Hangin' Around The NBA Wit Kaoru

プロフィル

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★真田薫(さなだ・かおる)
 埼玉県出身、NY在住。故障のため、バスケットボールを断念。R&Bシンガー「Cheyenne」として97年デビュー。アルバムリリースやライブ活動のかたわら、ラジオ番組のMCも手がける。00年からNBAを精力的に取材。

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2005年07月27日

Sugar Ray

アメリカという国は、住んでみると分かるが、やはりとても<若い>国だと思う。どういうことかというと、人間と同じで、若いがゆえの元気さ、自由さ、パワー、そういった要素にはあふれている。いわば食べ物でいったって<ハンバーガーとフライド・チキン>、力強く単純なお国柄。伝統の重みがあって、さまざまなしがらみに縛られることの多い国々の人々は、こういう<若さ>にあこがれてアメリカにやってくるわけだが、歴史と伝統からにじみ出てくる<優雅さ>は、やはりこの国には感じられない。

現在のNBAで、そんな<優雅さ>を、頭の先からつま先まで、そしてプレーの隅々にまであふれさせているプレーヤーといったら、この人1人しかいない。

レイ・アレン。<Sugar Ray>の異名を持つ、貴公子。

アレンちゃんやらベンさんやら、プレーヤーの名前をそれぞれのキャラにあったエクストラを添えて勝手に呼んでいる私だが、

もうこの人だけは、誰がなんといったって、<レイさま>なのである。

こう書くと、まるで昔の少女漫画に出てくる二枚目役を、周りの女の子たちがキャーキャー言いながら呼んでいる、といった風情かもしれないが、私は決してそういう少女ではなく、かなりマッチョなガキであった。しかし、そんな私でも、<レイさま>は、やっぱりぴったりだと思う。

だってほんとに彼は、少女漫画の王子様役のように、いつでも背景に<お花>が見え、フリルのお洋服がハマるであろう、唯一のNBAプレーヤーなんだもの。

そんなレイさまの優雅さは、やはりアメリカで培われたものではない。

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両親ともにミリタリーという家に生まれた彼は、ベースからベースへの転勤が多い両親のもと、幼少期をイギリスで過ごす。レイさまは、いつでも微笑んでいる、ハッピー・エンジェルだったらしい。クラスメートと仲良くなる社交術も天下一品だったそうだ。このイギリスで、彼はフットボール、サッカー、野球など、あらゆるスポーツを経験。なんでもできた。彼の<優美>な体のバランス感は、いわば天性のものであった。レイさまの母はしっかり者で、「スポーツでうまくいくには、頭を鍛えることも重要よ」とレイさまに諭したので、彼は勉強や読書も苦ではない子供に育った。

10歳のころにカリフォルニアに帰ってきて、そこからはバスケ・エリートの道をまっしぐら。名門UConn(コネティカット大)に進み、NBA入り。ちなみにレイさまがNBA入りした96年は、新人豊作の年。アイバーソンがNo.1ピック、そして当時話題をさらっていたセンターのキャンビー、NYが誇るマーブリー、コービーもこの年のピックだった。レイさまはバックスから指名。そしてご存知のように、長いことミルウォーキーに住んでいた。

私が初めてレイさまを取材したのは、もう随分前の話。バックスのロッカールームで、我がサム(キャセール)兄貴が、「よぉ、おめえはよぉ、そんでよぉ、がはははは!!!」とぎゃーぎゃー騒いで、<キャセール色>にあたりを染めている中、「おや、あそこの1コーナーは、キラキラしている・・・」と思ったら、そこに<Sugar>はいらっしゃった。

英語の<Sugar>は、<砂糖>だけれども、それを受けて<甘い>フィーリングのものに形容詞的にも使われる。レイさまの場合は、まさに<甘いマスク、甘い語り口の二枚目>という意味なのであるが、確かにそこだけ、甘ーい匂いまで漂ってくるかのような、別世界であった。レイさまを囲む数人のメディアもつられるかのように、静かに優雅に<談笑>していて、スポーツの取材光景ではないかのようだった。

レイさまはメディアから、<最もメディアにナイスで賞>といったようなアワード!?を受けられるくらい、<メディアあたり>が良いと聞いていたので、初めて質問する私もあまり緊張することなく、話しかけることができた。彼の口調はとても柔らかく、甘い声であった。<Kaoru>という名前は、アメリカ人には発音が難しく覚えられにくいので、私のステージネーム「Cheyenne」の方で自己紹介し、2、3質問し、ありがとうといって終了しようとすると、レイさまは私に片手を差し出し、

「Thank you、シャイエン・・・」と微笑んだ。「うっ、こりゃー、やばい!」

 その瞬間、悟った。初対面で、1度しか耳にしていない1メディアの名前を、彼は即座に記憶しているのだ。レイさまほどのスター級選手ならば、それこそ1日に相手するメディアの数だけでも相当なもの。いちいち記者の名前など覚えていない選手が多いのに、彼は男性メディアにも女性メディアにも分け隔てなく、相手の名前をはさみながら、丁寧に優しく、会話する。男も女も老いも若いもみんな、レイさまの<砂糖>にやられてしまうのだった。そしてそこだけ、アメリカのファスト・フード店ではなく、優雅なイギリスのハイ・ティー・タイムが流れているのである。

