大河連載「伝説」

2008年04月30日

長女にゴルフを勧めたが…

【メジャーを制した日本人 樋口久子(8)】

 国内69勝、海外では3大陸で3勝、うち1勝は全米女子プロ選手権。この勝ち星の数だけではない。1967年のデビュー戦、日本プロゴルフ女子部創立記念競技以来、87年7月までの21シーズン、国内出場335試合で予選落ちはたった2試合。この驚異的な数字に樋口久子(62=富士通)の強さが浮き彫りになる。

 樋口「勝利数や予選突破の数もそうですが、私は20年間にわたって、常に1年に1勝以上できたことを最大の誇りにしています。1年に7勝(73年)したこともあったけど、調子が悪くても1つは勝つことができた」。

 85年結婚、88年に長女を出産して1年8カ月の産休を取りながら、90年には2勝を挙げた。こういう人生にも、米国でプレーした影響が隠されていたのだろう。

 樋口「1期生だし、アメリカで戦った先駆者なんだから、私を見ながら後を追って女子プロが育ってくる。お手本にならないと、という気持ちはいつもありました。アメリカでは、ある試合の前、ご主人が子供を背負いながらカートを運転して、練習ラウンドしている選手に出会いました。ああ、アメリカって何ていいところなんだろう、と思った。同じことを日本でやったら、どう言われるのだろう、とも。そういうのを見て、私も結婚したい、子供も欲しい、と思いました」。

 いま樋口の長女は大学2年になった。5~6歳の時、ゴルフのジュニアクリニックへ連れて行ったが、それきりだ。ゴルフはしていない。ゴルフにおいては確実に日本最高の才能なのに、もう受け継がれることがないのだろう。「でも、最近は練習場へ行っているみたい」うれしそうな表情が一瞬よぎった。

 樋口「彼女には母親をゴルフに奪われたという感覚があったのでしょう。そばにいてほしい時に、いてあげることができなかった。小学生の時、ゴルフを勧めたら『イヤだ』と拒まれた。『私に子供ができたら、こんなのはイヤだから』と…。ズキッときました。彼女の気持ちは分からなくはないので…」。

 勝利に執念を燃やし、突き進んだ日本最強のゴルファーという顔の裏側には、女性であり母でもあるもう1つのナイーブな顔がひそんでいた。メジャーで勝ち、日本で飽きるほど勝ち、そして今は日本女子プロゴルフ協会の会長としてタクトをふるう。しかし、樋口は決して「鉄の女」ではないのだ。

 中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンの会場、中京GC石野コースに赴いて話を聞いた時だった。大会最終日、全員がスタートした直後の静かな時間。樋口の週間予定を尋ねたら「月火はだいたい会議があります。水は前夜祭、木はプロアマ、金曜はステップアップツアーなどに行くことが多いですね。土日は試合会場へ行きますから…」。これでは休みが1日もないではないか。

 「だから、今日は終わったらすぐに東京へ帰ります。家のこともしなければいけないですから」。すてきな母の笑顔であった。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 30, 2008 12:00 AM

2008年04月29日

“世界”輸入してくれる夢の船

【メジャーを制した日本人 樋口久子(7)】

 今から30年前、全米女子プロ選手権というメジャータイトルを取った唯一の日本人、樋口久子(62=富士通)の思い出話。

 樋口「いつもはモーテルに泊まっていたが、あの時はコンドミニアムを借りました。新しいけど、カーテンもテレビもない。部屋が明るくて眠れないから、窓にベニヤ板を立てかけて寝ました」。

 彼女の快挙を実際に見ていた日本人マスコミはただ1人で、サンケイスポーツの米国在住特派員・牧野泰。優勝した日曜の夜、この牧野も交えて、僚友の佐々木マサ子(64)と3人で食事会を開いた。小規模な祝勝会だ。だが、レストランではワインを出してくれない。サウスカロライナ州は州法で、日曜はアルコール類の販売を禁じていたのだ。

 樋口「タイ・牧野が隣の州まで出向いてワインを買ってきてくれた。レストランでコーヒーカップにこっそりとワインを注ぎ、乾杯しました」。

 今から見れば涙が出るほどささやかな祝勝の宴かもしれない。しかしその分、人間味にはあふれ返っている。1泊何万円もするホテルにチームで泊まって何不自由なく戦いに専念できる現代の世界的なトッププレーヤーと、果たしてどちらがより幸福なのか。

 ところで樋口は、間違いなく米ツアー挑戦の先駆者だ。彼女がいたから岡本綾子が続き、小林浩美、福嶋晃子、そして宮里藍という系譜が生まれた。もし樋口がいなかったら、日本の女子ゴルフは、いや男子ゴルフもどれだけ後ずさりしていたことか。この先駆者は、米ツアーにおけるさまざまなことを日本に持ち帰ってもいる。女子プロのファッションや用etc…。

 樋口「最初はアメリカのプロショップで帽子から靴下までコーディネートされて売っているものを買って持ち帰りました。今、トーナメントでは自分のヤードブックをこしらえて、それを見ながらみんな戦っているでしょう。あれも私たちが持ち帰ったんですよ。練習ラウンドで自分のショットが落ちる位置から歩測して、フロントエッジまでの距離を調べた。米ツアーではみんながしていたんです。日本ではそれまで、残り100ヤードとか150ヤードの木があるじゃない、という程度で大まかで不正確だった」。

 メジャー制覇で日本人に「やればできる」の自信を植えつけてくれただけではない。樋口は、世界のノウハウを毎年輸入してくれる、さながら夢いっぱいの大型貨物船だったのだ。

 むろん彼女の活躍の舞台は海外だけではない。全米女子プロに勝った77年には日本でも女子の試合が24試合行われ、賞金総額も1億2245万円になっている。賞金総額は急角度で上昇線を描き78年には2億、80年には3億を超えた。

 樋口「当時の二瓶綾子理事長に『樋口さんがいないと試合がないのよ。日本にいてくれませんか』と言われた。目標のメジャーも取れたし、10年やれば区切りになるし、これからは日本で頑張ろうと思った」。

 79年を最後に、樋口の米ツアー挑戦は、静かに幕を閉じた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 29, 2008 12:00 AM

2008年04月28日

チャコの奇跡 77年全米女子プロ

【メジャーを制した日本人 樋口久子(6)】

 樋口久子(62=富士通)のキャディーバッグには大きく「CHAKO」という文字が刺しゅうされている。「ひさこ」の愛称が「チャコ」になることを、樋口は広く知らしめた。少なくとも私は、彼女の存在からそれを知ったのだ。

 樋口「私は小さなころから母親(安代さん)にチャコと呼ばれていました。アメリカへ行く時、久子は発音しにくいので、ニックネームをつけることになったので即座に『チャコ』にした。佐々木(マサ子)さんは『マーボー』にした」。

 1977年の全米女子プロ選手権は実力者たちの激戦となった。樋口のマグネティック・スイング(インパクトで磁石のように正確に戻るので命名された)は、その中でも際立っていた。初日は71、2日目は67で飛び出す。3日目は72。

 樋口「3日間終わって、首位タイが4人。最終日はパット・ブラドリーが前の組だった。前の週は最終日最終組で、自分にプレッシャーをかけて自滅したので、その日は下を向いて歩いた。ボードを見ないようにしたんです。15番でバーディー・チャンスがやって来た。グリーンを読んでいると、前方のカメラマンが不意に動いた。で、彼の後方にあったボードが見えてしまった。私の名前が一番上にありました。でも、そこでバーディーが取れた」。

 16番は第2打をトップ、バンカー手前で弾んで奥にこぼれる。17番の164ヤードは4番アイアンで打った。キャディーはもはや「リラックス、リラックス」を繰り返すばかり…。そして18番パー5。ティーショットが右の林へ。だが、スイングができる場所だった。8番アイアンでバンカー手前に運び、残りは100ヤード。「得意な9番アイアンのハーフショット」でピン横2メートル弱に寄せた。樋口久子という選手は、よほど肝が据わっていたのだ。土壇場のプレーを30年後の今も克明に覚えている。この怜悧(れいり)さが、おそらく史上ただ1人の快挙につながったのだろう。

 樋口「18番で3オンして初めてボードを意識的に見ました。2位と3打差があった。3パットしても勝てるんだ…。ああ、もうこれでゴルフやめてもいいな、と思いましたね。よくアメリカへ8年も来たものだ、とも…。これも全て友達(佐々木マサ子)がいたからできたことなんだ、という思いもわき上がって来ました」。

