2008年05月13日
阪急山田を沈めた劇弾
【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(7)】
[3]巨人2勝1敗(10月15日・後楽園)
阪急 010000000-1
巨人 000000003X-3
【急】山田-岡村浩【巨】関本-森、吉田孝[勝]関本(2試合1勝)[敗]山田(2試合1敗)[本]王2号(3ラン=山田)
通算284勝。球史に残るサブマリン、山田久志の鼓膜には、今でも痛恨の1発の打球音がこびりついている。
山田「普通は『グシャ』というんだけど、圧縮バットの『カキーン!』という音だった。覚えているのは、その音だけ…。すぐにひざから崩れた。なにも見えないし、立ち上がれなかった。現実を受け止めるほど経験もなかったし、帰りのバスに乗ってバスタオルをかぶって初めてわかった。えらいことしたなと…。いつまでたっても、俺の背中からあの1本が消えない」。
71年(昭46)10月15日。後楽園球場。阪急との日本シリーズは、1勝1敗で第3戦を迎えた。プロ3年目でシーズン22勝の山田は、8回まで巨人打線をわずか2安打に抑えていた。スコアは1-0。9回裏2死一、三塁。あと1人にこぎつけたところで、4番王を迎えた。
山田「その前の長嶋さんがカーブに泳いで、バットの先っぽに当たった二遊間へのボテボテのゴロ。ゲームセットと思ったら、何を思ったか先輩の阪本(敏三)さんがボールに飛び込んでる。そんな打球じゃなかったのに、足が動かなかったのかもしれない。止まるような打球がセンターの福本さんの前までいった。太鼓やトランペットの応援はなかった時代だから、長嶋さんが出塁すると、『ウォー』という歓声が起きた。球場が揺れるというか、圧迫感を感じた。王さんを迎え、キャッチャーの岡村(浩二)さんがマウンドに来て『思い切って来い。大丈夫や』と言われ、うなずいたのだけは覚えている」。
初球はストライク、2球目ボールと、続けざまに真っすぐを投げた。山田の持ち球は直球とカーブの2種類で、のちに強力な武器となるシンカーはなかった。カウント1-1。続く3球目。王は山田が自信をもって投じたストレートを打ち砕いた。打球は逆転サヨナラ本塁打となって、右翼席で弾んだ。
山田「打たれっこないと思っていたのに…。いくらプロでも緊迫した場面では、ちょっと固くなったり、しぐさも変わるものなのに、王さんは打席に入る前も、入ってからも全てが変わらなかった。ネクストでバットを振り込んでから打席にはいる人だった。足場を固め、両手にふっと息を吹きかけ、手をこね、そしてバットを持ち上げて構える。寸分もリズムが変わらない。成熟した打者と未熟な投手、技術の差もあっただろうが、経験の差で打たれたホームランだった。でも今思えば、山田はあの1本で育てられた。本物のすごさというか、ああいった厳しいところを封じないと飯を食っていけないことを教えられた」。
その日、山田は故郷の秋田から初めて母親ヨシさんと兄弟を三塁側スタンドに招待していた。母がマウンドに立つ息子を見たのは、20年間のプロ野球人生の中で、最初で最後だった。
阪急監督の西本幸雄は、しゃがみ込んで動けない愛弟子を迎えに来た。マウンドで動けない敗戦投手を、監督が抱き起こすのは極めて珍しい光景。それほど衝撃的だった。
一塁手の加藤英司はうつむいたままベンチに下がった。
加藤「やられたと思った。俺たちにとってリーグ優勝は当たり前だった。春のキャンプから、どうしたら巨人を倒して日本一になれるかをずっと考えていたから…」。
巨人監督だった川上哲治は「実力的には阪急のほうが上でした。あのホームランがなければ、9連覇はなかった」と言い切る。73年セ・リーグ初の三冠王、74年も連続して獲得。監督が川上から長嶋になった2年目の76年10月11日には、あのベーブ・ルースを抜く715号を記録。ついに『世界の王』に上り詰めた。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】
◆山田久志(やまだ・ひさし) 1948年(昭23)7月29日、秋田県能代市生まれ、59歳。富士鉄釜石から68年ドラフト1位で阪急入団。2年目の70年に10勝を挙げて以来、86年まで17年連続2ケタ勝利を記録。この間76年から史上唯一の3年連続MVPを受賞した。76年には26勝をマーク。オールスター通算7勝は最多記録になっている。オリックスの投手コーチとして95年リーグ優勝、96年日本一に導く。99年中日コーチ、02年監督。実働20年で654試合に登板し、284勝(史上7位)166敗43S。NVP3回、最多勝3回、防御率1位2回、勝率1位4回。現在は日刊スポーツ評論家。
May 13, 2008 12:00 AM
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