2008年02月29日
100メートル道路に感動あふれた
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(10)】
球団創設26年目の悲願を後楽園球場で達成した。10月15日深夜の広島市街地はお祭り騒ぎとなった。ちょうちん行列が夜中まで続いた。一夜明けた16日の午後、広島駅の新幹線ホームはナインの帰りを待つ人であふれた。危険を避けるため「入場券」の発売が急きょ1時間中止となった。15時8分、ナインが乗る「ひかり」が到着すると万歳の大合唱が繰り返された。
優勝決定と同時に、巨大プロジェクトにGOサインが出された。広島市中心部の「100メートル道路」と呼ばれる平和大通りでの優勝パレードだ。主催は球団。警察は「危険だ」と拒絶したが、盛り上がりに押され了承した。球団職員は会議に次ぐ会議でほとんど眠れなかった。パレードの前例がある巨人に相談したが、土地の違いがあり、人手の予想もつかず、参考にならなかった。
歓喜のVから5日後の10月20日、パレードは実施された。球団が雇った警備会社のガードマンが道路の両脇をびっしりと固める。すぐ近くをマツダ社の特製車8台がゆっくり通り過ぎていく。
紙ふぶき、大声援。沿道の隅にしゃがみ込み、遺影を抱えて涙する被爆者、原爆犠牲者の遺族がたくさんいた。「見ろ、優勝だ」と遺影を車に向けて突き出す人もいた。大人も子供も万歳を繰り返した。まさにファンとカープが一体になったパレードだった。県警は人出を30万人と発表した。
古葉監督「パレードの光景は今でも鮮明に覚えている。後楽園の試合後、松田オーナーに『絶対やってくださいね』とお願いもしたくらいだから。感動というものを超えていた。あれを超えるものが果たしてあるのかどうか…」。
山本浩二「1年間の苦しさはものすごいものだった。こんなに苦しいのかと。ワシは広島で生まれ広島に育ち、カープに入団し、そしてカープの初優勝を経験することができた。その後にたくさん優勝を経験させてもらったが、比べものにならない。生涯忘れられない瞬間だった」。
阪急との日本シリーズはその5日後に始まったが、ナインはパレードで燃え尽きていたかのようだった。いずれも接戦ながら2分け4敗と1勝もできず激動の1年を終えた。
広島市では毎年5月に平和大通りで「ひろしまフラワーフェスティバル」が開催される。3日間で150万人が訪れる広島一の祭り。原型は75年の優勝パレードだ。古葉が当時の荒木武広島市長と対談した際「広島には大きな祭りがない。ぜひつくってほしい」とぶつけ、同市長が在任中の77年から始まった。
古葉は今も広島市内に家を残す。東京と広島を往復する生活だが、地元に戻ったときはフラッと平和大通りに足を運んでいる。あの興奮を思い出しながら…。のちに有名になったセリフ「本当に優勝したんですね」はウソ偽りない。
何もかも原爆に焼き尽くされ、絶望の底に突き落とされた45年8月6日の悲劇から30年。広島に奇跡が起きた。(この項おわり=敬称略)【柏原誠】
◆75年の広島成績 72勝47敗11分け(勝率6割5厘)。2位中日に4・5ゲーム差をつけた。以下阪神、ヤクルト、大洋、巨人。個人タイトルは山本浩が首位打者(3割1分9厘)とMVP。大下が盗塁王(44)、外木場が最多勝(20)、奪三振王(193)、沢村賞。ベストナインはこの3人と衣笠、三村の計5人で球団史上最多。
◆平和大通り 広島市を東西に走る一般道路。全長約4キロ。側道などを含め幅員が約100メートルある。もともとは防火帯として整備が進んでいたが、原爆後の都市化計画の中で緑の多い公園通りとして再整備された。平和記念公園や「とうかさん」の祭りで知られる円隆寺が隣接。観光名所の1つにもなっている。
February 29, 2008 12:00 AM
2008年02月28日
栄光の瞬間 浩二大泣き
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(9)】
赤ヘルフィーバーは後半戦に入ると急速に高まっていった。入場券は連日完売。4~5000人の閑古鳥もたびたびだった広島市民球場は何度も3万観衆で膨れ上がった。取材に訪れた報道陣が一塁側ベンチに入りきらないこともあった。
普段、数千本しか売れないビールが2万本も売れた。「カープと名の付く商品はいくら作っても余らなかった」(営業課長・高橋千年美=のちの球団代表)。サイン球は1万~2万個がすぐ完売。広島の街中にグッズがあふれた。仕入れの11トントラックが何度も球場を出入りした。
高まるボルテージはチームへの重圧となったが、進撃は止まらなかった。中日、阪神も粘った。1ゲーム差に3チームがひしめくこともあった。広島が抜け出したのは9月に入ってからだった。9月5日からの後楽園3連戦を2勝1分け、同12日からの3連戦も3連勝で巨人を返り討ちにした。
まさに一丸。ルーツが作り出したチームの一体感を、39歳の若い古葉が引き継いでいた。巨人長嶋茂雄監督は「まとまりが広島の強さ」とシーズン後に敗戦の弁を語った。獅子奮迅の活躍をしたエース外木場は「優勝以外は頭になかった。何が何でもという気持ち」とリリーフ登板まで引き受けた。9月以降は27試合で19勝4敗4分けと驚異的な成績を残した。
そして栄光の瞬間が訪れる。残り2試合、マジック1で乗り込んだ10月15日の後楽園は「赤」で埋め尽くされた。もちろん5万人の超満員。カチ、カチ、カチ! 約2万本の広島名物「しゃもじ応援」が特異なムードを演出し、外木場-新浦の両先発で試合が始まった。
5回に大下の二塁打で1点を先制した。外木場は落ち着いていた。だが相手はV9から2年経ったとはいえ、V経験者ぞろいの巨人。少しも油断はできなかった。最初のピンチは6回に訪れた。1死二、三塁。打席には王貞治。次の打者は外木場に相性のいい末次利光だった。勝負するか、敬遠か。古葉監督は迷わなかった。「敬遠で満塁策」。結果は二-遊-一の併殺となった。万歳コールが球場に渦巻いた。
古葉「自分の中では当然だった。外木場の制球力なら押し出しもない。右打者に対して有効な外木場の内角直球かスライダーならダブルプレーを取れると思った。一番確率の高い作戦をとっただけですよ」。
9回表の攻撃、1死一塁。打席の大下と三塁コーチの古葉監督の目が合った。あうんの呼吸でプッシュバントが決まった。もう押せ押せだ。直後、鮮やかな放物線が東京の空高く舞い上がった。ホプキンスの打球は右翼席中段へ。4-0。勝負は決した。
午後5時18分。2番手金城が最後の打者柴田を左飛に打ち取ると三塁ベンチが一斉にはじけた。スタンドから大量のファンがなだれ込んだ。山本浩二が手で顔を覆って泣いている。古葉の胴上げに続き、選手たちも宙を舞った。外木場は「言葉が見つからない…」とぼう然。山本浩はお立ち台で叫んだ。「うあ~! もう何もいりません!」。声にならない声だった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆広島の主催ゲーム観客数 75年は当時の球団史上ダントツの120万人(平均1万8462人)。前年の64万9500人から倍増した。歴代最多は初の日本一になった79年の145万4000人、2位が同じく日本一の翌80年で131万4000人。07年は112万9061人で99年以降最多だった。
◆ゲイル・ホプキンス 1943年2月19日生まれ、米オクラホマ州出身。大リーグで7年間プレー後、75年に広島移籍。主に「3番一塁」で打率2割5分6厘、33本塁打、91打点。本塁打は球団記録だった。77年に南海で引退した。日本3年間の通算は打率2割8分2厘、69本塁打、229打点。右投げ左打ち。引退後すぐに米国で医大に進み、整形外科医になった。
February 28, 2008 12:00 AM
2008年02月27日
「我慢」が真髄 古葉新体制
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(8)】
審判、フロントへの不審を理由にルーツ監督が電撃退任。3試合は野崎泰一コーチが監督を代行した。後任探しを進めていた重松球団代表が現場の声を集め「古葉(竹識)コーチでどうでしょうか」と松田オーナーに報告。4日の阪神戦(広島)から新体制がスタートした。
古葉「自分が監督になるとは知らなかったが、野崎さんから『頑張れよ』と言われて。ルーツのことは忘れて、悔いの残らないよう、自分らしい野球をやろうと決めましたね」。
前年まで監督だった森永勝也を慕っていた古葉は森永の退任直後、2人で食事した際に「悔いだけは残すな。やりたいようにやれ」と告げられていた。その言葉が胸にこみ上げてきた。広島に革命を起こそうとしたルーツ野球を意識するのではなく、独自の信念を大事にしようと誓った。
野崎代行の下で三塁コーチャーズボックスに立っていた古葉は全権を任され、直接サイン送っていた。監督になってもコーチャーズボックスからタクトを振るった。古葉カープは地元で3連勝スタート。ルーツが根付けた積極的走塁も健在だった。就任後の30試合で完封負けは1度だけ。外木場、池谷、佐伯の3本柱が踏ん張り、苦しい試合を拾っていった。