 最終日は69。前週は最終日に80をたたいていたから、うれしさもひとしおだった。1イーグル、17バーディー、8ボギー、1ダブルボギーの通算9アンダーで全米女子プロ選手権制覇! もちろん日本人初めて、その後30年の歳月が流れても、いまだ樋口と肩を並べる日本人のメジャー制覇者は出現していない。

 ところで、この快挙を現場で見届けた日本人マスコミは、1人きりだったそうだ。いま米ツアーを転戦する宮里藍の周辺には常に多数の記者、カメラマン。往時との比較はざっと「1対50」というところか? 樋口の偉業が、海外の日本人女子プロに対する注目度を、マスコミの人数分、すなわち「50倍増」させたというのは言い過ぎだろうか。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 28, 2008 12:00 AM

2008年04月25日

人生変えた300ドルの投資

【メジャーを制した日本人 樋口久子(5)】

 米国で3カ月試合をして、残りは日本の試合に出る。今から見れば、とりたてて厳しいスケジュールではない。だが、当時のゴルフ場の事情が、樋口久子(62=富士通)を押しつぶしそうになったことがある。

 米国のグリーンは滑らかなベント芝、それに引き換え日本は芽の強い高麗芝が主流だった。毎年、その両方のグリーンで戦い続けているうちに、パットが狂ってしまったのだ。

 樋口「病気ですよね。イップス。スイングが『8』の字を描くようになって。アメリカの試合で3パットを3~4回やった。『チャコ、パットが悪ければ選手寿命終わりだよ』と言われてコーチを紹介してもらった。3日間だったけれど、クラブも打ち方も変えて、やっと立ち直れた。1975年のことです」。

 プロのトミー・ジェイコブスに1日100ドルの報酬で修正してもらい、自信は回復した。それどころか、この計300ドルの投資は、やがて樋口の元に想像をはるかに超える幸運を舞い降りさせたのだ。いや、日本の女子ゴルフ界そのものと言い換えても構わないかもしれない。

 77年もまた、いつものように佐々木マサ子(64)とともに米国を転戦した。全米女子プロ選手権の前週はニューヨークで行われたガールトーク・クラシック。最終日最終組の樋口は重圧で80をたたき、順位を下げた。「自分でプレッシャーをかけちゃった」せいで最終的には27位の「平凡な成績」で終わった。もはや優勝争いを演じるだけでは「平凡な結果」でしかなかったのだろう。

 樋口「佐々木さんは、その試合は予選落ちでね。もう、早く全米女子プロの会場へ行きたくて仕方がない。それで、日曜に試合が終わってすぐに旅立った。深夜の1時ごろにベイツリー(サウスカロライナ州)へ着いた。佐々木さんがナイトテーブルにぶつかって額を切って、翌日は病院へ行ったり、てんてこ舞いでした」。

 36ホールのゴルフ場だったので、プロアマを2日間回って、やっと試合で使用する18ホールを回り切れた。それ以外の練習ラウンドは、ハーフを回っただけだったという。

 初めて米国へ行く前は「選手はどんな服装で試合をしているのか?」ということさえ分からなかった。「私たちはいつもズボン姿で試合をしていたでしょう。アメリカはスカートとかキュロット。自分でオーダーして作って行ったんですよ」。米ツアーに飛び込んでから、その時すでに8年の歳月が流れていた。

 樋口「そういえば最初はカクテルドレスも持っていった。でも、前夜祭などのパーティーでは選手は意外に気楽な装いだったので、ほとんど着なかった。話は変わりますが、トーナメントはスポンサーの経済状況などに左右される一面があるでしょう。でも、公式戦は違う。恒久的な試合ですから。公式戦の重みについては、その時点で十分に理解はできていました」。

 表面的にはドタバタで迎えた77年の全米女子プロ選手権だったが、その裏で「世界のチャコ」として飛び立つ準備は万端だったのかもしれない。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 25, 2008 12:00 AM

2008年04月24日

勝ち続けた女子プロ創成期

【メジャーを制した日本人 樋口久子(4)】

 2007年の日本女子ツアー競技は年間36試合、賞金総額は実に28億8820万円。もちろん賞金だけではなく、スター選手の所属をはじめさまざまな契約が絡み、動いているお金は確実に3ケタの億になる。スポーツビジネスの世界では、女子プロゴルフは見事な成功例の1つだ。

 しかし、この規模のビジネスにたどり着くまでには、多くの人の汗と涙があった。日本で初めて女子プロの試合らしい試合が開催されたのは、樋口久子(62=富士通)らが合格した第1期女子プロテストが行われた翌68年のことだ。賞金総額45万円、優勝賞金15万円の日本女子プロ選手権と、TBS女子オープン選手権(現日本女子オープン)。樋口はこの2試合をともに勝つ。それどころか、初優勝から日本女子プロは7年連続(通算9度優勝)で、日本女子オープンは4年連続(通算8度優勝)で勝ち続けたのだ。

 当時、スポーツ紙においても女子ゴルフ担当記者が生まれ始めている。産経新聞社の八木嬉子が運動部のバレーボール担当からゴルフ担当になったのは68年のことだ。以来サンケイスポーツ、日刊と渡り歩き、98年まで女性記者として女子プロゴルフを見続けた。

 八木「当時の運動部長に『樋口久子と佐々木マサ子という優秀な選手がいる。これからは女子ゴルフがきっと伸びるから』と担当するように言われました。樋口さんはとにかく群を抜いていた。まるで機械のように、どんなショットでも同じスイングで打った。すごい選手でしたよ。師匠の中村トラ(寅吉)さんは「暇があったらクラブを握っとけ」という指導だったから、樋口さんはいつも練習していた印象がある。あの頃は言葉数が少なくて、取材しにくい選手の1人ではありましたね」。

 元五輪選手(水泳)の部長、木村象雷(しょうらい)の目は確かだった。女子プロゴルフの世界は2冠を独占する「樋口VS他の選手」という構図で徐々に人気が高まっていったのだ。

 樋口「自信? いつも勝つつもりでプレーはしていました。周囲に常に勝つのが当たり前というふうに見られていましたし…」。

 試合が増加傾向にあったとはいえ、まだ年間5~6試合に過ぎない。70年から樋口は佐々木マサ子(64)と一緒に米ツアーに出場し始めた。毎年4月から6月にかけて約10試合、米ツアープロ80~90人とともに転戦したのだった。海外勝利も2度達成した。74年豪州女子オープン、76年コルゲート欧州オープン。

 樋口「オーストラリアの試合は2月。『招待されたけど、マー坊(佐々木マサ子)行く?』と尋ねたら『暑い所だからいいわね』と行きました。76年はナビスコ・ダイナショアで3位に入ってイギリスへ招待された。アメリカ人の選手が多い試合でした。ヨーロッパで勝った時、(アメリカ)本土で勝ってみたい希望が強く芽生えました」。

 アメリカの大舞台で大輪の花を咲かせる準備が進む。それが今日の女子ゴルフの隆盛を招き寄せる最初の1歩になるとは、その時は誰も気づいてはいなかった。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 24, 2008 12:00 AM

2008年04月23日

師直伝の独特スイング

【メジャーを制した日本人 樋口久子(3)】

 川越CCの練習場勤務の傍ら、研修生として腕を磨く。樋口久子(62=富士通)にとっては基礎を積み重ね、やがてその土台の上に壮麗な建物を築き上げるための助走の時だった。40年以上も前のことだ。

 樋口「朝、ゴルフ場へ行って、練習場に詰める。9時半になったら、たいていお客さんはいなくなります。そこからは一日中ボールを打てた。お昼だけですよ、休んで食事。午後3時をすぎたら、ボール拾いしてコースに出てハーフを回らせてもらった。月に1度は研修会がありましてね。とにかく技術がうまくならなくてはいけない、と…。本当に修業の日々でしたね」。

 師匠・中村寅吉は小柄なプロだった。小さな体でいかに遠くへ飛ばせるか、それが中村のテーマだった。樋口は163センチあったが、世界を見渡せば決して恵まれた体格ではない。右足に重心移動してバックスイングをとり、ひねりと反動を利用して強いインパクトを生む独特なスイングは、もちろん師匠の直伝。というより、中村が研究し続けたことが、樋口のスイングに凝縮されていたのかもしれない。

 「あれだけスエーする感じで、うまく打たれましたね」。軽い調子で言ったら、樋口に鋭く切り返された。「あれはスエーではありません!」。断固とした口調だった。

 樋口「上体のひねりが大きいだけなのです。構えた範囲内で最大の動きをしていただけです。スエーしてしまうとボールは飛ばない。先生には基本に忠実な教え方をしていただきました」。

