大河連載「伝説」

2008年03月31日

空飛ぶウイング「DEMI」

【世界で認められたただ1人の日本人ラガーマン 坂田好弘(1)】

 ラグビーの本場ニュージーランド(NZ)でトライ王に輝いた日本人がいたことを、覚えているだろうか? 坂田好弘(64=大体大監督)は1969年、単身NZへ渡った。トライを重ね、瞬く間にカンタベリー州代表、NZ学生選抜などに選出された。この年のリーグ戦であげた18トライは、NZにおいて40年ぶりの記録でもあった。もし、彼があと1年NZにとどまっていれば、オールブラックスの一員に名を連ねていただろう。いま坂田は「夢はかなえられる1歩手前に残しておいた方が、よかったのかもしれない」と黄金の日々を振り返る。

 1枚の封書が海の向こうから舞い込んだのは、梅雨が明けて間もないころであった。「DEAR DEMI」で始まる文面は、W杯フランス大会開会式への、FFR(フランスラグビー協会)からの招待状だった。往年の「世界の名選手」が集まる式典にする旨が記されていた。

 日本、いやアジアからはただ1人、やっぱり坂田好弘なのだ。03年のW杯ではオーストラリア-イングランドの決勝の直前セレモニーで、世界の名選手16人のうちの1人として紹介されている。彼は今もって、最もインプレッションの強い日本人選手なのだ。だが、それにしてもなぜ「DEAR DEMI」なのか?

 坂田「ニュージーランドに行った時、大きな目をしているからデメといわれます、と自己紹介したら、それからずっとデミと呼ばれ続けたのです」。

 京都・下鴨中1年の時に100メートルを11秒2で駆け抜けた少年は、洛北高に進んでラグビーと出会う。1年からトライゲッターとして活躍し、黄金時代(坂田の入学後、洛北は4年連続全国大会出場)を築き上げた。1年のころ、2学年上の主将に「デメ!」と呼ばれた。当時は肉体的な特徴を愛称にする風潮が、日本中のどこにでもあった。「デメ」はどこのクラスにも必ず1人はいたものだ。

 「デメ」は発音しにくいから「デミ」になったのだろう。それだけでなく「DEMI」は英語では「小」「半」といった意味の単語だ。168センチの坂田にはふさわしかった。もっとも今から振り返れば「DEMIURGOS」を省略した「デミ」だったかもしれないと思う。「プラトンのティマイオス篇では原型としてのイデアにのっとって素材から世界を形成する神をこの名で呼ぶ」と広辞苑にはある。NZで鬼神のごとく活躍し、世界最高峰に最も近づいた日本のラグビー選手となり得ることを、このニックネームは暗示していたのだろうか。

 初めてNZへ足を踏み入れたのは、66年のことだった。近鉄で日本一に輝いた坂田は、全同志社大の一員として遠征に加わった。まさか3年後に、この南半球の島国で「空飛ぶウイング」として名をはせることなど予想もしない遠征であった。

 坂田「64年にカンタベリー大が日本に来て試合をした。その時のアフター・ゲーム・ファンクションで、なんて心優しい人たちなんだろう、NZにはこんな人たちがいるのか、と思った。そして66年。ボールを回すか蹴るか、の時代に岡(仁詩)さんのダブルシザースなどの創造的なラグビーが高く評価された。ボクたちはホームステイしたが、受け入れ家族の歓待ぶりは今も忘れられない。ベッドを空けてくれ、送り迎えをしてくれて。団長の金野(滋)さんに、失礼がないよう出されたモノは全部食べろ、と言われて鳥の骨まで平らげてしまったヤツもいた」。

 あれから40年の歳月が流れ、坂田はW杯が開幕するフランスへ渡った。彼の快走の輝かしい代償だ。世界は「空飛ぶウイング」をいまも鮮明に覚えていてくれた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

March 31, 2008 12:00 AM

2008年03月28日

そして弱者は美酒に酔った

【プレーオフ元年 南海-阪急の1973年(5)】

 「ノムやんと反目? 若い頃から杉やん(杉浦忠=故人)と3人で毎晩飲み歩いた仲やで。南海の3悪人と呼ばれたもんや。反目なんてことはない」。広瀬叔功氏(71)は一笑に付す。俊足、好打。南海黄金時代の担い手は、今ならイチロー級の選手だったろう。野村監督は昔、よくこう口にした。「オレは野球の天才を2人しか知らない。長嶋(茂雄)と広瀬や。何も考えないでも、あの2人は打ちよった。オレには真似できない」。いささか屈折した賛辞だった。

 プレーオフ第5戦。阪急・山田の前に8回まで「0」が並んだ。だが9回表、代打の問題児スミスが先制本塁打。続いて取って置きの代打、広瀬が起用され追い討ちの本塁打を放ったのだ。その裏、2死から阪急・当銀秀崇に代打本塁打されて1点差に迫られたわけだから、広瀬氏の一発は値千金だった。「西宮やったな。ただよく覚えていない。何を打ったのか。来た球を打ったらホームランになっていた」。なるほど天才選手らしい言葉だ。

 9回裏、最後の守りに散った南海のベンチ裏で試合後の取材に備えた。切り札の佐藤道郎が2死後、当銀に本塁打を浴びると、ホームの後ろから、血相を変えた野村監督が大きな声を三塁側ベンチへ投げかけた。「エモ(江本)、エモや」。その時、江本孟紀は胴上げに備えてスパイクを脱いで運動靴に履き替えていた。「エッ、オレ?」。若手選手がロッカーへ走ってスパイクを取ってくる。江本は靴を履き替えベンチ前で3球投げただけでマウンドへ向かった。

 打席には代打本塁打の世界記録を持つ高井保弘が一発を狙って待ち構えている。江本は力一杯の速球勝負。バットが空を切り、ついに南海が、阪急を倒した。

 「シーズン中と配球をガラリと変えるなど、野村氏の考える野球が実を結んだ。南海で学んだこと? 一杯あるよ」とコーチだった古葉竹識氏(71)。翌年、古巣・広島へ戻り、やがて監督として赤ヘル・ブームをもたらした裏には、南海野球の下地が隠されていた。「ブレイザーの首から上でやる緻密な野球…。いろんなことを思い返して生かした。高橋(慶彦)や山崎(隆造)をスイッチヒッターにしたのも、その影響だったね」。

 この時代の南海選手は長い間、球界の指導者であり続けた。1番島野育夫(故人)は元阪神特命コーチで、控え捕手の黒田正宏は同じ阪神の編成部長。ショート佐野嘉幸は63歳になった今も千葉ロッテの二軍打撃コーチ、佐藤道郎は06年まで中日2軍監督を務めた。松原明夫は10年後の83年、張明夫の本名で海峡を渡り韓国プロ野球で30勝、2番手捕手だった柴田猛は06年まで台湾プロ野球・中信で考える野球を教えていた。考えて工夫して、そして力があれば反逆児であろうとも活用する。

 73年、南海が示した弱者でも勝てる野球は世界へ広まり、そして日本野球がパワー全盛の大リーグに対抗するためのヒントさえ秘めているのだろう。

 「思い返せば、あの頃が1番楽しかった…」。野村克也氏は今も弱小? 楽天で監督を務めている。(この章終わり=敬省略)【井関真編集委員】

March 28, 2008 12:00 AM

2008年03月27日

5戦目9回…山田が泣いた2発

【プレーオフ元年 南海-阪急の1973年(4)】

 西本幸雄監督率いる阪急のチームワークに微妙なヒビが入っていたのに引き換え、南海が野村克也兼任監督を中心に一丸になっていた…というわけでもなかった。

 「ヒットの延長がホームランなんや。ホームランばかり狙って振り回すな」。と野村監督に諭された門田博光は平然とこううそぶく。「それはウソや。ホームランの打ち損ないがヒットやと、監督も思ったはるでしょう」。あまりの頑固さに音を上げた野村監督は、時のホームラン王・王貞治氏に「門田に話してやってくれ」と依頼する。王氏は野村監督同様のことをいうのだが、門田氏は「監督が王さんに頼んで、ヒットの延長がホームランや、と言わせたんやろ」とついに自説を曲げなかった。30数年前の頑固一徹ミスター・フルスイング…。

 エース江本孟紀は長髪だった。「スポーツマンらしく短い髪型にしろ」と野村監督にキツく言われても笑い飛ばした。後に断髪式までしたが、初めは「髪の毛で野球するわけやない」とあからさまに反発したものだった。南海に限ったことではなかろうが、プロ野球には個性的な選手がたくさんいた。今になって野村監督は「オレは門田、江本、江夏、あの3人に(監督として)育ててもらった」と笑う。本音が多分半分ほど交じっている。

