大河連載「伝説」

2008年01月31日

エースのいやな予感が現実に

【パが揺れた それぞれの10・19(9)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 4-3と勝ち越した9回裏、仰木彬監督は無死一塁で打者・山本のカウント0-2で吉井理人をあきらめ、エース阿波野秀幸を救援マウンドに送った。だが阿波野は、2死満塁のピンチを招く。

 阿波野「愛甲さんへの死球で、本当に苦しくなりました。インコースを狙ったら外れてしまったんです。でも満塁になって、そこで点さえやらなければいいんだと前向きな気持ちになれた。そんなふうに気持ちをコントロール出来たのは、前年の経験があったからだと思います。入団していきなり最下位。こんな経験も珍しいが、その中で新人王を取って投手で1人のタイトルでしたが、内心は複雑でした。2年目で開幕投手もやらせてもらって、1年やってきて、簡単にあきらめられるか、結果が出るまであきらめてはいけないんだという気持ちになっていたんです」。

 見た目は線が細くても、24歳の左腕は本当の大黒柱になりつつあった。2死満塁で、打席の森田のバットに3回空を切らせた。修羅場をしのぎ、最少リードを守りきった。

 阿波野「自分の中の熱が、一気に沸とうした。それを静める時間が必要でした。三浦トレーナーにアイシングをしてもらったあと、次の試合の3回ぐらいまでトレーナー室の奥で1人で座っていました。そんなとき、先発している高柳のことが頭に浮かんできて」。

 阿波野とルーキーの高柳出己は、入団年度は阿波野が1年早いが64年生まれの同い年。仰木監督の勧めもあり、88年1月には長崎・島原の温泉で一緒に自主トレも行った。

 阿波野「前の試合で抑えてベンチに帰って来たとき、次の試合の先発準備にブルペンに行く高柳とすれ違ったんですよ。どんな気持ちでこれから投げるんだろう? と思ったら、一緒に過ごしたこの1年のことがよみがえって。新人時代の自分には経験のないこと。どれほどのプレッシャーの中で投げるんだろうと」。

 高柳は力投したが、2点リードをもらった7回に岡部にソロを打たれ、降板。代わった吉井が西村に、同点打を打たれた。3-3の振り出し。だが8回、ラルフ・ブライアントが勝ち越し34号ソロを放った。主砲の値千金の1発のあとは、エースの出番だった。

 阿波野「登板前、きょうのキーマンは古川さんか高沢さんだなと思っていました。古川さんは亜大の先輩で、ぼくのいいところも悪いところも知られていた。高沢さんとは相性が悪かったんです。その日の打順は、高沢さんが4番で古川さんが7番。9回1イニングだけならどちらとも当たらずに行けるけれど、2イニングならどちらかと必ず対戦しないといけない。いやな予感があったんです」。

 8回裏、エースの予感は現実になった。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 31, 2008 12:00 AM

2008年01月30日

「俺しかいない」中1日でマウンドへ

【パが揺れた それぞれの10・19(8)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 88年10月19日。野球ファンが夢中になったロッテ-近鉄ダブルヘッダーで「切り札」としてマウンドに立ったのは、プロ2年目のエース阿波野秀幸だった。先発完投した10月17日の阪急戦(西宮)から中1日。最も苦しい場面を、まさにエースの投球で、阿波野が支えた。

 阿波野「シーズンの開幕前、投手コーチの権藤さんから『100試合までは起用法は崩さずに行く。だが残り30試合になって優勝がかかるなら、スクランブルで行ってもらうぞ』と言われていました。確かに前年は最下位でしたが、その前の年に優勝争いをしていたことや、西武と対戦してみて決して勝てないチームではないということは肌で感じていた。だがら『優勝』と言われても、僕らにとっては不思議でも何でもなかったんです」。

 西武を追い、負けられない試合が続く中、近鉄は17日に阿波野が2失点完投した試合を1-2で落とした。阪急星野を打てず、残り3試合を残して1敗も出来ない状況に追い込まれた。

 阿波野「その負けで、チームは完全に開き直ったんです。それまでは西武との星勘定をしていましたが、そんなことを言ってられない状況に追い込まれて、残り3試合勝つしかないと。翌朝の東京移動が少しでも楽なようにと試合後に西宮から京都の都ホテルに向かうバスの中で、最初こそ落ち込んでみんな暗かったんですが、そのうち缶ビールが回りだした。川崎で『やるぞ!』という気持ちになって行った」。

 ダブルヘッダー初戦に先発した小野和義が7回3失点で降板も、近鉄打線は8回に2点を挙げて追いつく。吉井理人がその裏を無失点で抑えるが、1点を勝ち越した9回は先頭の代打・丸山に与四球。微妙なボール判定に激昂(げきこう)した吉井は気持ちを切り替えられず、続く山本にも連続ボール。カウント0-2と、ピンチを広げてしまう。仰木彬監督は絶対の守護神をあきらめ、代わる投手を橘球審に告げる。阿波野投入だった。

 阿波野「もう俺しかいない。俺が行って抑えるしかないという気持ちで、マウンドに出て行きました。あとからよく誤解されましたが、あのときはうちの勝ちパターンを崩したわけじゃない。いつもと同じように、吉井が抑えで出て行ってる。彼はうちの絶対的なクローザーですが、吉井の持っている力はすごい結果を生み出すときと、全く制御出来ないときがある。第1試合は後者が出てしまった。でも吉井のあとにもう一コマ、それがぼくだったんですが、コマを残してあって、仰木監督はその手を打った。だから出番が回って来たら『俺が何とかする』という気持ちでいました」。

 だが気持ちとは裏腹。阿波野は佐藤健に二塁打を打たれ、愛甲には死球。2死満塁の大ピンチを招いてしまった。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 30, 2008 12:00 AM

2008年01月29日

「視聴率、聞いていますか?」

【パが揺れた それぞれの10・19(7)】

 ▽近鉄18勝6敗2分け(19日・川崎2)
 近 鉄 0000012100-4
 ロッテ 0100002100-4
(延長10回時間切れ引き分け)
【近】高柳、吉井、阿波野、加藤哲、木下-山下、梨田【ロ】園川、荘、仁科、関-袴田
本塁打 マドロック17号(高柳)、吹石2号(園川)、真喜志3号(園川)、岡部11号(高柳)、ブライアント34号(園川)、高沢14号(阿波野)

 88年10月19日午後3時から関西ローカルで始まったロッテ-近鉄戦の放送は、ついに全国の茶の間へ。さらに終盤、思わぬ“悪役”がさらに放送を盛り上げた。4-4の9回裏、無死一、二塁での二塁走者・古川のけん制死の判定を巡り、ロッテ有藤監督が猛抗議を行った。

 野球規則により、試合開始から4時間を超えて新しいイニングに入らないことが取り決められていた。時間切れ引き分けでは、優勝に届かない。午後6時44分から始まった第2試合は、同10時44分がリミット。時間とも戦う近鉄にとって、有藤監督の9分間にも及ぶ抗議は大打撃だった。

 延長10回1死一塁から、羽田が併殺打。そのとき、すでに午後10時41分。勝ちの望みがほぼついえた状況で、近鉄ナインは裏の守りにつかなければならなかった。カメラは一人ひとりの顔を画面に映し出す。頑張ればもう1イニング攻撃できるかもと二塁守備位置に急ぐ大石。気力を振り絞って右翼に走るベテラン淡口…。現在、朝日放送報道局長の古川知行の、こだわりの画面構成だった。朝日放送・高田五三郎スポーツ部局次長兼部長(当時)は「一人ひとりの顔を追うことを決めたのは、当時ディレクターだった古川。思い入れがなければ、できない仕事だった」と振り返る。

 古川「プロ野球の試合には必ず、際立つヒーローがいるものです。しかし、あの試合は例外でした。まさしく全員が主人公、だれ1人として欠かせないヒーローだった。だからこそ、どうしても全員の表情を追いたかった」。

 観客席では上山善紀オーナー代行が立ち上がり、最後の守りについた猛牛ナインに拍手を送っていた。「バファローズを本当に大事にされているんやな」。それも高田にとっては、忘れられないシーンだった。

 だが会社員としての現実に引き戻されたのは、新宿で遅い夕食を終えたところ。翌朝、高田は暗たんたる思いで大阪本社に戻った。制作、営業の猛反対を押し切ってレギュラー枠を飛ばし、CMもつかない状態で野球中継を延長した。近鉄が優勝して日本シリーズを放送できるのならまだしも、会社には何にも残せなかった。「クビになるかもしれない…」。覚悟をきめて制作スタッフのいる部屋に行き、頭を下げた。