 1967年10月、第1期女子プロテストが実施される。開催コースは川越CC。樋口の勤務先だ。26人の受験者は全員合格したのだが、73で回った樋口はトップ合格であった。研修会に参加していた25人もプロと認定され、女子プロ計51人がこの時、産声を上げた。もっとも当時の女子プロは組織化などされておらず、プロゴルフ協会内に女子部があるだけのみすぼらしい状態だった。しかし実はそこに、世界で通用する力を蓄える助けとなった一面があったようだ。

 樋口「女子の競技でも男子の競技委員がコースの設定をするんですね。つまり、男子と同じような距離で女子も競技をするわけ。420ヤードのパー4なんかがいくらでもあった」。

 大まかな運営方法だったゆえに、むしろ女子プロの実力は備わっていったのかもしれない。ゴルフに限らず、世の中なんて何が幸いするか、分からないのだ。

 初めてのプロテストが行われた前後が多分、樋口がもっとも成長した時期だったろう。月例会でも常勝だったという。

 樋口「川奈(GC)で月例会をしたことがあった。富士と大島の36ホールを回るんです。この時はアンダーで回りましたよ。1アンダーだったか3アンダーだったか…。取手CCで69を出したこともありました」。

 難しいコースにもおじけづかない強さは備わった。あとはその力を、思い切りぶつける時がやって来るのを待つだけ…。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 23, 2008 12:00 AM

2008年04月22日

「ゴルフの父」と運命の出会い

【メジャーを制した日本人 樋口久子(2)】

 樋口久子(62=富士通)が生まれたのは戦後まだ2カ月、日本が混乱のさなかにあった1945年(昭20)10月13日だった。父武夫、母安代の五女として埼玉県川越市で生を授かった。

 日本中が憔悴(しょうすい)しきっている中で、樋口家の五女は活発で元気な少女だった。中学時代は陸上のハードル選手。全国放送陸上の80メートルハードルで埼玉県2位に入った。高校は東京・世田谷区の私立二階堂高。「陸上が強い学校なので進学しました」。川越から世田谷までの遠距離通学。実はこのことが、後にプロゴルファー樋口を誕生させるきっかけになったのだ。

 樋口「姉(明子)が東急砧ゴルフ場に勤務していたんです。それで姉の家から高校に通うようになった。でも、遠くの学校に来たから友達がいないでしょう。日曜になるとやることがなくて、姉についてゴルフ場へ遊びに行ってました」。

 やがて面白半分にボールを打つ。世の多くのゴルファー同様、彼女はその魅力的な感触に取りつかれた。1年生後半になると、陸上への興味が薄れ始める。速く走ることに費やしていた情熱が、ボールを正確に遠くへ飛ばすことにかけるパッションにすり変わった。

 そんな3年間を過ごして、卒業の春…。

 樋口「女子高でしたから進学するのはクラスの2分の1か3分の1。就職率はよくて銀行とかデパートとか、大体思い通りの就職先に行けました。だけど、私は『いらっしゃいませ』と愛想よくできるわけでないし、机に座って事務をするタイプでもない。そんな時、姉から『ゴルフしてみたら』と言われたんです。そうか、2~3年でダメだったらほかのことやればいいか、という感じで川越CCへ就職しました。実家に戻って親元から通勤できるのも嬉しかった。私は手先が器用で、高校の時にはスカートを縫ったりしていたんですよ。だからダメだったら、そっちの方面へ行こう、と思っていました」。

 川越CCの社長は中村寅吉。1957年、カナダカップ(現ワールドカップ=W杯)で個人優勝、小野光一と組んだ団体戦でも優勝を成し遂げ、日本にゴルフブームの火をつけた人だ。いま思えば、ゴルフを世に広めただけでなく、樋口久子という世界を制した女子選手までも誕生させたわけだから、日本でゴルフにかかわる誰もが、中村寅吉という存在に足を向けては寝られない。中村との師弟関係、そして腕を磨くに格好のコース、そんな環境の中で樋口はボールを打ち続けた。

 樋口「先生(中村)には一から手取り足取り教えていただきました。川越CCはアップダウンが結構あるコースでね、だからすべてのショットを教わることができたのです」。

 練習に打ち込む日々に「ダメだったらほかのことやればいいか」という軽い気持ちはいつしか消えていく。

 新幹線が開通し、東京五輪が開かれた。もはや戦後は終わった、と日本中がマグマのようなエネルギーを抱え込んでいた。川越のゴルフ場でひっそりと練習しながら、世界へ羽ばたくエネルギーを全身に充てんさせつつある1人の少女がいた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 22, 2008 12:00 AM

2008年04月21日

今でも予選通過できる

【メジャーを制した日本人 樋口久子(1)】

 かつて日本で無敵を誇り、全米女子プロ選手権で勝った唯一の日本人ゴルファーは、和やかにプロアマ戦のラウンドをしていた。樋口久子(62=富士通)、愛称チャコ。03年には世界ゴルフ殿堂入りを果たした彼女は、いまは競技者ではなく、日本女子プロゴルフ協会会長の顔でにこやかに回っている。同組はアマチュア2人とカリー・ウェブ。「樋口さんがトーナメントに出たら予選通過は確実。本当に今もそれぐらいの力がある」。わが社のゴルフ担当木村有三が妙にリキんでいたのを思い出しながら眺めていた。

 東京よみうりCCの18番は202ヤードのパー3。距離がある上に奥から手前へ下りこう配で、グリーンの速さは並みではない。その日はサロンパス・ワールドレディスのプロアマ戦。手前にピンが切られた18番で、数組のプレーを見た。奥へつけたアマチュアは全員、第1パットでボールをグリーンの外へはじき出す。中にはグリーンから落ちたボールが延々10ヤード以上転がり続けるのを、ぼうぜんと見詰めている人さえいた。実際、トーナメントでも「ゴルフ界のシャラポワ」ベルチェノワは初日ダブルボギー。2日目に65のスコアをたたき出したウェブも、その時点で首位に並んだ福島晃子、横峯さくらも18番はボギーだった。ショートなのに最難関。それが東京よみうりの18番だ。

 樋口のティーショットはグリーンの奥、カップまで「25メートルぐらいかしら」という距離を残してしまった。アマチュアが3メートルからグリーン外へ打ってしまうライン。寄せて2パットで収まったら、奇跡…。だが、こともなげに打った樋口のパットはフックラインをなぞりながら滑らかに転がっていく。長い時間をかけてカップに近づき、そしてコロンと入った。まるで優勝決定パットを決めた時のように、樋口は両手を高く掲げた。

 カリー・ウェブ「すごいプレーを見たわ。あのラインからバーディーは、どんなパットの名手でも不可能に近いのに…。やっぱりグレート・プレーヤーね」。

 ウェブは樋口がかつて全米女子プロに勝ち、世界ゴルフ殿堂に入っているプレーヤーだとは知っている。その人がラウンドの最後で、本領発揮のパットを決めた。間近でそれを見たウェブも興奮気味だった。

 樋口「あの距離で、あのライン。もう1度やってみろといわれても絶対にできないパットでしたね。でも、今日はあれだけ」。

 それは「伝説」のため、初めて取材に訪れた日の出来事だ。その後パーティーが始まるまでの短い時間、話を聞いた。パーティー開始時間が15分早まったこともあり、彼女は大阪からやって来た記者に最大限の情報を与えてやろうとするように早口で語り続けてくれた。だが、当然時間切れ。瞬く間に「会長」のたたずまいに変わった樋口は、大勢の関係者が待つパーティールームへ向かった。

 樋口は今も予選通過の力がある…。東京までの取材行で、とりあえずその「伝説」だけは、この目で確かめられた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 21, 2008 12:00 AM

2008年04月18日

久万氏V回想「喜びより今後」

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(10)】

 リーグ優勝を決めた神宮球場にも、日本一を決めた西武球場にも、久万俊二郎は駈け付けなかった。舞い上がっている状況ではないと思っていた。

 83年、社長になった時点で、彼は向こう20年間を見据えた事業計画を立てた。全走行距離50キロメートルに満たない鉄道会社。運賃収入だけに頼っていては発展はないと西梅田を中心にした再開発に主力を注いでいた。84年暮れ、田中隆造を継いでオーナーに。軸足はむしろ、事業開発だった。

 久万「何しろ新米でしたからね。嬉しい気持ちはあったけど、身を震わせて喜ぶということはなかった。むしろ今後、このチームがどうなっていくのか、常勝タイガースでいけるのか、そちらの方を考えた」。