カープ強し。5月17日、18日の那覇2連戦(対大洋)は強烈だった。沖縄での公式戦開催は球団初。歴史的な試合でシェーンがプロ野球初の左右打席アーチを放ち、阪神を抜いて2年ぶりの首位に立った。
古葉らしさが如実に出たのは、自ら「最も印象的」と言う6月17日からのヤクルト3連戦(神宮)。最初の2つを落として5連敗。当初の勢いは全くなく、4位に転落した。コーチ陣は「3戦目も負けたらズルズルいってしまう」と、ここをヤマ場と踏んでエース外木場の中3日での投入を提言した。だが、古葉は断固拒否した。
「外木場は疲れている。次に回して万全の状態でまた投げてもらえば、まだ我々は出直しできる」。読みは的中した。先発に立てた伏兵永本がヤクルトを牛耳って連敗を止め「この1勝は10勝分の価値がある」とニヤリ。外木場も生き返った。古葉は冷静に長いシーズンの勝負どころを読んでいた。「我慢」が古葉の真髄といわれるのは、この「外木場回避」の采配によるところが大きい。
7月。大混戦を粘り抜き、前半戦を首位で折り返した。しばしの休養となる球宴休み。思いがけず、この期間中に赤ヘル旋風が一気に加速した。甲子園での球宴初戦。ファン投票で選ばれた山本浩、衣笠、大下が先発すると、山本浩&衣笠がともに2本ずつ本塁打を放ってみせたのだ。
山本浩「あのオールスターからじゃないかな。優勝経験がまったくないチームが、一気に全国区になった気がする。勢いを見せたというかね。それでもまだ、誰も優勝するとは思っていなかったんじゃないか」。
ナインはまだ自分たちの強さに半信半疑だったようだがファンは感じ取っていた。「ひょっとして…」。後半戦が始まると球場のテンションが一変していた。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆古葉竹識(こば・たけし)1936年(昭11)4月22日生まれ、熊本市出身。専大、日鉄から58年に広島入団。1年目から遊撃のレギュラーで活躍。盗塁王2度。70年に南海に移り翌年引退。南海コーチ、広島守備コーチを経て75年5月に広島監督に。その年、球団初優勝に導き、79年、80年、84年には日本一。87年から3年間は大洋の監督を務めた。08年1月に東京国際大の監督に就任予定。99年、野球殿堂入り。
February 27, 2008 12:00 AM
2008年02月26日
まさかの展開 ルーツ監督退団
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(7)】
ルーツ監督はなかなか結果を出せなかったが、監督としての「激しさ」を随所で見せるようになった。勝負にこだわり、一切の妥協を排除した。そのエネルギーは特に審判に多く向けられた。
4月11日の中日戦(広島)。0-2の9回、無死満塁で登板した宮本幸信投手が木俣に対して投げた5球目。微妙なコースをボールと判定されると、宮本は激高。球審にとび蹴りを食らわし、退場になった。もみ合いに加わったルーツ監督も退場宣告された。来日後初の退場だった。
退場劇には後日談がある。ルーツは試合後「宮本は絶対にしてはならないことをした。だがあの勇気はほめてあげたい。広島に足りなかったファイトだった」と語った。指揮官は後日、とび蹴りの瞬間の写真を引き伸ばしてパネルに入れ、それを監督室に飾った。試合前には必ず「今日も選手が闘志あふれるプレーを見せてくれますように」とパネルに向かって手を合わせ、おじぎした。
トレードで新加入した宮本のファイト、ルーツの初退場は、ある意味でチーム全体の緊張感を高め、闘争心を注入することに成功した。だが、この一件が引き金となり、ルーツは審判への不信感やストレスを強めていく。そして、まさかの展開が訪れた。
4月27日の阪神戦(甲子園)。0-0の8回、2死一、三塁フルカウントで佐伯が投げた6球目はボール判定。ルーツは鬼の形相で球審に詰め寄った。責任審判だった一塁の竹元審判が間に入ると、それにまた怒り竹元を突き飛ばした。
「退場」。この宣告に納得できず、ホームベースに立ち続けた。「放棄試合になるぞ」と注意されても動かない。10分が過ぎたころ、記者席にいた重松球団代表が周囲に促され、グラウンドに出て監督を説得した。これだけでも異例だ。
重松「誰に呼ばれたのかは覚えていないけど、実のところ放棄試合になると非常に具合が悪かった。お客さんに失礼だし、違約金をとられることも知っていた。最後は私の説得に応じてくれたが、ルーツは頑固だった。(強いチームへの)ひいきともとれる日本の審判のやり方を変えたくて、毅然としていた。審判にも『革命』を起こそうとしていたんじゃないかな」。
やっとロッカーに下がったルーツは平静を取り戻したかのように見えた。しかし試合後、選手らを集めると、淡々と宣言した。「私はもうここに戻ってこない。次の監督を探しておいてくれ」-。それを聞いた重松は「まさか。本当なのか」と耳を疑った。名古屋への移動日だった翌日、重松は選手宿舎でルーツと話し合った。名古屋に移動後も説得を続けた。だが、ルーツの意思は固く、中日3連戦の指揮を拒否した。
ルーツの言い分は「現場は私にすべて任すと言ってくれたじゃないか。なのにあなたは私の領域を侵害した」。審判への不満もぶちまけた。重松が回顧する。「何を言ってもダメだった。彼は私が出て行った時点で『やめろと言われた』と受け取ったのでしょう…」。問題の試合から3日後、ルーツの退任が発表された。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆ルーツと審判 宮本の「とび蹴り事件」があった4月11日に乱闘参加で初退場。リーグから処分が科されたが「審判団の報告だけに基づいたもので受け入れられない」と通告書を突き返した。15日の巨人戦では「三塁コーチボックスから飛び出し過ぎ」として注意を受け、激高。ことあるごとに審判に文句をつけるなど、関係は最悪だった。
◆宮本幸信(みやもと・ゆきのぶ)1945年(昭20)6月3日生まれ、神戸市出身。中大から68年ドラフト2位で阪急入団。先発・中継ぎの中堅クラスだったが74年オフに広島にトレードされ開花。初優勝の75年にいきなりリリーフエースとして10勝2敗10S。日本ハム、大洋と移って引退。通算54勝42敗30S、防御率3・63。右投げ右打ち。
February 26, 2008 12:00 AM
2008年02月25日
凡打でも全力「走る野球」
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(6)】
75年4月5日、開幕のヤクルト戦(神宮)のマウンドには、前年18勝のエース外木場義郎が登った。松岡弘との投げ合いを制し、4安打1失点の完投勝利。外木場の通算100勝目でもあった。今年こそ最下位脱出へ-。新生広島はこれ以上ない幕開けとなった。
開幕からの10試合は4勝6敗と結果がともなわなかったが、野球の質は確実に変わっていた。最も変わったのは攻撃面。ルーツは就任直後に「何でもないことを繰り返せば、とてつもなく大きなものになる」と宣言していた。「走る野球」の実現がそれを指していた。
ルーツは「全力疾走しない選手」に10万円の罰金を科すと宣告した。「できない選手は2軍落ち」とも言った。平均年俸は現在の3分の1以下。選手は震え上がった。凡打でも全力疾走。これは相手に相当な重圧を与えた。「広島には足がある」。そんなイメージはすぐに定着した。大下がリーグトップの44盗塁、山本浩、衣笠の両主砲も24、18盗塁を決めた。
監督は毎試合、三塁コーチャーズボックスに立った。「ここが1番指揮を執りやすいから」。自らも試合に入り込み、選手を鼓舞した。4月9日の巨人戦(広島)。大下の安打で二塁走者の外木場が本塁に突っ込んだ。監督はコーチャーズボックスを飛び出し、外木場と一緒に本塁付近まで並走。「セーフ!」のオーバーリアクションまで繰り出した。
ルーツの「改革」は大胆かつ繊細だった。キャンプ前から早々とレギュラーを固定したことで、控え選手のモチベーションが心配されていたが、それを防ぐために「査定方法」の見直しを球団に取り付けていた。たとえば「投手のクセを盗んだ」「ベンチでサードコーチのサインを見抜いた」などをチェックして、プラス査定とした。
進塁打など記録に残らないチーム打撃を査定上の1安打と換算し、カープ内での独自の打率を算出。右打ちのうまかった2番三村は75年の打率が2割8分1厘だったが、カープ査定では3割を超えた。「人間は宝。レギュラーも補欠もベテランでも、オレは同じようにあつかう」。ルーツがよく口にした言葉だ。
選手を大事にする姿勢は起用法にも現れた。開幕直後から投手を惜しみなくつぎ込んだ。特に中継ぎは三輪、渡辺、宮本、児玉らどの投手もまんべんなく起用。打たれた投手を繰り返し使い、新聞記事でチクリとやられたこともあるが「監督として彼らを信頼して使っている」と突っぱねた。
