2008年04月14日
実結んだコンバート&木戸固定
【1985年阪神 かくて猛虎になりき(6)】
中埜肇・球団社長の不慮の死を乗り越え、8月下旬から、快進撃を再開していった。同27日に首位を奪回。9月4日からは6連勝。同11日の大洋(現横浜)戦に大勝し、待望のマジックナンバー22が灯った。この間、その後もチーム力を発揮したのはコンバート、捕手を木戸克彦に固定したことだった。
前年の10月23日、就任発表された吉田義男監督は直後から、精力的に動いた。既にチーム構想はできあがっていた。セカンドの真弓明信をライトに、83年7月に右大腿二頭筋断裂の大けがをした岡田彰布を二塁に完全復帰させるプランだった。
まず吉田は猿木忠男トレーナーと山本晴三トレーナーと会い、岡田の足の状態を尋ねた。2人は「いけます」と全快を保証。続いて真弓と面談。真弓は「ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を取るつもりでやります」と快諾した。これで構想はもうスムーズにいくと吉田は確信を抱いた。そして最後は岡田。本人は多少の不安を抱いていたが、吉田の熱意に心が動いた。
吉田「センターラインを固定しなければ、と思ったからね。チームとしての型を持たないと戦えない。真弓は外野が十分務まると見ていたし、岡田には打力を生かす意味でも選手生命を懸けろ! と言った」。
周到な準備で吉田の描いたプランは見事に花を開いた。1番・真弓は34本塁打を放つ脅威の核弾頭として貢献、岡田は35本塁打、101打点。バース、掛布とともに100打点以上のクリーンアップという猛打線の一翼を担った。
2人の打力を生かしただけではなかった。平田との二遊間コンビを中心に取った併殺はリーグ3位の119。守備率・9845は2位。キャンプで岡田らは猛ノックを受けた。平田勝男(現2軍監督)は「ゲッツーを取れ! と言われっ放しだった」と振り返る。
もう一方で木戸の抜てき。これも型を作るためには必須だった。PL-法大とエリート街道を歩いてきた3年目の男の女房役としての資質を吉田は大いに買っていた。キャンプ、オープン戦と口には出さなかったがメーンで使うことを決めていた。
木戸「2年間、腰痛に悩まされてあまりゲームに出ていなかったので、初めはずっと使ってもらえるかなと半信半疑だった。でもシーズンが始まって使い続けてもらったので、ああそうなのかと思い始めていった。あの年は無我夢中でプレーして、気が付いたら日本一になっていた、という感じだった」。
チームは骨格が太くなりつつ、広島、巨人を突き放していった。そして10月16日、勇躍、神宮球場に乗り込んだ。(つづく=敬称略)【浅岡真一】
◆岡田の故障 83年7月9日の広島戦で二塁ゴロを追った際に大腿を痛めた。「右大腿二頭筋断裂、全治3カ月」と診断され、このシーズンを棒に振った。翌84年、再起を期したが、3月17日阪急(現オリックス)とのオープン戦で試合中に右大腿を肉離れ。シーズン中盤まで出場できず。同年の守備は外野43、一塁41、二塁20試合だった。
April 14, 2008 12:00 AM
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