Hangin' Around The NBA Wit Kaoru

プロフィル

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★真田薫(さなだ・かおる)
 埼玉県出身、NY在住。故障のため、バスケットボールを断念。R&Bシンガー「Cheyenne」として97年デビュー。アルバムリリースやライブ活動のかたわら、ラジオ番組のMCも手がける。00年からNBAを精力的に取材。

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2005年08月31日

Fresh Prince Of NBA Vol.3

いよいよ8月も終わるね。
冬の寒さが厳しく、夏が短いNYでは、早くも猛暑は過ぎた感があり、過ごしやすくなってきている。

そんな中、夏の風物詩のストリートボールも、各トーナメントともほぼシーズン・オーバーとなった。ストリートボール・ビジネスではNo.1にビッグな「AND1 ミックステープ・ツアー」も、フィリーを最後に全米ツアーを終了したが、今年はここで頑張る日本人ボーラーの姿が。皆さんご存知、以前はブルックリン・キングスでもプレーしていた森下雄一郎君だ。

タンパ、ボストン、プロビデンス、NYなど、森下君は各地のオープンランに姿を現し、特にプロビデンスでは多くのプレータイムも獲得するなど、ジャパニーズ・ボーラーへの突破口を開く大きな功績を残した。親知らずが痛んで、38度の熱が出たままチャレンジした日もあったようで、これこそ<大和男児>の心意気、その辺のおおげさアメリカン・ボーラーにはできないことであろう。

「ファイナル・ゴールはNBA。俺自身のことももちろんだけど、俺が今、ここでトライしていることすべてが、後に続く人たちにつながっているとも思ってる。俺がダメだと、後輩たちへの道も開けない。俺が今、2、3分のプレータイムをもらえることに成功すれば、それは10年後のチャレンジャーたちが10分プレータイムをもらえることに、つながるんだ」。

すげえ、クール!! なんとも男気あふれるね。「日本のバスケがもっと向上、盛り上がるためには、ヒップホップを知ることさ」と森下君は言う。私自身も、バスケットボールというスポーツ自体のリズム感、ヒップホップとバスケットボールとがアメリカの、特にゲットー地域ではほぼ同義語になっている状況、全米での浸透度などを考えるとき、「ヒップホップを知ることは、バスケットボールを体感、体得し、そのスピリットを理解し、楽しむためには有効なことだ」と思っているから、彼のこの考えには同調する。Big Up To Yuichiro! 頑張れ!

さて、「NBAをヒップホップ化した男」
としても有名な、我らがアレン王子。トンプソン・コーチのおかげで、何とかジョージタウン大に入ることができた。ジェイルを経験したため約2年間、<チームスポーツ>としてのバスケットボールをやれなかったが、そのブランクもなんのその。より大きく、速く、強く、アグレッシブになっていた。バスケットに向かって、どんな方法でも切り込んでいき、得点してしまう。そして、自分より数インチも大きいディフェンダーの頭越しに、次から次へとダンクをお見舞いした。

アレンがダンクできること、知っていた? NBAゲームではあまり繰り出さないけど、実際は180センチに満たない身長ながら、ものすごい跳躍力を持っている。その跳躍力を使い、リバウンドさえどん欲にもぎ取った。振った後の炭酸水が、栓を抜かれて一気に外へ吹き上げるような情熱。しかも、その情熱は<サバイバル>という使命によって、ぐらぐら沸騰させられていた。

そのころのジョージタウン大には、ジャハイディ・ホワイト、ジェローム・ウィリアムス、オセラ・ハリントンなど、のちにNBA入りを果たすビッグマンもそろっていた。アレンは最初、ベンチスタートだったが、すぐにスターターPGとして起用されるようになる。PGとはいえ、爆発的な得点能力を持つアレンは、ほとんどのケースで自らがフィニッシャー。ESPNのスポーツセンター、ハイライトに毎晩のように姿が映し出され、95年にはSLAM誌の表紙も飾った。また、どん欲にディフェンスに取り組んだので、カレッジの1年目にして、ビッグイースト・ディフェンシブ・オブ・ジ・イヤーにまで選ばれた。

96年のカレッジ・プレーヤーは豊作だ。Uconn(コネティカット大)のレイさま(レイ・アレン)、ビラノバ大のケリー・キトルズ、ジョージア工科大にはポン吉(ステフォン・マーブリー)、そしてウェークフォレスト大には、かのティミー・D(ティム・ダンカン)。アレンはキトルズやティミーと一緒に、ワールド・ユニバーシティーゲームのUSAチームに選抜され、日本へやってきた。

いくつかの取材予定や撮影などをすっぽかしたといううわさも聞こえてきたが、とにかく金メダルを獲得。そして、チームメートとケンカもした。アレンが寝ている間に、チームメートが彼のバスケに関しての冗談を言い、それに腹を立てたのだ。