改革は進んでいたが、勝利にはなかなかつながらず、4月戦線は低調だった。なにせ新聞・雑誌、テレビ出演者のほぼ全員が「最下位」と予想するチームだ。ルーツの監督人事に関わった重松球団代表は「1年目で何とかAクラス。2~3年で優勝争いできるチームにしてもらえたら、と。私自身も優勝など信じていなかった」。確かに広島の野球は変わりつつあるが…。この時点で、この先の急展開は誰も想像できなかった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆75年の広島の盗塁数 チーム124個はリーグ最多(2位大洋は78個)。個人では初タイトルの大下が44、山本浩が24、衣笠が18、水沼が11、深沢が9、水谷と久保が各5、三村が3、苑田が2、ホプキンス、シェーン、守岡が各1。失敗53はリーグ4番目の少なさ。盗塁を試みた数177回もダントツ。
◆外木場義郎(そとこば・よしろう)1945年(昭和20年)6月1日生まれ、鹿児島県出身。電電九州から65年に広島入り。同年、プロ2戦目で無安打無得点試合を達成。68年の完全試合(対大洋)を含めて3度のノーヒットノーランを記録した。引退後は広島、オリックスで投手コーチに。通算131勝138敗、防御率2・88。右投げ右打ち。
February 25, 2008 12:00 AM
2008年02月22日
キャンプ前 選手にノルマ
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(5)】
日南キャンプに、「改革者」ルーツ新監督が緊張と驚きを持ち込んだ。キャンプ初日の早朝、日南市役所でのイベントに1分遅れた衣笠祥雄らがいきなりカミナリを落とされ、翌日に朝一番のランニングを科された。空気は緊張感に包まれた。
ルーツ監督が練習中に1人で何かをつぶやいているのがよく目撃された。手には小型のカセットテープ。ユニホームのポケットに入れていたものを取り出しては、またしゃべる。気付いた点をそのつど録音していた。選手はそのさまを見て、また緊張感を高めた。
練習方法も変わった。天福球場での打撃練習は衣笠、山本浩、三村ら主力11選手だけに限られた。2、3カ所にケージを置き、5人のグループごとに7スイングしたら隣りに移動した。今では似たような形も見受けられるが、1人が1カ所でひたすら打ち込むのが普通だった当時は画期的だった。
ケージの後ろには必ずスコアラーを配置し、打球の方向などを1球ごとに記録した。ギリギリで主力組に配置された捕手の道原裕幸は「1球も気を抜けない。緊張した」と振り返る。その他の選手は脇のケージでマシン打撃を行い、打撃投手の球は打てなかった。入れ替えも多少あったが、レギュラーとそれ以外を明確に分けた。控え選手のモチベーションは上がり、主力も緊張感を強めた。
ルーツ流の最大の特長は「役割分担」だった。キャンプ前に各選手にノルマが通達された。エース外木場義郎には早々に開幕投手と伝えた。それだけではない。130試合の中の全登板日程を示した。外木場は「ああいう風に考えてくれるとは。感動した」と振り返った。野手にもそれぞれ「100試合任せた」などと明確に伝えた。控え選手にも、たとえば苑田聡彦には「二塁は大下が100試合先発。そうでないときはおまえだ」と説明した。
遊撃手の三村敏之は「2番ショートは100試合、君に預けた」と言われた。
三村「普通は頑張れよ、とか言われるのにハッキリと君はレギュラーと言われた。キャンプ中からものすごい責任感を感じながらやっていた。成績うんぬんより、1年間通してレギュラーで出られるのかを見られていた」。
驚きといえば、ルーツのつてで臨時コーチとして日南に招かれたメジャー通算363勝のウォーレン・スパーンの名前を忘れることはできない。前年2勝の池谷公二郎はスライダーを学び、大きく飛躍した。丁寧で分かりやすい「偉人」のコーチングは投手力向上をもたらした。
チームはオープン戦でルーツ野球を初披露し、開幕まで順調に調整した。「黒船」にあの手この手で改革を迫られてきた選手たちが、どんなプレーを見せるのか…。いよいよ開幕の時が来た。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆75年の広島のオープン戦 12球団最多の25試合を消化し、12勝13敗の6位(リーグ3位)と目立った成績ではなかった。だが前半戦から盗塁、エンドラン、バスター、右打ちなど小技のオンパレード。積極的な走塁姿勢も顕著だった。成績には現れなかったが、ルーツ監督が目指す野球の一端を見せた。
◆ウォーレン・スパーン メジャー通算363勝は左腕投手史上最多。主にブレーブスで活躍し、無安打無得点も2回記録。最多勝8回。73年に野球殿堂入りした。広島の臨時コーチとして75年春に来日。開幕戦を見届けて帰国した。03年、82歳で死去。
February 22, 2008 12:00 AM
2008年02月21日
負け犬根性排除へ「洗脳」
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(4)】
ルーツ新監督の就任発表から間もない74年11月。広島市民球場にスタッフ、選手を集めて「所信表明」を兼ねたミーティングが行われた。コーチだけの会議に続いて選手も加わった。そこには報道陣も入室が許可された。異例の出来事。メッセージ性の強い発言があることが予想された。
「私、そしてあなたたちの仕事は勝つことだ。勝って、胸を張って広島の町を歩こうじゃないか。我々の使命は広島という地域を活性化すること。そのためにはファンを喜ばすことが一番だ。ファンは勝利を求めている。勝てば球場は満員になる。では勝つためにはどうすればいいか…」。ほえるような口調に、全員が息をのんで聞き入った。
「勝つ」「優勝」。このキーワードは在任中、折に触れて繰り返された。負け犬体質を取り除くにはある種の「洗脳」が必要だった。言葉だけにとどまらない。ルーツはあらゆる手を使ってチームの体質改善を試みた。年明け2月。宮崎・日南キャンプ中に、ちょっと変わったセレモニーが導入された。
最初の休日の前夜。宿舎での全員そろっての食事会。選手、監督、コーチ全員にスーツとネクタイ着用が義務付けられた。食卓に並べられたのはステーキ肉や温野菜などの欧米料理。その時代、ほとんどの選手は目にするのも初めてだった。使ったこともないフォークとナイフ、スプーンを両手に持ち、悪戦苦闘しながら口に運んだ。リンゴなどのフルーツもフォークとナイフで食べるよう指導された。
普段はキャンプ中なので、ほとんどの選手はジャージー姿。スーツにネクタイはプロ野球のキャンプでは異様な光景だった。初めてフォークを使った捕手の道原裕幸は「力の加減が分からずに」皿を1枚割ってしまった。欧米式ディナーは毎土曜日に行われた。選手らは次第にフォークの使い方にも慣れていった。
昭和11年、巨人オーナーの正力松太郎が「巨人軍は紳士たれ」と球団訓を掲げた。メジャーリーグにも当時から「野球選手は紳士たれ」の教えがあった。ルーツは広島の選手にプロの自覚を促すとともに「上流意識」を植えつけようとした。実績のない地方球団である広島には強い者へのコンプレックスが深く根付いていた。ルーツ改革はコンプレックスの排除から始まったとも言える。
精神力の強さで知られ、打撃コーチを兼任していたベテラン山本一義でさえ、そうだった。「当時は巨人へのコンプレックスが強かった。5点リードしても『ひっくり返されるかも』とね。自分たちで限界を設けていたんだ。でもルーツにその弱い部分をたたき直された。1点リードすれば『よし、今日は勝てるぞ』と思えるようになった」。
選手たちはルーツという「黒船」に、次々と脳内革命を迫られた。この指揮官は信念は決して曲げなかった。「改革」サプライズは「ディナー」だけに終わらなかった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆広島のキャンプ 創設当初は広島市内の県営球場や高校グラウンドで練習。61年に呉市で初のキャンプ開催。63年に宮崎・日南へ。72年だけは米アリゾナで初の海外キャンプを実施した。82年には初めて沖縄キャンプを行う。現在も日南・沖縄両市で2月1日に同時キャンプインしている。
February 21, 2008 12:00 AM
2008年02月20日
闘争心の象徴「赤」を採用
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(3)】
75年の広島初優勝。そのチームを編成したのは、全権を託された米国人監督のルーツだった。大下剛史を日本ハムからトレードで獲得した経緯についてはすでに触れた。他にも、大石弥太郎、白石静生と主力投手を阪急に放出し、宮本幸信、児玉好弘、渡辺弘基の3投手を獲得した。かつてのエース安仁屋宗八は阪神に放出した。後述するが、結果的にこれらのトレードはおおむね「成功」した。