 主砲やエースだけではない。代打の切り札・青野修三はグラブを持たずに球場へ来る職人気質の選手だった。試合前は記者席の電話で、悠然と副業の打ち合わせをする豪傑。ある乱戦で代打の後、守備に就くように命じられると、青野氏は平然と「エッ守るの? おい、誰かグラブ貸してくれ」と大声を出した。酒豪で知られたある選手は、試合中に居眠りをしてしまう。彼のイビキに合わせて若手選手が大声でヤジを飛ばして隠蔽工作を続けたのだが、もちろん野村監督も横目で見ていた。大敗の試合、居眠り中の彼に向かって、守りから帰ってきた野村監督のミットが飛んだこともあった。

 ところで阪急とのプレーオフ。第1戦は4-2で南海、第2戦は9-7で阪急、第3戦は6-3で南海、第4戦は12-1で阪急と交互に勝ち負けを繰り返して、第5戦にもつれ込んだ。天下の分け目の決戦は73年10月24日、西宮球場で行われた。結果は意外な形で訪れる。「山田は最後、泣きながら投げていた。それだけを妙に覚えている」。門田氏の思い出はただ1つ。阪急・山田の涙だった。

 「何も考えられなくなるほどショックだった。だが泣いてはいないよ、きっと…」。強者のエースは涙を否定したけれど、いずれにしろ心の中では泣いていた。弱者南海が最後に泣かせたのだ。0-0の9回、2本の本塁打。シーズン前半、サボタージュで謹慎を食らい不良外国人のレッテルを貼られたスミスと、鶴岡一人元監督の秘蔵っ子であり野村監督と反目していると言われたベテラン広瀬叔功。夕闇迫る西宮の秋空に、日の出の勢いのエースから奪った反骨の男たちによる2本のアーチ…。(つづく=敬称略)【井関真編集委員】

March 27, 2008 12:00 AM

2008年03月26日

無敵阪急に微妙なヒビ…

【プレーオフ元年 南海-阪急の1973年(3)】

 阪急ブレーブスは歴戦の勇者たちだった。日本シリーズではV9巨人をあと1歩まで追い詰めながら、なぜか勝てない。だがパ・リーグでは向かうところ敵なし。67年から3連覇、1年挟んで71、72年とまた連覇。63年に就任した西本幸雄監督(87)に鍛え抜かれた選手たちは自信に満ち溢れていた。

 72年、106盗塁と世界新を作った福本豊が1番で出塁すると、すかさず走る。2番に入る大熊忠義や住友平が渋い右打ちで三塁へ進める。加藤秀司がいとも簡単に犠牲フライを放って1点先取。阪急はいつも1点奪ってから試合を始めるような印象すらあった。それでいて4番長池徳士はパの主砲として光り輝いていたし、投手陣では350勝右腕・米田哲也に、下手投げながら1試合17奪三振の日本記録(当時)を持っていた足立光宏、そして山田久志がいた。

 「犠牲フライか。いつでも打てたで。福本さんが三塁ランナーやったら少々浅いフライでも大丈夫やったからな」。不動の3番打者、加藤氏は述懐する。73年は福本氏が盗塁王、加藤氏が首位打者、そして長池氏が本塁打王と打点王。打者部門のタイトルを勇者たちが独占した時代だった。

 当時、弱体・太平洋クラブの若手ショートだった真弓明信氏(54)の思い出。「本当にアッサリと点を取られたね。福本さんが走者で僕らが牽制のために二塁に入るでしょう。あとから投手の人に無駄なことさせるな、と叱られた。加藤さんなんか2ストライクまで体痛めそうなほど振り回すのに、追い込まれたら、測ったように外野フライを打ち上げる。外野手は捕球しても、福本さんがランナーだったら最初から諦めて送球もしなかった」。

 勇者たちを率いた西本監督は厳しさで鳴る人だった。猛練習、鉄拳を辞さない一徹さ。11年に及ぶ監督生活の集大成のチームだった。「73年のプレーオフ? 負ける気なんてするかいな。その後の巨人との日本シリーズに気を取られていた」。そこに油断があったとしても、責められないだろう。何せ後期12勝0敗1引き分け!

 だが、本当の所はこの無敵の軍団に水面下の不協和音が低く響いていたのだ。プレーオフ直前、西本監督は辞任を心に決めた。いや厳密には、決めさせられていた。6度目の挑戦で、巨人に勝てば勇退の花道が出来る。負ければ6回目の敗戦だけに、責任を取らなければならない。むろんプレーオフに敗れるとなれば引責辞任で、後進に道を譲ること。球団の方針を西本監督は、もっとも大切な時期に知ってしまった。「いずれにしても、辞めることになるわけや。あとで足立に言われたよ。監督が辞めるつもりなのが分かった、と。勝負にいつもの粘りがなかった、とも…」。

 無敵の西本軍団にそんな不協和音があることを、むろん南海勢は知る由もない。弱者はひたすら逆襲を狙い、勇者の軍団には幾分かの気の緩みと、これまでは決してなかったチーム内の軋みによって、僅かな亀裂が走っていた。(つづく=敬称略)【井関真編集委員】

March 26, 2008 12:00 AM

2008年03月25日

負ける度に「死んだふり」

【プレーオフ元年 南海-阪急の1973年(2)】

 開幕からトップスピードで走った。2シーズン制なら5月にいきなり天王山がやって来る。大阪球場で行われた南海-ロッテ3連戦は3日間で10万人を超える観客を集めた。

 当時の南海はエースの江本孟紀、抑えの切り札佐藤道郎がいる上、巨人からトレードで獲得した山内新一が前期だけで14勝をあげた。若手の西岡三四郎、山内と一緒に巨人から来た松原明夫(後に福士と改姓)、日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則らの投手陣。監督兼任の4番野村克也に島野育夫、桜井輝秀、門田博光の1、2、3番がチャンスをつなぐ。巨人から移籍の相羽欽厚も働いたし、佐野嘉幸、そしてジョーンズ、スミスの外国人助っ人…。さらに天才・広瀬叔功が控えていた。

 「だけど、戦力的には阪急とは大差があった。とにかく短期決戦だから前期を突っ走って勝つこと。野村氏はそこに賭けた」。73年、南海のコーチだった古葉竹識氏(71)はそういう。「ブレイザー(ヘッドコーチ)のシンキング・ベースボールを野村氏が配球面などで進化させる形にしていた。しかしそれでもなお、阪急との差は縮まらない。勝てる要素はなかった」。

 実際南海は後期、阪急に0勝で終わっている。実に12敗1引き分け。この成績を引っ提げて、5回戦制のプレーオフに臨んだのだ。「勝てる気? 正直なところ、なかった」(古葉氏)は大方の見方だったろう。だが、異なった視点を持つ選手もいた。後に不惑の本塁打王となり、野球殿堂入りも果たした門田博光氏(60)は、当時は若手の代表格だった。

 「後期の阪急戦か? 接戦をしていて、うちが何らかのミスを犯す形で試合を落としていたやろ。だから阪急の選手もわざと負けているのでは、と少し気味悪く思っていたのではないか」。確かに後期の最後の3試合は11-12、4-5、2-6のスコアではあった。

 こんな門田氏の思いを野村監督が意味深長な発言で増幅した。敗戦が重なったある日、野村監督は会見の後「死んだふり…」と自嘲する。それがスポーツ紙で報道されてから、負ける度に「死んだふり」が出てくるようになった。阪急に向けた牽制球というより、むしろ自軍選手に暗示をかける言葉だったかもしれない。本当は「死んだふりどころか、負ける度に阪急対策に大わらわだった」(古葉氏)のだが…。

 暗示をかける一方で、プレーオフ1カ月前に野村監督は投手陣に実務的な宿題を与える。「福本の足封じに投手が出来ること」。牽制のタイミングや球を持つ時間変化、そしてクイックモーション。単に投げるだけでなく、阪急の猛攻にスイッチを入れる福本豊の盗塁(この年95盗塁)を封じ込める作戦を練ったのだ。「野村さんの肩が衰えてきた時だったからね。投手の協力なくして福本の足は、もはや抑えられなかった」と古葉氏はいう。

 かくて後期の対戦成績12勝(阪急=対戦総得点85点)-0勝(南海=同44点)のプレーオフは幕を開けた。(つづく=敬称略)【井関真編集委員】

March 25, 2008 12:00 AM

2008年03月24日

酔客の難くせが始まりだった

【プレーオフ元年 南海-阪急の1973年(1)】

 07年はセ・パともにプレーオフが開催された。松坂、井川ら日本球界の大黒柱がポスティング・システムによって大リーグへ去った07年は、球界に「弱者の時代」の訪れを明確に告げる。にもかかわらず新設された「クライマックス」は、決して皮肉なネーミングではなかろう。弱者が強者を倒すこともあり得るプレーオフは、これから先、日本球界が生き延びる道を暗示しているのかもしれないのだ。今から34年前、1973年、瀕死のパ・リーグは2シーズン制を導入してプレーオフを実施した。勝ち残ったのは黄金時代の阪急ブレーブスではなく弱者・南海ホークスだった。