 社長業に多忙ではあったが、野球に無関心ではなかった。安藤統男監督が辞任すると、すぐに西本幸雄(元大毎、阪急、近鉄監督)の招へいに自ら出向いた。体調面で固辞されたが、その場で受けたアドバイスに胸を打たれた。

 久万「今の阪神は土台が出来ていない、レギュラーだけが固定していても、2軍の若手のレベルを上げて行かなければ、強いチームであり続けられないとね。確かに、そう言われれば納得せざるを得なかった」。

 西本に辞退されても動きは俊敏だった。すぐにかつて3年間、指揮を執った吉田義男に白羽の矢を立てた。そして快諾を得る前に「土台作りをやって欲しい」と要望した。84年10月23日の就任発表、久万は「吉田さんは西本さんの生まれ変わり」とまで語った。

 前回書いたように、阪神優勝の経済効果は破格だった。タイガースそのものの増収もすさまじかった。だが、この好況にも浮かれることはなかった。

 久万「あれは一時的なものだと受け取った。収入増はもちろん、宣伝効果はあったけれど、それをどう持続させて球団経営を安定させていくかという点に頭を巡らせた」。

 日本一で経営状態は少しずつ上向いていったが、久万の懸念は不幸にも的中した。以後、土台作りはできず長年の低迷にあえぐ。そんな中でタイガースの電鉄グループ内の重要性が久万の頭の中で膨らんでいった。「阪神はケチ」の風評があったが、筆者の取材ではそれは誤解。必要な金は使った。久万の熱の入れ方が増すとともに。

 それは常勝チームを作るためには戦力補強は欠かせないと認識。それ以上に思いを深くしたのは監督の力量だった。吉田第3次政権の後、野村克也、星野仙一と他球団の監督を招いたのもそれゆえだった。

 久万「(オーナー職)半ばあたりから、外部-生え抜きと交互にするのが活性化すると思い、そうした」。

 一場の裏金疑惑で辞任して2年余。現在は電鉄相談役として週2回、出社している。現宮崎彰オーナーは人事部次長時代に採用を決めた1人。しかし、球団のことに口を挟んでいない。(この項おわり=敬称略)【浅岡真一】

 ◆久万俊二郎(くま・しゅんじろう) 1921年(大10)1月6日、高知県生まれ。44年、東大法学部政治学科卒。46年、阪神電気鉄道に入社。経理、人事、関連事業などを主に担当。83年6月、社長に就任、84年秋にタイガースのオーナーに。92年末、取締役会長になっても、オーナー職を兼務。報道陣に歯に衣着せない発言をし、名物オーナーとして、球界をリード。04年、一場投手への利益供与の責任を取り、辞任した。

April 18, 2008 12:00 AM

2008年04月17日

列島熱狂!!経済効果1000億

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(9)】

 夏から秋へ、阪神の優勝ムードは高まっていった。とともに、甲子園の入場者も増え、関連グッズの売り上げも上昇。そんな中、10月1日付の日本経済新聞に「経済効果は400億円」の5段見出しが躍った。

 同紙によると住友信託銀行が「タイガース・フィーバーの経済的波及効果」という調査を発表。8月末までのデータを調べ、このフィーバーが10月まで続くと400億円になると弾き出した。さらにリーグVして日本シリーズに行けば、1000億円近くになると試算した。

 そもそも経済効果とは何か。大阪府立大学研究室グループで03年、05年に綿密なデータを収集、数字を分析、試算した宮本勝浩教授(現関大大学院会計研究科)は直接効果と一次、二次の波及効果があり、この合計が経済効果と説明する。

 直接効果は阪神自体の増収だけではなく、スポーツ紙や雑誌、球場内外の飲食店の売り上げ増加など。一次はそれらの関連グッズの原材料などの増収で、二次はこれらの企業に関係する経営陣や従業員の所得増加が消費拡大をもたらす、ということだ。例えるなら「ボーナスがたくさん出たから家族で温泉旅行でも行こうか」というケースだ。

 宮本「その当時は1ファンで、専門的に研究していなかったが、21年ぶりということもあり、400億というのは理解できる。1000億? それも十分にあり得たでしょう」。

 92年5月16日付の朝日新聞。この調査に関わった吉村正男・住信基礎研究所副社長はインタビューに対し「計算は8月末段階。その後日本シリーズにも勝ち、予測を上回ったようです。ほかの機関の調査では全国レベルで1000億円といわれています」と答えている。

 さて、宮本グループは03年の星野阪神の優勝では経済波及効果は1481・3億円とした。05年の岡田阪神では643億円。いずれも7月時点での試算であるが、考えられる限りのデータを調べたので、この数字には自信を持っている。

 宮本「我々は過去5年、優勝できなかった平均値との差額を基本に試算した。03年は18年ぶりということで新鮮味があり、低迷期に沈滞していた消費が一気に爆発した。その2年後は観客動員数、グッズ売り上げが高水準になっており、増加分はさほど大きくならなかった。ただ、他のチームからすれば、数値は頭抜けている」。

 85年はそれまで200万人に満たなかった入場者が260万人と大幅に増えた。これも1000億円の根拠の一つ。さらに、プロ野球チームのVで経済効果が話題になり、研究対象になったのは、ここが起点だろう。その意味でも史上に残る日本一だった。

 ただ、この快挙に酔いしれられない男がいた。タイガースの総帥だった。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

 ◆宮本勝浩(みやもと・かつひろ) 1945年(昭20)1月12日、和歌山県生まれ。大阪大学大学院経済学研究科修士課程修了。経済学博士。大阪府立大学副学長・理事などを経て、現在は関大大学院教授。テレビ、ラジオに多数出演。専門分野は国際経済学、数理経済学、関西経済論。著書に「移行経済の理論」など。

April 17, 2008 12:00 AM

2008年04月16日

「ありがとう」コールに吉田監督号泣

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(8)】

◆85年10月22日(甲子園)
[25]阪神12勝12敗1分け
 巨人 000002000-2
 阪神 01004000×-5
【巨】●江川、橋本、定岡-山倉、山本幸【神】○ゲイル、福間、S中西-木戸、島田兄
[本] 真弓34号(江川)岡田35号(3ラン=江川)吉村16号(ゲイル)中畑18号(ゲイル)

 それは、自然発生的に生まれたコールだった。「ありがとう!」「ありがとう!」。ネット裏から起きた歓声は一塁側スタンド、アルプス席、外野席と波及し、三塁側でも……。10月22日、甲子園は興奮の坩堝(るつぼ)に包まれた。

 21年ぶりのリーグ制覇を決めた6日後。チームはやっと本拠地に戻ってきた。宿敵・巨人を下した後の夕暮れ、リーグ優勝の表彰式が行われ、吉田義男監督はじめ首脳陣、選手全員が誇らしげに、そのペナントを持って場内を一周した。

 1年間、いや長年、タイガースを応援してくれたファンへの感謝を目いっぱいに込めたガイ旋。これに、5万8000の大観衆は逆に感謝のコールで応え返したのだった。

 「おめでとう」「よくやった」ではなく、「ありがとう」。それは、トラ党の心からの叫びであった。ずっと低迷し“ダメ虎”とまでも揶揄されても我らがタイガースを見放すことはなかった。いつか、この日がやってくると信じて応援してきた。

 フェンスの金網に指を通しながら、涙を流し、絶叫する中年の男性。もちろん老若男女、さまざまな階層が声を張り上げていた。そのシーンを筆者は忘れられない。人生、いろんな悩みを抱えて生きていただろう。しかし、この時だけはすべてを忘れて、喜びに浸っていた。

 吉田「あのコールを聞いて、涙が溢れてきた。あれを『号泣』というんでしょうな。歩き始めてから、ベンチに戻るまで、いや、ベンチに帰っても(涙が)止まらなかった。こんなに喜んでもらえるのか、感謝までしてくれるのかと。すぐに記者会見に臨むことができなかった。一生、忘れられない時間だった」。

 それにしても、神様・仏様は最高の舞台を用意していた。125試合目に優勝して、残り甲子園でのゲームは1試合のみ。前売り入場券は早く売り切れ、球場周辺にもファンが集結していた。その人たちの分まで……の思いがコールに込み上げていたかもしれない。

 実は前日、チームが帰阪した新大阪駅。待ちわびたファンはホーム、到着口で溢れ返っていた。極めて危険な状況だったが、チームは堂々と胸を張り、バスに乗り込んだ。22日のフィーバーはこの時点で予想されていたのだ。