「俺にとってのバスケットボールとは、プレッシャーではない。俺の<仕事>ではあるが、俺を<脅かす>存在ではなく、<楽しませてくれる>ものなんだ」。

今でこそ、こんな発言をたびたびするようになったアレンだが、NBAに入る前のカレッジ時代は、違った。このころの彼にとって、バスケットボールとは、仲間たちの冗談のトピックにされるべきものではなかった。

この先の自身と彼の家族が、まともな生活を手に入れて生きていくための手段として<必ず成功しなければならない>、恐ろしく真剣なものだったのである。

1年目には、まだまだ<自分が!>というエゴが出てしまったアレンも、2年目-ソフォモアになると、NBAスカウトの目を意識し出した。いくら優れていても、あまりにもセルフィッシュだという印象を与えては、ドラフトされないかもしれない。そう意識し出したアレンは、アシストを増やした。スティールも増やした。チームは結局、NCAAトーナメントで4位に終わったが、彼は再びディフェンシブ・オブ・ジ・イヤーになり、オールアメリカンにも選ばれた。

96年には、NBAへのアーリーエントリーを決めた。「カレッジに、まだまだ残りたい気持ちもある。しかし自分は、できるだけ早く、我が家の経済状態を改善しなければならない状況にあるので、これを決めた」。通常は、教え子のアーリーエントリーを嫌うトンプソン・コーチも、「妹の病気も、治してやらなければ」というアレンに反対することもできず、彼のNBAへの道をサポートすることに決めた。

アレンは、シクサーズからNo.1ピックでドラフトされた。「俺の人生で、最も幸福な瞬間だった。助かった! っていう心境でもあったよ」。

No.1ピックを持っていたシクサーズは、実はその年の2大PGと言われていたアレンとステフの両者を事前に面接したという。

「ステフもね、良い子だったよ。しかし彼は、<エージェントに教えられた通りの答え>を用意してきているように思えたんだ。アレンはときに、自身にマイナスになるようなことも言ってしまったが、正直だった。バスケットボールプレーヤーとしてはもちろんのこと、人間的にも、何か強烈な魅力があった。そんな彼を信じることにして、我々はアレンを選んだんだよ」。

後にそう語ったのは、アレンのまた別の<恩人>にして当時のシクサーズオーナー、パット・クローチ。

いまや大成功した若手実業家のパット・クローチも、育った環境がハードだった人だ。孤児だった元ボクサーの父に、虐待され続けた少年時代を持つ。「父は、暴力でしか会話できないような人でね。ひとたび怒り出すと、私はまずたたきのめされる。そして、彼のベルトを取りに行かされる。自分をさらにたたきのめすために使われるベルトをね、自分で取りにやらされるというわけさ」。

そんなクローチは、アレンの良き理解者だった。アレンと同じ腕の位置にタトゥーを入れるような、若くて無邪気な感性を持つクローチに、アレンはなついていった。「アレンがチームに来たとき、やあ、君のニックネームはなんだい? ってたずねたんだ。そしたら彼は、Bubba Chuckだ。俺の、ハンプトン時代からのポッセ(仲間)がつけたんだ、と言う。私は、そりゃあ、クールだと思ったので、それから彼のことをいつでもBubba Chuckと呼ぶことにしたんだよ」。

このときから、クローチとアレンのあいさつは、
「Hey,Bubba Chuck!?」
「…What’s up、Cat Daddy?」
というやりとりに、決まった。

「Cat Daddy,調子はどうだい?…アレンは、それしか、<Hello>という気持ちを表す言葉を知らなかったのだから、いいんだ、それで」と笑って語ったクローチ。このクローチとラリー・ブラウン。後々、白人の中ではアレンと最も親密な関係を築いた2人、と言われるチーム・オーナーとヘッドコーチに率いられながら、彼のシクサーズ生活がスタートすることになる。

August 31, 2005 01:15 PM | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年08月24日

Fresh Prince Of NBA:Vol.2

JYD(ジェローム・ウィリアムス)は結局、引退してしまった。まだまだプレーすると思っていたからびっくりしたし、切ない。1、2晩眠れずに考えて、ニックスに残り、選手以外のところで活躍していくという決断を出したのだそうだ。

「NYのキッズたちに、俺は戻ってくると約束してしまったもの。それを覆すわけにはいかないよ」。

本当に子供好きな、優しいジェロームらしい発言。数週間前にニックスのキッズ・キャンプに彼が参加していたとき、この秋に出すというキッズのためのラップCD第2弾の話も、当日の音楽を担当していたDJから聞いた。キッズがやる気と自信を持って頑張れるように、JYDがライムしている、ポジティブな内容のCDだ。

「俺はラッパーじゃないけどね。でもキッズのために、ラップしてみたんだよ」。

チームメートにも、ファンにも、そしてメディアにも、みんなに好かれていた。ラプターズ時代のチームメート、ビンス・カーターが「トロント時代に全力でプレーしていない日もあった」と爆弾発言をしてたたかれたときも、彼をかばう優しい発言をしていたジェロームだった。