 毎年、赤字がかさむ。70年には黒い霧事件という未曾有の嵐が、球界を吹き抜けた。長嶋、王が引っ張る巨人に、人気は一極集中。その巨人戦で一時しのぎが出来るセ・リーグと異なり、オールスター戦でいくら「実力のパ」を見せ付けても、パ・リーグの公式戦に観客は集まらず、テレビ放映もされない。

 北風が吹き荒ぶ72年11月末、パ・リーグはオーナー会議で一発逆転を狙った前後期2シーズン制、プレーオフの実施を決める。「祭りは1度より2度3度あった方がいい」という近鉄バファローズ・佐伯勇オーナーの言葉が決め手だったといわれる。それは安直な思い付きでなかった。何年間も地中に埋もれていたアイデアが、ようやく地上に顔をのぞかせたのだ。

 南海ホークスの第6代球団代表(社長)の新山滋氏(故人)は64年から74年まで、その要職にあった。64年から3連覇を味わったが、その後は阪急ブレーブスに圧倒される。新山氏には担当記者時代よく食事を御馳走になり、思い出話を聞いた。帰り道の心斎橋では、馴染みの衣料店に入り、ネクタイを何度か買ってもらった。だらしない服装の私を、そんなプレゼントで無言のうちに諌めていたのだろうか。新山氏はそんな深謀遠慮の人であった。

 「ナンバで食事をしていると、他のテーブルのお客が南海の話題をしゃべっているだろう。そこに思いがけないヒントが隠されていた」。新山氏がそう言って笑った姿を、なぜか覚えている。就任間もなく、南海は独走したのに観客動員は伸びない。ある時、ナンバで食事をしていると客の声が聞こえた。「新山という男は何を考えているのや。これだけゲーム差を開けて、それが商売やと思っているのか」。試合に勝てば客が来る、そんな図式が通用しないことを思い知った。

 だが、客足は時とともにさらに鈍る。そんな時、黒い霧事件でダメージを負い青息吐息の西鉄ライオンズの2シーズン制案を、新山氏は思い起こした。仮の日程作成までして、72年7月のオーナー会議で南海・川勝伝オーナーが提案する。この時は阪急の反対で保留となったが、4カ月後のオーナー会議でついに実施が決まった。ナンバのレストランの酔客の「難くせ」があろうことか、プロ野球の根幹たる公式戦のシステムを激変させたのだ。

 プレーオフは強者の知恵でも、弱者のそれでもなかった。ただただ貧困から抜け出すための知恵の結晶。巨人戦が組めないパ・リーグにとって前後期2度の優勝争い、5回戦制のプレーオフは、満員の観客という宝石が詰まった玉手箱だったろうか。

 73年、玉手箱は開けられる。観客動員に関して劇的なカンフル剤だった。前年1年間で合計253万6000人だった観客が、前期だけで246万3800人に。前期は2シーズン制への青写真を描いた弱者南海が取り、後期優勝はそれに1度は真っ向から反対した強者阪急。プレーオフは因縁の深い顔合わせで始まった。(つづく=敬称略)【井関真編集委員】

March 24, 2008 12:00 AM

2008年03月21日

V5で消えた現役の未練

【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(5)】

 86年正月。40歳になっていた鉄人の「最後の挑戦」が始まった。84年8月のロサンゼルス五輪を区切りに一線を退いていたが、日本陸連の要請で再びハンマーを握った。「言われて困ったが、断れなかった」。目標は同9月のソウルアジア大会。5連覇がかかっていた。

 1年半のブランクにも関わらず、5月の日本選手権で70メートルを投げて優勝するなど船出は順調だった。ところが翌6月に悪夢が待っていた。陸連の体力測定での上体反らし。背筋に力を込めると、腰に激痛が走った。練習を2週間休んでも、洗面台で腰が曲がらず顔も洗えない。2カ月後に大会に復帰できたが、古傷の左ひざに加え、本番2週間前には右肩を痛めた。

 重信「辞退も考えた。整体もハリ治療もきかず、腰の痛みで1日投げて2日休むの繰り返し。ケガがなければ自信はあったのに…。マスコミにも「40歳で5連覇」と騒がれて苦しかった」。

 絶望的な状況を救ってくれたのは、高校入学から25年間、苦楽をともにしてきたハンマーだった。本番の10日前、腰と右肩に痛み止めの注射を打って練習していた時。「ゴキッ!」。鉄球を投げた瞬間、反動で腰の骨が大きな音を立てた。またケガか? 恐る恐る腰に手を伸ばして驚いた。「骨のズレが治ったような感じだった」。腰痛が一気に和らいだ。不惑の鉄人が、絶望の淵からよみがえった。

 69メートル26を投げ、アジア大会5連覇は成った。41歳の誕生日の2日前だった「奇跡的だった。よく投げられたと思う」。ソウルの歓喜で、今度こそ現役に未練はなくなった。

 自分がやり残した世界制覇の夢は、息子と娘に引き継がれた。成田高入学まで線が細かった長男広治を見て「ハンマー投げをやるとは思えなかった」。強制もしなかった。重信も幼い頃は力士にあこがれていたからだ。いわゆる親子鷹(だか)だが、スパルタではない。

 女子ハンマー投げ日本記録を持つ長女由佳「小さいころから父にはよく怒られた。でも、競技のことで怒られたことは1度もなかった」。

 それでも子供たちは、自分と同じ陸上を選んだ。広治は中学3年の冬に「ハンマー投げを教えてほしい」と頼んできた。3カ月間、自分の技術を教え込んだ。「いいモノを持っている」。父はすぐに分かった。

 地元日本で開催された大阪世界選手権。01年エドモントン大会2位、03年パリ大会3位で金メダルを期待された広治は、6位に敗れた。報道陣に囲まれた重信は「まだもうひと工夫が必要。現状ではよくやった」と話したが、大会前は「五輪も勝って、あとは世界選手権だけだったから。何とか(金メダルを)実現してほしい」と口にしていた。今は自分からはアドバイスしない。「言っても逆効果になることが多いから」と本人に任せ、ビデオを回しながら静かに見守っている。息子は今年、33歳。自分が引退した40歳までは、まだ7年あるが…。

 重信「心技体の調和がとれる体力のピークは、男性なら35歳の手前。広治も年齢的には次の五輪と世界選手権(09年ベルリン)まで。あとはのんびりやってくれればいい。もう十分にやってくれたから」。

 61歳になった「アジアの鉄人」は、今も鋭い眼光を一瞬だけ細めた。(この章おわり=敬称略)【太田尚樹】

 ◆重信の残した記録 84年に39歳でマークした75メートル96は、98年に息子広治に破られた今も日本歴代2位として残る。日本選手権の優勝12回は歴代最多だったが、こちらも今年6月に広治が13連覇を果たして更新された。アジア大会5連覇は男子ハンマー投げでは最多の記録としてさん然とかがやいている。

March 21, 2008 12:00 AM

2008年03月20日

「引退」で伸ばした記録

【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(4)】

 40歳で現役生活にピリオドを打つまでの間に、重信は2度「引退と復帰」を繰り返した。ともすればそのまま現役を退き、のちに「鉄人」と呼ばれることもなかったかもしれない。だが偶然か必然か、2度とも重信はフィールドに舞い戻った。

 「もう、やめよう」。76年9月、30歳の重信は“最初の”引退を決意した。80メートル近くまで伸びた世界記録に対し、自身は30歳を過ぎて70メートル前後から殻を破れない。「心にあきらめが広がっていた」。2カ月前にはモントリオール大会で2度目の五輪出場。アジア人で初めての4回転投げを習得して臨んだが、結果は70メートルにも届かず11位。記録も順位も初出場のミュンヘン五輪を下回った。

 74年10月には長男広治が誕生。競技以外の喜びも手にした。77年春からは大昭和製紙を退社して日大で講師を務めることも決まっており、すべてが潮時だと思えた。練習をやめ、ハンマーから完全に離れた。

 「普通の生活」にも慣れ“引退”から1年が過ぎようとしていた77年8月だった。1本の電話が地元静岡からかかってきた。「国体に出てくれないか」。1カ月後に静岡国体が迫っていた。1度は断った。だが「地元の国体の目玉に」と頭を下げられて首を振れず、最後のつもりでハンマーを握った。

 ほぼ1年ぶりに投げた鉄球は、60メートルにすら届かなかった。だが、出る以上は負けるわけにはいかない。拾っては投げ、昔の感覚を取り戻した。結果は63メートルを投げて優勝。「ついで」で出た約10日後の日本選手権も64メートルで制覇した。