 高田「するとあるスタッフが言ってくれたんです。『高田さん、あれがテレビですよ』と。世の中で今、何が起こっているのかを伝えるのがテレビの使命。昨日の中継こそ、テレビの使命だったと言ってくれた。うれしい言葉だった」。

 その部屋に、編成担当が戻って来た。「視聴率、聞いていますか?」とたずねた顔が輝いていた。

 高田「聞いて仰天しました。関西で46・9%、「ニュース・ステーション」は番組始まって以来最高の46・4%…。久米キャスター、すべてのスタッフへの感謝で言葉もなかった」。

 その年の秋季キャンプの最中、仰木監督は「東京に行く。行って久米さんにあの放送の礼を言うよ」と宮崎・日向からの東京行きを快諾してくれた。チームもあの放送を喜んでくれていたのだと、高田は確信した。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 29, 2008 12:00 AM

2008年01月28日

頼むから放送させてくれ

【パが揺れた それぞれの10・19(6)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 ▽近鉄18勝6敗2分け(19日・川崎2)
 近 鉄 0000012100-4
 ロッテ 0100002100-4
(延長10回時間切れ引き分け)
【近】高柳、吉井、阿波野、加藤哲、木下-山下、梨田【ロ】園川、荘、仁科、関-袴田
本塁打 マドロック17号(高柳)、吹石2号(園川)、真喜志3号(園川)、岡部11号(高柳)、ブライアント34号(園川)、高沢14号(阿波野)

 88年10月19日のロッテ-近鉄ダブルヘッダーは、野球ファンにとっては忘れられない伝説の試合だ。だがシーズン最終戦だけに、一つ間違えば消化試合だった。その試合の放映に向けて1カ月前から準備し、2試合完全中継をやってのけたテレビ局があった。大阪のABC朝日放送。英断の中心人物は、当時のスポーツ部局次長兼部長の高田五三郎だった。

 高田「僕は以前から、リーグ優勝はこの時期という予想をするのが好きだったんです。88年は近鉄のリーグ最終戦が山場になると予想していました。それで1カ月前から、主催のロッテ球団と交渉。近鉄球団を通じて紹介してもらったんですが『こんな試合を本当に放送してくれるんですか?』と仰天されました」。

 関東の主催ゲームだけに東京の放送局が優先されたが、どこも手を出さず。ロッテにすれば、交渉開始時は西武優勝の可能性が高く、視聴率を取れそうもない試合を大阪の局が本気で放送するとは思わなかった。

 高田「こちらも、社内の営業担当の役員を説得するのに一苦労でした。午後3時始まりの第1試合はかまわない、だがレギュラー番組を飛ばさなければならない第2試合は放送しないと言われました。だが『僕らは1年をかけて近鉄を追いかけて来た。そのチームがシーズンのクライマックスを迎えようとしている。何とかその瞬間を放送させてほしい』と押し問答が続いていました」。

 だが乗り込んだ川崎球場では、ダブルヘッダー完全中継にかける高田らスタッフの思いを後押しする光景が繰り広げられていた。人があふれ、球場に入りきらない。長丁場に備えて食料確保に売店に走ったが、普段楽々買える弁当が売り切れ。ようやく手に入れたポテトチップスをアナウンサーに差し入れたら『マイクの前で、音のする物はダメです』と突き返された。

 あたり一面、人、人、人…の大変な熱気だった。その熱気を茶の間に伝えることこそ、近鉄のこの1年を追いかけてきたテレビマンの指命だった。高田は大阪の局にひっきりなしに電話をかけ、ときには怒鳴り、ときには電話口で頭を下げ、言葉をつくして現場の熱気を説明しながら放送予定の変更を納得させていく。午後6時50分からの「ハーイあっこです」、同8時からの「たけしのスポーツ大将」もナイター中継に切り替えられた。高田の懇願ももちろんだが、視聴者からひっきりなしにかかってくる「野球を最後まで見せてくれ!」という電話の後押しもあった。

 ついにテレビ朝日も動く。午後9時からの「さすらい刑事旅情編」を飛ばし、野球中継を続けて生放送の「ニュースステーション」につなぐ。川崎の放送ブースの前では、高田が「全国中継に切り替わった。中立の放送で行ってくれ!」と書いた紙を振りかざす。この1時間枠は、民放ではありえないCMなしの完全中継。編成局長の決断だった。午後10時。「ニュースステーション」の看板キャスター久米宏が、中継の続行を茶の間に伝えた。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 28, 2008 12:04 AM

2008年01月25日

宝塚歌劇との二者択一で…

【パが揺れた それぞれの10・19(5)】

 88年10月19日に突如発表された阪急の球団譲渡に、世間が驚いたのは無理もない。親会社が球団譲渡を決断する主な理由は、親会社の経営状況の悪化か球団の弱体化か人気の低迷。だが阪急には、どの理由もあてはまらなかった。

 阪急・東宝グループ311社の総売上高は、前年87年の決算で1兆2500億円。毎年10億円近いと言われた球団経営の赤字も、十分補てん出来る売り上げだった。ブレーブスも優勝争いの常連で、観客動員も86年から3年連続で100万人超え。球団社長の土田善久は「これからという時に…」と会見で男泣きした。

 だが、理由は確かにあったのだ。球団譲渡を決めた理由を、19日夕刻の会見で小林公平オーナー(本社社長)は「50年を超える阪急ブレーブスの歴史で、プロ野球の振興、青少年スポーツの振興という球団の社会的使命は一応達成したと判断した。阪急グループが球団運営する使命は終わったということです」と語った。本社から球団に出向し、常務として球団経営に携わっていた矢形勝洋も「時代の終わり」を感じていた。

 矢形「ブレーブスが強くて人気があっても、年間の赤字はいっこうに減らない。本社が宣伝費として補てんし続けても、今後改善出来る見込みがまずないということ。しかもうちはもう一つ、不採算部門として宝塚歌劇を抱えていた。赤字ではあるがグループのシンボルとして野球、歌劇のどちらを残すかの判断になったとき『女性だけの歌劇団は世界に一つしかない』という宝塚歌劇の特性が決め手になったんですよ」。

 10月14日、阪急・小林公平会長、オリエント・リースの宮内義彦社長、三和銀行の渡辺滉頭取が都内で会い、基本合意書を作成。球団に正式に伝えられたのは発表当日の朝で、インサイダー取引を防ぐために株式市場が閉まる午後3時以降の報道各社連絡が通達された。土田が西宮球場に1、2軍選手を集め、涙ながらに「オーナーが代わります」と明かしたのは、午後2時40分だった。同年で引退した山田久志に代わり後にエースとなる星野伸之は、そのときの衝撃を「自分の名前を変えられたようだ」と表現した。

 矢形「選手もそうだし、監督(上田利治)のショックも大きかった。(球団譲渡を発表した)新阪急ホテルには行けないと言われ、譲渡発表から1時間半後に千里阪急ホテルで社長と会見。そこでは監督は『白紙』と話したが、実際やめるつもりだった。それを『何とか続けてやってほしい』と夜通し説得。宮内さんも後日、説得の手紙を書かれましたよ」。

 川崎球場の激闘とは別の苦闘を、ブレーブスも演じていた。しかも「なぜペナントレースが大一番を迎えるこんな日に発表したのか」と野球ファンから冷たい視線を向けられる中で。19日発表については「一部報道に情報がもれた」など様々な憶測がされたが、譲渡が合意に至った段階で発表日も決められていたという。

 矢形「決して最終戦にぶつけたわけじゃない。優勝が決まる日でしたが、私たちにとっても、50年以上続いた球団が幕を下ろした日。大事な日だった」。

 矢形は譲渡後も球団に残り、オリックス・ブルーウェーブの船出を見届けて翌89年に本社に戻る。それから17年後、阪急は阪神との経営統合で再び球団を保有することになる。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 25, 2008 12:00 AM

2008年01月24日

試合開始直前 衝撃ニュース

【パが揺れた それぞれの10・19(4)】

 仰木彬監督率いる近鉄が8年ぶりのリーグ優勝を目指し、ロッテと死闘を繰り広げた88年10月19日。近鉄の地元・大阪では、球界・財界を揺るがす大事件が起きていた。午後3時。川崎球場がプレーボールのコールを聞く直前、報道各社に「阪急ブレーブス身売り」のニュースが飛び込んだのだ。