「ファンのことを、きっと1番恋しく思う」と、引退の電話記者会見では語っていた。あのガッツプレーをもうNBAで見ることはないのか、と思うととても寂しいけど、でもまだ<バスケ・プレーヤー>をやめたわけじゃないよ、とも。ラッカーパークやどこかでまた、その雄姿を見られるのを楽しみにしている。映画出演のオファーもあるそうで、いろいろ活躍しそうだね。みんなも彼をどこかで見かけたら、「バウバウ!」と明るくあいさつしてあげて欲しい。

そのJYDの出身大学でもあるジョージタウン大。アレン・アイバーソンがここに入ることができたのは、この大学のバスケットボール部コーチ、ジョン・トンプソンのおかげだ。

彼は、アレンが毎年、夏に行うキッズのためのチャリティー・ソフトボール大会にも必ず、顔を出す。「私はプレーしないのかって? いやいや、マイ・キッドが来てくれと言うんだから、応援に駆けつけているだけさ。そしてね、大学時代にそうしていたのと同じように、ベンチからまたあの子を叱りつけるのさ(笑)」。そんな冗談を飛ばしていたトンプソン・コーチ。しかし、この人がアレンをジョージタウン大に迎えようとしていた当時、彼も大変な思いをしたようだ。

祖母の死など数々の辛い体験を通して、「俺がこの家の、唯一の男。俺が頑張ってやらないと、みんな、ダメになるんだ」という使命感に目覚めたアレン。ハイスクールでは、フットボール、バスケットボールともに、素晴らしい成績を残すアスリートに成長した。このときはやはりまだまだ、フットボールの方が好きだった。

アレンのハイスクール時代のバスケ・コーチ、ベイリー氏にも、以前インタビューしたことがある。

「あの子にフットボールをあきらめさせ、バスケに専念させようとしたのは、この私だよ。アレンは素晴らしいフットボール選手だったけど、でもあの体格では、プロになったら故障がちになってしまって長続きしないんじゃないか、って思ったんだ。それで、フットボールの練習に行こうとする彼を羽交い絞めにして、バスケにしなさい! って止めたもんだよ(笑)。あの子は足をジタバタさせて、離せ、離してくれよう、コーチ!! ってわめいてたけどね(笑)」。

フットボールでもバスケでも両方で、大学のスカラシップが望めるであろう、アレンだった。そんなとき、アクシデントが起こった。

友人たちと出かけたボーリング場で、白人客に人種差別的発言をされたアレンたちは、乱闘騒ぎを起こして警察に通報されてしまう。「俺はすぐにその場を離れた」と主張したアレンだが、既に地元では名前の売れたヤング・アスリートだった彼は1番の標的にされ、地元どころか、全米に知れわたるセンセーショナルな事件に発展してしまった。「相手のグループにいた女性に、アレンはいすを振り上げて乱暴しようとした」などという証言も出てきてしまい、どんどん不利になった。「俺が、この俺が、レディーに暴力を振るうような男に見えるっていうのか!?」と心の限りに叫んだアレンだったが、実証できず。当時アメリカ一の被疑者側弁護士と言われたローヤーを雇ったが、結局有罪となり、ジェイルへ行く羽目になってしまう。しかも、5年という長い懲役を求刑された。

先日のTVショー:<Quite Frankly>出演時には、当時を振り返って

「てめえがジェイルに行くはめになるときは、やはりそれにふさわしいことを、してるもんだよ」

と、真摯(しんし)に反省できる大人になったことを見せたアレンだが、ティーンエージャーだった当時は、全く納得のいかないジャッジによって、自分の未来が完ぺきに遮断されてしまったかに見え、暗い、どん底な気持ちで、ジェイルの日々を過ごしたという。

若く、将来有望なアスリートだということで、刑期を大幅に短縮されて戻ってきたが、既にフットボール・スカラシップは不可能になっていた。バスケットボールでも、どこの大学も、もはや彼を取りたがらない。そんな中、アレンの母は、人格者としても知られるジョージタウン大のトンプソンに連絡をとり、どうかアレンにチャンスを与えてもらえるよう嘆願した。

アレンに会って話をしたトンプソンは「この子は頭のいい、良い子だ」という強い印象を得て、その才能をムダにすることのないよう奔走し始める。だが、周囲から猛反対にあった。「あんな刑務所帰りの生意気な子を入れても、君のためにはならないよ」と忠告してくる人々もあった。しかしトンプソンは、自身がアレンを見た印象を信じた。若い、類いまれな才能を、これしきのことでつぶしてはならないと思った。アレンをワークアウトなどに呼び、さまざまな地元コーチたちに彼のプレーを見せ、そしてついに、アレンにジョージタウン大のスカラシップを与えることに成功する。こうして94年、アレンは晴れて、バスケ強豪のカレッジで新しいスタートを切れることになったのである。

こうして見てくると、アレンは本当に、コーチ陣や周囲にいる人々にも恵まれているようだが、それは彼の才能ももちろんのこと、燃えるような闘志と根性、そしてあのなんとも言えない人間的魅力のおかげだろう。