 吉田「全国にファンはいるが、やはり地域社会との密着が大切だと改めて、思い知った。もう昔のことですが、これからのプロ野球のテーマになると感じた」。

 なるほど、吉田の直感は03、05年のリーグ優勝にも引き継がれ、一昨年のロッテ、昨年の日本ハムでも実証された。それは、経済効果まで波及することも含めて……。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 16, 2008 12:00 AM

2008年04月15日

最後まで禁句にした「優勝」

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(7)】

◆85年10月16日(神宮)
[24]阪神16勝6敗2分
 阪神 0001020020-5
 広島 0100040000-5 (延長10回時間切れ引き分け)
【神】ゲイル、福間、工藤、佐藤、野村、中西-木戸【広】荒木、尾花、梶間-八重樫
[本]杉浦34号(ゲイル)真弓33号(荒木)バース52号(2ラン=荒木)掛布39号(尾花)

 待ちに待った日がやってきた。10月16日、神宮球場は異様なムードに包まれていた。ゲーム開始前から場外は人、人の波。開門するとまたたく間に、スタンドはほとんどの阪神ファンで埋まった。満員札止めの5万人の大観衆が、その一瞬を見ようと詰め掛けた。

 試合はこのシーズンの戦いぶりを象徴する展開になった。阪神が中盤、逆転し再逆転を許し、2点ビハインドで9回へ。だが、ここで底力を発揮する。先頭の掛布が左翼ポール際へアーチをかける。続く岡田は中堅越えの二塁打。

 吉田義男監督は、瞬時に三塁へ送ることを決めた。一枝三塁コーチにサインを送り途中出場していた北村は見事に決めた。1死三塁。代打に佐野を起用、中犠飛を打ち上げ同点に。不思議なことにマジック1ながら、吉田をはじめ選手の一部は白星でないとVは決まらないと中盤まで思っていた。さすがに終盤には気付いた。

 同点に追いつけば、もう中西しかいない。9、10回を6人で片付け、時間切れ引き分けで21年ぶりの栄光をつかみ、スタンドが狂喜乱舞する中、吉田は胴上げされた。
 吉田「いろんなことが頭の中で巡った。キャンプから苦しいシーズン中のこと、故中埜社長にも思いを馳せた」。

 実はマジックがひとケタになった頃、選手を代表して川藤幸三が一枝コーチに「もうそろそろ、優勝しようと言ってください」と願い出た。だが、吉田監督は頑として受け付けなかった。「一丸」「挑戦」とシーズン前から使ってきたフレーズを繰り返すことに終始した。

 吉田自身の確信は遅かった。直前の広島戦に連勝した時点だった。M1になるまで、緊張感を失わなかった。それは21年前の選手時代の経験から。大洋(現横浜)が突っ走っていたが終盤、そのライバルに4連勝したのを含め、9連勝して大逆転Vをつかんだ。

 吉田「あの体験があるから、勝負はゲタをはくまで分からないと思っていた。私がもう大丈夫だと思ったら、士気に影響するとも考えていた。石橋をたたいて渡るというか、手を緩めてはならないと、自分に言い聞かせていた」。

 フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チームの「3F野球」を掲げてスタートした安芸キャンプ。選手には球場入りしたら、その横断幕を見つめるように指示した指揮官。その精神が選手に浸透し、遂につかんだV。その勢いは、日本シリーズまで持ち込まれた。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 15, 2008 12:00 AM

2008年04月14日

実結んだコンバート&木戸固定

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(6)】

 中埜肇・球団社長の不慮の死を乗り越え、8月下旬から、快進撃を再開していった。同27日に首位を奪回。9月4日からは6連勝。同11日の大洋(現横浜)戦に大勝し、待望のマジックナンバー22が灯った。この間、その後もチーム力を発揮したのはコンバート、捕手を木戸克彦に固定したことだった。

 前年の10月23日、就任発表された吉田義男監督は直後から、精力的に動いた。既にチーム構想はできあがっていた。セカンドの真弓明信をライトに、83年7月に右大腿二頭筋断裂の大けがをした岡田彰布を二塁に完全復帰させるプランだった。

 まず吉田は猿木忠男トレーナーと山本晴三トレーナーと会い、岡田の足の状態を尋ねた。2人は「いけます」と全快を保証。続いて真弓と面談。真弓は「ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を取るつもりでやります」と快諾した。これで構想はもうスムーズにいくと吉田は確信を抱いた。そして最後は岡田。本人は多少の不安を抱いていたが、吉田の熱意に心が動いた。

 吉田「センターラインを固定しなければ、と思ったからね。チームとしての型を持たないと戦えない。真弓は外野が十分務まると見ていたし、岡田には打力を生かす意味でも選手生命を懸けろ! と言った」。

 周到な準備で吉田の描いたプランは見事に花を開いた。1番・真弓は34本塁打を放つ脅威の核弾頭として貢献、岡田は35本塁打、101打点。バース、掛布とともに100打点以上のクリーンアップという猛打線の一翼を担った。

 2人の打力を生かしただけではなかった。平田との二遊間コンビを中心に取った併殺はリーグ3位の119。守備率・9845は2位。キャンプで岡田らは猛ノックを受けた。平田勝男(現2軍監督)は「ゲッツーを取れ! と言われっ放しだった」と振り返る。

 もう一方で木戸の抜てき。これも型を作るためには必須だった。PL-法大とエリート街道を歩いてきた3年目の男の女房役としての資質を吉田は大いに買っていた。キャンプ、オープン戦と口には出さなかったがメーンで使うことを決めていた。

 木戸「2年間、腰痛に悩まされてあまりゲームに出ていなかったので、初めはずっと使ってもらえるかなと半信半疑だった。でもシーズンが始まって使い続けてもらったので、ああそうなのかと思い始めていった。あの年は無我夢中でプレーして、気が付いたら日本一になっていた、という感じだった」。

 チームは骨格が太くなりつつ、広島、巨人を突き放していった。そして10月16日、勇躍、神宮球場に乗り込んだ。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

 ◆岡田の故障 83年7月9日の広島戦で二塁ゴロを追った際に大腿を痛めた。「右大腿二頭筋断裂、全治3カ月」と診断され、このシーズンを棒に振った。翌84年、再起を期したが、3月17日阪急(現オリックス)とのオープン戦で試合中に右大腿を肉離れ。シーズン中盤まで出場できず。同年の守備は外野43、一塁41、二塁20試合だった。

April 14, 2008 12:00 AM

2008年04月11日

墜落日航機に社長が!!

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(5)】

 85年8月12日。日本の航空機事故では例を見ない大惨事が起きた。国内の全域では夜から翌日にかけて、喧騒に包まれ、阪神の当時の宿舎「サテライトホテル後楽園」には、午後8時ごろからトラ番記者だけではなく、一般紙の記者、週刊誌のライターが駆けつけ、ごった返していた。その事故機に球団社長・中埜肇(なかの・はじむ)が搭乗していたからだ。

 吉田義男監督の記憶では知人と食事をし、球団関係者から連絡を受け、次の約束を断り、9時半ごろ帰宿したという。もうその頃は運輸省(現国土交通省)の捜査本部は墜落が確実としていた。

 吉田はいろんな情報を知らされながら、絶望感が広まっていった。何とかウソであってくれ、万一乗っていても無事であってくれ……と祈り、眠れぬ夜を過ごした。

 吉田「夜は何が何か、訳が分からなかった。そんなショックなことが起きるなんて思ったこともなかった。しかも、あの時機にそんな悲報を聞くとは……」。

 当日は博多でのナイターを終えて翌日の移動日。神宮室内で練習を行った。飛行機事故が起きたことは神宮で聞いていたが、まさか球団社長が搭乗していたとは、思っていなかった。

 第二次吉田政権の初年度は、球団体制も一新していた。オーナーは田中隆造(故人)から電鉄本社社長・久万俊二郎に。球団社長も小津正次郎(故人)から電鉄専務・中埜へ。新生タイガースの序曲でもあった。

 久万「彼は建築・土木が専門だったが、球団を任せても能力があるんじゃないかと思っていた。足を運ぶことをいとわなかったし、これなら務めてくれそうだなあと思っていた矢先だった」。

 前オーナーも吉田同様に心の空洞を味わった。吉田だけではなく、首脳陣、選手も思いに幅はあったが、結束力は高まった。だが、野球は、スポーツは思い通りには行かないのが世の常。2日前に首位に返り咲いていたが、翌13日からの巨人戦では3連敗。その後の広島、大洋(現横浜)戦にも敗れ、このシーズン2度目の6連敗を喫した。