 重信「『自分もまだ伸びるのでは』と思えてきた。順位よりも技術や美しさ、そして自分の記録を伸ばすことを追求しようと考え始めた」。

 他者との戦いから、自分との闘いへ。新たなモチベーションがわいてきた。翌78年には再び70メートルをマーク。80年にはモスクワ五輪の代表選考会で、自身の持つ71メートル14の日本記録タイを出して優勝した。ボイコットで3度目の五輪は幻になったが「出てもダメだと思っていたから、落胆はなかった」。むしろ自分の記録を伸ばすことに没頭していた。

 そして81年6月、ついに壁を破った。71メートル36、10年ぶりに自己記録、すなわち日本記録を更新した。「まだいける」。秋の国体で71メートル72まで記録を伸ばすと、報道陣に「来年は75メートルを投げる」と宣言。翌年5月に有言実行で75メートル20を記録して見せた。すでに36歳。髪には白いものが目立っていた。

 鉄人の肉体にも限界が迫っていた。83年には体のバランスを保つ三半規管にウイルスが入り、投げては倒れるの繰り返し。84年ロサンゼルス五輪では旗手の大役を任されたが左ひざの軟骨が欠け、痛み止めの注射を打って強行出場。だが、結果は予選落ち。3度目の五輪で、初めての屈辱を味わった。

 「これが最後の五輪」と決めていた。今度こそ、引退するつもりだった。しかし再び、時計の針は動き出すのだった。(つづく=敬称略)【太田尚樹】

 ◆ハンマー投げの選手寿命 一般的に投てき種目は短距離種目などに比べて選手寿命は長い。2007年9月2日まで行われた大阪世界選手権でもエントリー選手の平均年齢(開幕時)は男子100メートルの23・0歳(優勝のゲイは25歳)に対し、同ハンマー投げは28・3歳(優勝のチホンは31歳)。それでも最高齢選手が34歳だったように、30代半ばで一線を退く選手がほとんどだ。

March 20, 2008 12:00 AM

2008年03月19日

ケガ、テロ克服 世界8位

【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(3)】

 「室伏さんっ、危ない!」。72年2月、母校の日大で練習をしていた重信の耳に叫び声が飛び込んできた。次の瞬間、右のでん部に強烈な衝撃を受け、体重90キロの体は4~5メートル吹っ飛ばされた。直撃したのは後輩の投げた重さ7キロを超えるハンマーだった。自力で立ち上がることすらできず、救急車で病院へ運ばれた。

 「五輪は、無理だ…」。骨折は免れたが右の尻は内出血で2倍ほどに腫れあがり、入院は3週間に及んだ。前年に71メートル14の日本記録を出し、絶好調だった矢先の不運。ミュンヘン五輪の最終選考会まで、あと3カ月しかなかった。

 研ぎ澄まされた感覚にかろうじて救われた。ハンマーが迫る直前、とっさに両手を上げて頭部を、身をかがめて腹部をガードしていた。「(直撃が)他の部分なら危なかった。もし頭だったら命がなかった」。急所を守り、負傷を最小限にとどめた。

 回復も思いのほか早かった。退院10日後にランニングを再開。負傷から1カ月半後には、投てき練習を始められた。5月の代表選考会では痛みをこらえて「軽く投げる程度」で65メートルをマーク。鍛えた肉体と磨いた技術という“貯金”を生かし、ついに初めての五輪切符をつかんだ。

 待ちに待った大舞台。練習で69メートルを投げるまでに復調した重信は「ベスト8」に目標を設定した。当時の世界記録は76メートル台に達し、自己ベストは世界20位前後。簡単な目標ではなかった。

 順調に予選を突破して決勝を翌日に控えた9月5日夜に、大事件が起こった。選手村にゲリラが侵入、イスラエル選手ら11人が射殺された。重信も夜中に銃声を聞き、翌朝には現場も目の当たりにした。「信じられなかった」。全競技が中止されて追悼集会が行われ、競技は1日延期された。

 異様な雰囲気で迎えた決勝。テロによる動揺や恐怖を胸に封じ込め、競技に集中した。2投目に「思い通りだった」という会心の投てきで、負傷後最高の70メートル88をマーク。8番手につけた。

 決勝では3投目までの上位8人が、メダルを争う4~6投目に進む。3投目は痛恨の失敗。15人前後の試技を残して順位は8番手ギリギリ、しかも75メートル台の記録を持つ実力者がズラリと控えていた。「ベスト8は無理だ」。心の中では既に、初めての五輪は終わっていた。

 フィールドに寝そべり、残りの選手の投てきをのんびり眺めた。だが、テロの動揺なのか、大舞台の緊張なのか、新たに重信を超える選手は現れない。とうとう最後の選手だ。「やめてくれ」。身を乗り出し、思わず失敗を祈った。ハンマーは70メートル88の手前で砂ぼこりを上げ、ベスト8進出が決まった。

 両手を握り締めて喜んだ後、大きな失敗に気づいた。1度あきらめてから30分近く。体は冷え切っていた。当然のようにそこからの3投で飛距離は伸びず、結局2投目の記録で8位に終わった。

 優勝したボンダルチュク(ソ連=当時)は75メートル50。メダル圏内までは4メートル以上も差があり「悔いは残ったけど、満足も大きかった」。負傷、復調、テロ…激動の半年間を乗り越え、つかんだ世界8位。まさに「鉄人」の真骨頂だった。(つづく=敬称略)【太田尚樹】

 ◆重信と五輪 陸上に興味を持ったのは14歳だった60年ローマ大会がきっかけ。68年メキシコ大会はスランプで選考会に落選。72年ミュンヘン大会が初出場で自己最高となる8位に入った。76年モントリオール大会は11位、80年モスクワ大会は代表に選ばれるも日本がボイコットして出場せず。最後の五輪となった84年ロサンゼルス大会では14位だったが、日本選手団の旗手を務めた。

March 19, 2008 12:00 AM

2008年03月18日

科学が救った引退危機

【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(2)】

 のちに40歳まで第一人者で輝きを放った重信だが、22歳の1968年(昭43)に早くも最初の引退危機を迎えていた。

 すべては順調のはずだった。東京五輪が行われた64年、インターハイ2連覇の実績を引っ提げて日大へ入学した。当時の日大はOBで日本記録保持者だった菅原武男ら、日本屈指の選手が練習するハンマー投げのメッカ。偉大な先輩を手本に、重信は順調に成長。大学3年の66年春には64メートルまで記録を伸ばし、世界のトップ50に仲間入り。「世界というものが近づいてきた」。68年のメキシコ五輪出場も現実味を帯びてきていた。

 しかし、皮肉にも世界が見えてきたこのころが、人生最大のスランプの始まりだった。右肩上がりだった記録はピタリと止まり、60メートル前後が精いっぱい。停滞は2年以上も続いた。

 手をこまねいていたわけではない。68年1月には雪で真っ白の河原で、1日300本の投げ込みを敢行した。投げては拾い、また投げるの繰り返し。しもやけの手が擦り切れるほどの「荒行」で復活の糸口を探った。

 だが、必死の努力も実らない。同4月に大昭和製紙へ入社後も、状態は変わらなかった。五輪代表選考会も落選。社会人選手となり、結果が出なければ競技に没頭できる環境も奪われる。どんな時も冷静沈着な「鉄人」も正気ではいられなかった。約3カ月間、パチンコやビリヤードに明け暮れ、酒も痛飲した。

 重信「どん底の状態で『もうダメか』と考えた。飲みに行っても気休めは一時的なものだった」。

 悩み抜いた末にたどり着いたのが、当時のスポーツ界では“未知”の「科学トレーニング」だった。60年代のスポーツ界はいわゆる精神論が全盛で、重信も周囲から「小便に血が混じるくらい練習しろ」とゲキを飛ばされていた。それでも引退の危機に直面して、わらにもすがりたい一心だった。

 「これでダメならやめる」。68年9月、日大の釜本文男監督に頼み込んで8ミリカメラを借り、自分のフォームを初めて撮影した。1週間後にフィルムが完成すると、自宅のふすまに映し出した自分の姿を穴のあくほど見詰めた。今では当たり前のビデオ解析だが当時は先駆者もおらず、すべて独学。菅原らのフォームと比べ、人体についての専門書も読み、試行錯誤を繰り返した。

 「道が開けた感じだった」。冬場の4カ月間は投てき練習を封印。培った感覚をいったん白紙に戻し、ゼロから再出発した。そして翌69年の春、実に3年ぶりとなる自己新記録65メートル50をマーク。71年にはついに、アジア人初の70メートル突破となる71メートル14の日本新記録を打ち立てた。

 重信「本当の意味でハンマー投げを始めたのはこのころからだと思う。研究と技術により効率良くエネルギーを使うことで、体にも無理をさせない。だから私は大きな故障もせず、競技を続けることができた」。