「皆さんは、どうもアレンをバッド・ボーイとして見たがるようだね。でも、私は、彼が良い人間なのを知っている。こうして毎年アレンがキッズのために、自ら行っているソフトボール大会…こんな良いことをしているアレンに、私はちっとも驚かないんです。大学のときだって、良い子だったもの。皆さん、これが本当のアレン・アイバーソンなんだ」。

何とも慈愛にあふれる、温かいスピーチをしたトンプソン。アレンは照れて、そして大きな瞳がジワッと、たちまち潤んでいた。

ジョージタウン大で頑張っていたアレンだったが、しかしその才能ゆえに、周囲のやっかみ、ねたみを呼び、ことあるごとに「ふん、あのジェイル帰り」などと批判され、足を引っ張ろうとする者たちも後を絶たなかった。このころついた皮肉なニックネームが「Jail Bird」。多くのブラック・キッズが、軽罪で刑務所務めを体験している中、アレンは優秀なアスリートだということで、並みの10倍も、その経歴を指摘されるはめになる。しかし、そんな状況が、スティーブン・A・スミスの指摘していたアレンの最大の武器、<No Fear(何者をも恐れない>精神を、ますます鍛えていくことになるのだったが…。

August 24, 2005 12:24 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年08月17日

Fresh Prince Of NBA つれづれ

 Amnesty Clause(特赦条項)

--こいつのせいで連日、いろいろな選手がウィーブされているね。我がニックスからは、JYD(ジェローム・ウィリアムス)。ついこの間、ニックスのサマーキャンプに参加して、キッズを笑わせていたのに。この人は、どこのチームにいっても、その優しい性格とガッツプレーでファンの人気者になる人である。もちろんチームメートも大事にするし、メディアにもナイスで、私などにもいつも優しく声をかけてくれたものだった。切ないなぁ・・・。

 実は、ジェロームはケガで全身ボロボロだといわれる。アイザイア(トーマス)は彼に対し、選手以外で迎え入れるポジションもいくつか提示したそうだが、彼は同意しなかったらしい。まだまだ、プレーしたいのだ。私個人としても、あのハードノーズ・ディフェンスと、みんなを熱く感動させてくれるガッツプレーを、いつまでも見たい。読者のみんなも、JYDの明るい前途を、祈ってね!

その他にも、ダラスの(マイケル)フィンリーやら、おまけにあのレジー(ミラー)までもが、この新規則導入のせいでウィーブ扱いになってただなんて発表もあったようで、本当にプロスポーツの世界って厳しい。そんな中、我らがフレッシュ・プリンス、アレン王子が長年慕ってきたチームメート、アーロン・マッキーも、この規則の犠牲になってしまった。

バスケットボールに関しては限りなくプロフェッショナル、他の人々に対する面倒見もよいマッキーには、実は私も結構助けてもらっていて、感謝している。最初のころ、アレンちゃんにぶあいそにされ続けてめげていたとき、マッキーの助け舟によって、アレンの私に対する警戒心が解け、場が和んでうまくインタビューできたなんてことも、何回かあった。

例えば、好きなラッパーは誰か、とアレンに聞いたときのこと。「レッドマン」と一言、ぶっきらぼうに言い放って黙り込んでいるアレンを見たマッキーがこちらにやって来て「Hey Hey girl、俺の好きなラッパーは知りたくない?」と明るく話しかけてくれた。

「誰なの?」
「Jewelz(そのころ、自分のアルバムを出そうとしていたアレンのラッパー名)、さ。君のお気に入りは?」
「私ももちろん、Jewelzよ(笑い)」
「おい、聞いたか、アレン? お前、人気だぞ!?」
…なんてやってくれたおかげで、アレンもついに笑い出し、
「全く、おめえらよぉ、FuOk y’all!!…で、ヒップホップは日本でもそんなに人気なの、girl?」

とリラックスして話し始めてくれたことを、今でも鮮明に覚えている。

昨季プレーオフでフィリーに行ったときも、新加入のクリス(ウェバー)が、「ねえねえ、君はもう、アーロンとはしゃべってるよね? 彼は僕がここへ来てから、すぐにマイメンになってくれたんだよ!」ってうれしそうに語っていた。「マッキーって、本当に面倒見のいい人なんだなぁ」って、あらためて思ったものだ。

アレン王子の面倒も本当に良く見ていて、まさしく<女房役>だった。アレンちゃんは、そんなマッキーに歯ブラシまで預けていた。ゲーム後にいつも歯を磨くアレンは、マッキーのポーチの中からそれを出してもらっていたものだ。

「Yo,ブルー(マッキーのニックネーム)!!俺の石けんは!?石けんがないよう!!」
「2番目のシャワーのソープ受けのとこに、あるでしょ」
「ねえんだよぅ。俺の石けん!Yo,ちょっと来てくれよぅ、ブルー!?」
「…はいはいはいはい、ちょっと待っててね…」