 吉田「今から思えば、カラ回りしたんでしょうね。私も含め勝たなければと意識過剰になった。やっぱり自然体で臨まなければと思い直した」。

 指揮官の姿勢、背中姿は選手にも敏感に通じる。結束をさらに深め、連敗地獄から脱出。8月下旬から、また再ダッシュが始まる。広島、巨人との三つ巴、そこで、半月遅れの快進撃が始まった。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

 ◆日航機ジャンボ機墜落事故 後の運輸省の調査によれば123便、羽田発伊丹行きは午後6時12分に離陸。その12分後、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その他の部分にも故障が発生。機体は上昇、下降を繰り返す。その後、東京航空交通管制部と交信、緊急避難の道を探ったが、操縦士らの懸命の操作も実らず、6時56分30秒、群馬県多野郡の高天原山(たかまがはらやま)の斜面に墜落激突。夜、複雑な地形、険しい山地と悪条件が重なり、捜索に手間取り、レスキュー隊が現場に到着したのは翌朝。結局、生存者4人、死亡者520人と判明。犠牲者の中には歌手・坂本九さんら著名人も相当数いた。

April 11, 2008 12:00 AM

2008年04月10日

勢い戻した4安打&4犠打

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(4)】

◆85年7月18日(岡山)
[15]阪神5勝10敗
 阪神 310110113-11
 広島 100021000-4
【神】○中田、S中西-山川【広】●山根、小林、大野、高木、川端、新美-山中、達川
[本]バース28号(2ラン=山根)掛布22号(山根)高橋14号(中田)山中5号(2ラン=中田)山川2号(高木)バース29号(川端)

 巨人を3タテして勢いに乗った阪神。4月は9勝3敗1分けで首位に立った。だが、広島、巨人が追い上げ夏場へ。一つのエポックとなったのがオールスター直前の広島戦(7月18日、岡山)。そのゲームのキー数字は「4」だった。

 前2試合、首位広島に苦杯、ゲーム差は4と開いていた。折り返し前の直接対決で3連敗すれば、苦境に陥る状況だった。何とか一矢をの思いは首脳陣はじめ主力選手に充満していた。

 そして迎えた一戦、当時、太腿を痛めていた岡田に代わり、和田豊(現1軍守備コーチ)が前日から6番セカンドで起用されていた。17日にプロ初安打を放ったルーキーは絶好調、4安打と大暴れした。

 和田「キャンプで、バースや掛布さんの長打力を見て大変なチームに入ってしまったと思った。私が貢献できるとしたら、センター返しを心掛け、4本ぐらいヒットを打つしかないと思った。首位争いどうのこうのより、岡田さんの代役としてチームの足を引っ張りたくないと必死だった」。

 安芸Cでの誓いを重要な試合で実現させた小兵。そのフォローをしたのは7番・平田勝男(現2軍監督)。和田が出塁するたびに送りバントをすべて成功させた。築いたチャンスに先発・中田が、1番・真弓がタイムリーを放ち、今も日本タイ記録として残る1試合4犠打に報いた。

 平田「(バントの)サインが出るたびに、よしよしと思った。ヒットを打つより自信がありましたからね(笑い)。だって、長崎海星高、明大とも2番。4点差の9回にも送れと指示されたのには驚いたけどね」。

 実はその直前の広島の宿舎でのこと。吉田義男監督とトラ番の茶話会で、あるベテラン記者が「最近、バントを使ってないのんと違いますか」と問いかけ、周りの記者も「そうですよ」と加勢? これには吉田も「そういえば、そうですな」と答えるしかなかった。

 吉田「ヒントになったのは確か。それより、あの試合は絶対に勝たなければと思っていたから、より確実な作戦を取った。あそこで3ゲーム差に迫ったことは大きかった。負けて5ゲーム差になればあきらめムードが出ていたかもしれなかった。球宴期間中の練習でも活気が出たし、また挑戦して行くぞ!と気合を入れ直すことができた」。

 猛打ばかりが目立ったこのシーズン、チーム犠打141はリーグ1で、当時の日本タイ記録。堅実な攻めもまたVの要因の一つだった。

 勢いを取り戻し、球宴直後再び上昇気流に乗った。だが、長期ロードに出て1週間余、チーム、球団、電鉄本社が悲劇に包まれる大惨事が起きる。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 10, 2008 12:00 AM

2008年04月09日

3連発の陰で新守護神が生まれた

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(3)】

◆85年4月17日(甲子園)
[2]阪神2勝
 巨人 200000102-5
 阪神 10000050X-6
【巨】●槙原、鹿取、斎藤-佐野、笹本【神】○工藤、福間、S中西-木戸
[本]クロマティ1号(2ラン=工藤)バース1号(3ラン=槙原)掛布2号(槙原)岡田1号(槙原)クロマティ2号(福間)原2号(福間)

 伝説として語り継がれる「バックスクリーン3連発」。今も、記者席にいた筆者の目に焼き付いている。4月17日の巨人戦。2点ビハインドの7回。2死からバースが槙原から逆転3ラン。掛布も続き、岡田が仕上げた。4万5000の観衆を魅了した史上初の快挙。だが、このゲーム、すんなりと快勝したわけではなかった。

 9回、2番手・福間がクロマティ、原に連続被弾、1点差に迫られた。ここで吉田監督は2年目の中西を投入した。抑えのエース・山本和が開幕の広島2連戦で不調だったため吉田は、新鋭に勝負を賭けた。結果は吉と出た。3人を打ち取り、快挙に花を添えた。

 中西「行けと言われてよし! という気持ちになったね。プレッシャーなど全くなかった。調子も良かったし絶対、抑えてやると燃えてマウンドに登った」。

 持ち前の強心臓でプロ入り初セーブ。しかし、キャンプ、オープン戦で首脳陣の評価は決して高くなかった。投手陣では15、16番目ぐらい。3月下旬あたりからエンジンがかかり、米田投手コーチ(当時)が、救援役として推薦、吉田が抜擢した。

 中西の主武器は鋭く縦に曲がるカーブ。カウントを取るのにも、決め球にも使えた。ドラフト1位で入団したルーキーの前年は1勝6敗と低迷したが、カーブのキレが増し、速球とのコンビネーションも巧み、制球力も成長。翌18日にも2セーブ目を挙げ、吉田の期待に応えた。

 吉田「3連発も印象的だったが、むしろ私は中西にメドが立ったことに手ごたえを感じた。これでWストッパーが確立できたと」。

 結局、巨人に3連勝して開幕ダッシュに成功。だがシーズンは山あり谷あり。9月4日、山本和が左足アキレス腱を断裂。もう中西一人で押していくしかなくなった。皮肉なことにこの日から6連勝。中西は4セーブを挙げた。この貯金でVへ大きく前進した。

 中西「私はスタミナに自信があったので、4イニングぐらい行かされたこともあった。正直言って、最後の頃はバテバテだった」。

 130試合制で107回3分の2登板は確かに抑えとしては多い。だが、それで最優秀救援投手(30SP)に輝き、日本一まで手にすることができた。

 今、ブルペンを預かる投手コーチ。年の経験は生きている。「特に心理面の助言を大事にしている。それと人、ケースにより掛ける言葉を変えている」と言う。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 9, 2008 12:00 AM

2008年04月08日

まさか「隠し球」苦難の船出

まさか「隠し球」苦難の船出

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(2)】

◆85年4月13日(広島)
[1]広島1勝
 阪神 0030000000-3
 広島 0001020001X-4 (延長10回)
【神】池田、福間、●山本-木戸【広】○大野-山中、達川
[本]真弓1号(2ラン=大野)長内1号(2ラン=池田)

 85年の阪神はよもやのミスから始まった。スルスルと忍び寄ってきた木下富雄二塁手に気付いた時は、もう手遅れだった。ベース手前でタッチされた北村照文(現スカウト)は天を仰ぎ、しばしベンチへ戻ることができなかった。

 オープン戦を5割の成績で終え、仕上げは順調だった。そして開幕は広島へ。4月13日の初戦。先発には2年目の池田親興を抜擢。一方のカープはエース大野豊。シーソーゲームとなり、3対3で延長戦へもつれ込んだ。

 そして迎えた10回、無死から代打・北村が左前打。ここで吉田監督は真弓に送りバントを命じた。続く弘田、バースでタイムリーを……という堅実な作戦だった。北村が二進した直後、滅多に見られない隠し球(走塁死)にひっかかったのだ。

 北村「木下さんが大野さんのグラブにボールを入れるまでは見ていた。それで相手の外野の守備位置を確認するため、振り向いた。その間に木下さんが抜き返したんでしょう。プレート付近に大野さんがいたので離塁したのだが……」。