 22歳で終わろうとしていた「鉄人」の選手生命を40歳まで伸ばしたのは、科学との出会いだった。(つづく=敬称略)【太田尚樹】

 ◆日本におけるハンマー投げ 最初に世界と互角の戦いを見せたのは菅原武男。地元開催の64年東京五輪で13位に入ると、68年のメキシコ五輪では4位に入った。60年代の重信は、菅原のほかに67年ユニバーシアード東京大会を制した石田義久らとしのぎを削った。重信の引退後は記録の停滞が続いたが、98年に息子の広治が14年ぶりに日本新記録を樹立、世界へとはばたいていった。

March 18, 2008 12:00 AM

2008年03月17日

角界入り心に決めていた

【ハンマー投げ~アジアの鉄人 室伏重信(1)】

 来月には62歳を迎える「アジアの鉄人」室伏重信は、観客席で報道陣に囲まれていた。2日まで行われていた陸上の大阪世界選手権。8月27日の男子ハンマー投げ決勝で6位に終わった息子をねぎらっていた。「広治は、現状ではよくやったと思う」。

 日本選手権12勝、70~86年の間にはアジア大会を5連覇。39歳で75メートル96の日本記録(当時)を打ち立てた。長男広治はアテネ五輪金メダリスト。長女由佳も日本記録を保持し、同五輪に出場している。日本にハンマー投げという競技を知らしめたパイオニアで、指導者としても第一人者。だが実は、角界で「鉄人」になっていたかもしれなかった。

 1960年(昭35)の秋、中学3年だった重信少年は、大相撲の名門・時津風部屋の門をたたこうとしていた。身長178センチで体重78キロ。筋骨隆々たる体で、新弟子検査の合格は間違いなし。元横綱双葉山として現役時代に史上最多の69連勝を記録し、当時理事長を務めていた時津風親方からも直々に入門を勧められ「すっかりその気でいた」という。

 終戦から間もない45年10月2日に生を受けた重信のあこがれは、陸上のフィールドではなく土俵だった。小学1年の時に映画「三太と千代の山」を見て相撲の虜になった。小遣いは力士のブロマイド集めにつぎ込み、10歳のころには角界入りを決意。中学生になると地元沼津で漁師たちに交じって草相撲に熱中した。柔道有段者の父と陸上の短距離選手だった母から受け継いだ体格。相手を骨折させたこともあった。

 陸上にも興味と才能はあった。普及したばかりのテレビで60年のローマ五輪を目にして、砲丸投げと3段跳びを「かっこいい」と思った。近所の空き地で石を投げるまね事から始め、陸上部の顧問に頼み込んで本物の砲丸を投げ始めた。20日間前後の練習で臨んだ市大会で、砲丸投げ2位、3段跳びは優勝。地域大会も勝ち抜き、県大会まで出場した。高校の陸上部からも複数の勧誘が来た。

 それでも心は角界入りと決めていた。父も賛成してくれた。しかし「土壇場」の中学3年の冬に考えを変えた。人生の歯車が大きく動いた。

 重信「母親が最後まで賛成してくれなかった。『相撲は高校を出てからでも遅くない。高校だけは出なさい』と説得されて、渋々進学を決めた。高校3年間は力士になるための体力作りと考えていた」。

 相撲のために入った、日大三島高の陸上部。円盤投げとともにハンマー投げを始めたが、初めは練習を休むことも少なくなかった。だが、高校1年の夏に地元静岡で生観戦したインターハイが刺激になった。「あれぐらい、自分にもできる」。冬には早くも3回転投げをマスター、インターハイ優勝記録を上回る56メートル台をマークするまでになった。相撲で鍛えられた肉体を土台に、投げれば投げるだけ記録は伸びた。「このころから、相撲のことは眼中からなくなっていった」。

 高校2年となった翌62年からインターハイ2連覇。63年には史上初めて、ハンマー投げ、円盤投げ、砲丸投げの3種目制覇を成し遂げた。「アジアの鉄人」が日本の陸上史に刻んだ第1歩だった。(つづく=敬称略)【太田尚樹】

 ◆ハンマー投げ 重さ7・26キロ(女子は4キロ)、ワイヤーの長さ1・175~1・215メートルのハンマーをスイングして投げる。現在は4回転投げが主流で、ハンマーは時速100キロ以上で飛び出していく。世界記録は86年にセディフ(旧ソ連)が記録した86メートル74、日本記録は03年に室伏広治がマークした84メートル86。五輪では1900年パリ大会から採用。

March 17, 2008 12:00 AM

2008年03月14日

今も日本サッカーの父

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(10)】

 1968年メキシコ五輪銅メダルの快挙で、日本サッカー界は活気に満ちた。釜本邦茂、杉山隆一の2大スターを見るために、日本リーグの観客動員は大幅に増えた。同五輪後の11月17日、杉山の三菱重工と釜本のヤンマーの一戦には、東京・国立競技場に4万人が詰め掛けた。日本リーグ史上3位タイの大観衆は、当時のスポーツ界では記録的な動員で、テレビもNHK教育など3局が中継した。

 現在のJリーグの前身になった日本リーグは、東京五輪特別コーチとして来日したデットマール・クラマーの提言で発足した。代表チームを強化するには、欧州のようなトップリーグを創設して、選手のレベルを上げる必要性を訴えた。

 クラマー「東京五輪の後にリーグをつくるべきだと言った。そうでないと、これ以上の成長は望めない。なんとしてもリーグを作らなければならなかった。ヤンマーや古河といった参加企業と交渉し、選手は夕方から練習に参加できるようにさせた」。

 代表監督の長沼健、コーチの岡野俊一郎らも発足準備にほん走した。当時はまだアマチュアが全国リーグをするなど、社会常識では受け入れられなかった。それでも8企業が賛同し、65年に開幕。ただ、観客席のある競技場も少なく、高校のグラウンドにロープを張って運営したこともあった。

 クラマーは他にも、芝のグラウンドを増やすこと、日本代表は毎年欧州に強化遠征に出ることも進言した。そして、もう1つ、将来への種まきが指導者の育成だった。

 69年7月、国際サッカー連盟主催のコーチングスクールを開催。クラマーが講師を務め、3カ月間みっちり毎日4時間の講義を実施した。後の日本代表監督になる加茂周ら、アジア12カ国42人が参加。その後も日本各地で講習会を開き、すそ野を広げていった。

 クラマー「指導者にとって最も大事なのは、自分の哲学を納得させること。暴力や権威を振りかざすのではない。自分のサッカー観の正しさを証明してみせなければならない」。

 練習のときは、効果的な話し方を見につけておく必要がある。言語とは道具にすぎない。大事なのは何をしゃべるかではなく、どうしゃべるのかだ。

 東京五輪前、日本サッカーの危機を救い、未来へ発展する土台をつくった。そこに妥協や打算はなかった。情熱のドイツ人は、今もなお、日本サッカーへ優しく、厳しいまなざしを向けている。

 日本が1次リーグで敗退した06年W杯ドイツ大会。その2カ月後、知的障害者によるもう1つのW杯が開催された。日本ハンディキャップサッカー連盟の会長も務める長沼は、選手団長としてドイツに同行した。日本は開幕戦で地元ドイツに完敗。翌朝、長沼のホテルに電話があった。試合をテレビで見たクラマーからだった。

 長沼「突然で驚いた。日本の監督に伝えてほしいと、試合を分析して改善点を指摘してくれた。それを書いたメモが、ファクスで5枚も送られてきた。クラさんは『少しでも日本の役に立つことがあるなら』と言っていた。今でも、日本サッカーの父であり続けているんです」。(この章おわり=敬称略)【西尾雅治】

 ◆日本リーグ 古河電工、日立、三菱重工、豊田織機、名古屋相互銀行、ヤンマー、東洋工業、八幡製鉄の8企業が参加して65年6月に開幕。Jリーグ誕生のため91年5月の閉幕まで、27シーズン開催された。リーグ最初のハットトリックは、古河の川淵三郎(現日本協会キャプテン)。退場1号は、ヤンマーの鬼武健二(現Jリーグチェアマン)だった。

March 14, 2008 12:00 AM

2008年03月13日

釜本、杉山 最強の「呼吸」

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(9)】

 日本が銅メダルを獲得した1968年メキシコ五輪は、史上最強コンビの存在抜きには語れない。FW釜本邦茂が、東京からメキシコまでの4年間で、最も長く練習を積んだ相手がFW杉山隆一だった。監督長沼健とコーチ岡野俊一郎は、クラマーの助言もあり、2人のホットラインを熟成させ、守備的な布陣から得点する戦術を固めた。