 譲渡先は、当時まだ耳慣れないオリエント・リース社。オリエント・ファイナンス社と勘違いした報道機関からの問い合わせが、同社に殺到した。なぜ阪急が!? なぜこの日に!? いくつもの疑問を提供した球団譲渡は、8月末から両者のメーンバンク三和銀行を仲介役に進められていた。

 オリエント・リース社は、創立25周年を翌89年に控え、企業のイメージアップやグループ経営のシンボルになるものを探していた。8月末に同社から阪急側に球団譲渡の可能性を探る打診があり、10月19日の発表へとつながっていく。ごく限られた人間しか知らなかった極秘の球団譲渡計画に、気付いていた球団関係者がいた。

 阪急の矢形勝洋球団常務が異変に気付いたのは、土田善久球団社長の表情を見たときだった。譲渡発表に先立つ15日。朝から社長は、本社に呼ばれていた。社長を待つとはなしに、矢形は当時大阪・梅田にあった球団事務所のテレビのスイッチを入れた。ブラウン管に映ったのは、南海(現ソフトバンク)-近鉄戦。すでにダイエーへの球団譲渡が決まっていた南海にとって、この日は大阪球場での最後の試合だった。熱戦に見入っていた矢形は、いつの間にか隣に座った土田の異様さにはっとした。

 矢形「食い入るような視線で、社長はテレビの画面を見つめていた。そんな社長の様子を見て、思い当たることがあった。『社長、うちもこれなんでしょう?』とテレビ画面のホークスを指さしたんです」。

 土田は飛び上がった。

 矢形「『誰から聞いたんや?』と問われて、いや、誰からも聞いていませんと。ただ、今から思えばあれがそうかと思うことがあったんですよ」。

 9月の下旬、矢形のもとに当時のパ・リーグ会長、堀新助から電話があった。堀はいぶかしそうな声で、たずねてきた。「小林オーナーが私と2人で会いたいので、宝塚ホテルまで来てほしいとおっっしゃっています。オーナーが何をお話しになりたいのか、お心当たりはありますか?」。それを聞いたとき、矢形には思い当たることがあった。

 矢形「うちも球団を手放すのか…。直感的にそう思いました。その年、何もなければそんなことは思いもしなかったでしょうが、同じ関西の私鉄の南海がホークス譲渡を発表していた。うちもそういうことになったんだと思ったんです」。

 1936年(昭11)の創設から52年続いた球団史が幕を下ろそうとする瞬間を、矢形はそう振り返った。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 24, 2008 12:00 AM

2008年01月23日

最初で最後のガッツポーズ

【パが揺れた それぞれの10・19(3)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 同点で迎えたダブルヘッダー第1試合の9回2死二塁。梨田は、ロッテの守護神・牛島が内角に投げ込んで来た初球をたたいた。中堅・森田の懸命の前進も及ばず、安打になる。二塁走者の鈴木が勝ち越しのホームに転げ込んだ。ベンチから飛び出した中西ヘッドコーチが鈴木に突進し、2人の丸い体がグラウンドの上を転げ回った。

 梨田「中西さんとスズが抱き合って転げまわっているのを二塁ベースから見て、うれしくてうれしくて…。ぼくは普段、ガッツポーズなんてしたことがなかったんですよ。捕手という仕事柄、試合は下駄をはくまでわからないという習性が身についてしまっていて、試合中に喜ぶことがどうしても出来なかった。でもあの川崎では、何度も何度も空に向かって両腕を突き上げていましたね」。

 シーズン終了後、梨田は現役引退を表明。球団は功労者の梨田に対し、翌春オープン戦での引退試合開催を提案したが、梨田は断った。88年10月19日、川崎球場でのロッテ戦。その試合を上回る引退の舞台など、あるはずもなかった。

 監督と選手としての関係は終わっても、仰木と梨田の深い交流はそれからも続いた。仰木の魅力を、梨田はこう語る。

 梨田「発想の独特さ…。野球をいろんな角度から見て、次の手を決めていく。選手のいいところを引き出し、少ない戦力を豊富に見せることがうまかった。野球は勝ったり負けたりが当たり前なんやから5割でいいんや、と言い続け、選手にプレッシャーをかけなかった。就任1年目にあれだけの戦いをされたのはすごいが、翌年優勝してしまったのがもっとすごいところ。人間的には男の色気があって、男でもひかれずにはいられなかった」。

 梨田は、病床の仰木を知る数少ない人間の一人だ。

 梨田「03年に手術を受けられたあと、病院に見舞いに行きました。『こんな苦しい思いをするくらいなら死んだ方がましや』と言われたあとに『なあ、グラウンドで死ねたら本望や』と言われたんです」。

 仰木彬はベッドの上では死ねない-血を吐くような思いで語ったその一言が、翌年オフの現場復帰につながったのだろう。04年、オリックスと近鉄は球団合併を発表し、仰木彬はオリックス・バファローズの初代監督に就任する。最初に手をつけた重大事が、近鉄最後の監督となった梨田のヘッドコーチ招へいだった。だが87年オフには仰木の説得に応じた梨田が、今度は首を縦に振らなかった。

 梨田「苦しい決断でした。ぼくもユニホームを着続けていたい。現場でやり続けるのは尊いこと。あの仰木さんに誘って頂いて、お前がうんと言うまでいつまででも待つと言ってもらった。本当にうれしかったんですよ」。

 だが球団合併で処遇の決まらない選手、裏方より先に自分の立場だけ安定させることは出来なかった。待ち続けると言われても、組閣という大事業を滞らせるわけにはいかない。断腸の思いでの断りを、今度は仰木が受け入れた。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 23, 2008 12:00 AM

2008年01月22日

仰木監督の“間”で原点回帰

【パが揺れた それぞれの10・19(2)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 88年10月19日のロッテ-近鉄戦は、球界で一時代を築いた名捕手・梨田昌孝が「現役最後の試合」と決めたゲームだった。

 梨田「本当は前の年でやめるつもりでいたんです。右肩の手術をしたこともあった。それに、給料の面でもね。大石や小野ら若い選手に給料を抜かれて行くのは、寂しいものだった」。

 そのベテランを仰木ヘッドコーチが翻意させた。前年87年、仰木は、次期監督就任が内定していた。

 梨田「仰木さんとは普段からコーチと選手という立場の違いを超えて、よく話をする間柄でした。その人に今年でやめますと伝えたら、あることを打ち明けられた」。

 梨田は仰木ヘッドから、食事に誘われた。場所は天王寺都ホテル。2人で食事をしながら、仰木ヘッドにある秘密を打ち明けられた。

 梨田「『発表はまだやけどな、来年から監督をやるんや』と言われました」。

 ただヘッドコーチの打ち明け話は、梨田にとってはサプライズでもなかった。

 梨田「ぼくもそれはうすうす感じていたんですよ。まわりの空気からね。そうしたら『オレを手伝ってくれ』とたたみかけられた。選手とコーチの間のパイプ役になってくれ、ゲームにはそんなに出なくていいから、チーム内のコミュニケーションを取ることに力を貸してくれと言われたんです。

 結果的に新監督・仰木は、経験豊かな切り札を手元に残すことになる。しかも梨田の名前を呼ぶ前に置いた“間”が、功を奏した。

 梨田「バッティングって何だ? と考えたとき、とにかく振らないといかんという結論が出た。タイミングとかあれこれ考えるより、ストライクゾーンに来た球は全部振ってやろうという気持ちになれた。長く感じた“間”が自分にとってはよかったんです」。

「10・19」第1試合、近鉄にとって、勝つしかない1戦だった。自分の1本の安打が、チームの運命を決める。それも17年にわたった現役生活最後の安打になるかもしれない。その瞬間を待ちながら、梨田は打者の原点に帰っていた。

 マウンドには、ロッテの守護神・牛島がいた。その牛島から梨田に対し、ある“サイン”が出ていた。

 梨田「牛島が『正々堂々と勝負しますよ』と目で伝えて来たように見えたんです。年取った打者にとって何が弱点かといえば、インコースにシュートを投げられること。カーブでもフォークでも投げられる投手だし、言葉で何かを言ってきたわけでもなかったけれど、彼は大阪育ちできっぷのいい男。その男の目を見て、これはインコースに来るなと確信しました」。