 ルールでは投手がマウンド板近くにいれば、隠し球は認められない。だが、審判がアウトを宣告した以上、覆らない。さらにその裏、山本和行がプロゴルファー福嶋晃子の父でこの年、大洋(現横浜)から移籍してきた福嶋久晃にサヨナラ打を浴び、敗戦。ショックな滑り出しとなった。

 当の北村はひどく落ち込んだ。宿舎は当時、相部屋。同僚に気遣いながらも、眠ることは出来なかった。敗戦の責任を一身に背負い、鼻血まで出てきた。みんなオレが悪い……これでもう立ち直れないんじゃないかとまで思った。

 明けて2戦目前のミーティング。吉田は全員を集めて「昨日のことは、私を含めてベンチにいる選手すべての責任。気持ちを切り替えて、今日の試合を一丸となって戦おう」とゲキを飛ばした。北村のショックを払拭してやろうという配慮からだった。

 北村「あの監督の言葉で救われた。いつか取り返してやろうという闘志が沸いてきた」。

 吉田のゲキも効いた。2戦目は切り替えて見事に雪辱。一枝コーチは「あの勝ちでチャラになった」と振り返る。勝負事に「たら」は禁句だが、連敗していたらシーズンそのものの状況は変わっていただろう。救われた北村もこの年、114試合、256打数67安打、打率・262、3本塁打と脇役の仕事を十二分に果たした。

 第一段階の危機を乗り越え、本拠地・甲子園での巨人戦へ。ここで大きなドラマが待っていた。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 8, 2008 12:00 AM

2008年04月07日

逆手にとったデータ野球

【1985年阪神 かくて猛虎になりき(1)】

◆85年日本シリーズ第6戦(11月2日・西武)
 阪神 410010102-9
 西武 100100001-3
【神】○ゲイル-木戸【西】●高橋、工藤、松沼雅、永射、渡辺-伊東
[本] 長崎2号(満塁=高橋)石毛3号(ゲイル)真弓2号(高橋)掛布2号(2ラン=渡辺)

 7回、バースのタイムリーが出ると、吉田義男監督はそっと広報部長だった室山を呼んだ。5点差。もう逃げ切りできると踏んで、記者会見の内容の最終打ち合わせだった。それから30分後、所沢の夕空に吉田の体が宙に舞った。

 85年11月2日、午後4時12分。それは阪神にとって歴史に残るメモリアルタイムになった。2リーグ分立後、3度目の日本シリーズで遂に初の日本一。敵地・西武球場で2連勝したが、甲子園に戻って2連敗。勝負の分かれ目となる5戦目でファンの後押しを受けて快勝。再び、西武に乗り込んで、6戦目で悲願を果たした。

 吉田「選手には胸を借りるつもりで自分の力を出し切れ! と言って臨んだ。3勝目で勝てそうな手ごたえをつかんだ」。

 戦前、多くの評論家は西武有利と予想していた。それまで広岡監督が率いる軍団は前3年間で日本一に2度輝いていた。一方、阪神は永年の低迷から抜け出し第2次吉田政権の1年目で21年ぶりのリーグ制覇。監督の、チームの熟練度からすれば止むを得なかった。

 阪神勢はその世評に立ち向かい、各自の力を出し切った。勝因は複数ある。その年、6月の日本ハム戦でノーヒットノーランを達成した郭泰源が肩痛で離脱、エース東尾が抑え役に回ったのも幸いだった。だが、3割6分を残し、殊勲賞も受賞した核弾頭・真弓明信は相手の偵察が行き届き過ぎたことを強調した。

 真弓「初戦でしめたと思った。(西武のバッテリーは)セの他球団と同じ配球をしてきた。だから、シーズンの延長のような気持ちで打てた。私の場合はかつて所属した球団でもあり速球系に強いのを知っていた。東尾さんに対してはスライダーしか狙わなかった。まともにまっすぐで勝負してこないと分かった」。

 西武は10月9日にVを決めたが、独走しておりトラの分析は1カ月近く前から行っていた。そういえば、一枝コーチが「私は守備担当だったが、ミーティングで細かい指示はしていなかった」と記憶を辿る。

 真弓「データ、情報というのは参考にはなるけど、使い方次第によっては、相手に有利になると実感したよ。他の打者も同じだったはずだ。

 今やデータ全盛時代といっても過言ではない。しかし、真弓が大舞台で体験したように、それだけに頼っていれば、裏目に出ることはある。

 セ優勝5度の阪神だが、日本一は「猛虎打線」を看板にしたこの年だけしかない。ただ、頂点を極めるまでのシーズンは決して平坦なものではなかった。(つづく=敬称略)【浅岡真一】

April 7, 2008 12:00 AM

2008年04月04日

心がつないだNZとの絆

【世界で認められたただ1人の日本人ラガーマン 坂田好弘(5)】

 京都の坂田好弘(64=大体大監督)の実家にお邪魔して取材をさせてもらっていた時だ。大きなニュージーランド(NZ)人と2階で鉢合わせした。カンタベリー大クラブで監督だったディック・ホクリー(78)だった。40年前、オールブラックスのすぐ手前までこぎ着けた坂田とNZとの絆は、今も熱く固い。

 ホクリー「サカタは素晴らしいプレーヤーだったよ。足が速い伝説のウイングだ。私は彼が激しいプレーをするのに、全然ケガをしないのが不思議だった」。

 オールブラックスには届かなかったが、カンタベリー州代表で70試合に出場したかつての名FWは、遠い日を懐かしむようなまなざしをした。1964年、選手として日本へやって来た彼は、その後同大を指導したり、坂田の面倒をみたりして、すっかり親日家になっている。京都の坂田家にホームステイして、そこから出かけては旧交を温める日本の旅をしていたのだ。

 69年のシーズン、NZでトライを重ね「もっとも有名な日本人」となった名誉は得難い。だが、本当に値打ちがあるのは「空飛ぶウイング」が日本とNZとの間にパスを巡らせる「名ハーフ」になったことかもしれない。シーズン18トライ、そしてひた向きなプレーを認められたから、きっとそうなり得たのだろう。

 そういえばあの年、トライを取り続けているうちにパスが回ってこなくなった。

 坂田「5~6年前に、尋ねたんですよ。ボクにはパスを回さなかったのか? と。そういうこと(テスト)はする、と言われました。日本人がトライ数のトップというのは気分が良くなかったんでしょう。だけど平気でしたよ。パスが来なければタックルしよう、と。血を流しながらタックルに行った。大事なのは試されている時にいかにして認めさせるか。同じ人間ですからね。最後はハートです」。

 ひたむきにタックルを繰り返す。ある時、倒した相手がつかみかかってきた。チームメートがアッという間に集まってかばってくれた。以来、ウイング坂田はカンタベリー大クラブで本当の切り札となった。

 昨年、大体大を率いてNZ遠征を行った。松岡勇、中村勇輔、山本奏多の3人がお世話になったホームステイ先の主人は、体調が悪いのに彼らを泊め送り迎えもしてくれた。帰国して間もなく、訃報(ふほう)が届いた。NZで受けた温かさに報いるための彼らの奮闘が、関西大学リーグ優勝につながった。遠征の最大の成果は新しい戦術やスキルアップでなく、人のつながりだったのかもしれない。

 異邦人を和やかに受け入れてくれるNZという国と人々が、坂田は本当に好きだ。遠征ばかりではない。結婚式(77年4月30日)もクライストチャーチの教会だった。息子の博史(29)の留学先も、当然NZであった。

 ところで、電通でW杯の日本招致に身を粉にして働いていた博史は、今は東京五輪招致活動に従事しているそうだ。日本とNZをつないだ父親の跡を受け継ぎ、その子は日本と世界の架け橋になろうとしている。(おわり=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 4, 2008 12:00 AM

2008年04月03日

日本は「接近、突破、連続」

【世界で認められたただ1人の日本人ラガーマン 坂田好弘(4)】

 坂田好弘(64=大体大監督)が4トライを奪ってオールブラックス・ジュニアを破った時(68年)の、日本の監督は大西鉄之祐だった。元早大監督。正気を超えたモノすら呼び起こすカリスマ性の半面、理論家でもあり日本人選手の特徴を考えて、さまざまな戦法を編み出している。

 背が低くてもラインアウトでボールが獲得できるショートラインアウト。体重差があってもスクラムでマイボールが確保できるダイレクト・フッキング。そしてインサイド・センターからアウトサイド・センターにボールが回る瞬間、フルバックがライン参加してそのパスを受ける「カンペイ」…。体格差を乗り越えるための戦法として、さまざまな作戦を習熟させた。