 3歳年上の杉山が左ウイングで、センターフォワードの釜本にラストパスを送る。これが日本の得点パターン。代表合宿のたびに毎日、2人で居残り特訓に励んだ。

 釜本「4年間、ずっと一緒にやっていたからね。杉山さんがこういう動きをしたら、どうやってパスが出てくるかを体で覚えた」。

 杉山は、静岡・清水東から明大を経て三菱重工入り。100メートルを11秒台で駆け抜ける快足プレーヤーで鳴らした。東京五輪では、逆転負けしたアルゼンチンから「杉山の左足には20万ドル(当時7300万円)の価値がある」と言われたという。

 もっとも、左足を生かすきっかけになったのは、偶然にすぎなかった。59年の第1回アジアユース選手権(マレーシア)で、ある選手が学校の補習で合流が遅れ、高橋英辰監督は攻撃的MFだった杉山を左ウイングに抜てきした。これが後に、釜本の名パートナーとなる出発点になった。

 長沼「チームの約束事は、杉山のスピードを生かすために左サイドの前のスペースを空けておこうというもの。釜本といえども、杉山の前には入るなと決めた」。

 連係を深めるために、お互いに遠慮はなかった。ときにはケンカ腰で言い合った。

 釜本「そりゃ、やりやった。自分はこうやりたいとか、なんでここに出さないんだとかね。杉山さんも『なんで走ってないだ』ってね。自分が出したい時に、そこにいないと怒られた」。

 2人は、要求をぶつけ合い、認め合って「あうんの呼吸」を築いていった。クラマーは言う。「FWのセンタリングに対する連動性は、センタリングが上がった後、目をつぶっていてもゴールにボールを入れられることを意味する」。釜本-杉山のコンビは、そのレベルに達していた。

 67年10月のメキシコ五輪予選は、釜本がフィリピンから6得点など4戦連発の11ゴール。杉山は左肩脱臼を抱えながら、五輪切符がかかった最後の南ベトナム戦で決勝ゴール。1-0。「アステカの奇跡」への道も、2人が切り開いた。

 メキシコ五輪で得点王になった釜本の7得点のうち、杉山のラストパスから決めたものが4点あった。特に3位決定戦でメキシコから奪った2点は象徴的。杉山がタイミングを計りながらDFの裏にフワリと出したクロスを、釜本が胸トラップから左ボレーで決めた1点目。中央に切れ込んだ杉山からパスを受けた釜本が、トラップした瞬間に右足シュート…。2人の汗と涙の結晶だった。

 釜本「お互いを信じ合っていた。ものの見事に当たった。やってきたことが実った。それがメキシコ五輪だった」。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 13, 2008 12:00 AM

2008年03月12日

「頭」の訓練 驚異の変貌

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(8)】

 1968年メキシコ五輪の9カ月前。同年1月17日、東京・国立競技場で西ドイツ五輪代表との親善試合に出場した釜本邦茂は翌日、相手チームの帰国便に同乗していた。日本リーグのオフを利用して、ブンデスリーガのザールブリュッケンへ2カ月間、単身留学したのだ。

 実はこの計画は、釜本がヤンマー入りした1年前から用意周到に進められていた。ベテランサッカー記者の賀川浩は「最初は三菱重工に行くはずだった」と証言する。だが、早大の大先輩でベルリン五輪日本代表FWだった当時の関西協会理事長・川本泰三が「地元に帰って来い」と進言。ヤンマーも獲得条件に海外留学を用意して、日本のエースを迎え入れた。

 デットマール・クラマーの紹介もあり、ザール州協会主任コーチだった元西ドイツ代表FWユップ・デュアバルが釜本を個人指導した。選手登録はされていないため、公式戦には出場できない。練習試合のほか、ユースの選考会に出場したこともあった。

 釜本「ユースの選考試合のとき、前線にパスが来ないからデュアバルに中盤をやれと言われたことがあった。そしたら今までと違う視点でサッカーを見れた。FWはどうしたらパスがもらいやすいのか、どう動けばいいのかが分かった」。

 視点という意味では、どん欲に新しい発見に励んだ。チームの寮に帰ると毎晩、暗くした部屋にこもった。クラブが保管する豊富な8ミリフィルムから引っ張り出したエウゼビオ(ポルトガル)のプレーを何本も、何度も擦り切れるまで見続けた。日本代表の欧州遠征中、66年W杯イングランド大会を観戦。得点王に輝いた「黒豹」の強烈なシュートの残像を、8ミリの映像でよみがえらせた。

 釜本「ドイツ留学の時は、別にバンバン練習したわけじゃない。何もしてない。要は頭の訓練をしていただけ。エウゼビオの8ミリを毎日見て、何度もリールを巻き直して、どうやって強くて低いシュートを打っているのかを研究した」。

 ある日、気がついた。エウゼビオは蹴る瞬間、ボールの位置が軸足の30センチぐらい前にあった。実際に試してみると芝生ではまねができても、日本の土のグラウンドでは無理だった。試行錯誤を繰り返すうちに、ボールと軸足の距離が15センチぐらいならボールが浮かないシュートが打てるこを会得した。

 強いシュートを生かすため、トラップから一連の動作も改良した。「欧州の一流選手は受けてからシュートまでイチ、ニーでいける。お前はイチ、ニー、サンだ。北海道熊だ」。クラマーにそう言われ続けた釜本は、留学の2カ月間で変ぼうしていた。

 ドイツから日本代表のメキシコ遠征に参加。オーストラリア、香港と転戦しながら4カ月ぶりに帰国した。数日後の4月14日、日本リーグ開幕の名古屋相互銀行戦。開始20秒、右からのパスを受け、素早く反転して強烈なシュートを決めた。「こんなに変わるものかと腰を抜かしそうになった」。取材した賀川は驚きを隠せなかった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 12, 2008 12:00 AM

2008年03月11日

世界視野 シュート!シュート!

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(7)】

 早大2年で東京五輪に出場したFW釜本邦茂は、1得点に終わった悔しさを練習にぶつけた。

 釜本「うまくなるためには練習しかない。狙ったところに正確に蹴る。例えば、30メートル離れた先の相手に高さ1メートルぐらいを目掛けて蹴る。そこにゴールがあると思ってやった。できるまで毎日ね」。

 地元五輪でベスト8入りした選手たちは閉会式まで選手村で、のんびりした日を過ごしていた。だが、ある雨の日、日本協会との契約を満了して帰国前のクラマーが全員を集めて言った。

 「これから練習をやる。試合終了の笛は、次のスタートへの合図だ。東京五輪は終わったが、君たちには次の大会がある」。

 釜本の気持ちも同じだった。五輪で世界レベルを肌で感じ、冷めないうちに率先して練習に励んだ。

 基本に立ち返り、クラマーとの出会いを思い起こした。京都・山城高2年の秋のこと。関西選抜の講習会で、ドイツ人指導者に初めて会った。後に日本協会会長になる藤田静夫に連れられた釜本は、プロの技術に「驚いた」という。

 「おい、そこのデカイの」。クラマーに声をかけられた釜本は、投げられたボールをヘディングで返した。今度は自分がボールを投げる。小さな36歳のコーチは、自分より勢いのあるボールを胸元に鋭く返してきた。

 釜本「それまで中学の3年間は、理論づけて教えてもらったことがなかった。リフティングなんてやったこともなかったしね。自分にすれば、17歳という一番いい年代で、すべて新鮮にとらえることができた。書いてあるものに書き直すんじゃなく、真っさらなものに書いていったような感じだった」。

 それ以来、クラマーにたたき込まれたのは個人戦術。 look around(周りを見ろ) think before(前もって考えろ) pass and go(パスしたら走れ)。「瞬時にできるようになるまで体に覚えこませた。いい選手になるには、こういう練習をしなきゃだめなんだと言われた」と釜本。ユース日本代表でも活躍し、早大では1年で関東大学リーグ得点王にもなった。だが東京五輪で、自分はまだ国内レベルに過ぎないことが分かった。

 クラマー「釜本の練習テーマはいつでもシュートを打つこと。私は16歳の時、ドルトムントの1軍でプレーしていた。練習前、ゴールにバケツをつるして、それを目掛けて蹴ったものだ。昔も今も、シュートの正確さは極めて重要なんだ」。

 釜本の心境にも変化があった。FWとして、どん欲にゴールにこだわった。

 釜本「自分は、うまくなるために練習したんじゃない。点を取るために練習したんだ。負けたくない。そのために何をするか。点を取るしかない」。

 メキシコ五輪へ向け、日本代表は65年3月から東南アジア遠征で再始動した。釜本は香港、バンコク選抜などを相手に4試合連続の6得点。不動の地位を築いたエースをさらに飛躍させるため、当時では衝撃的なプランが水面下で進行していた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 11, 2008 12:00 AM