このオフに成立したトレードは4件。7人を出して、7人を獲得した。さらに長谷川良平ヘッドの退団を決めるなどコーチも大幅に刷新。残ったのは古葉竹識、阿南準郎、ルーツの3人だけ。リッチー・シェーン外野手、ゲイル・ホプキンス内野手と2人の現役メジャーリーガー獲得にも成功した。
チーム編成面だけでなく、もう1つルーツが球団に求めたことがある。「ユニホームを変えてくれ」。当時の日本ではどこも採用していなかった「赤」への変更を主張した。理由は「赤は燃える色。明るい。選手を生かせる色だから。日の丸の意味もある」。広島と同じCマークをつけ、赤を採用していた大リーグ、シンシナティ・レッズを模したわけではなかったという。
当時の広島は、紺色ベースのユニホームが定着し始めていた。アンダーシャツからストッキングまですべて変えるとなれば経費の問題も出てくる。それでもルーツは引かなかった。結果、折衷案で帽子とヘルメットだけが赤色に変わった。血のような鮮やかな赤だった。
今でこそ広島の代名詞とも言える「赤ヘル」。だが、当初の評判はよくなかった。弱いチームの「赤」はやはり違和感があった。主力打者の山本浩二(北京五輪野球日本代表守備走塁コーチ)は「今まで見たこともない。とにかく恥ずかしかったね」と振り返った。移籍してきたばかりの大下は「日拓(その後の日本ハム)も7色のユニホームでやっていたけど、もっと恥ずかしかった」と笑った。
赤は闘争心を表現する色。ルーツが目指した意識改革の最も分かりやすい例だった。2年前から胸や背番号の縁取りに赤が採用されていたが、チームカラーとなるような目立つものではなかった。カラーテレビ時代に合わせて各球団のユニホームは年々、カラフルになっていったが、その中でも赤はひときわ鮮烈に映った。
ところが、恥ずかしい「赤ヘル」が、75年のシーズンで勝ち進むとともに、誇らしさの象徴となっていった。違和感をおぼえていた選手たちも次第にその意識を変えていく。
山本浩二「勝利を重ねるにしたがって、世間から『赤ヘル軍団』と言われるようになってきた。そうなると不思議なもので愛着がわいてきた。今ではあの赤が誇りに思える」。
その後、77年に胸と背中の文字、ベルト、ストッキングなどすべてが赤に変わり、マイナーチェンジを重ねて今に至る。少年野球や高校野球に赤が取り入れられたのも赤ヘル軍団が黄金時代を築いたからだ。
「革命家」ルーツが「赤ヘル」の生みの親。その後もルーツの改革の手はマジシャンのように次々と繰り出されていった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆広島のユニホーム変遷 創設当時はヤンキースのような白黒のストライプとグレーの生地を併用。胸にはCARP。52年から一時期、胸文字が「HIROSHIMA」に変わった。58年に赤文字が加わったがすぐに紺色ベースに戻って定着。73年に文字の縁取りが赤、75年に帽子が赤と、少しずつ赤が増え、77年に今の赤基調に近い形になった。
February 20, 2008 12:00 AM
2008年02月19日
変革へ劇薬 ルーツ監督
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(2)】
74年のオフ、ジョー・ルーツ打撃コーチが監督に就任。広島は新たな1歩を踏み出したが、新監督誕生までの道のりは決して平坦(たん)ではなかった。
ルーツと広島カープの出会いは72年(昭47)の春までさかのぼる。この年、広島は球団史上初めての海外キャンプを米アリゾナで行った。当地ツーソンはインディアンスのキャンプ地。当時イ軍のコーチだったルーツが、広島の選手に指導したのが縁となった。ルーツは根本陸夫監督と意気投合。夜通し野球談義に花を咲かせた。
根本は72年途中に退任したが、若手選手を中心にしたチームづくりと、ルーツと赤い糸をつないだことが、75年の優勝の遠因となった。ルーツ監督を当時の松田耕平オーナーに推薦したのは根本だった。初の海外キャンプは調整の意味では課題を残し、成功とは言えなかったが、同オーナーは「大きな1カ月間になった」と回顧している。
ルーツは74年に初来日し、コーチに就任した。当時では珍しい外国人コーチとして注目されたが、期待とは裏腹に目立った成果は残せなかった。とにかく頑固。他のコーチとの確執も招き、チームは3年連続の最下位に沈んだ。去就問題が注目されたそのオフ、ルーツは契約を1年残して自ら退団、帰国する意向を明らかにした。
シーズンが終わり、一時帰国する直前。ルーツは地元の中国新聞社のインタビューを受けた。その場で「私はチームに必要のない人間だ。もう日本には帰ってこないだろう」と明言した。そこまで腹をくくって、その日のうちにオーナーのもとを訪れたルーツは意外な言葉を聞かされることになる。「ぜひ来年の監督をお願いしたい」-。
当時の状況はこうだった。最下位脱出を果たせなかった森永勝也監督の辞任はほぼ確実で、注目は後任人事の方に移っていた。古葉コーチの昇格か、ベテラン山本一義の引退→監督就任か、それともルーツか…。一般的にはルーツの球団内でのポジションは高くないと思われていたが、球団側はルーツこそが改革に必要な人間と確信していた。
実際に山本一は、貴重な戦力として現役続行が決定。古葉コーチも同様に留任した。創設以来、25年間も低迷してきたチームを変えるには「劇薬」が必要だった。ルーツこそが求める人材と、根本と重松球団代表の考えは一致していた。その信念が間違っていなかったことは数カ月後に証明される。
ルーツは「これらのことをお願いしたい。それが無理なら引き受けられない」と就任にあたって多くの要望をフロントに突きつけた。それが日本ハム大下剛史の獲得であり、その他トレードや新外国人の獲得による戦力の増強。そして世間を驚かせた伝統のユニホームの変更だった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆74年の広島成績 森永新監督のもと長谷川良平投手コーチがヘッド、南海から古葉竹識コーチが復帰し、ルーツが打撃コーチに就任。山本一義が打撃コーチ兼任と首脳陣が一新。エース金城基泰が20勝で最多勝に輝き、衣笠・山本浩コンビは計60本塁打と奮闘したが、54勝72敗4分けで3年連続の最下位。球団史上4度目の全5チームに負け越し。
◆重松良典(しげまつ・よしのり)1930年、広島市生まれ。慶大サッカー部でウイングとして活躍。東洋工業では黄金期を支えサッカー日本代表にも選ばれた。引退後は日本サッカーリーグの設立に尽力。同リーグ発足後は主幹として運営に貢献した。野球界に転じて74年に広島の球団代表に。75年、79年、80年とリーグ優勝。81年のシーズン後に辞任、退団した。その後もサッカー界でJリーグ創設や日韓W杯の開催に関わった。
February 19, 2008 12:00 AM
2008年02月18日
歴史的トレードが原点
【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(1)】
「原爆のせいで向こう70年間は草木も生えない」。そんな絶望的な状況下の50年(昭和25年)、広島カープはまさに焼け野原に産声を上げた。だが、それからの道のりは途方もなく険しかった。低迷が続き「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで言われた。身売りの危機もあった。ようやく「お荷物球団」を返上したのは創設から25年後の75年。帽子とヘルメットを赤にかえた「赤ヘル軍団」が日本全国に旋風を巻き起こした。前年まで3年連続最下位のチームがいきなり初優勝-。その舞台裏を全10回で連載する。
ひとつのトレード。それがチーム改革のスタートとなり、翌年の「赤ヘル旋風」につながった。74年10月22日、日本ハムの看板選手、大下剛史の自宅の電話が鳴った。所用で仙台から東京に帰った直後に、球団関係者から「広島に行ってくれ」と短かい言葉でトレードを通告された。青天のへきれきとはこのこと。大下は広島県出身にもかかわらず、しばしぼう然とした。「何でだろう。何でこのオレが広島に出されなければいけないんだ」。
73年11月に日拓からチームを買収した日本ハムも、2年目に向けて変革のときを迎えていた。大下が通告を受ける2日前のあるスポーツ紙には「日本ハム、大下以外の全選手がトレード要員」と報じられていた。「それなのに真っ先に自分がトレード。まさに電撃的。これも三原マジックなのか」。苦笑いするしかなかった。当時の日本ハム球団社長は伝説の名監督で「魔術師」の異名をとった三原脩。広島の歴史を動かすトレードを陰で演出した1人となった。
広島側は主力級の上垣内(かみごうち)誠外野手、渋谷通内野手の2人を放出。4日後に1対2のトレードが発表された。この年まで3年連続最下位の「弱小球団」が大きくカジを切った瞬間だった。