なんて、女房どころかまるで<母と子>のような会話も、何度ロッカールームで耳にし、笑ったことか。そんな、心から頼っていた<兄貴>がチームから去ってしまうなんて、アレンちゃんは今ごろ、落ち込んでいるだろうな。どうかマッキーも、良いチームを見つけてほしい。

でも、アレンちゃんにとって良いニュースだってあった。

昨日15日、5番目の子供が、生まれたのだ。女の子で、名前はMessiah Lauren(アレン&奥さんのタワンナさん、おめでとう!!)。

余談だが、このタワンナさんという人は、とても慎ましくて控えめな、おとなしい人。NBAプレーヤーたちの奥さんとか彼女って、スーパーモデルのように美しくてゴージャスで、ってイメージがあるだろうけれども、実際には驚くくらい地味で、<普通>な感じの人が多い。やはり、華やかだけれども厳しい世界で生きている、負けん気の強いNBA選手たちを支え、うまくやっていくためには、あまり<自分が出がち>な女性はダメなのかもしれない。

オフの間もさまざまなことが周囲に起こっているアレン王子は、先日、人気スポーツ・ジャーナリスト、Stephen A Smithが新しく始めたTVショー<Quite Frankly>に出演したが、ストレートに自分のライフについて語ったのが大好評を博し、話題になった(ちなみにこのスティーブン、私の第1印象は最悪だった。アレンのことについて聞こうと思った私が、初対面だったので自己紹介をし、名刺を渡してお願いすると、「ハーフタイムの間だったらいいけど、今はちょっと忙しい」と言ったまでは良かったのだが、なんと渡した名刺を返そうとしてきたのだ。そんなことは初めてだったからびっくりして、少なくとも、いらないなら後でこっそり捨ててくれればいいものを、突き返そうとするなんて、何様だと思ってるんじゃ!!!と私もムカついてしまったのである。しかし、どうやらそれは、私が彼をナンパ!?でもしようとしてるんじゃないか、と思った彼の<警戒>だったらしく、そしてそうでないことが数十分後には分かったと見え、今度は丁寧に向こうから「今だったら答えられるよ」と来てくれて、私のムカつきもいっきに感謝に変わったといういきさつがあった。ほんと有名人って、大変なのね、もう)。

このショーの中で、ラリー・ブラウンのアレンに対するコメントが流れた。

「私は、アレンがどんなにハードにプレーするかを、知っている。アレンほどに、自分のすべてをコートに置いてこようと頑張るプレーヤーを、私は彼のほかには知らないよ」。

これを聞いたアレンは思わず、泣いてしまった。

ケンカも何回となく繰り返し、さまざまな愛憎劇があったアレンとラリー・ブラウンだが、しかしアレンにとってやはり<コーチ・ブラウン>がワン・アンド・オンリーの、父のように慕う人物であることは、変わらないのだろう。

そんな、<父性>を求めていたアレンにとってもう1人、生涯忘れられないコーチが、ジョン・トンプソンだ。ラリー・ブラウンは、NBAに入ってからのアレンをここまで成長させてくれた人だが、トンプソンがいなかったらアレンは、NBA入りすること自体が不可能だったかもしれないという、彼の人生の恩人なのだ。そのトンプソンとアレンがどのように出会ったのか…というのが、Fresh Prince Of NBA Vol.1のラストからつながっていくわけだが、それはまた、後ほど(じらしてないってば!!)。

August 17, 2005 03:10 PM | コメント (13) | トラックバック (3)

2005年08月10日

ポン吉道場

いやー、さまざまな選手が、いろんなチーム間を動いているね。気になるところでは、やはりお隣のNJネッツ。適切なコマと思われた(シャリーフ・アブドゥル)ラヒムは故障のことを再考しなければならなくなり、まだディールは確定していない。

「未来のラリーバード」とドラフト時にうたわれた(ブライアン)スカラブリニは、ボストン行きとなった。彼はファンにとってもアイドル的な存在で、ひとたびゲームに登場してきてボールを持つたびに、スタンドから歓声が沸き起こったものだった。ちょっとお調子者の気のいいヤツ、といった性格で、ノっているときなどたまに行き過ぎて、下手なドライブにもトライしてみせ、「今彼はきっと、自分はビンス・カーターだと思ったんだよ」と辛らつだが、爆笑もののジョークを記者連中にささやかれるほどのNJの人気者だった。ちょっと寂しい気もするな。1度もインタビューをしたことがなかったので、少し後悔。

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ラリー・ブラウン就任で揺れたNYでは、我がポン吉(ステフォン・マーブリー)が先週、キッズのためのキャンプを行った。これがまた、笑っちゃった~!!だって、なんだか驚くほど、ポンちゃんはコドモを扱うのが上手いんだもの。やっぱ、自分もコドモだから、彼らの気持ちが分かるんだろうか・・・(怒るなポン吉)。

