2008年05月07日
神様の進言「打者転向」
【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(3)】
巨人入りが決まった早実3年の2月、王はチームがキャンプ地の宮崎に向かう夜行列車を見送りに、東京駅に向かった。プラットホームでは窓越しに長嶋茂雄と顔を合わせた。現役を引退して巨人助監督の座に就いた川上哲治は、そのほのぼのとした光景を思い出していた。
川上「丸刈りの可愛い童顔でね。体は大きかったけどおとなしくて、わたしは王に向かって『宮崎で待ってるよ』と告げました。監督の水原さんはわたしの引退後の一塁に与那嶺(要)を予定していた。後を追うように王が宮崎に合流したわけだが、ある日、わたしは水原さんに呼ばれ、王の起用法について問われた。わたしは『投手では無理です』とはっきりと申し上げました。すると与那嶺本人が一塁ではなく古巣のレフトに戻りたいと言ってきた。あの時点で与那嶺はおそらく王の非凡さを感じとったのでしょう」。
王の打者転向を強く推したのは、『打撃の神様』といわれた川上だった。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回を獲得。現役時代の成績もさることながら、その後、巨人監督として不滅の9連覇を成し遂げた。その川上も38年(昭13)に熊本工から投手としてプロ入りしたが、監督の藤本定義から打力を認められて一塁手に転向した。
川上「王はスイングするとき顔が上がらず、必ず振った後もポイントに顔が残っていた。当時はそういうスイングをする人は球界にいなかったから、わたしは大打者になる予感をもったのです。ただプロの世界は甘くはなかった。ホームランは出始めたが、どうも体重移動がスムーズでなく、来た球に対して体が突っ込むクセがあったのです」。
プロデビューは59年(昭34)開幕の国鉄戦だったが、金田正一に対し三振、四球、三振…、全3打席の11球は1度もバットにかすらなかった。4月26日の国鉄戦(後楽園)、開幕から27打席目で村田元一から初本塁打を放った。これが記念すべきプロ初安打。1年目は94試合に出場し、打率1割6分1厘、7本塁打、25打点、72三振に終わった。2年目は三振数が3桁の101まで増えた。水原体制から川上が監督に就いた3年目の61年も、127試合に出場し2割5分3厘。13本塁打、53打点にとどまった。だが、4年目のシーズンに向かう王に大きな転機が訪れる。
川上「いろいろ練習させましたが思うようにいかなかった。少しずつ良くはなってきましたが、まだ満足のいくものではなかった。ちょうど荒川君が打撃コーチになって、王のバッティングについていろいろ話し合い、大幅にフォームを変えることにしたんです。それが一本足で立ってボールを待つ、あの打法ですよ」。
王のフラミンゴ打法は師匠の荒川博との血と涙の結晶だった。実はその奇跡の打法には秘密がある…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】
◆与那嶺要(本名=Wally Kaname Yonamine・よなみね・かなめ) 1925年(大正14)6月24日、米ハワイ州マウイ島生まれ。外野手。沖縄県中頭郡中城村からのハワイ移民の2世。高校3年(4年制)の時にオアフ島のフェリントン高に転校、アメフトのハーフバックで活躍した。47年プロフットボール49ersに入団、50年野球に転向し、マイナーリーグを経て51年6月来日。同年、巨人で規定打席未満ながら打率3割5分4厘を記録した。激しいスライディングで有名になる。52年から6年連続3割をマークし、57年には3割4分3厘で3度目の首位打者。61年~62年中日に在籍。ロッテコーチを経て72年~77年は中日監督を務め、74年には巨人のV10を阻止し、20年ぶり優勝に導いた。南海、西武、日本ハムコーチを歴任。通算1219試合出場、3割1分1厘、82本塁打、482打点。通算6年の監督では388勝349敗43分。
May 7, 2008 12:00 AM
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