広島フロントに大下の獲得を要請したのは、前日21日に広島新監督に就任したばかりのジョー・ルーツだ。ルーツは74年に広島の打撃コーチを務め、前監督・森永勝也の引責辞任を受け、監督となった。日本球界初のメジャー出身監督の誕生だった。実はルーツは受けるにあたって球団に「条件」を突きつけていた。「日本ハムの大下をとってくれ」。就任発表とトレード発表の時期がほぼ重なったのはこのためだった。
ルーツはどうしても大下が欲しかった。74年春のオープン戦で、広島が日本ハムと対戦した時のことだ。ベンチから戦況を見ていたルーツ打撃コーチは思わず目を見開いた。三塁ベースコーチの静止を振りほどいて、強引にホームに突進する選手がいた。大下だった。「ああいう選手が広島には必要なんだ」。ルーツは確信した。大下は俊足巧打の二塁手で、ガッツプレーが身上だった。
いざ、監督就任という流れになった際、ルーツは当時の広島球団代表の重松良典に大下獲得を申し入れた。重松は「大下? さすがに日本ハムも出さないだろう」と、半分あきらめつつも日本ハムに打診。予想に反して話は通った。大下は「広島に足りなかった弱い部分を変えたかったんだろうね。それにしても因縁のトレードだった」としみじみ言った。入れ替わりで放出された上垣内は広島商で大下と同期だった。
大下は移籍1年目に44盗塁で生涯初で、唯一のタイトルを獲得。歴史を振り返れば第1弾トレードは成功した。だが、これだけでは終わらなかった。変革への動きはますます加速していった。(つづく=敬称略)【柏原誠】
◆大下剛史(おおした・つよし)1944年(昭和19年)11月29日、広島県海田町出身。広島商、駒大を経て66年ドラフトで東映入り。70年に3割を打つなど走攻守そろった二塁手として活躍。75年にトレードで広島へ。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回、球宴出場5回。引退後は広島のコーチを務め厳しい練習で「鬼軍曹」といわれた。
◆ジョー・ルーツ Joe Lutz。1925年2月18日、米アイオワ州出身。現役時は主に一塁手。メジャー経験はセントルイス・ブラウンズ(現オリオールズ)での14試合。引退後、71年から3年間インディアンズの打撃コーチを務め、74年に広島打撃コーチとして初来日。75年に監督就任も、退場を機にわずか15試合で辞任した。任期中の成績は6勝8敗1分け。
February 18, 2008 12:00 AM
2008年02月15日
今も未来の「魔女」育成
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(10)】
「魔女」の伝統を引き継ぐ「ユニチカ貝塚」は、69年から日本リーグを3連覇。「東の日立、西のユニチカ」として女子バレー界を引っ張っていった。監督の小島孝治の熱心な指導の下、伝統の守備は健在だった。85年にユニチカ入りし、96年アトランタ五輪では日本代表の主将を務めた中西千枝子(41)は、その重みをかみしめたという。
中西「東京五輪の時は生まれていないし、正直、ユニチカに入るまでは伝統を知らなかった。でも旧体育館で練習して、そこにあった資料館を見て『すごいところに入ったんだ』と思った。回転レシーブの話を聞いて『レシーブだけはどこにも負けてはいけない』と必死に練習しました」。
しかし、不況のあおりが企業スポーツを襲う。97年、ユニチカは貝塚工場を閉鎖。00年7月には、ついにバレーボール部の活動停止を発表し、チームは滋賀県に本拠を置く東レに譲渡された。貝塚での46年間のバレー部の歴史の幕を閉じたのだった。
ニチボー、ユニチカは貝塚市民にとって「おらが町の誇り」だった。貝塚市バレーボール連盟会長の塔筋覚(73)は、チームが消えた7年前を「宝物を失った感じだった」と振り返る。ユニチカ関係者と市民とのお別れ会では参加者の多くが涙を流し、別れを惜しんだという。
そのころ、日本バレーボール協会ではナショナルトレーニングセンター(NTC)構想が浮上していた。金メダル戦士を生み出した施設で、若年層を養成プログラムのもとに鍛え上げる。専用体育館と宿泊施設を整備した貝塚工場跡地で、毎年10人ほどの未来の「魔女」を育てることになった。
NTCは05年に正式にスタート。同時に日本代表女子チームも、この施設で合宿するようになった。現在開かれているW杯を前に先月も、1カ月に及ぶ合宿が行われたばかりだ。地元も塔筋が中心になって「サポーターズクラブ」をつくり、代表をもり立てている。
バレーで町の活性化を図る貝塚市も、04年に「バレーボールのまち貝塚」を宣言した。ロゴや標語も決め、地元菓子店では「バレーボールもなか」も販売されている。05年には、元の貝塚工場事務所を「貝塚市歴史展示館」(貝塚市半田138-1。電話072・431・0500)として開館。34年の建築で「国登録有形文化財」登録の建物の中には「魔女」の汗と涙が染み込んだ旧体育館の床など、ニチボー貝塚関連の資料が展示されている。
そして「魔女」は、今でもバレーボールの普及に努めている。現在、全国各地に散らばっているメンバーだが、年に数度は必ず集まる。金メダルをつかんだ東京五輪で主将だった河西昌枝を中心にバレーボール教室に積極的に参加し、小学生からママさんまで熱心に指導。そんな河西が現在と比較し、あらためて当時を振り返った。
河西「最近も相撲の時津風部屋など、行き過ぎた練習が問題になった。私たちも、はた目にはイジメのように見られていたと思うけれど、全くそういう気持ちはなかった。厳しさばかり指摘されるけれど、13年の選手生活は『バレーの面白さ、楽しさを教えてもらった』という印象の方がはるかに強い。先生(監督の大松博文)との『絶対の信頼』こそが財産でした」。
戦後の貧しさから必死に脱却した高度成長時代。金メダル、258連勝の金字塔…。何よりも師弟愛で結ばれ必死にボールを追う姿が、日本中を熱狂させたのだった。(この章おわり=敬称略)【近間康隆】
February 15, 2008 12:00 AM
2008年02月14日
長嶋が王が野村が鶴岡が
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(9)】
ニチボー貝塚の大フィーバーには、多くの逸話が残っている。その1つが「魔女が消えた!」だ。東京五輪開幕直前、金メダル確実といわれた女子日本代表をマークしていた報道陣は大パニックに陥った。東京・代々木の選手村に選手の姿がない。そして「消えた!」となったのだ。産経新聞記者として取材していた八木嬉子(70)が内幕を明かす。
八木「選手は四谷の日本旅館に泊まっていました。みんなで一緒に大広間で食事をして、大風呂に入って、時間のあいている時は語り合ってもらう。大一番を前に、より結束を固めようとした大松監督の狙いがありました。これはマスコミでも、一部の人しか知りませんでしたね」。
思惑通りだった。主将兼コーチだった河西昌枝は「畳の部屋で寝られたし、深夜まで談笑してました。いつもと変わらない生活を送ることができました」と振り返る。選手村にいると、どうしてもプレッシャーがかかる。また、日を追うごとに競技を終えた選手が騒ぐようになっており、同時にマスコミの喧騒(けんそう)からも逃れることができた。ハードな練習ばかりが取り上げられた大松博文だが、選手に対してはこういうデリケートな心遣いを忘れなかった。
ソ連との決勝前々日の64年10月21日夜には、球界のスター、巨人長嶋茂雄が宿舎を訪ねてきた。「スポーツに関する話を次から次に聞かせてくれた。緊張で硬くなる私たちをほぐそうとしてくれたのだと思う」と河西。翌朝にも果物を差し入れた長嶋は、ソ連戦を観戦した。王貞治も館内にいた。ONが生で見たいというほど「東洋の魔女」への関心は高かった。
普段の練習から注目されていた。大松の指導法を学ぼうと、北海道から九州まで多くの指導者が集まって来た。当時、大阪・四天王寺高監督で、のちに大松の後任としてニチボー、ユニチカで指揮を執った小島孝治が言う。「南海の野村さん(現楽天監督)が来ていたのを覚えています。ものすごく必死な目で見てましたね」。南海からは当時チームを率いていた鶴岡一人も訪れた。猛練習を見ると「こりゃあ、男には通用せんわ」と口をあんぐりさせたという。阪神や阪急からも選手や関係者の見学が相次いだ。プロ選手がどん欲に何かを吸収しようとするほど、ニチボーの練習は中身の濃いものだった。
五輪後には、魔女フィーバーが最高潮となった。空前のバレーブームが訪れ、テレビドラマ「サインはV」は平均視聴率32%の大ヒット。漫画「アタックNo.1」も大人気だった。大松の口癖だった「根性」は流行語に、著書「おれについてこい!」「なせばなる」はベストセラーになった。その猛練習を映画化した「挑戦」は、カンヌ映画祭で「短編の部 最優秀グランプリ」を獲得。大松や選手には取材や講演依頼が殺到し、カメラに追われ続ける日々を送った。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆64年の出来事 日本は経済協力開発機構(OECD)に正式加盟。10月1日に東海道新幹線が開業し、同10日に東京五輪開幕。同25日の五輪閉幕翌日に池田勇人首相が辞意表明、佐藤栄作首相が誕生する。映画「モスラ対ゴジラ」やテレビ「ひょっこりひょうたん島」が大人気。レコード大賞は青山和子の「愛と死をみつめて」が受賞した。プロ野球はパ優勝の南海がセ優勝の阪神との日本シリーズを4勝3敗で制して2度目の日本一。大相撲では横綱大鵬が年4場所制覇。菊花賞ではシンザンが史上2頭目の3冠馬となった。