 初球、梨田の確信は現実のものになる。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 22, 2008 12:00 AM

2008年01月21日

梨田の決意…これが現役最後の日

【パが揺れた それぞれの10・19(1)】

 ▽近鉄18勝6敗1分け(19日・川崎1)
 近 鉄 000010021-4
 ロッテ 200000100-3
【近】小野、吉井、阿波野-山下、古久保、梨田【ロ】小川、牛島-斎藤、小山、袴田
勝 吉井(49試合10勝2敗24S) S 阿波野(28試合14勝12敗1S) 敗 牛島(38試合1勝6敗25S)
本塁打 愛甲17号(2ラン=小野)、鈴木20号(小川)

 仰木彬監督率いる近鉄バファローズが、日本中の注目を集めた日があった。1988年10月19日。シーズン最後の2戦となる川崎での対ロッテ戦ダブルヘッダー。近鉄が連勝すれば土壇場で西武を振り切り、逆転優勝を飾るという劇的なシーズンのクライマックスだった。

 ライバルの西武は森祇晶監督のもと、黄金時代を迎えていた。チームリーダー石毛に工藤、松沼兄弟、渡辺久、郭泰源、秋山、清原、辻、デストラーデと不動のメンバーをそろえ、4年連続リーグ制覇、2年連続日本一。その常勝軍団に挑んだのが、就任1年目の指揮官に率いられたバファローズだった。

 大麻の不法所持で、主砲デービスが6月に退団。移籍期限ぎりぎりの6月末に中日から加入したブライアントが大当たりし、オグリビーらと打線を引っ張った。投手陣も阿波野、小野、ストッパーの吉井ら若い戦力が充実し、西武を追走。残り27試合となった9月13日で6あったゲーム差を、わずか半月でゼロに。10月16日、近鉄に0・5差をつけて先に全日程を終えた西武森監督は、近鉄の残り4試合を見守る心境を「人事を尽くして天命を待つ」と言い表した。

 10月17日の阪急戦(西宮)は1-2と惜敗も、18日のロッテ戦(川崎)は12-2と圧勝。19日の同戦ダブルヘッダー(同)で連勝すれば、バファローズが8年ぶりにパの頂点に立つ。負けられない、引き分けられない2試合は、午後3時プレーボールの1戦目から波乱の幕開けだった。

 初回からロッテに2点を先制され、打線は相手先発・小川を打てずに4回まで無得点。5回に鈴木のソロで1点差に迫ったが、7回裏にまた1点を取られた。8回、代打・村上の値千金の2点適時打
でようやく追いつき、3-3で迎えた9回2死二塁。近鉄ベンチで代打のコールを待っていたのは、35歳の梨田昌孝だった。だが周囲の誰もが「梨田しかいない」と思った名前を呼ぶ前、仰木監督は間を取った。

 実際はほんの2、3分の間合いだった。だが、待つ身の梨田にとっては、とてつもなく長い時間に感じられた。

 梨田「相手投手が、苦手にしていた小川(博)から牛島に代わって、オレの出番だなと思っていた。でも、なかなか仰木さんが代打を告げに行かない。おそらく残ったメンバーをもう一度、確認されていたんだと思います。仰木さんの指示を待つ間、ぼくは野球を始めた頃からのことを、思い起こしていました」。

 梨田の心の中には、その日を現役最後の日とした秘めた決意があった。(つづく=敬称略)【堀まどか】

January 21, 2008 12:00 AM

2008年01月18日

指導者とボクシング馬鹿

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(10)】

 死闘を制した薬師寺保栄は「辰吉を倒した男」として脚光を浴びた。翌95年4月にクアテモク・ゴメス(メキシコ)を下して4度目の防衛に成功。ウエイン・マッカラー(アイルランド)とのV5戦は、辰吉丈一郎戦と同じく興行権を入札で争った。95年7月に名古屋で開催された試合は1-2の判定で惜敗し、王座を失った。モチベーションの低下が主な原因だった。

 「マック(クリハラ・トレーナー)のトレーニングについていけなくなった」と潔く引退し、芸能界に身を投じた。持ち前の明るいキャラクターで人気は上昇。その年のNHK紅白歌合戦の審査員など、辰吉と2人セットでのテレビ出演依頼は何度もあった。だが、辰吉が断ったため、実現しなかった。実は「再戦」のオファーも舞い込んでいた。

 薬師寺「といってもボクシングではなくて、ある格闘技団体からでした。『薬師寺さんさえOKしてくれれば、向こう(辰吉)は口説くから。ファイトマネーは2億円出す。何ならボクシングルールでも構わないから』と誘われて。引退して3年くらいたってましたし、すぐに断りましたよ」。

 07年4月、薬師寺は念願だった独立を果たした。「薬師寺ボクシングジム&フィットネス」(名古屋市中区)をオープン。ビルの1、2階合わせて90坪の広さで、プロ育成部門とフィットネス部門に分かれる。岩盤浴と減量メニューを同時に行う「拳闘浴」は女性にも好評。会長としても、自らが記録した4度の防衛を上回るような未来の世界王者を育てたいと願っている。

 一方、「負ければ引退」と義務づけられた辰吉は、リングに立ち続けた。奇跡の王座奪回、陥落など、その後7度も世界戦を経験した。日本中を熱狂させたあの戦いは、もう13年も前のことになる。37歳。いまだに現役を貫く「浪速のジョー」は、当時の話題に触れようとはしない。

 辰吉「オレは過去のことは振り返らんよ。反省はするけど、負けたことをあれこれ考えても、しゃあないやろ。親からもらった大事な命やし、使える能力があったら使わんと。みんな引退いうたらカッコええと思ってる。けどオレから言わせれば、引退を口にすることがカッコ悪い。僕は、ボクシングばかなんですよ」。

 試合後ほとんど対面することがなかった2人だが、05年4月に滋賀で行われた車のイベント会場で1時間ほど話す機会があった。約10年ぶりの会話。「どうするの? って聞いたら、チャンピオンベルトを取り返さなアカンからって」と薬師寺。ボクシングの話題は少なく、雑談が主だったという。

 薬師寺「こうやってジムで選手を教えてる人間、いまだに現役にこだわる人間、本当に正反対に分かれた。ただ彼とは、ずっと共有してきたものがいろいろあるかなと思いますね」。

 雑草とエリート。決して交わらないと思われた2人が交わった時、強烈な化学反応を起こし、周囲を巻き込み、そして多くの人々の記憶に刻まれた。まさに「世紀の一戦」と呼ぶにふさわしい対決だった。(この章おわり=敬称略)【大池和幸】

 ◆辰吉の現状 5月に「ボクサーの定年」37歳を迎えたが、リングに立つことを望んでおり、毎日練習に励んでいる。ただし、健康上の問題などでジム側にマッチメークの意思がなく、次戦の見通しは立っていない。仮にジム側から試合を認められた場合、元世界王者の特例により、コミッションドクターの特別診断を受けることを条件に出場を許可される(最終試合から5年以内が条件)。ただ、93年に網膜はく離を患った辰吉が国内で試合をするには、世界戦か、それに準ずる試合しかできない。ノーランカー相手なら、海外で行う必要がある。
 4月には、国内で禁止されていたスパーリングを行うために単身タイに渡り、約1カ月間の合宿。帰国後に許可を得てスパーリングを再開したが、一方的に打たれる苦しい内容。ジム側は再び引退を勧告した。

January 18, 2008 12:00 AM

2008年01月17日

和解の抱擁 耳元でゴメン

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(9)】

 名古屋レインボーホール(現日本ガイシホール)に登場した「2人の世界王者」を、9800人の大歓声が包んだ。青コーナーで暫定王者の辰吉丈一郎が、リングアナウンサーにコールされる間。その間に正規王者の薬師寺保栄は相棒のトレーナーのマック・クリハラ・がささやいた。

 薬師寺「『ヤス、今日は私の誕生日だ。君から勝利のプレゼントが欲しい』と言うんです。それまで12月4日がマックの誕生日なんて知らなかった。憎らしいですよね。こっちはイエスとしか言えないですよ」。

 2人の策は決まっていた。作戦の名は「アイ・オブ・ザ・タイガー(虎の目)」。勇敢な辰吉を虎に見立て、網膜はく離で不安のある左目を、左ジャブで徹底して突くのだ。初回。左腕を下げた辰吉は、薬師寺のジャブを軽快なフットワークでかいくぐる。だが、懐には入らない。互いに手数が少ない静かな立ち上がり。しかし、このわずかな攻防が両者の明暗を分けた。

