2008年03月18日
科学が救った引退危機
【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(2)】
のちに40歳まで第一人者で輝きを放った重信だが、22歳の1968年(昭43)に早くも最初の引退危機を迎えていた。
すべては順調のはずだった。東京五輪が行われた64年、インターハイ2連覇の実績を引っ提げて日大へ入学した。当時の日大はOBで日本記録保持者だった菅原武男ら、日本屈指の選手が練習するハンマー投げのメッカ。偉大な先輩を手本に、重信は順調に成長。大学3年の66年春には64メートルまで記録を伸ばし、世界のトップ50に仲間入り。「世界というものが近づいてきた」。68年のメキシコ五輪出場も現実味を帯びてきていた。
しかし、皮肉にも世界が見えてきたこのころが、人生最大のスランプの始まりだった。右肩上がりだった記録はピタリと止まり、60メートル前後が精いっぱい。停滞は2年以上も続いた。
手をこまねいていたわけではない。68年1月には雪で真っ白の河原で、1日300本の投げ込みを敢行した。投げては拾い、また投げるの繰り返し。しもやけの手が擦り切れるほどの「荒行」で復活の糸口を探った。
だが、必死の努力も実らない。同4月に大昭和製紙へ入社後も、状態は変わらなかった。五輪代表選考会も落選。社会人選手となり、結果が出なければ競技に没頭できる環境も奪われる。どんな時も冷静沈着な「鉄人」も正気ではいられなかった。約3カ月間、パチンコやビリヤードに明け暮れ、酒も痛飲した。
重信「どん底の状態で『もうダメか』と考えた。飲みに行っても気休めは一時的なものだった」。
悩み抜いた末にたどり着いたのが、当時のスポーツ界では“未知”の「科学トレーニング」だった。60年代のスポーツ界はいわゆる精神論が全盛で、重信も周囲から「小便に血が混じるくらい練習しろ」とゲキを飛ばされていた。それでも引退の危機に直面して、わらにもすがりたい一心だった。
「これでダメならやめる」。68年9月、日大の釜本文男監督に頼み込んで8ミリカメラを借り、自分のフォームを初めて撮影した。1週間後にフィルムが完成すると、自宅のふすまに映し出した自分の姿を穴のあくほど見詰めた。今では当たり前のビデオ解析だが当時は先駆者もおらず、すべて独学。菅原らのフォームと比べ、人体についての専門書も読み、試行錯誤を繰り返した。
「道が開けた感じだった」。冬場の4カ月間は投てき練習を封印。培った感覚をいったん白紙に戻し、ゼロから再出発した。そして翌69年の春、実に3年ぶりとなる自己新記録65メートル50をマーク。71年にはついに、アジア人初の70メートル突破となる71メートル14の日本新記録を打ち立てた。
重信「本当の意味でハンマー投げを始めたのはこのころからだと思う。研究と技術により効率良くエネルギーを使うことで、体にも無理をさせない。だから私は大きな故障もせず、競技を続けることができた」。
22歳で終わろうとしていた「鉄人」の選手生命を40歳まで伸ばしたのは、科学との出会いだった。(つづく=敬称略)【太田尚樹】
◆日本におけるハンマー投げ 最初に世界と互角の戦いを見せたのは菅原武男。地元開催の64年東京五輪で13位に入ると、68年のメキシコ五輪では4位に入った。60年代の重信は、菅原のほかに67年ユニバーシアード東京大会を制した石田義久らとしのぎを削った。重信の引退後は記録の停滞が続いたが、98年に息子の広治が14年ぶりに日本新記録を樹立、世界へとはばたいていった。
March 18, 2008 12:00 AM
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