February 14, 2008 12:00 AM
2008年02月13日
「王者は敗れるためにある」
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(8)】
来るべき日がやってきた。1966年8月6日、世界選手権兼アジア大会代表選考会の対ヤシカ戦。第1セットを15-2で先取したニチボー貝塚だったが、第2、第3セットを落とした。第4セットこそ取り返したが、粘りは届かなかった。最終第5セットは、10-15。連勝開始から2458日目、積み重ねてきた大記録がついに止まった。場所は皮肉にも、東京五輪で歓喜の金メダルを獲得した駒沢屋内球技場だった。
うなだれる選手の横で、観戦していた前主将の河西昌枝が報道陣に囲まれていた。「いつかこういう日が来るとは思っていましたが…。今は後輩たちがかわいそうな気持ちでいっぱいです」。控室で号泣する後輩を思い、河西もハンカチで目を抑えていた。「ニチボー貝塚、敗れる-」。報道は翌日の新聞各紙のトップを飾り、日刊スポーツは「王者は敗れるためにある」と書いている。
実は東京五輪後は、激動の連続だった。65年1月、監督の大松博文がニチボーを退社。後任には大阪・四天王寺高監督で、五輪ではマネジャーを務めた小島孝治が決まった。だが、大松の後を追うように河西と宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子も辞表を提出。小島にとって、四天王寺高での教え子になる谷田、松村の引退は誤算だった。金メダルメンバーが5人も抜けたが、小島にも意地があった。
小島「そりゃ、引き継ぐのは嫌だった。本音を言えば、ゼロからやりたかったよ。大松さんの後は、何やっても2番煎じと言われる。でも、大松さんの指導には心、魂があった。情熱だけは負けないようにと思っていた」。
四天王寺高を高校バレー界の強豪に育て「選手づくりの名人」と言われた小島の手腕は確かだった。旧チームでは2軍としてほとんど試合経験のない選手を厳しく鍛えた。攻撃型のチームとして生まれ変わったニチボー貝塚は、魔女引退後で違った意味で注目される中でも、白星を重ねていった。
時には思わぬ敵も現れた。66年4月には、引退した「魔女」が女優の淡島千景をオーナーに「フジ・クラブ」というチームを結成した。河西ら3人が結婚、練習量もわずかだったが、引退直後だけに実力は十分。実業団の強豪を次々と破り「魔女の復活」と持ち上げられた。同年6月24日のNHK杯で、ニチボー貝塚とフジ・クラブが激突。何ともいえない盛り上がりを見せた「新旧魔女の対決」は、「新魔女」が3-1で勝利を収めた。
ニチボー貝塚はこの大会で、ヤシカ、日立武蔵も下して5連覇を果たした。緊張から解き放たれたようにこの41日後、連勝はストップ。苦境で始まった小島ニチボーだったが、258連勝の後半に「83個」の白星を上積みしていた。
67年には男女6チームにより、日本リーグがスタートした。全国各地で行う長期リーグ戦はプロ野球、サッカーに続くものだった。ニチボー貝塚は日立武蔵、ヤシカ、全鐘紡、東洋紡守口、林兼産業とともに創設メンバーとなる。69年には会社の合併で「ユニチカ」と改称したが、伝統は脈々と受け継がれた。ニチボー貝塚が引っ張った女子バレー界は、隆盛を迎えた。(つづく=敬称略)【近間康隆】
★日本の主な連勝記録
◆プロ野球 54年南海と60年大毎の18連勝。
◆サッカー 鹿島がリーグ戦16連勝(98~99年)。
◆ラグビー 神戸製鋼が公式戦71連勝(88~94年)。関西大学リーグでは同大が85年に大体大に敗れるまで71連勝。関東大学対抗戦では明大が50連勝。
◆柔道 山下泰裕が203連勝(7分け挟む)。女子では谷亮子がアトランタ五輪決勝で敗れるまで84連勝、その後も65連勝。
◆大相撲 第35代横綱双葉山の69連勝。
◆テニス 沢松和子が国内試合192連勝(67~74年)。
◆学生 日体大水球部が376連勝(73~95年)。天理大ホッケー部は男子が関西リーグ331連勝、女子は国内219連勝。
February 13, 2008 12:00 AM
2008年02月12日
日本選抜と「巌流島の決戦」
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(7)】
辞意を撤回した監督の大松博文に、次なる問題が持ち上がった。翌64年の東京五輪で「金メダル」を至上命題にする日本協会で、新たな議論が起こったのだ。五輪強化本部本部長の前田豊が「今の日紡は飛び抜けて強いが、金メダルを絶対的なものにするには日紡を追い越すようなチームが欲しい」とコメント。この発言は新聞各紙に「協会が打倒日紡のチームを編成」と報じられた。
協会はその言葉どおり、日紡と長年のライバルの倉紡や鐘紡、ヤシカの選手を集て合宿を重ねた。63年8月に協会は、日紡貝塚の欧州、中近東遠征と同時期に選抜チームを中国へ派遣。ここで10勝1敗の好成績を残したことで、選抜チームの強化に拍車が掛かった。
そして10月、五輪リハーサルの「東京国際スポーツ大会」が開催された。ソ連、チェコスロバキアを招いたこの大会で、日本からは日紡貝塚と日本選抜、高校選抜の3チームが出場。ここでなんと、日本選抜がソ連に2連勝したのだ。世界最強の「東洋の魔女」を日本選抜が破るか-。日紡貝塚対日本選抜の試合は異様なムードの中で行われた。
日紡貝塚が第1セットを10-15で失う。第2セットは15-12で競り勝ったが、第3セットは5-15。約4年間負けを知らないチームが、土俵際まで追い込まれた。だが、そこからが真骨頂。鉄壁の守備でボールを拾ってつなぎ、第4、第5セットを連取。勝利を譲らなかった。河西昌枝主将が強さを説明する。
河西「いつもの練習でやっているとおりにやり、先生の言うとおりにしていれば、負けることはないと思っていた。自分たちほど練習しているチームは、ほかにない。厳しい練習を乗り越えている自信と、勝ち続けているモチベーションが、連勝につながっていたのかもしれません」。
両チームは翌64年3月21日のNHK杯で再戦した。前年同様、日紡貝塚が負けることを期待するかのような報道が続き、この一戦は「巌流島の決戦」と呼ばれた。選手を鼓舞する大松。「どんなチームもやってない練習をしてきた。どんな状況でも最高のプレーが出せる信念を持っている。負けることはない」。日紡貝塚は、5カ月前にフルセットまで持ち込まれた相手をストレートで下す。「五輪は日紡貝塚を主力とする」。1年以上の代表編成論は決着した。
同年4月26日。創立75周年を迎えた大日本紡績は「商品名と社名を一致することで宣伝効率を高めたい」と、社名を「ニチボー」に改称した。このころはマスコミ媒体で「ニチボー貝塚」を見ない日はないというほど、注目を浴び続けた。会社にとって、社名変更の宣伝効果は十分だった。
ピエロのように扱われても、大松は冷静だった。試合のない期間は全国各地、特にニチボー関連企業がある土地で「お披露目」の練習行脚をすることがあった。「どんな環境で試合するか分からない」と真冬で極寒の北海道では窓を開け、雨の屋外コートでも練習させた。多くのリスクを背負いながらも「6人での戦い」に執着したニチボー貝塚は、幸い1人の離脱者も出さずに五輪本番を迎えた。金メダルへのシナリオは、五輪前にでき上がっていたのだった。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆東京五輪の金メダル 開幕前に選手強化対策本部は「目標は金メダル34個」と発表した。実情は「全体の10%にあたる15個は欲しい」(大島強化本部長)だったが、女子バレーボールの1個は確実とされていた。結果は16個(体操5、レスリング5、柔道3、ボクシング1、重量挙げ1、バレーボール1)で前回60年ローマ大会の4個を大きく上回り、米国(36個)、ソ連(30個)につぐ3番目で開催国の面目を保った。なお、金メダル16個は04年アテネ大会と並んで史上最多。
February 12, 2008 12:00 AM
2008年02月11日
激震!大松監督突然の辞意
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(6)】
1962年6月、日本が開催国として主張した東京五輪の女子バレーボールの採用が正式に決まる。「地元で金メダル確実」という思いがあったのだが、五輪まで2年の道は平坦ではなかった。世界選手権優勝から凱旋(がいせん)帰国した同年11月10日、思わぬ騒動が持ち上がった。祝勝会の席で突然、監督の大松博文が辞意を表明したのだ。