今回は、前回に引き続き、アレン・ザ・プリンスの話を期待してくれていた方も多いと思うんだけど、ゴメン、それはまたじらすことにして(笑)…というのは冗談だが、この<ポン吉キャンプ>があまりにも面白かったので、ひとまず今回はそのレポート、しちゃいます。

<オフシーズンのNBA選手、夏のひとコマ>なり。(そういえば、アレンちゃんの夏のひとコマ!?としては、彼はこのポン吉キャンプの前の週末、NYにいた。7月29日の金曜日には、ブルバードというクラブで夜遊び。そして翌30日の土曜日には、マジソン・スクエア・ガーデン近くのペンシルバニア・ホテルで、スティーブン・A・スミスのトークショーに出演。ポンとも昔馴染みアレンちゃんだから、NYでまた一緒に遊んだはず)。


ポンちゃんの指導法というのは、まずコドモに<大声>を出させることが<軸>。


いくつかのお決まりフレーズがあって、コール&レスポンス方式だったり、自分と同じフレーズを復唱させたり。これをシュート・フォーム練習などの合間に突然、キッズがドキッ!?とするタイミングでビシバシはさんでくるので、コドモたちは気が抜けないという仕組みなのだ。

1、ポン:「We are、?」 コドモたち:「One!!」
2、ポン:「I Love This Game!!」コドモたち:「I Love This Game!!」
3、ポン:「Y’all heard?(ゲームを愛してる、って俺が言ったの、聞いたか?)」
  コドモたち:「Yes!!」ポン:「Y’all heard?」コドモたち:「Yes!!!」

…といった具合に、とにかくこれを繰り返し繰り返し、ことあるごとにはさみ、叫ばせる。そして、よそ見をしている子がいると、チョークの代わりにボールを投げつける(もちろん、痛くはないように手加減している)。またこれと平行して、ひんぱんに両手をあげさせる。両手をある数十秒間、空に伸ばし上げているということは、結構キツいことなので、これもDiscipline-忍耐力意を養うしつけ-なのである。

「もしゲーム(バスケットボール)を愛しているのなら、両手をあげなさい」。

ポン吉が、キッズに命じる。ポン吉にほめられたい一心で、コドモたちは震えてくる両手を懸命に、空に保ち続ける。

この前の週に、ジェローム・ウィリアムスがキッズに教えているのも見学したんだけど、JYDのやつはこれまた彼らしく、子供たちに向かって彼のシグネチャー・アクションである<犬の鳴き声>、「バウバウバウ!!」というのをやらせたり、キッズ1人1人に質問をさせて、それに面白おかしく答えてあげたり、やはり彼の性格が出た<優しい>キャンプだった。優しくて頼れるダディがコドモたちを温かく包み込んで、ひと夏のいい体験をさせてあげる、というフレーバーのものである。

しかしポン吉のそれは、何と言うか、<コドモたちと同じ目線に立って、厳しく、しかし面白く、ビシビシ指導していく小学校の人気体育教師>といった風情。すべての動作を嫌というほど反復させるのは、とにかく体と体のリズムにそれをたたき込み、何も意識しなくても自然にそうなるように、という目的もあるが、単調な繰り返しを我慢して努力するという、メンタルな<しつけ>にもかなっているのだ。

キャンプというよりは、<ポン吉道場>とでも呼びたい、厳しい規律がそこにはある。

どんどんヒートアップしていく、体育館の中の空気とポン&キッズの大声。このキャンプは結構参加費が高いのだけど、ポンがあれだけ熱心に指導してくれるのなら、私が親でも「ぜひ、ウチの子も!」と頑張ってしまうかもしれない(日本のキッズも参加できるよ。情報を知りたい親御さま、私も質問受け付けます!)。

しかしながら、いつもニックスのロッカールームで、ひときわコドモっぽい甘えん坊ポンちゃんを目撃している私には、特訓!?終了後に我が子を迎えに来た親たちがそれぞれ、「まーあどうも、ポン吉先生、ありがとうございます、ウチの子を…」みたいな感じで次々にあいさつし、またそれに対していっぱしの<先生>っぽく胸を張って、「いやいや、なかなかお宅のお子さんは素晴らしい、ははははは!」みたいに答えているポン吉が、もーうおかしくておかしくて…。

思わず心の中で、「ポンちゃん、よく頑張った!」などとホメてしまうのだった。

そんなポン吉は、この日キャンプを指導する前に、実は記者会見をした。
ラリーさんとの関係についてさんざん聞かれたが、持ち前の甘えっ子鼻声でジョークを連発し、記者連中を煙に巻いていた。

フィラデルフィアにおいて、アレンちゃんをPGからSGにコンバートしたのと同じことを、ラリーさんはポン吉にも試みるらしく、なんとポンちゃんは来季からは2番を担当するらしい。小さいころからずっと、NY・No.1PGとして名を馳せてきたポン吉だが、果たしてSGに向いているかどうか?