 コーナーに戻った辰吉が、違和感を覚えた。左拳をはく離骨折していたのだ。これが微妙に影響したのか、回を追うごとに薬師寺のジャブが辰吉の顔面をとらえるようになった。用意していた右アッパーも的確に決まる。辰吉の左目がふさがった6回には「ワン・ステップ」と命名した秘策も披露した。

 薬師寺「右に移動して右を打つ。相手の死角に入って打つから有効なんです。ロスで練習していたパンチですが、結局はその1度しか出せなかった」。

 中盤にポイントを失った辰吉だったが、終盤に猛反撃。両者は目をカットし、キャンバスは2人の鮮血で真っ赤に染まった。合計903発のパンチを打ち合った壮絶な死闘はKOで決着がつかず、判定にもつれ込んだ。

 採点は2-0。薬師寺の手数と有効打の多さは明白とも思えたが、ジャッジ3人の点差は4、1、0とわずかだった。入札に巨額を投じて得られた地元開催が、薬師寺陣営には結果的に吉と出たのかもしれない。

 薬師寺は勝った場合を想定して、威勢のいいコメントを用意していた。それが、辰吉の意外な行動で吹き飛んだ。

 薬師寺「それまでひどいこと言われてたからね。『お前ら、どっちが強いか見たか。勝ったのはオレだぞ!』って言うつもりだった。でも終わった瞬間、あいつが耳元で「いろいろ言ったけど、ゴメン。本当に強かったわ。ありがとう」って言ったんです。それで僕は全部、許せた。昔の辰吉と亀田の言動がダブるという人がいるけど、やっぱり負けを素直に認めて「悪かった」と言えるのがスポーツマンかなと思いますね」。

 薬師寺は試合後の会見で「今日は運で勝てた。どちらが勝ってもおかしくなかった」と発言した。中部日本放送(CBC)が放送した名古屋での視聴率は平均52・5%、瞬間最高は65・6%と驚異的な数字をはじき出した。試合前にはファン同士のけんかで、救急車が8台も呼ばれたという。何もかもが規格外だった。「辰吉には6つの弱点がある」と豪語していたクリハラは「そんなものはない」と陽動作戦だったことを試合後に明かした。

 頼もしい相棒に支えられて薬師寺は「世紀の一戦」を制した。そして「辰吉に勝った男」として語り継がれることになった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

January 17, 2008 12:00 AM

2008年01月16日

当時珍しかった挑発合戦

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(8)】

 薬師寺保栄は2度目の防衛戦となった前王者・辺丁一(韓国)との再戦に5度のダウンを奪って圧勝した。暫定王者・辰吉丈一郎との王座統一戦が決まると、両者の間で舌戦が始まった。直接の対面は試合3日前の予備検診までお預けとなったが、マスコミを通じての激しいやりとりはエスカレートしていった。

 薬師寺「辰吉君、僕のパンチはかゆいから心配しないでね」。

 辰吉「かゆい? 虫よけのスプレーをつけるから心配してない。勘違いクン(薬師寺)は、5回から8回の間に寝てもらいます。それもボディーでね」。

 薬師寺のトレーナーを務めたマック・クリハラ、もこの舌戦に加わった。

 クリハラ「相手が辰吉だからといって、特に必要にすることはない。私から見れば、辰吉には6つの弱点がある」。

 辰吉「オレには6つの弱点があるらしいが、薬師寺には486個もあって話し切れないね。説明するには、たくさんあり過ぎて困るんですよ。1個か2個なら、答えられるんだけど」。

 こうしたやりとりは、今でこそ亀田兄弟のパフォーマンスでよく見られるようになったが、当時は珍しかった。挑発合戦により、対決ムードは異様な盛り上がりを見せていた。場外バトルは挑発だけにとどまらない。入札で遺恨を残した両陣営のライバル意識も相当なもの。薬師寺陣営の松田ジム会長、松田鉱二が振り返る。

 松田「入札でこちらが勝ってから吉井さん(大阪帝拳の吉井清会長=当時)に3年間無視されたからね。せっかくの試合なんで豪華なプログラムをつくりたかったんだけど、辰吉の写真が向こうから1枚も送られてこなかったんで、普通のものしかできなかった」。

 薬師寺が辰吉と拳を交えるのは、打たれた記憶が残る3年前のスパーリング以来だった。ロンドンのブックメーカーは試合前のオッズで「辰吉KO勝ち」に1・7倍と低倍率をつけた。「絶好調」と伝え聞こえる辰吉に対して強気に勝利宣言を続けた薬師寺だったが、内心では不安が消えなかった。

 薬師寺「辰吉にはブランクがあったが、あまり考えなかった。それより、昔スパーした時より強くなってるんだというイメージの方が大きかったんです」。

 それを自信に変えたのは、クリハラとのロスでの最終調整だった。スパー漬けの毎日を送る愛弟子に対してクリハラは「勝てる」と励まし続けた。

 クリハラ「辰吉のこれまでのキャリアで、世界レベルの相手は(王座奪取した)リチャードソンと(2度対戦した)ラバナレスしかいない。リチャードソンはその時30歳を過ぎてピークを超えていた。ラバナレス戦での辰吉の戦いも、ひどいものだった」。

 クリハラは薬師寺に自分のボクシングを貫き通すように命じた。生命線となる左ジャブから右ストレートという、ごく基本的なコンビネーションを徹底して磨いた。そして1つの「秘策」も用意し、万全を期しての帰国。意外にも静かだった予備検診、調印式、前日計量を終え、さまざまな因縁を含んだ「世紀の一戦」が始まろうとしていた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

★薬師寺の辰吉戦以外の世界戦★
 ◆疑惑の判定(93年12月23日)王者辺丁一(韓国)相手に世界初挑戦。一進一退の攻防の中、アグレッシブに攻め続けて2-1判定勝ち。「疑惑の判定」として物議を醸した。
 ◆KO初防衛(94年4月16日)ホセフィノ・スアレス(メキシコ)との初防衛戦は10回KOの完勝。「真の王者」への第1歩に。
 ◆返り討ち(94年7月31日)2度目の防衛戦で前王者の辺と再戦。5度ダウンを奪い11回TKO勝ち。辰吉との対戦が決まった。
 ◆日本記録(95年4月2日)クアテモク・ゴメス(メキシコ)に徹底したアウトボクシングで2-0判定勝ち。ファイティング原田に並ぶ、日本人同級最多のV4に成功した。
 ◆陥落(95年7月30日)辰吉戦に続く入札の末に、名古屋開催となった。ウェイン・マッカラー(アイルランド)に1-2判定負け。5度目の防衛に失敗。

January 16, 2008 12:00 AM

2008年01月15日

クリハラ式トレで進化

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(7)】

 最良のパートナーとの出会いが、薬師寺保栄の眠っていた才能を進化させた。日本王座を手にし、世界を視野に入れた薬師寺は専属トレーナーを探した。選んだのが米ロサンゼルス在住の日系2世、マック・クリハラだった。のちに世界2階級制覇を果たす戸高秀樹をはじめ、今では日本人も多数指導することになるが、当時はまだ彼のことを知る人は多くなかった。松田ジム会長の松田鉱二が国際的マッチメーカーのジョー小泉氏から存在を聞き、2人はロスに飛んだ。

 薬師寺「マックと最初に会ったのは、92年1月だった。最初は1カ月だけ見てもらう予定で、長いつき合いになるとは思わなかった。向こうは日本語を話せないから、カタコトの会話。それでもボクシングをよく知っているし、気持ちが優しくて尊敬できる人だった」。

 クリハラ氏はハワイ生まれで、両親は広島出身。もともとはカットマン(試合中に選手が切った傷を治療するセコンド)だったが、トレーナーに転身した。彼の関係者によると、日本で井岡弘樹ら6人の世界王者を育てた名トレーナーのエディ・タウンゼントから教えを受けた経験もあるという。

 のトレーニングは徹底した実戦重視型だった。クリハラは、常識を超えるスパーリング量で選手を鍛え上げた。薬師寺はコンビ結成以来、試合50日前からのロス合宿が恒例行事になった。このころから毎日の練習内容をノートに書き記しており、当時のトレーニングの様子がうかがえる。