「この2年間、ソ連を破って世界一になるためにやってきた。これで目的は達成できたし、体力も限界にきているので、監督は辞めたいと思っています」
協会幹部は混乱し、報道陣は色めき立った。大松はその後、理由を<1>世界一になって目的を果たした<2>結婚適齢期の選手を解放してやりたかった<3>犠牲にしてきた家庭を大事にしたかった-と語っている。激しい練習の日々で、持病だった心臓の状態もよくなかった。
直前の10月に、日本は初めて世界の頂点に立っていた。モスクワで行われた第4回世界選手権。日紡貝塚の10人に、翌春日紡入社する磯辺サダ、篠崎洋子の高校生2人を加たメンバーだった。前年の欧州遠征で「東洋の魔女」と名付けられたチームは注目を集める。それでも大松はマイペースを崩さず、試合の日も最低4時間の練習を欠かさなかった。
「打倒ソ連」に燃えたチームは、宿敵と20日の決勝リーグ3戦目で激突した。会場にはブレジネフ最高会議議長や前年に人類初の宇宙飛行を成功させたガガーリンら、約2万人の観衆が詰めかけた。第1セットを落とした日本だが、猛練習で身につけた「回転レシーブ」で守り抜き、第2、第3セットを連取。第4セットは15-3で圧倒した。完全アウエーで王者を破った日本は、その後の3戦もものにして初優勝。ソ連を倒した悲願の世界一で、指揮官に大きな達成感があっても不思議ではなかった。
大松の辞意表明後、主将の河西昌枝以下、選手も同調し引退表明。大松のもとへは協会幹部が日参して説得。一般市民も5000通以上の手紙を送って辞意撤回を求めた。日紡貝塚はいつの間にか「日紡のチーム」から「日本のチーム」になっていたのだ。
騒動から1カ月半。年末に大松は「ゆっくり相談して来い。お前たちがやるのなら、ワシもやる」と選手に休暇を与えた。女性の平均結婚年齢が24・5歳だった当時、五輪時にはレギュラー平均年齢は26歳、最年長河西は31歳になる。金メダルを目指すことが、女性としての幸せを邪魔してしまうと大松は心を痛めていた。チームでただ一人、婚約者がいた半田百合子が振り返る。
半田「辞めるつもりで故郷の栃木に帰ったんです。そしたら彼が「もう少しやっていい」と言うので決心しました。でも、五輪までの2年間は、正直しんどかったですね」
年が明け63年1月4日。帰郷先で周囲の期待を肌で感じた選手たちが貝塚に戻った。「石にかじりついてでもオリンピックまではやります」の決意に、大松も「あと2年、はじめからやり直すつもりで頑張ろか」と答えた。金メダルを目指して猛練習に立ち向かう覚悟を決めた選手の強い意思に、大松の心は震えていた。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆バレーボール世界選手権 国際バレーボール連盟主催の伝統ある世界大会。49年にチェコで第1回男子大会が開催され、女子は52年から行われている。日本は60年のブラジル大会から参加。2006年の日本大会まで男子は70、74年の3位が最高で、女子は62、67、74年と3度優勝している。現在は開催国と前回優勝国、各大陸予選を勝ち抜いた24カ国が出場。五輪イヤーの中間年に行われ、次期五輪前哨戦という位置づけでもある。10年女子大会も2大会連続の日本開催が決まっている。
February 11, 2008 12:00 AM
2008年02月08日
壮絶!「回転レシーブ」誕生
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(5)】
世界での実績を積み上げる一方で、監督の大松博文の不安はどんどん大きくなるばかりだった。挑戦者から追われる立場となり、各国は当然のように対策を練ってきた。特に世界王者ソ連は国を挙げてマーク。日紡貝塚の試合を4~5人のグループで密着して8ミリカメラで撮影するなど、あらゆる角度から分析されるようになった。
世界の主流は攻撃偏重だったが、大松のモットーは「守備は最大の攻撃なり」。その象徴が「回転レシーブ」だった。
欧州を転戦する中で、大松は日本の欠点を感じていた。「外国選手は長い手足で守備範囲も広いが、日本は尻もちをついてしまう。尻をつかずにボールを受けれないものか」。9人制ではレシーブで尻もちついても、ほかの8人がカバーできた。だが、6人制ではそうはいかない。レシーブしてすぐ攻撃に移る体勢をつくらないと、大きな穴ができてしまう。
また、9人制の名残で多用していたオーバーハンドパスが、欧州ではドリブルやホールディングの反則に取られることが多かった。新興国を認めたくないという審判の悪意もあったようだが、そうも言ってはいられない。セッターへちょうどいい高さのレシーブを返すためにも、アンダーハンドパス技術の向上は必須だった。
これまで届かなかった相手の攻撃をレシーブできる守備範囲の広さを求め、そしてすぐに攻撃の態勢もつくることができる。それを実現できるのが「転びながらボールを受け、その反動でクルリと起き上がる」プレーだった。のちに日本チームの代名詞になった「回転レシーブ」は、苦境の中から生まれてきた。
61年に始めた練習は壮絶だった。大松はまず、体育館の硬い木製床へ何度も飛び込ませた。飛び込んですぐ起き上がらないと、大松の打つボールが顔面目掛けて飛んできた。体育館の端から端まで回転しては起き上がる動きを繰り返す選手の体は、あっという間に青あざやナマ傷だらけとなった。ある時、練習見学に来た高校生がマネしたところ、鎖骨を骨折したという。一番、のみ込みが早かったという松村好子が振り返る。
松村「先生が『これから秘密練習をする。誰も体育館に入れるな』と言うのが始まりでした。ギリギリのボールが飛んできて床に体をぶつけないといけないから、アザだらけ。それを1人300本でした」
選手は腰や背中に座布団を巻きつけ、ひざにはサポーターをして飛び込み続けた。時には夜明けまで行われた特訓の中、大松は「できないことをやるのが練習だ」とハッパを掛け続けた。肩から落ち、すぐに左右に回転するレシーブ。選手は理論でなく文字通り体で覚えていった。
やがてコツをつかむと、勢いを殺したボールを返せるようになる。セッター河西昌枝のトス回しがさえるようになり、攻撃の幅も広がっていった。会得するまで早い者で半年、遅い者で2年はかかったという「回転レシーブ」。苦労して手に入れたのは、当時どこの国もできない日本オリジナルの「武器」だった。体育館を転がりまわった日々。選手は秘技とともに、猛練習を乗り越えた自信をつかんでいた。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆日本が生んだプレー 「回転レシーブ」誕生後、60年代には男子代表が「独自のプレーを」と取り組んだ。トスを低く速く上げて素早く打つ「クイック」や、おとりのプレーヤーが跳んで相手ブロックのタイミングを狂わせる「時間差攻撃」、ジャンプする前にフェイントのジャンプを入れておとり役とアタッカーを1人で行う「1人時間差」などを考案。多種多様な攻めで72年ミュンヘン五輪で金メダルをつかんだ。女子も「ひかり攻撃」と名づけられた長いBクイック(セッターから離れて平行トスを打つ)を武器に、76年モントリオール五輪で金メダルを手にした。
February 8, 2008 12:00 AM
2008年02月07日
厳しさの分だけ深まる絆
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(4)】
常に15人を超える部員がいた日紡貝塚だが、監督の大松博文はメンバーの固定にこだわった。「1人1人の力量では勝てなくても、バレーはチームで戦うもの。6人の力で勝てばいい」。これ、と決めた選手は徹底的に鍛え抜いた。長時間の練習は、基本の反復とコンビネーションの精度を上げることに費やされた。レギュラー6人は常に一緒に行動させ「目と目で通じ合う」関係を築かせた。
「試合にはどんな体調で臨むか分からない」と病気で練習を休むことは許さなかった。「大事な試合前に虫垂炎になったら困る」という理由で、選手が腹痛を訴えると、できるだけ盲腸を切らせた。宮本恵美子の肋骨(ろっこつ)にヒビが入った時も「ばんそうこうを張っておけば治る」とすぐにコートに立たせ、周囲をヒヤヒヤさせた。
一見、ムチャクチャに見える根性論だが、実は緻密(ちみつ)な選手管理を行っていたのだ。故障や体調不良の選手が駆け込んでいたのは、岸和田市の寺田病院。まだチームドクターがいない時代に大松は、同病院院長である白旗信夫院長をチーム専属医としていた。それだけではない。診察を終えた選手が体育館に帰ってくるまでの間に、こっそり病院に電話して症状を確認。「患部をしっかり固めろ」「長時間の練習はダメだ」などという白旗の指示に従い、決して無理をさせることはなかった。白旗は生前「大松は常に心と科学の調和を考えていた。選手全員の綿密なカルテをつくっていた」と語っている。