「Oh,yeah~、もちろん。俺ぁ、なんだってできるはず。1番も2番もおんなじガードなことには変わんないし。それに、SGになれば、その名のとおりシューティング・ガードだもん、<ん、俺、今、シュートにいっていいのかなぁ?>って、コーチの顔を見て考えなくても良くなるわけだから、いいんじゃん!?(笑)」

って、A---i、my man、その通り・・・今度からは思う存分、シュートしてくだされ。

※写真はポン吉道場の1コマ(撮影=鈴木千絵)

August 10, 2005 10:06 AM | コメント (7) | トラックバック (0)

2005年08月03日

Fresh Prince Of NBA:Vol.1

今日8月2日は、今夏のFA選手がチームとサインできる解禁日だ。プレーヤーの動きに、一喜一憂する日々が始まるだろう。

先週木曜、28日には、ついにニックス・ヘッドコーチ就任が決まった我がマイ・メン・コーチ、ラリー(ブラウン)さんの記者会見があり、私も昼からマジソン・スクエア・ガーデンに詰めていた。

相変わらずのギャングスタな素振り、話し方で、泰然としているハードコアなラリーさん。そして、徐々にそのタヌキぶりを深め、最近では実にうさんくさい!?笑顔を浮かべるようになった役者、アイザイア(トーマス)。そんな中で前コーチ、ハーブ・ウィリアムスにはまだ、初々しさが残っていた。まだ<政治家>になっておらず、アスリート時代のスピリットの残る表情が、非常に目立った。真田としてはそんな彼に、<スレてないで賞>を差し上げたいところだ。

普段ゲームに来ていない、スポーツ以外のメディアも数多くいて、セッションは2時間以上にも及んだ。病身のラリーさんは、さすがに後半は疲れてきたと見えた。TVメディアたちへの会見で、バリ!っとスーツを着こなし、キチ!っと姿勢を崩さぬドーラン顔のインタビュアーを尻目に、丈の高いスツール上で足をブラブラさせていた。

そして、カメラも本当は好きではないのだろう、最後にペンのメディアたち(いわゆる新聞、雑誌など、写真撮影や音声を流す必要のない紙媒体メディアたちですね)用のセッションを始めたときには、ホッとしたような顔をし、いきなり本音を吐き出していた。「NYがラスト・ストップ」と言ってくれたラリーさん、心配されているポン吉(ステフォン・マーブリー)との関係についてもさんざん聞かれていたが、

「うん、だいじょうぶ。あのガキぁ、私に電話してきたよ。彼はNYを、愛している。バスケットボールを愛している。だから、だいじょうぶ」と、すげえいいことを言っていた。I hear you、LB! <最高の猛獣使い>のお手並み拝見、といきましょう。

そんなラリーさんが手なづけた、もとい、育てたプレーヤーの代表といえば、やはりアレン・アイバーソンだろう。

今でも繰り返し放送されているアメリカの人気TVドラマに「Fresh Prince Of Bel-Air」という、ブラック・お茶の間・コメディーがある。主演は、若かりしころのウィル・スミス。彼のホームボーイで、懐かしのオールドスクール・ヒップホップDJ、ジャジー・ジェフもときたま顔を出し、もう何回見ても爆笑する私も大好きなドラマだ。

このタイトルの<Fresh>は、<生意気>という意味。最近ではレブロンが、<King James>なんて呼ばれているけど、NBA界の<Fresh Prince>の称号は、リーグに出現した96年から今に至るまで、アレン・ジ・アンサーのものである。

ラリーさんともさまざまな愛憎劇(英語ではこういうのを<Drama>という)、まさに数多くのドラマを繰り広げてきたアレン王子も、リーグの重鎮になってきた。

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ヘルシー・アスリート用メニューを無視し、毎回20個も食べたタコスとドリトス。トイレに隠れてサボり続けたウエート。すっぽかし続けた撮影。朝の4時までクラブでヘネシー&コークを飲み、翌日に40得点するといったパターンを繰り返した日々。消せと言われてもかたくなに消さず、むしろ増やし続けたタトゥー。どんなにやめろと言われてもやめなかった昔からのゲットー・バッドボーイ仲間たちとつるむこと&ロッカールームで爆音でヒップホップを聞くこと&コーンロウ…。

これらのことをすべて、今ではだれも注意しなくなったし、またその必要もなくなった。<生意気な王子>はいまや、<アイバーソン王国>を、築き上げてしまったのだ。

そんな彼は、NBA記者としての私の仕事としては、最も多く記事を書いてきたプレーヤーである。私の初めての取材も彼。そして、私の<初めてのNBA記事>も、アレンちゃんだった。インタビューも何度となくしてきた。自分の2倍もあるような大きな男たちをものともせずに果敢に突っ込んでいき、信じられないムーブで得点してみせる。フロアにたたきつけられてもたたきつけられても起き上がり、いつでも全力でプレーする。そのそう快さ、根性は、もちろん日本でも絶大な人気を博している。