 坂田「小さな者が大きな相手と戦うには何が必要か。カンペイなんかで、あっという間に球を動かせた。そういえばラインアウトのスロワーは石田(元成)という小さな(163センチ)選手で、彼は毎日、壁に向かって投げて、真っすぐに投げたら真っすぐに返ってくることを見つけ、狙った所へ寸分の狂いもなく投げ込めるようになった」。

 石田は法大を出てからはラグビー部のない企業に就職。孤独の練習を続けた。壁に向かってスローイングの練習を繰り返した伝説の日本代表フランカーだ。こんな職人かたぎの名人が、日本代表にはズラリと揃っていたのだ。

 ところでこの大西の戦法を「展開、接近、連続」と呼んだ。パスをつないで展開し、相手とコンタクト後にボールを確保して再び…。日本のお家芸の端的な表現で長い間、お題目のようにこの言葉は唱えられてきた。だが、坂田はこれにいささかの違和感を覚えていた。「突破が抜けているのではないか…」。

 坂田「実は大西さんの『展開、接近、連続』の中にも突破の要素はあったんですよ。だけど私は『接近、突破、連続』ではないか、と思っている。スピードの変化によって、どんな相手でも交わせる。1人で交わせなければ、おとりを使って2人で突破すればいい。大型化は必要でも、大切なのは日本人選手の特質を生かした戦い方。日本のラグビーを貫いて、たとえ負けても評価されるように。外国のチームが持っていない、日本人しか出来ない技術を見せるのがラグビーではないか、と思っている」。

 世界の坂田になり得たのは、足の速さだけではない。パスをもらった瞬間、止まって即座に動き出す「イン・アンド・アウト」の技術によって突破の夢がかなえられたのだ。学生時代、京都の街中でしばしばひそかな実験をしたという。「歩いていて向こうから人が近付いてくる。僕が急に止まると、歩いてきた人も止まってしまう。そういう習性が人間にはあるんです」。

 W杯のひのき舞台で、日本はどんな戦い方をするのだろうか。目標は1勝? しかし勝ち星の数よりも大切なモノが、実はラグビーの試合には隠されているのだ。日本にしか出来ない芸当「接近、突破、連続」で、世界のラグビーファンに喝采(かっさい)を浴びる日はやって来るのだろうか。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 3, 2008 12:00 AM

2008年04月02日

誰にも真似できない技

【世界で認められたただ1人の日本人ラガーマン 坂田好弘(3)】

 勤務先の近鉄不動産から休みをもらい、ニュージーランド(NZ)へ渡ったのは1969年3月29日のことだった。坂田好弘(64=大体大監督)27歳の春。クライストチャーチのカンタベリー大クラブへ入り、本場のラグビーを全身で感じることとなった。チームはレベル別で約20チームあり、週末には全チームが試合をする。

 今も交流が続くキャンベル家にホームステイし、火・木曜が練習、土曜が試合。いきなりAチームに入った坂田は4月5日には初試合で5トライを挙げた。活躍は続く。カンタベリー州代表を選ぶ選考試合でも、途中出場して3トライ。渡航後1カ月もたっていない4月25日には、早くも州代表としてウエスト・コースト州代表との試合を経験している。カンタベリー州代表はオールブラックス5人を含む強豪だった。

 いったい坂田というウイングはどんな特質があったのだろうか? 走れば誰も追いつけない速さがあったのか、どんな相手でも吹っ飛ばせる馬力があったのか…。多分、速さも馬力もあっただろうが、それらに頼りきってトライを量産したわけではなかった。

 坂田「私はボールを受けた瞬間、止まれたのです。体の大きい外国人選手は重心が高いから、それができない。カーワン(現日本代表監督、現役時代はオールブラックスの190センチを超える超大型ウイングだった)もできなかったでしょう。背の低い私は、それができた。止まってかわして抜く。イン・アンド・アウトという技術です」。

 理想とするトライは、相手に指1本触れさせないでインゴールへ持ち込むこと。「もし真剣勝負だったら、相手に触れられるということは切られること。だから一切触れられずにトライすることが理想なのです」という。実は66年、オールブラックス・ジュニアに勝った試合で、坂田は生涯最高のトライを決めている。前半35分、パスを受けた坂田は一瞬右をつくと見せて、左にステップを切った。タックラーは翻弄(ほんろう)され、坂田の体に指1本触れることが出来なかった。

 いったいなぜ、こんな技術が体得出来たのか。中学の時、彼は柔道選手だった。2年の時には京都府大会の決勝に進出。背丈で25センチ高く、体重で40キロ重い相手に押さえ込みで敗れて準優勝に終わったが、初段の腕前である。

 坂田「柔道をしていたことが役立った。足首、膝、腰の強さですね。走っていてパスを受ける。足をぺタッとついて、ひざに余裕を持たせながら止まれる。柔道のおかげだと思います」。
 昨年は大体大を率いてNZ遠征を行い、関西大学リーグ優勝につなげたのをはじめ、坂田はしばしばNZを訪れている。いつだったか、カンタベリーのサポーターズクラブで年配のファンにこう言われたことがある。「いまのカンタベリー州代表のウイングはサモア出身の選手なんだが、デミ(坂田)とよく似た技が使えるんだよ」。

 伝説のイン・アンド・アウトは、今もラグビーの本場で語り継がれているのだ。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 2, 2008 12:00 AM

2008年04月01日

NZ代表退けレギュラー

【世界で認められたただ1人の日本人ラガーマン 坂田好弘(2)】

 坂田好弘(64=大体大監督)が大切にしまっている1枚の写真がある。屈強な男たち20人(背広姿の2人は監督とセレクター)が黒装束に身を包み、腕組みして映っている。後列の右端に坂田、左端にマイク・オカラハン。よく見ると、左胸にエンブレムを付けている者が15人いて、他の5人には、それがない。坂田の胸にはエンブレム、オカラハンは空白…。

 坂田「これはニュージーランド(NZ)学生選抜に選ばれた時の写真です。エンブレムはレギュラー15人が付けている。オカラハンはこの時点で実はオールブラックス(NZ代表)でした」。
 さり気なく、すごいことをつぶやく。ラグビー王国を代表するトライゲッターを、坂田は学生選抜というチーム内競争では退けたのだ。たった半年のラグビー留学で、たどり着き得る最高峰までよじ登った証明が、この1枚の写真だろうか。

 「左ウイング(WTB)に変われ」。サクセスストーリーは、同大監督だった岡仁詩のそのひと言から始まった。京都・洛北高で頭角を現した坂田は、スポーツ推薦で同大経済学部に進学する。
 59年に監督に就任していた岡は、61年4月に入学してきた坂田を見るなり、高校時代の右ウイングから左ウイングへ転向させた。岡の発想はこうだ。右利きの多い日本人選手は左方向へのパスが多くなる。となるとパスがよく回る左ウイングに最も決定力のある選手を据え、右ウイングは相手の切り札を止めるディフェンス力のある選手を起用するのが効率的ではないか。

 実際、坂田の決定力はズバ抜けていた。61年度の第2回NHK杯(日本選手権の前身)では社会人王者の近鉄を17-6で破った。2年になった62年度には早くも日本代表。63年度は第1回日本選手権で八幡製鉄、近鉄を連破して優勝。そして大学4年の64年12月、彼は初めてNZと触れ合うことになる。

 坂田「カンタベリー大クラブが来日して全同志社大と戦った(12月20日=花園)。(ディック)ホクリー(78)さんが主将だったチームです。試合の3日前に父(貞三=享年67歳)が亡くなった。葬式を済ませてすぐに試合に出たが、2トライしか奪えなかった」。

 この時点で、坂田はラグビーの本場からやって来たチーム相手に2トライをもぎ取っても、なお、満足感を味わえないウイングになっていたのだ。ともあれ、ここから彼がNZで戦う69年までが、坂田はもとより、日本ラグビーが最も世界と密接にしのぎを削った歳月だったかもしれない。

 近鉄で日本選手権を連覇した後の68年5月、今度は日本代表としてNZへ遠征。第8戦は6月3日、ウェリントンで行われたオールブラックス・ジュニア戦だ。ラグビー王国の23歳以下の代表。後にオールブラックス入りした選手11人を数えるチームを、日本は23-19で下した。この歴史的な金星が、坂田の人生を変える直接的な動機となった。

 4トライをあげた彼は、この試合で「理想のトライ」を奪い、そしてそのトライによって全身にみなぎった自信が、NZへ彼を誘(いざな)ったのだ。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

April 1, 2008 12:00 AM