 薬師寺「月曜から土曜まで、ほぼ毎日スパーリング。最低4ラウンドで、最多は12ラウンド。合計では200から250。他のボクサーはみんな100回も行ってなかったから、当時としては画期的だった。僕が世界チャンピオンになって防衛するようになったら、みんな僕をまねするようにスパーリングの回数が増えてきましたね」。

 練習だけでなく、食事も徹底的に管理した。減量期間は薬師寺と同じメニューを食べていたという。薬師寺がクリハラの教えを受けるようになってから感じたのは「試合当日になったら、ものすごい体が軽い」ということ。辰吉戦の前のスパーリングは合計は217回を数えた。約70回だった辰吉の3倍の量をこなしたことで、精神的な自信にもなった。

 さらにクリハラに師事するようになってから、ボクサーとして初の試みに挑戦した。名古屋市中区の特別視機能研究所で1週間に1度行った、動体視力を高めるトレーニングだ。

 薬師寺「例えばバランスボールの上に乗りながら、上からつるされたソフトボールに書かれたアルファベットを判別し、投げられたボールを受け取り、その日あった出来事をしゃべるんです。そうすることで普段使っていない感覚を使う。周辺視野っていうんですけど、それを鍛えることで相手を(全体的に)ドーンと見れるようになった」。

 松田「マックとは1試合ごとの契約で、(報酬は)100万円単位。辰吉の頃は600万円くらいだったかな。他の人に「払いすぎだ」って言われたけど、それで薬師寺が勝つんだから仕方なかったよね。

 辰吉戦が決まった。クリハラも加わった薬師寺陣営は、激しい舌戦を繰り広げていった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 ◆クリハラ・トレーナーと日本人ボクサー 薬師寺を世界王者になって以来、多くの日本人ボクサーが同トレーナーの指導を受けるようになった。2階級制覇した戸高秀樹(緑)のほか、3度世界戦を経験した石井広三(天熊丸木)、WBA世界フェザー級王座に挑戦した渡辺雄二(斎田)らも師事した。現役では元日本スーパーバンタム級王者木村章司(花形)、元日本スーパーフライ級王者菊井徹平(花形)、フィリピン出身の東洋太平洋バンタム級王者ロリー松下(カシミ)らが同トレーナーの下でロサンゼルス合宿を経験している。

January 15, 2008 12:00 AM

2008年01月14日

人生変えた「番狂わせ」

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(6)】

 薬師寺保栄VS辰吉丈一郎。この「世紀の一戦」は興行権争いで折り合いがつかず、94年9月1日にメキシコ市のWBC本部での入札に持ち込まれた。参加したのは薬師寺側がジム会長の松田鉱二と中部日本放送(CBC)関係者。辰吉陣営は世界的プロモーターでもある帝拳ジム会長の本田明彦、大阪帝拳マネジャーの吉井寛(現会長)だった。ここで1つの「サプライズ」が発生する。

 米国のらつ腕プロモーター、ドン・キングが、突然の参戦を表明したのだ。白髪を逆立てた独特のヘアスタイルで有名なキングは、本田と親しい仕事仲間だった。当初は2億円前後の攻防と考えていた松田だが、キングの参戦で予測がつかなくなった。

 松田「ドン・キングが来るというのは2、3日前から聞いていた。本田さんと仲がいい人ですから、向こう(辰吉陣営)として参加したんでしょう。だから1対2という不利の中での入札だった。僕は大阪帝拳よりドン・キングの方を警戒した。3億5000万円は出さないと厳しいと思いました」。

 TBS系列のCBCからの放映権料は1億円。それと後援会からの援助を加えても、3億5000万円は採算を度外視した赤字覚悟の金額だった。

 入札順はジャンケンで決められた。2番目の松田は342万ドル(当時約3億4200万円)と書いた紙を提出。金額はWBC会長のホセ・スライマンが読み上げた。まず、大阪帝拳が237万9999ドル(約2億3800万円)。そして最後のドン・キングは320万1500ドル(約3億2000万円)だった。金額が告げられると、松田はつぶやいた。「勝った」と。

 松田「最高にうれしかった。名古屋の意地にかけて、負けられなかった。大阪帝拳と松田ジムでは大きさが違う。バックのテレビも向こうは日本テレビで、こちらは地方局。うちが勝てる要素はなかったが、超番狂わせになっちゃったんだ」。

 落札額はヘビー級以外では、日本どころか世界でも史上最高だった。ファイトマネーとして両者折半され、手取りは67%で約1億1400万円。この額も日本最高だ。のちに薬師寺の取り分は松田ジムに配慮して2500万円だったことが明らかになるが、辰吉はこれまでの最高額2000万円(推定)の7倍。とてつもない数字だった。

 薬師寺「そんなに値打ちがあるのかな、すげえなって驚きましたよ」。

 2階級制覇した元世界王者の井岡弘樹(現井岡ジム会長)は、薬師寺とは同学年で仲がよかった。試合前、2人はトイレに連れ立って用を足すことが恒例だった。辰吉戦の数時間前にも“儀式”は行われた。

 井岡「ヤクちゃん(薬師寺)、今日辰吉に勝ったら何億、何十億のお金が手に入るつもりで戦いなよ。それに、お金では変えられないような、いろんな人に出会うことができるから」。

 辰吉に勝って人気者となった薬師寺は、その後タレントに転向して成功。現在は地元名古屋で大きなジムを開設するに至った。世紀の1戦は莫大(ばくだい)なカネを生み出したが、その後の薬師寺の人生も変えた。親友の「アドバイス」が現実となったのだった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 ◆WBC(世界ボクシング評議会) World Boxing Councilの略。ボクシングの世界有力4団体の1つ。もともとはWBA(世界ボクシング協会)の一部で、中南米、東洋、欧州、英連邦などの地域団体で構成されていたが63年に独立した。日本は70年に加盟。本部はメキシコ。現会長もホセ・スライマン氏。同団体で最初の日本人王者はスーパーフェザー級の沼田義明で、70年4月5日にバリエントス(フィリピン)を15回判定で下して王座に就いた。同年12月11日にはフェザー級の柴田国明がサルディバル(メキシコ)を12回TKOで破り、新王者となっている。

January 14, 2008 12:00 AM

2008年01月11日

シ烈興行権争い!入札へ

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(5)】

 ボクシングも他の競技と同じように、地元で戦うことの優位性は大きい。慣れた土地であることはもちろん、採点にも微妙な影響を及ぼすと考えるからだ。だから世界タイトルを狙える有望選手を抱える各ジムは、海外の世界王者に挑戦する際、ファイトマネーに大金を積んでまで日本に呼ぼうと躍起になる。

 そして、薬師寺保栄が辰吉丈一郎との「世紀の一戦」に勝った理由の1つに、名古屋開催だったことが挙げられる。

 日本ボクシングコミッション(JBC)の裁定発表により、辰吉の国内復帰が特例として認められた。そこから王座統一戦をめぐる両陣営の「興行権争奪戦」が本格化した。辰吉にはボクシング界で大きな力を握る帝拳グループが背後についていた。薬師寺陣営の松田ジムは資金も政治力も劣っていたが、名古屋で試合をするために必死に抵抗した。

 放映権料がファイトマネーに結びつくことから、交渉の鍵はテレビ局が握っていた。辰吉陣営は日本テレビでの大阪開催、一方の薬師寺陣営はTBS系列の中部日本放送(CBC)での名古屋開催を主張。松田ジム会長の松田鉱二と東京・帝拳ジム会長の本田明彦が東京、名古屋で話し合ったが結論は出ず、最終手段の「入札」に委ねることで一応は決着した。

 「話し合って(興行権を)決めるなんて無理。お互い引けないし、最初から入札になると思っていた」と本田。一方の松田も、譲るつもりは毛頭なかった。

 松田「別に入札じゃなくてもよかったが、裏で儲けていると思われるのが嫌だった。大きなジムに対する意地もあった。最初から名古屋での開催と、ずっとお世話になっていたCBCでの放送は譲れなかった。CBCと(松田ジムは)年間契約をしていて、テレビを外すわけにいかない。入札で負ければ仕方ないが、それ以外は契約があった」。

 入札となれば両陣営に遺恨が残ることは必至だった。ここで大阪帝拳ジム会長の吉井清(故人)は、何とか回避しようと松田に譲歩案を提示した。

 提案は4項目あった。
  (1) 場所は名古屋、テレビは辰吉側の日本テレビ
  (2) 場所は大阪、テレビは薬師寺側のCBC
  (3) 場所は東京で、テレビは両放送局で放映
  (4) 場所は東京、テレビは放送局同士が入札