悪役スターにしか認められなかったバッドボーイぶりをやめずに、NBAのスーパースターダムにのし上がり、ヒップホップとリーグを強力にリンクさせ、すべてのゲットー・キッズのあこがれとなり、ひいては全米、全世界のあらゆる人種、層にまでその存在、実力を認知させた圧倒的カリスマ。ドラマティックでアーティスティックなセリフを、即座につむぎだす才能にも恵まれたスピーチ上手なアイコン。どんな世界に入ってもきっと超一流になったであろう、NBA史上に伝説として名を残すであろう名ガード、<アレン・アイバーソン>を私なりに語るとなると、とても1回では書ききれないので、これから数回にわたって、つづってみようと思う。

アレンの生い立ちというのは、ゲットー育ちのプレーヤーが数多くいる中でも、極めてハードな部類に属するものである。
1975年にバージニアで誕生。肝っ玉母さんのアンは、当時15歳。父親もともにティーンエイジャーで、きちんとパパ役をやらずに去った。そのうちアンに新しいボーイフレンドができ、アレンにとってはいわゆる義理の父になる。このマイケルとアンの間に妹が2人、生まれた。マイケルも、高卒の学歴すらないアンも、必死で働いた。

アレンが生まれたとき、アンは思ったそうである。「この私が。この少女の私が、<私自身が面倒を見なければいけない生き物>を生んでしまった。これは<人形遊び>では、ない」。しかし、そんな恐怖と不安を感じながらも、アレンの生まれながらの手の長さを見て、「この子はきっと、いいアスリートになる」と予感したという。

アンの予感は当たり、アレンはまず、フットボールで頭角を現した。恐ろしくクイックで、勘が良かった。しかしアンは、フットボールは危険すぎるのでバスケをやって欲しかった。初めてのエア・ジョーダンを与えられ、バスケをやるのよ、と彼女から言われたとき、アレンは泣いて嫌がったそうだ。バスケットボールなんて、ソフト(軟弱)なやつのやるスポーツだと思っていたのだ。しかし、多くの友達もバスケをやっていると知ってやる気になり、楽しくなる。そうして、伝説的ガードに育っていったのだったが…。

しかし、やはり一家の生活が、苦しかった。
ガスや電気は、すぐに止まった。料金を延滞しているからだ。暗くて寒い中、冷えた食べ物を妹と肩寄せ合って食べた。ひどく古くて汚いアパートにしか、住めなかった。それすらも家賃延滞で次々と追い出され、一家は転々と住所を変えることになる。あるときは、水道すら止まって、トイレの水も流せなくなった。またあるときは下水管が破れ、汚水が部屋中に浸水した。義父も母も、仕事に出かけていていなかった。泣きべそをかく妹を守り、彼は自分にも言い聞かせるように、ずっとつぶやき続けたそうだ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ・・・」。

90年、アレンが15歳のとき、義父のマイケルがドラッグを売った罪で逮捕され、刑務所行きになってしまう。同じころ、そこかしこでクラックが売られ、すぐにでも堕ちていける悪環境の中、アレンに何か特別なものを感じ、必死で守ってくれた近所のビッグ・ブラザー、トニーが、彼女に殺されてこの世を去った。このころ生まれた下の妹、リエーシャは、生まれつき難病を抱えていた。

アレンは既に、万能なアスリートとしてその名を馳せていたが、あまりの苦難続きになえ、学校へ行かなくなる。母親は働きに出ていて日中いないから「体の悪い妹の世話をしなければならない」と言うアレンに、教師たちも何も言えなかった。妹の世話も確かにしたが、その合間に彼は、バッドボーイ仲間とつるむようになった。<闇>がそこに口を空けて、アレンを待っていた。

アレンは絵がうまい。鉛筆を使って、モノクロの、デッサン調のものを描く。今でもヒマがあれば、描くそうだ。以前、彼の作品を見せてもらったことがあるが、絵の知識の全くない私でも、何か心打たれるものがあった。彼の<目>と同じ、シャープでありながら、じっと切ない潤みをたたえている絵。深い、悲しい、けれども強い光を、放っている絵。絵の才能も、早くから認められていたらしい。彼の昔のアート・クラスの女教師は、こう語っていた。「ええ、ええ。とても才能がありました。プロになろうと思えば、なれたと思います。彼は、なんというか、アーティストでしたよ、昔から…そして今もきっと、そうでしょう」。やりきれない気持ちを、絵に託していたのかもしれない。

入院させることができれば治癒したかもしれないが、薬すら買えず、徐々に息絶えていく祖母を、大きな瞳に涙をいっぱい溜めながらただじっと見ていることしかできなかったとき、アレンは心の中で叫んだのだそうだ。

「ママ、貧乏は嫌だ。俺は、嫌だ。妹の体だって、治してやるんだ。絶対に、この生活から、抜け出してみせる」。

今回は、アレン・ザ・プリンス、その決心に至るまで。

※写真は、2000年11月、セルティックス戦で相手陣営に切り込むアイバーソン(AP=共同)

August 3, 2005 10:56 AM | コメント (15) | トラックバック (0)