2008年03月10日

奇跡と屈辱…東京が原点

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(6)】

 1964年(昭和39年)10月10日、秋晴れのもと東京五輪が開幕した。大会前から日本中が注目したのは「東洋の魔女」女子バレーボールや柔道など。サッカー代表のコーチ岡野俊一郎は選手村で、男子バレーボール監督の松平康隆と笑えない話をした。「我々は刺し身のつまですね」。前売り券の売れ行きも芳しくなく、サッカーは不人気種目の1つだった。

 4日後、小雨降る東京・駒沢競技場で、クラマーの息子たちが奇跡を起こした。1次リーグ初戦の相手は、プロ予備軍で編成されたアルゼンチンだった。1点を追う後半9分、FW杉山が左サイドからのドリブル突破で同点ゴール。しかし1-2と突き放され、残り10分を切ろうとしていた。

 岡野「ベンチで隣に座っていたクラマーが『もうダメだ』と頭を抱えていた」。

 日本男児の見せ場はここからだった。36分、左サイドからFW釜本がクロスを上げ、走り込んだFW川淵が頭でたたきつけたシュートはワンバウンドでゴール。さらに1分後にMF小城が押し込んで、ついに逆転した。残り数分、必死の守備でボールを蹴り出す選手たちにクラマーが叫んだ。「横浜まで蹴れ!」。3-2。日本がアルゼンチンに勝った。165センチほどの小さなドイツ人がベンチを飛び出し、教え子たちの歓喜の輪に包まれた。

 ヘディングが苦手だった川淵は、徹底してヘッドの特訓をしていた。ペンデル(上からつり下げた)ボールで正確におでこに当てる技術を磨いていたのだ。

 クラマー「日本の選手にヘディングの技術はまったくなかった。私はよく言ったものだ。サッカーは地上だけでプレーするものではないとね」。

 チーム全体も成長していた。62年12月に長沼監督-岡野コーチの体制に代わり、杉山ら若手の台頭も重なっていた。63年8月のムルデカ杯は開催国のマレーシアに初戦で勝ち、タイ、南ベトナムも連破。レセプションで、ラーマン首相(当時)が涙ながら言った。「もう日本は弱いから招待するのをやめようという話もあった」。五輪前の欧州遠征の締めくくりで名門グラスホッパー(スイス)に4-0で快勝。地元紙からも称賛されるほど力をつけていた。

 日本のD組は、イタリアがプロ選手を予選に出場させていたことが発覚して大会直前に失格となっていた。第2戦はガーナに逆転負けしたものの、3チームでの争いで1勝1敗ながら、日本は1次リーグを2位で通過。準々決勝で優勝候補チェコスロバキアに0-4で完敗したが、ベスト8という結果で開催国の面目を保った。

 大阪府協会が誘致して開催されたユーゴスラビアとの5、6位決定予備戦(長居)は1-6の大敗。オシム(前日本代表監督)に2得点された。日本の1点は、釜本の大会初得点。若きエースは不完全燃焼に終わっていた。

 釜本「自分の点はおまけみたいなものだった。転がって入っただけ。ヘタクソだから仕方がない。自分は三流以下だった」。

 この悔しさを原点に、後に「世界のカマモト」と呼ばれる男の猛練習が始まった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 10, 2008 12:00 AM

2008年03月07日

長沼-岡野抜てきの先見

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(5)】

 東京五輪まで2年を切った62年12月、日本サッカー界に激震が走った。日本協会は高橋英辰(ひでとき)監督の退任を決定。実業団の古河電工で選手兼監督だった長沼健を代表監督に抜てきした。コーチには、クラマーの通訳兼アシスタントの岡野俊一郎を昇格させた。

 理由は世代交代。高橋は当時46歳。長沼は32歳、岡野は31歳。高橋監督の手腕だけでなく、選手との年齢差を懸念したクラマーが協会に進言したという。地元五輪に挑む各競技の指揮体制の中でも異例の若さ。後のメキシコ五輪銅メダルを生む名コンビの誕生だった。

 クラマーはこの件について今でも「それに対するコメントはない」と口を閉ざす。だが、スポーツ紙でサッカー記者だった賀川浩は証言する。「クラマーが協会に『若い力で行った方がいい』と進言したことは間違いない。昭和生まれの監督、コーチが誕生したと大騒ぎになった」と。

 長沼「協会から言われたときは驚いた。岡野に『お前、自信あるか?』と聞いたら『ないよ』って。でも、クラマーさんは言い出したら聞かない人だから、『やるしかないか』となった」。

 実は、岡野は61年にクラマーの勧めで、西ドイツに2カ月間コーチ留学している。54年W杯スイス大会優勝監督のヘルベルガーら一流指導者からコーチ学を吸収した。長沼は28歳で選手兼監督となると、61年に天皇杯、実業団選手兼、都市対抗と史上初の3冠を達成。親分肌で、代表でも中心の八重樫茂生、川淵三郎ら古河の選手たちからの人望も厚かった。クラマーはその才能を見抜いていた。

 岡野は、遠征の手配から資金運営など1人何役もこなし、1つ年上の長沼をサポートした。特に情報収集力、分析力に秀でていた。メキシコ五輪の際、1次リーグで同組になったナイジェリア、ブラジル、スペインも選手個々の特長を把握し、顔写真に書き込んで食堂に貼り出していた。現代の情報社会では想像もできない、地道な人と人のつながりで得た情報だった。

 ブラジルは、学生代表でGKだった仲間が移住していたため、新聞記事を送ってもらった。スペインは、五輪予選の最後に対戦した英国から「前半0-0なら仲間割れする」など情報を入手。問題は初戦のナイジェリアだった。

 岡野「あきらめかけていたところに(当時首都の)ラゴスの日本人から手紙が届いた。新聞で対戦を知った大洋漁業(現マルハ)の方で、何でも協力するとあった。とりあえず新聞記事を頼み、映像もお願いした」。

 初戦の数日前、メキシコ五輪の選手村に8ミリフィルムが6本届いた。ナイジェリアでの壮行試合を運転手に隠し撮りさせた映像だった。「体のこなし方、利き足などが分かった。本当に助かった」と岡野は今でも手紙を大事にしまっている。

 クラマーが描いたシナリオ通り、長沼-岡野コンビは東京五輪を経てメキシコ五輪で銅メダル。その後も2人が日本協会を引っ張っていった。その歩みを見続けた賀川は言う。「クラマーが打った手は後に生きていった。囲碁の名人のように」。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 7, 2008 12:00 AM

2008年03月06日

50年前試みた“日本化”

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(4)】

 ドイツから来たプロコーチが、どんなことを教えてくれるのか。代表選手やマスコミも、クラマーの指導に注目した。だが、最初に始めたことは戦術でも連係プレーでもない。サッカーのイロハ。正確にボールを蹴ること、止めることからだった。メキシコ五輪で監督を務めた長沼健が述懐する。

 長沼「そんなことできるわい、と口では言っても、誰もまともにできない。いまさらと思っても、できないんだから選手は従うしかなかった」。

 ボールを正確に蹴るには、当たる面を固定しろ。反射角、入射角を考えろ。止めるときは、地面と足で3角形のトラップ(わな)をつくれ…。クラマーは常に自ら実践してみせた。「子供に言うように、かんで含んで」(長沼)基礎をたたき込み、それを毎日反復させた。長沼の下でコーチを務めた岡野俊一郎が当時を思い返す。

 岡野「それまでは『正確に蹴れ』と言われても、どうしたら正確に蹴れるかは分からなかった。基本の理論を聞いた事がなかったから」。

 基礎から応用、応用から実戦と段階をあげる。だが、すぐにはうまくはいかない。するともう1度、基本練習に戻る。応用、実戦をやると基本がいかに大切かが分かった。「砂上に水が染み込むように、選手の体に基礎が身についた」と岡野は言う。

 クラマーは来日2カ月前に西ドイツで見た練習試合で、日本の長所、短所を見抜いていた。「試合で生かせる技術は何も持っていない」。せっかくの長所である俊敏性が、宝の持ち腐れになっていた。

 クラマー「ドイツで教えていたようにやっては意味がない。コピーでは二番せんじにしかなれない。日本には速い選手がたくさんいる。それを使ってゴールを奪うにはどうするか。例えば、ワンツーパスでの突破だ。パスを出したらすぐに動け。それを徹底させた。当時の代表スタッフには、うまくできないならスピードを落とさせるべきという人もいた。だが、それではチャンスはない。技術をスピードのレベルまで上げなければ欧州には勝てない」。

 くしくも、オシム前日本代表監督は就任会見で「日本代表チームを“日本化”させることを試みる」と方針を示した。同じことを50年近く前に、クラマーがやろうとしていた。

 ただ、単なるサッカーの伝道師ではなかった。「クラマーが来るまで、日本にはコーチ術はあってもコーチ学はなかった」と岡野は本場のプロ指導者の知識に感服した。それまでスポーツ現場と縁遠かった栄養学、心理学、医学、発達発育学などをクラマーは指導に生かしていた。

