大河連載「伝説」

2008年05月14日

国民栄誉賞にためらい

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(8)】

 1977年(昭52)の夏の終わりは「Xデー」に日本列島がわき上がった。王の通算ホームラン世界記録が国民的注目を集めた。

 前年、王はまずベーブルースを抜く715号を記録し、世界2位となった。これには、政府も動いた。首相の福田赳夫が閣議で「国民栄誉賞」新設を決め、王がその第1回受賞者に選ばれたのだ。

 授賞式は世界記録達成後に行われることになっていたが、王は外国人籍でいることが胸につかえていた。今ではスポーツ選手が帰化するケースは珍しくない。だが、王は今でも中国国籍でいる。

 苦い思い出がある。早実2年の57年センバツで初優勝、夏の大会もノーヒットノーランを達成するなど活躍したが、秋の国体に出場することが許されなかった。「参加資格は日本国籍を有するものに限る」。この規定に抵触した。

 実は、王は06年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、代表監督の打診を受けたときも就任をためらっている。「ぼくは中国籍だから…」。しかし、迷った末に受諾し、堂々と日本代表チームを世界一へと導いた。

 そんな責任感の強い王の生きざまは、父親仕福の厳格な教えと無縁ではなかった。仕福は1922年(大正11)、22歳で初めて日本の地を踏んだが、翌年関東大震災の直後に仲間と強制送還された。翌年再び来日し『五十番』というラーメン屋を営んだ。だが、45年3月の東京大空襲でB29の猛撃にさらされ、店は焼け落ちた。

 王は母、登美に背負われ火の粉を避けた。仕福は敗戦の中、木材やトタンを集め、その夏にはバラック建ての『五十番』を再開。日本で必死に生き抜いた両親。父親仕福から王は「絶対人に迷惑をかけるな!」と厳しく諭されながら育った。

 国民栄誉賞を受けるまで逡巡はあった。だが、父の教えを忠実に守ってきた息子に、何が最良であるか判断を下すのに時間は掛からなかった。

 王「選んでくれた福田さんの顔をつぶすわけにはいかないでしょ。自分1人がもらうんじゃない。野球界全体がもらうんだという気持ちでいただいた」。

 77年9月3日。国民のだれもが、この瞬間を待った。対ヤクルト23回戦。後楽園球場。ハンク・アーロンを上回る、王の世界記録756号が生まれた。3回裏1死。カウント2-3。鈴木康二朗が投じた1球を振り払った打球は、ゆっくりと上空に舞い上がった。滞空時間4・2秒。落ちたのは右翼席だった。

 NHK解説の仕事でネット裏にいた川上哲治は、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。「よくやった。ほろりと来た」。世界最高峰のアーチに日本全国が酔いしれた。すでに『五十番』を閉めて悠々自適だった仕福と登美がグラウンドに降りて息子を称え、何度もスタンドに向かって頭を下げた。

 異常なほどの熱狂。その中で、もっとも冷静だったのは当の王本人かもしれない。痛恨の1発を食らいマウンドで沈んだ男が、王貞治の偉大さを痛切に感じたある出来事がある。それは翌朝のこと…。現在、打たれた鈴木は、みちのく福島県にいた…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 14, 2008 12:00 AM

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