2008年05月30日
未だ破られぬ幕内97場所
【国技に黒船 高見山(10)】
病院のベッドで悔し泣きした。厳しいけいこで流した涙を「これは汗よ」と言ってごまかした高見山が、この時ばかりは人目も気にしない。ねんざした左足首を恨めしげに見て、涙をポロポロ流した。
1964年(昭39)夏場所で初めて番付にしこ名が載って以来、休むことなく土俵に上がり続けた記録が止まった。81年秋場所前の新潟巡業中に左足首を痛め、無理して初日こそ土俵に上がったが、ついに5代目高砂親方(元横綱朝潮)に説得されて休場した。17年半、無休で1425回出場は歴代4位。幕内連続出場1231回は今も残る最多記録だ。
東関親方「あのときは、がっかりした。師匠が無理だからすぐ入院しろと。私はそれまで大きな故障が1度もなかった。今の若い力士は故障ですぐに休むでしょ。自分自身、本当によく頑張ったと思いますね」。
それまでも休場のピンチは何度もあった。73年九州場所。夜中に激痛に襲われ、救急車で病院に運ばれた。尿道結石だった。治療を受け翌日も土俵に上がった。数年後にも結石に苦しんだが、連続出場記録を張り合いに「皆勤」を守った。
記録が止まり、引退が現実味を帯びてきた。しかし、高見山の気持ちはなえていなかった。十両陥落寸前から1年、38歳で小結に復帰。このころは毎年、正月に家族の前で「40歳まで相撲を取る」と誓い、気持ちを奮い立たせてきた。
目標の40歳まで約1カ月となった84年夏場所、ついに「その時」が来た。前年の九州場所で左ひじを剥離(はくり)骨折して途中休場。強行復帰した初場所も途中休場に追い込まれ、十両に陥落した。再入幕を果たせず、この場所は「負け越せば引退」を家族にも宣言して臨んでいた。9日目で1勝8敗。まげを切る決意を固めた。
千秋楽。長男の弓太郎(32=米大ヤンキース通訳)は、その日の父親の大きな背中が忘れられないという。「朝、母と一緒に父を『いってらっしゃい』と見送った光景は今でも覚えている。土俵を降りて花束を渡されて泣いていたのをテレビで見た。(40歳まで)あと1場所でゴールだったのに。悔しかったと思う」。
東関親方「40歳までできなかったのは残念だったけどね。ハワイから日本に来たとき、そんな長くやるとは思わなかった。若いときに、けいこしてきたおかげ。相撲がいやなときもあった。調子が悪いときもあったですね。ケガのときも。でも、私は出た。幕内97場所。それが一番の誇り」。
日本人が好む努力と辛抱を重ね、引退時に史上1位記録を17も残した。横綱朝青龍を筆頭に、今や当たり前となった外国出身力士の源流が高見山だった。「外国人はギブ・アンド・テイクのつき合いというイメージがあったが、彼は義理人情に厚くてね。部屋は違うけど、よく面倒を見てくれた」。同期入門の武隈親方(元関脇黒姫山)はしみじみと言う。「生まれ変わっても力士になりたい」。引退会見での言葉は、相撲ファンの胸を熱くさせた。高見山は心も日本人だった。(この章おわり=敬称略)【西尾雅治】
◆高見山引退時の史上1位記録 20年を超える土俵生活で、引退時には17もの記録を塗り替えた。のちに通算出場回数こそ元小結大潮と元関脇寺尾に抜かれたが、幕内在位97場所。幕内出場1430回など現在でも11項目は1位のまま。中でも幕内連続出場1231回は、2位の元関脇巨砲の1170回を大きく引き離し、13年4場所以上続けて出場しなければならない大記録だ。横綱、大関との対戦に関する記録など、いかに長い間、幕内上位で戦ってきたかが分かる。
May 30, 2008 12:00 AM
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