

2008年05月20日

アメフトのため母のため

【国技に黒船 高見山(2)】

 外国人力士として史上初めて幕内優勝した高見山は、高校時代はハワイ・マウイ島で無敵を誇るアマ相撲の強者だった。だが、決して日本で力士になるために相撲に励んだわけではない。

 東関親方「高校入学前のサマースクールで、アメリカンフットボール部に入った。コーチはラリー宍戸さん。日系2世だった。下半身を鍛えるために筋トレと相撲をやらされた。週に2、3回はマウイ相撲クラブに通った。面白かったけど、相撲はアメフトでうまくなりたいからやっただけ」。

 ハワイ州になった記念日(6月11日)や米国の独立記念日(7月4日)にオアフ、マウイ、ハワイの3島相撲大会があった。ジェシー少年は高校1年のとき、警察官ら地元の猛者数人と一緒にマウイ代表として初めて出場。185センチ、135キロの体にものをいわせ、体ごとぶつかっていく相撲で圧倒した。

 東関親方「勝ったら商品がもらえた。時計つきのトランジスタラジオとか、砂糖、缶詰とかね。勝ち抜きで3番勝ってしょうゆ1瓶もらった。家に持って帰ったらお母さんが喜んでね。よーし、来年も頑張るぞって」。

 ジェシー少年は終戦前年の1944年6月16日に、6人兄弟(男3、女3人)の長男として生まれた。大柄で知られるハワイ原住民のカナカ族の中でも特別大きく、4900グラムで誕生した巨大ベビーだった。決して恵まれた家庭ではなかった。父親は別居状態で、ジェシー少年が母リリアンを支えた。将来は警官になることが夢だった。

 相撲大会に初出場した翌61年、転機が訪れた。日本から学生相撲の横綱ら2人を連れ、明大相撲部監督の滝沢寿雄がハワイにやってきた。マウイ相撲クラブのコーチで日系2世のイサム小笠原が「1度見てほしい子がいる」と推薦したのがジェシー少年だった。

 同行した北条巌氏(元明大相撲部監督)は「大きくて力強かった。外国人にしては、意外に足腰が強い」とマウイの怪童に圧倒された。

 その夜、滝沢はジェシー少年を宿舎へ呼び「日本に来ないか」と勧誘した。だが答えは「NO」。まだ17歳の高校生にとって、夢のような話だった。

 東関親方「滝沢先生に写真だけでも撮りたいと言われた。私はパンツの上にまわしをつけていた。まわしだけと言われ、恥ずかしかった。夜だし、誰も見てない。ちょっとだけだからと思って、パンツを脱いで初めてまわしをつけた。変な感じだった」。

 その1枚の写真が、ジェシー少年の運命を切り開いた。滝沢監督は帰国後、懇意にしていた4代目高砂親方(元横綱前田山)にマウイの怪童の存在を教えた。2年後の64年2月、同親方を団長とする大相撲の一行が、ハワイ巡業のためにやってきた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆ハワイと角界 これまで海外最多9度の巡業が行われている。1914年を皮切りに、62年6月は戦後初の巡業を実施。高見山を含め7人の関取を生み、巨体と愛嬌(あいきょう)あるキャラクターで人気だった力士が多い。元大関小錦は現役時代の高見山にスカウトされ、史上最重量力士として3度優勝。11度賜杯を抱いた曙は93年春場所で外国出身力士初の横綱に昇進した。03年九州場所で引退した第67代横綱武蔵丸を最後に、ハワイ出身力士はいなくなった。

May 20, 2008 12:00 AM

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