 すべて興行収入は半々、ファイトマネーは5000万円ずつの合計1億円という条件だった。だがここでも松田は首を縦に振らない。9月1日、メキシコのWBC本部で入札が行なわれることが正式に決まった。

 最終交渉の決裂で、両者の溝がますます深くなった。互いに意地をかけた「全面戦争」。当初1億円前後と思われた入札額も、倍の2億円近くに膨れ上がるだろうと予想されていた。

 松田「辰吉はベルトを取りたかっただろうし、我々は『辰吉の人気』を取りたかった」。

 まさに意地と意地をかけた「場外バトル」。日本選手絡みで3例目の入札だったが、日本人同士になると、王者統一戦と同様に「史上初」の出来事だった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 ◆名古屋と世界王者 東京や大阪と比べるとジムの数や選手層などの不利もあり世界王者は誕生は遅かったが、中部地区から4人が輩出されている。第1号は91年2月に畑中清詞(松田)で、2度目の世界挑戦でWBCスーパーバンタム級王座を獲得。93年12月にジムの後輩薬師寺が頂点に立った。続いたのは緑ジム勢。97年12月に飯田覚士がWBAスーパーフライ級王座に就き、戸高秀樹が99年7月の同王座と03年10月の同バンダム級暫定王座と2階級を制覇した。

 ◆日本選手絡みの入札 76年5月のガッツ石松-ヘススのWBCライト級戦は、王者ガッツ側が入札に敗れてプエルトリコで試合を行い判定負けした。87年7月の浜田剛史-アルレドンド(メキシコ)のWBCスーパーライト級戦は、王者浜田側が興行権を獲得したが、試合は6回TKO負けだった。

January 11, 2008 12:08 AM

2008年01月10日

特例復帰「負けたら引退」

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(4)】

 薬師寺保栄が日本バンタム王座を獲得したのは、対戦相手の死亡事故から1年が過ぎた91年6月30日だった。尾崎恵一(オサム)を9回TKOで撃破。先輩の畑中清詞がWBC世界スーパーバンダム級王座を失ってから、わずか16日後のことだった。

 尾崎が保持していた日本タイトルは、前王者の辰吉が返上したものだった。その辰吉は同年9月19日にリチャードソンを下し、プロ8戦目でWBC世界バンタム級王者に輝く。しかしその後、辰吉の眼疾を境にベルトの行方は二転三転する。

 3カ月後の12月、辰吉は左目に網膜裂孔を患って緊急入院。初防衛戦は延期を余儀なくされた。そのブランクにより設置された暫定王座に就いたのがビクトル・ラバナレス(メキシコ)。そして92月9月の王座統一戦で、正規王者の辰吉は敗れた。

 その後ラバナレスは辺丁一(韓国)に敗れ、辰吉の挑戦が決定。だがその直後に辺が左親指をはく離骨折する。またも暫定王座が設けられることになり、そこで辰吉はラバナレスとの再戦に勝ち、辺との王座統一戦に臨む権利を得た。

 ところが今度は辰吉が、日本ボクシングコミッション(JBC)ルールで引退が義務づけられている網膜はく離に侵され、ボクサー生命の危機に立たされた。代役として辺への挑戦者に選ばれたのが、薬師寺だった。93年12月23日。そのチャンスを2-1の小差判定で制し、思いがけぬ形で頂点に上り詰めた。

 薬師寺「回りまわってきた話だった。僕はWBAをターゲットにしていた。でもピンチヒッターに選ばれて…。『疑惑の判定』と呼ばれながら勝っちゃったから、そこから辰吉との運命が始まったんだよね」。

 網膜はく離によって、辰吉は追い込まれた。しかし、あきらめなかった。所属の大阪帝拳ジムは、海外の復帰例を示すなど必死に訴えた。現役続行を望むファンからも、6万4000人分の署名が集まった。それでも「ルールはルール」と態度を硬化させるJBCに対して、辰吉陣営は綿密な国内復帰計画を進めるのだった。

 まずは海外での復帰戦。93年7月2日、場所はハワイ。ホセフィノ・スアレス(メキシコ)との対戦が決まった。この相手の選択が、重要なポイントだった。スアレスはその3カ月前、世界王者となった薬師寺が初防衛戦で10回KOに葬っていた。辰吉が圧勝すれば、その存在と力をあらためて誇示することができる。そんな狙いがあった。

 陣営の思惑どおり、辰吉は約1年ぶりの試合に3回KO勝ちした。観戦したWBC会長ホセ・スライマンは、辰吉が眼疾より10カ月前に返上した暫定王座返り咲きを認め、国内復帰支援を表明。さらに2度目の防衛戦を行う薬師寺と、挑戦者・辺の勝者に、辰吉との対戦を義務づけた。まさに事態は、辰吉サイドのシナリオ通りに進んだのだった。

 そして7月、薬師寺が辺を11回TKOで破る。辰吉戦が内定し、周囲は初の日本人同士による王座統一戦に向けてヒートアップした。ついにJBCも世論に押し切られる形で、辰吉の国内復帰を特例措置として認めた。しかしそれには、ある条件が設けられた。「薬師寺に負けたら引退」-。いよいよ「世紀の1戦」の幕が開いた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 ◆網膜はく離とボクサー 「ボクサーの職業病」といわれ、元WBAフライ級王者のレパード玉熊(国際)は、91年3月14日にアルバレス(コロンビア)との2度目の防衛戦に判定負けした後、左目の網膜はく離で引退した。元WBAスーパーフライ級王者の鬼塚勝也は94年9月18日に李炯哲(韓国)に9回TKOで敗れて5度防衛した王座を失い、試合後に右目の網膜はく離と診断され引退を表明。約2年前から異常を感じていたが、引退に追い込まれることを恐れて隠していたという。WBC規定には「2人以上の医師の許可があれば復帰できる」の条項がある。2階級制覇していたシュガー・レイ・レナード(米国)は81年に網膜はく離で引退したが84年に再起。5階級制覇を成し遂げ、91年2月まで再発することなく現役を続けた。

January 10, 2008 12:06 AM

2008年01月09日

愚行、悲劇…引退も考えた

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(3)】

 プロ3戦目から連敗するなど、4試合を終えて2勝2敗。デビューから1年がたった薬師寺保栄の戦績は、いたって平凡でしかない。原因は明白だった。

 薬師寺「練習してなかったですね。雨が降ったら走らないし、まじめにやらないし。ボクシングに対する取り組みが甘かった」。

 しかし、88年5月16日の4戦目が最初の転機となった。相手は7戦全勝(5KO)で日本バンタム級9位の岡部繁(セキ)。会場は、この時が最初で最後となる東京・後楽園ホール。岡部はのちに日本王者となって辰吉丈一郎とも戦ったが、4回KOでタイトルを奪われている。薬師寺はその岡部を相手に予想以上の頑張りを見せ、0-2の小差判定で敗れた。

 薬師寺「僕は勝ったと思った。この相手が日本9位なら、ちょっと練習したら日本チャンピオンになれるかなぁと思ってた。シャワーを浴びて外に出ようとしたら、見たことない強面(こわもて)のオッサンが寄ってきて『名前なんだっけ? お前、走ってるか。練習してないだろ。練習してみろ。勝てるから。すぐ日本チャンピオンくらいになれるよ』と言ってくれたんです」。

 その人は、日本人で初めて海外での世界王座奪取に成功し「シンデレラ・ボーイ」と呼ばれた元WBA世界フェザー級王者の西城正三だった。この励ましに薬師寺は感激した。「世界チャンピオンから見たら、オレは日本チャンピオンになれるんだって」。心を入れ替え、本気でボクシングと向き合おうと思った。ところが…。

 8戦目で日本ランク入りを決めた直後の89年3月、愚を犯してしまう。暴走族だったころの後輩たちが偶然通りがかり、気がつけば先頭を走っていた。道路交通法違反で摘発され、16日間の拘留。日本ボクシングコミッション(JBC)から6カ月間のボクサーライセンス停止処分を言い渡され、日本ランキングから抹消された。

 「初めて新聞に顔写真が載ったんですよ。それまでは試合に勝っても活字しか載らなかったのに」。今は笑って振り返ることができるが、当時はそれどころじゃない。狭く、暗い留置場の中で考えた。