指揮官の考えを、選手も十分に理解していた。代表ではコーチも兼任していた主将の河西昌枝は言う。「いつも『この6人で戦うんだ』と思っていた。ほかの5人に迷惑が掛かるから、練習を休みたいとは思わなかった」。その言葉を裏付けるように、河西は自らを襲った不幸にも驚くべき行動をとった。
東京五輪まであと3カ月に迫った64年7月15日。欧州遠征から帰国した河西は、父栄一さんが危篤状態であることを知らされる。だが、故郷山梨で2時間ほど見舞っただけで、すぐに貝塚へ戻った。21日から五輪に向けた初の合同合宿が行われるからだった。4日後の19日朝、栄一は帰らぬ人となる。河西はその日の夜行電車に乗って山梨へ。それでも20日の葬儀が終わると、悲しみにくれる間もなく、その日の夜行で大阪へ戻った。
河西「父には金メダルや花嫁姿を見てほしかった。もちろん寂しさはあったけれど、五輪前の大事な時期。代表チームではコーチにもなっていたし、大事な時期に私事で合宿を抜けることは自分で許せなかった。この合宿は人の和をつくり上げるのが目的でしたから」
翌21日昼、貝塚に戻った河西は、すぐにユニフォームに着替え、始まったばかりの合宿に参加した。涙を見せない河西に大松は激しくボールを打ち続け、河西も必死に食らいついた。数日間、ほとんど眠っていない状態で悲しみを感じさせないように歯を食いしばる教え子に、ボールを通じた激励。厳しさだけがクローズアップされていた「鬼の大松」だが、選手とは強いきずなで結ばれていた。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆河西昌枝(かさい・まさえ)現姓・中村。1933(昭8)7月14日、山梨県生まれ。甲西中でバレーを始め、巨摩高から52年に日紡入社。関ヶ原、足利工場と移り、貝塚バレー部結成の54年に移籍。57年から主将を務め、64年東京五輪ではコーチ兼主将のセッターとしてチームを引っ張った。65年5月、大松監督に依頼された佐藤栄作首相(当時)の取り計らいで、自衛官の中村和夫氏と結婚。2男1女を育てる傍ら女子強化委員、04年アテネ五輪の日本代表女子チーム団長を務めた。
February 7, 2008 12:00 AM
2008年02月06日
魔女が生まれた海外遠征
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(3)】
チーム結成から5年が過ぎ、日紡貝塚の強さは際立っていた。58年には都市対抗、実業団、国体などを制し国内5冠を達成。だが同時に、1つの転換期を迎えていた。
日本では9人制が主だったが、世界の主流は6人制へ移っていた。米国から欧州、共産圏へと広まった6人制は戦後、その影響を受ける国へと普及していく。9人制をやっているのは日本と韓国、香港という東アジアだけになっていた。当初は「6人制は遊び」と否定的だった大松博文も「日本の次は世界。世界で戦うには6人制だ」と決断する。
59年に入り本格的に6人制の練習は始まった。同じバレーとはいえネットは約10センチ高くなり、コート上の動きも勝手が違う。ぎこちない選手を見て、大松はひそかに米国、フランスから説明書を取り寄せて研究した。協会も6人制移行を勧め、他チームも続く。同年11月14日、全日本総合で明治生命を2-0で下した試合が、日紡貝塚258連勝のスタートになった。
60年10月、日紡貝塚中心の日本チームは、ブラジルで行われた第3回世界選手権に出場する。わずか2年の練習で臨んだ初の世界大会で、チェコスロバキア、ブラジル、米国の強豪を次々と撃破。世界一のソ連にこそ1-3で敗れたが、いきなりの銀メダル獲得した。協会幹部は「快挙だ」と興奮を隠せなかった。だが大松は「1位でなければ猛練習の意味がない。これが世界挑戦へのスタートだ」と「打倒ソ連」へ闘志を燃やした。
翌61年、日紡貝塚は9人の単独チームでチェコスロバキアで開かれた3大陸選手権に臨んだ。大会前後に東欧諸国やソ連各地の選抜チームと親善試合を組んだ遠征は、約2カ月にわたった。女性が海外に行くことが珍しい時代に長期間の海外滞在。ライトの宮本恵美子は「食事が合わず、やせ細っていった」と振り返る。それでも24時間生活をともにし、いっそう結束は強まった。同選手権で優勝した日紡貝塚は、初の欧州遠征を22戦全勝で終える。
当初は挑戦的だったソ連地元紙も、次第にその強さを称賛していった。「太平洋の台風を前に、まるで葦(あし)の細茎のようにポロポロと折れてしまった。彼女たちのテクニックはゴツゴツして美しさに欠けてるが、ほとんどミスがない。いかなる時も精神の均衡を失わないのも大きな長所である」「台風だと思っていたら台風はつぶれない。あれは東洋の魔法使いだ」などと報じた。これがその後「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけになった。
世界で強さを見せ、日紡貝塚は大きく注目されるようになる。帰国したメンバーを待つ大阪駅は人であふれ、貝塚では市中パレードが行われた。練習時は見学する社員で人だかりができるようになり、練習を終えた選手が深夜に部屋へ戻ると、同部屋の社員が湯たんぽで布団を温めていてくれたという。周囲の期待は強まるばかり。それでもチームは、ハードな練習を続けるだけだった。(つづく=敬称略)【近間康隆】
February 6, 2008 12:00 AM
2008年02月05日
大松の「日本一苦しい練習」
【258連勝 ニチボー貝塚バレーボール部(2)】
大日本紡績(以下日紡)の「バレー部オールスター」が大阪・貝塚にできたのは東京五輪の10年前、54年(昭29)だった。「ニチボー75年史」(65年編集)によると、日紡にバレー部ができたのは23年。「女子スポーツで上を向いて動くのはバレーボールだけ。青空を見て心地よく、狭い日本でもできる最適のスポーツ」(同史)というのが理由だった。戦前に全日本3連覇を果たした兵庫・尼崎や栃木・足利、岐阜・関ケ原などにチームがあった。
9人制が主だった当時、日紡とともにバレー界の覇権を競っていたのは倉紡や鐘紡、日清紡の紡績会社チームだった。24時間稼動の紡績工場では多くの若い女性が働き、その姿は「女工哀史」と呼ばれた。手軽なレクレーションとして親しまれたバレーボールは、次第に「社運」を盛り上げる企業スポーツになっていく。53年11月、ライバルの他社に負けない強力なチームを、と大阪の本社に近く、約5万坪の広大な敷地があった貝塚工場に有力選手を結集させ、新しいチームを結成することが決まった。
監督として白羽の矢が立ったのが、関学大バレー部時代に尼崎でコーチ経験があった32歳の大松博文だった。大松はのちに「会社の代表チームなら、当然勝たなきゃいけない。勝つ苦しさは知ってるし『やめたい時にはいつでもやめる』という条件でやっと引き受けた」と振り返っている。渋ったものの、最後は社長命令で初代監督に就任した。
始動は54年1月。大松には1つの信念があった。「伝統あるチームと同じことをやっていては日本一になれない。日本一苦しい練習をやって勝ち取る栄冠でないと、意味がない」。スタートから屋外の赤土コートで何百回ものレシーブ練習を行った。手の皮が擦りむけ、出血する選手たち。同世代の女性社員からは「大松は女性の敵」「あんなことはやめさせろ」と抗議が殺到した。
結果はすぐに出た。創部2年目の55年には、早くも実業団選手権、全日本総合、国体を制して3冠達成。有望新人が毎年のように入部し、戦力も充実した。それでも練習の激しさは増すばかり。周囲からは非難の嵐だったが、猛練習は厚い信頼関係の上に成り立っていた。産経新聞記者として取材し、武庫川女大バレー部時代にはインカレ優勝経験を持つ八木嬉子(70)が証言する。
八木「選手に取材していて、不満を聞いた事がなかった。大松監督は1つ1つをかみ砕いて、覚えるまで丁寧に教える。時には手が出ることもあったけど、たたくのはお尻とか肉のついているところだけ。顔や体は決してたたかなかった。こんな指導を受けてみたかった、と選手がうらやましいぐらいでした」
57年には体育館が完成。天候や日暮れに左右されなくなると、大松の指導は深夜にまで及ぶようになる。24時間稼動の工場はいつでも食事、風呂が準備されており、時間を気にする必要もない。充実した練習を支える恵まれた環境。「日紡貝塚」が国内無敵の強さを誇るまで、時間はかからなかった。(つづく=敬称略)【近間康隆】
◆大松博文(だいまつ・ひろふみ)1921年(大10)2月12日、香川県生まれ。坂出商3年でバレーボールを始め、関学大から41年日紡入社。53年に日紡貝塚監督に就任する。「鬼の大松」と呼ばれる猛練習で日本代表を62年世界選手権優勝、64年東京五輪では金メダルに導く。監督を辞任した65年には周恩来氏の招きで中国女子バレーチームを指導。68年参院選に当選した。78年11月24日、指導先の岡山県井原市で心筋梗塞(こうそく)により57歳で死去。00年にはアメリカのバレーボール殿堂入りを果たした。
February 5, 2008 12:00 AM