 岡野の練習前の日課は、薬局で大きな絆創膏(ばんそうこう)を買い、小さく切ってロッカーにつるしておくこと。それがテーピングだった。

 岡野「ケガをなくせば、戦力低下にならない。クラマーは自分で薬を調合して塗り薬をつくったり選手の手当てもしていた。コーチ学を日本に導入したことは、彼の最大の功績だった」。

 だが、それらがすぐに結果に結びついたわけではない。60年の最初の滞在が約50日間。61年は5月から約1年指導したが、その間は21戦3勝1分け17敗と前途多難だった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 6, 2008 12:00 AM

2008年03月05日

心つかむため共に寝食

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(3)】

 60年10月29日に初来日したクラマーは、就任会見の冒頭でいきなり衝撃を与えた。ベテランサッカー記者の賀川浩は、今でもその光景を覚えている。

 賀川「粉末を溶かして作ったジュースがテーブルの上にあった。クラマーはそれを見て『私はプロのコーチである。プロは常に自分を万全に整えておかなければいけない。こういうものは飲まない』と脇によけた。プロとはそういうものなのかとビックリした」。

 日本をどう再建するのか。その方法については、日本人が驚くような言葉を使って力説した。「私は選手に大和魂を取り戻してもらうことを願っている」-。会見場は騒然とした。賀川は「戦争に負けてから久しく聞かなかった大和魂という言葉を、ドイツ人から聞くとは思わなかった」と振り返る。

 クラマーは第2次大戦中、ドイツ軍のパラシュート部隊に属し、イタリア戦線に従軍。捕虜になった経験を持つ。

 クラマー「隊長は決まってこう言った。『作戦遂行時は日本人のことをイメージしろ』と。戦争がどうこうという問題ではない。私にとって大和魂とは、自分を制するということを意味する。苦しいことも制する主とならなければならない。これは生きるために必要な哲学だ。スポーツの世界でも自分を制することなく成功はあり得ない。足が痛いからプレーをしない。それもわかるが、それだけでは進めないのだ」。

 FW釜本邦茂はある時、ひざの内側じん帯を痛めたため練習を見学していた。するとクラマーに「アウトサイドだけで蹴れば練習ができるだろ」とボールをパスされた。また、別の選手には座ったまま上半身だけで練習ができるヘディング特訓をやらせた。

 一方で、重要視したのは、文化や風習の違う若者たちの心をつかむことだった。通訳兼アシスタントを務めた岡野俊一郎は来日した当日、東京都内の宿泊ホテルにクラマーを送り届けた。「選手はどこにいる? すぐに会いたい」と言うクラマーに、選手の宿舎は本郷の日本旅館だと説明した。布団で寝て、朝は納豆にみそ汁、昼は丼もので夜は刺し身。一緒に寝泊りなんて、無理だと訴えた。

 岡野「クラマーは『選手と一緒に生活しなくて、どうやって選手の気持ちが分かるんだ』と聞き入れなかった。翌日には荷物をまとめて、選手と同じ旅館に入った」。

 寝食をともにし、風呂にも一緒に入った。「私がうまくはしを使えるようになるのと、君たちがサッカーをうまくなるのと、どっちが早いか競争しよう」。グラウンドを離れると壁をつくらなかった。選手が就寝後に部屋を見回り、はだけた布団をかけ直した。「それを選手が見て、クラマーの人柄に触れた」と岡野は懐かしむ。

 指導は厳格かつ理論的だった。身長165センチほどの小さなプロコーチは、日本代表の選手たちに対し、まるで小学生に教えるように基本のインサイドキックから指導を始めた。「若い選手は好意的だったが、ベテランは最初の頃は納得してはいなかった」。4年後の東京五輪へ、クラマーの挑戦が始まった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

March 5, 2008 12:00 AM

2008年03月04日

なぜ外国人コーチなんだ

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(2)】

 日本サッカーの父と呼ばれるデットマール・クラマーの招へいは、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)がすがった最後の手段だった。64年の東京五輪開催を前に、日本のサッカーはどん底の不振にあえいでいた。

 56年メルボルン五輪は、引き分けた韓国に抽選で勝って予選突破したが、初戦で開催国オーストラリアに完敗。58年に東京で開催されたアジア大会でもフィリピンに0-1、香港に0-2と1点も取れずに1次リーグであっさり敗退した。60年ローマ五輪の予選も韓国に得失点差で敗れ、次回の東京大会への不安が増していた。このままでは開催国が1勝もできない事態になる-。改革の必要に迫られていた。

 会長だった野津謙(のづ・ゆずる)は、当時はどの競技も採り入れていなかった外国人プロコーチの招へいを提案した。だが、すんなり決まったわけではない。メキシコ五輪でコーチを務めた岡野俊一郎が振り返る。

 岡野「東京五輪は本来、昭和15年(1940年)に開催予定だったが、日中戦争で返上になった。24年たって、ようやく開催できる名誉な大会で、なぜ外国人コーチが必要なのかと協会内でも議論があった」。

 父親が医者の野津は、自身も小児科医で環境衛生学など大きな功績を残している。サッカーでは関東大学リーグ、アジアユース選手権などの創設に尽力した人物でもある。ベテランサッカー記者の賀川浩は、野津の先見の明とリーダーシップがなければクラマーの来日は実現しなかったと言う。「何事にも先々の見える人だった」。反対意見を振り切り、親交のあったドイツ協会にコーチ推薦を依頼する手紙を書いた。

 西ドイツ代表のアシスタントコーチだったクラマーは、チリ代表との試合中、監督のゼップ・ヘルベルガー(54年W杯優勝監督)から「日本に行って来い」と言われたという。最初は「それは意味のあることなのか」と戸惑った。

 クラマーはケガの影響で現役を早くに引退し、指導者に転向していた。当時35歳ながら、西ドイツ協会の西部地区主任コーチ(デュイスブルク)を務め、将来を嘱望された指導者の1人だった。だが、日本とは、不思議な縁でつながっていた。

 クラマー「庭師だった父とも話し合った。父は日本庭園も手掛けていた。家には日本の文化に関する本がたくさんあった。ヘルベルガーは笑いながらこう言った。『彼らの技術は素晴らしい。だたし、プレッシャーのない状況で、だ。相手がいる状況には弱い。試合の仕方を学ぶ必要がある』とね。まあ、いろんなことがあって私はOKしたよ」。

 クラマーが初めて日本代表の試合を見たのは60年8月23日。ローマ五輪予選で敗退したチームは欧州遠征中で、西ドイツ・アーヘンの地元クラブに0-5と惨敗した。

 岡野「見ていたクラマーが嘆いていた。『チョップ、チョップ、アーヘン…』。チョップというのはパス。パスが3本つながらず、相手に渡ってしまうという意味だった」。

 特別コーチとして契約したクラマーは、その年の10月29日、雨の羽田空港に降り立った。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

◆デットマール・クラマー 1925年4月4日、ドイツ生まれ。第2次大戦後、ボルシア・ドルトムントでプレー。26歳で引退し指導者に。60年から4年間、日本の特別コーチを務めた後、FIFA技術委員として世界中の巡回指導。ブンデスリーガ3クラブで指揮を執り、バイエルン・ミュンヘンでは欧州チャンピオンズ杯(現チャンピオンズリーグ)で2連覇した。71年には日本政府から勲三等瑞宝章が贈られた。05年に日本サッカー殿堂入り。

March 4, 2008 12:00 AM

2008年03月03日

「大和魂」にクラさん涙

【メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち(1)】

 アステカの青空に大合唱が響いた。「ハポン!」「ハポン!」。68年10月24日、メキシコ五輪のサッカー3位決定戦。日本は、地元メキシコ相手にFW釜本邦茂が決めた前半の2点を守ったまま終盤を迎えていた。12万人収容のアステカ・スタジアムを埋めた観衆から、信じられない声援がわき起こった。ふがいない地元チームより、必死に守る日本側に声援を送っていた。

 後半2分に迎えたこの試合最大のピンチも、日本の冷静な分析力で乗り切っていた。DF小城得達(おぎ・ありたつ)のハンドで与えたPK。メキシコはエースのペレーダがボールをセット。この時、GK横山謙三はもちろん、ベンチの長沼健監督、岡野俊一郎コーチは確信を持った。

 岡野「1次リーグでメキシコの試合を全員で見に行っていた。そのときペレーダは右に蹴った。絶対に入れなきゃいけない場面だから、今度も1番自信のある方に蹴ると思った」。

 予想通り、右に蹴られたシュートをGK横山はしっかりキャッチ。傾きかけた流れを引き戻した。その後もメキシコの波状攻撃を体をなげうって全員で防いだ。

 90分を戦い終え、日本は