 薬師寺「何でこんなことになるんだ。自分はボクシングをやるんじゃないか。キチンとやらないとって」。

 国内ライセンスが停止されたため、8月にシンガポールで再起した。そこから3連続KO勝ちで迎えた90年6月14日、札幌での米坂淳(北海道)とのノンタイトル10回戦で悲劇が起こった。薬師寺が最終回に連打を浴びせてKO勝ち。敗れた米坂は控室に戻ると意識を失い、そのまま入院。4日後、脳挫傷で亡くなった。日本ボクシング界で23例目の死亡事故だった。ショックは大きく、引退まで考えた。

 薬師寺「悪く言えば、人を殴り殺したってことですからね。彼の分まで、という考えはなかったけれど、このままオレがダメになったら、もっとダメだし…」。
 危険と隣り合わせのボクサーにとっても、死は受け入れがたい現実。それを目の当たりにした薬師寺は「絶対に日本チャンピオンになろう」と誓った。ただ、まだ「世界」は遠いものだった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

January 9, 2008 12:04 AM

2008年01月08日

エリートとチキンハート

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(2)】

 薬師寺保栄と辰吉丈一郎の決戦。戦前の予想は、圧倒的に「辰吉有利」だった。大阪・読売テレビのスポーツ部ディレクターとして辰吉の密着取材を続けていた萩原大(現プロデューサー)は、当時をこう振り返る。

 萩原「取材陣も関係者も、辰吉が勝つと思ってた。3回くらいで終わるかな、と。試合を放送した名古屋のCBC(中部日本放送)の関係者ですら『薬師寺が勝つと思ってなかった』と話していたんです」。

 そんな風評の“根拠”の1つが、両者の「初顔合わせ」にあった。91年8月30日から2日間のスパーリング。薬師寺がその目で見て衝撃を受けた辰吉と畑中清詞のスパーから、3年がたっていた。のちの宿敵は、WBC世界バンタム級王者リチャードソンへの挑戦が20日後に迫っていた。6月に日本バンタム級王者になっていた薬師寺は練習相手として、辰吉が所属する大阪帝拳ジムに呼ばれたのだった。

 報道陣に公開された初日。4ラウンドの手合わせで、薬師寺は一方的に打たれた。数日前に、2階級制覇を目指して和歌山・白浜でキャンプを張っていた友人の井岡弘樹に同行し、疲れが残っていたことも響いた。翌日の3ラウンドのスパーでは多少の見せ場をつくったが、「辰吉強し」の印象は覆せなかった。

 薬師寺「パンチは速いし、重たかったし…。ああ、コイツは世界チャンピオンになるんだろうなって、思いましたよ。こっちのジャブは当たるけど、そのジャブで止まらない。懐に入って来て、打ち込まれました。今のオレではかなわないな、と感じました」。

 もちろんこの時の薬師寺は、将来の対戦をイメージして殴り合ったわけではない。だが、直接グローブを交えた経験が「大きな残像」として確実にインプットされてしまった。

 それから2年4カ月後、薬師寺は世界初挑戦で王者・辺丁一(韓国)を下して世界のベルトを腰に巻いた。その後2度防衛し、辰吉との対戦が決まった時でさえ「強烈なマイナスイメージ」を払しょくできていなかった。

 2人が歩んできたボクサー人生は対照的だ。辰吉は17歳で全日本社会人選手権を制し、ソウル五輪のメダル最有力候補と目されるなどトップアマとして活躍。89年9月のプロデビュー後も、スターへの階段を駆け足で上がっていた。

 一方の薬師寺。愛知・享栄高では、3年夏のインターハイのフライ級8強が目立つ程度。オートバイが好きで、暴走族に加わるなど、ボクシングに専念できなかった。それでもアマボクサーだった父・巧の勧めもあり、高校の2年先輩・畑中のいた名古屋の松田ジムに入門。87年7月のデビュー戦は、際どい判定勝ちだった。同ジム会長の松田鉱二は当時を懐かしむ。

 松田「まあ、ひどいもんでした。ちょっと打たれるとロープに下がる。気が小さいんです。こりゃ、全く使いものにならんと思いましたね。せいぜい6回戦ボーイだな、と」。

 「チキンハート(憶病者)」という残酷なレッテルを張られる、平凡なボクサーに過ぎなかった。だが、そんな薬師寺に、間もなく最初の転機が訪れた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

January 8, 2008 12:03 AM

2008年01月07日

忘れられぬ初スパーの拳

【世紀の一戦 薬師寺VS辰吉(1)】

 2人の王者が数奇な運命に導かれ、同じリングにたどり着いた。1994年(平6)12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール。現在は日本ガイシホールという名称になっている会場は、超満員の9800人観衆で埋まった。聞こえるのは叫び、歓声、拍手…。すべてが混ざった異様な雰囲気。まもなく、日本人同士による初めてのボクシング世界王座統一戦が行われようとしていた。

 場内が暗転。照明でリングが浮かび上がる。午後7時43分。青コーナーから先に入場したのは、WBC世界バンタム級の暫定王者、辰吉丈一郎だった。

 日本人最速となるデビュー8戦目で世界同級王座を奪った「浪速のジョー」。実力とウィットに富んだ語り口を持つ人気抜群の天才ボクサーは、真っ白なガウンをまとい、テーマ曲「死亡遊戯」とともに登場した。

 「タッツヨシ!」「タッツヨシ!」

 ホームタウンではないが関係ない。カリスマ性に魅入られた観衆が辰吉の名を連呼する。反対側のコーナー奥では扉を隔ててもう1人の王者が待機していた。WBC世界バンタム級の正規王者、薬師寺保栄。試合前だというのに相手を応援する熱狂を他人事のように感心して聞いていた。

 薬師寺「すごい歓声だなって。僕が入場して、静まってしまったらどうしようと思ったよ」。
 不安は一瞬で吹き飛んだ。辰吉にも負けない声援が自らの身に降り掛かってきた。黒いガウンの下に身震いを覚えながら、アース・ウインド&ファイアーのヒット曲「レッツ・グルーヴ」に乗って入場。宣言していた通りリング上でダンスを披露した。

 腰をかがめた辰吉が、グローブをたたく挑発の拍手で迎えた。だが、そんな相手に視線を送ることなく、入念にシャドーボクシングをしながら集中力を高めていった。ついにゴングが鳴る世紀の一戦。「本当に戦うんだな…」。薬師寺は不思議な運命を思い返していた。

 出会い、約6年が過ぎていた。薬師寺が所属する名古屋の松田ジムの先輩・畑中清詞が88年9月の世界初挑戦でヒルベルト・ローマンに敗れ、再起戦を迎えようとしている時期だった。

 韓国の崔相勉とのデビュー戦に2回KO勝ちした辰吉が、畑中のスパーリングパートナーとして松田ジムにやってきた。当時8回戦ボクサーだった薬師寺は、2人の打ち合いに見入ってしまった。

 薬師寺「畑中さんと互角にやってたからね。コイツ、すげえなって。当時から彼は有名だったし、名前は知っていた。その時は自分が辰吉と試合することになるなんて思わなかった。自分が日本チャンピオンになってスパーリングをやった時も、対戦するとは夢にも思わなかったよ…」。

 次の「接触」は3年後の91年8月。日本王者だった薬師寺は、世界初挑戦を控える辰吉のスパーリングパートナーとして招かれた。2日間で合計7ラウンド。その時交えた拳の感触が、後々まで脳裏にこびりついて離れなかった。ただ、辰吉の才能に驚くばかりだった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 ◆バンタム級 契約体重は115ポンド(約52・16キロ)から118ポンド(約53・52キロ)まで。全17階級のうち、スーパーフライ級とスーパーバンタム級の間で、下から5番目に軽いクラス。現在の世界王者はWBCが長谷川穂積(真正)、WBAがウラジミール・シドレンコ(ウクライナ)。アマチュアでは51キロから54キロまで。主に60年代に活躍し、ファイティング原田らと激闘を演じた同階級の元世界王者エデル・ジョフレ(ブラジル)は「黄金のバンタム」と呼ばれた。日本の同級世界王者は原田、六車卓也(大阪帝拳)、辰吉、薬師寺、戸高秀樹(緑)と長谷川。ちなみにバンタムとは「チャボ(闘鶏)」の意味で、漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈もこの階級。

January 7, 2008 12:00 AM