その次にレイさまにインタビューする機会があったとき、その<優雅なイメージ>を悪く解釈され、「レイはソフト(軟弱)だ、プレーも含め」と見当違いされやすいことについて、質問した。彼は私をじっと見つめながら、こう答えた。

「僕の顔って、イノセント(無垢)らしいね。優等生で、クリーンで、タフでない柔らかいイメージ。キミも、そう思っているんでしょう? でもね、僕はこれでも、結構ワイルドな人間なんだよ、ほんとは…仕事でも、遊びでも、恋愛でも、ね」。

含めるような目で語られたそれはまさに、あの日本の二枚目セリフ・クラシック、「俺に触れたら、ヤケドするぜ」の英語<Sugar>版。レイさまはそのときも、背後に<バラ>をしょっていた。

確かにレイさまは、結構ワイルドな人に違いない。16歳のときには既に子供がいたし、<ソフト>なことを嫌うスパイク・リーにほれ込まれ、彼の映画<He Got Game>に出演もした。レイさまが<ソフト>だというのは、本当に勘違いである。

バランス感が天才的なので、そのムーブは恐ろしく<シルキー>。ルックスだけでなくプレーすらも優雅なことから、勘違いが起こるのかもしれないが、彼のメンタル・タフネス、負けん気、アグレッシブさは、超一流だ。かのジョーダンにもそれをきちんと評価されて、ジョーダン・ブランド傘下にも入ったのだから。1つ1つのムーブがスムーズにつながり、ムダがないのでケガも少ない。冷静に考えてみると、むしろかなりタフなプレーヤーの1人である。

そして、あの脅威のクイック・リリース。どんな体勢からも自分のシュート・ポジションに持っていくあのセンスは、現在でもリーグNo.1だと私は評価している。今季のシアトルは絶好調だったけれども、レイさまはそのドライブも思う存分使ってみせていた。ペネトレイトですらも、流れるかのような優美な動き。一時期は彼のゲームももう終わり、減給でトレードか、とささやかれたが、なんのなんの。<Sugar Ray>健在を見せつけ、シアトルにステイすることにもなったしね。

そんな<Sugar>に対しても年月は残酷なのか、最近、頭頂部のM字型が進行していらっしゃるのが少し切ない(ごめん、レイさま&レイさまファン)が、優美なお顔は変わらない。今オフもきっと、趣味の絵画集めのため、フィアンセと一緒にギャラリーに通っているのだろうか。ああ<Sugar Ray>よ、永遠に。頼みます。

※写真は2000年9月、埼玉スーパーアリーナで行われた「スーパードリームゲーム」で米国代表として日本代表と対戦したレイ・アレン

July 27, 2005 10:44 AM | コメント (7)

2005年07月20日

NBA夏模様:親分のゆくえ

夏は、NBAプレーヤーたちのオフシーズン。ホームタウンに帰って家族とのんびりしたり、友達や恋人と旅行に出かけたり、チャリティーイベントを開いたり。もちろん、仲のいいプレーヤー同士でつるんでいることもあるし、ストリートボール・シーンにふらっと現れて、飛び入り参加でプレーしたりもする。

ここNYでは、現在までのところ、JR・スミスバロン・デービスギルバート・アリーナスらが、ハーレムのラッカーパークでプレーした。また、ドラフトの当日は、28丁目のウエストサイドに新しくできた話題のクラブ「Quo」で、カーメロ・めろちゃん(アンソニー)ホストのアフター・ドラフト・パーティーも行われた(めろちゃんはパーティー好きだから~)。ちなみに、このめろちゃんとビンス(カーター)はとても仲良しのようだけど、2人のどこが気が合うのか、いまだ謎。まあビンちゃんの場合は、ネッツに入りたてのころも、同い年のビュー(ロドニー・ビュフォード)ジャバリ(スミス)兄貴に面倒を見られて!? いたばかりか、年下のRJ(リチャード・ジェファーソン)にすらも「ビンスさん、こういうときはですね、こんな風に、こうするのが、ネッツ流なんですから」などと指示を受け、「ハイ…」とおとなしくうなずいていたくらいであるから、思い切り年下のめろちゃんにも、実はガンガン仕切られているのかもしれない。

NBAプレーヤーはもちろんみんな、才能の塊で頑張り屋なんだけれど、そこはやっぱり人間、われわれの会社や学校のクラスルームのように、さまざまなキャラや位置関係、力関係!?などが存在している。

私の知る限りで言えば、例えば、

サム・キャセール兄貴はもう、ガキ大将。

絶対に口を閉じてくれないし、有無を言わさぬ押しの強さで、チームメートはみんな、ただうなずいて従っているしかない。

前回書いたポン吉(ステフォン・マーブリー)はわがまま、甘えん坊を武器に、周りが「ハイハイ、しょーがないね、ポンちゃんだから」、っちゅうような感じで、つい言うことを聞いて<あげて>しまうタイプと言えよう。

(アレン)アイバーソンは、このポンちゃんと似ているようでちょっと違い、実際に妹を面倒見てきたからか、なかなかの<お兄ちゃん>タイプ。どうやら私のことも年下と思っているのか(アジア人はこちらではとても若く見えるらしい)、質問に答えるときも子供を扱う!? かのように、できるだけ簡単な言い回しで、「これこれ、こうなんだよ。わかったかい?」という目をされることが多い。トホホ…。自分の周りのプレーヤーも王様ならぬ王子様が率いていく、といった感じで、これを女房役の(アーロン)マッキーらが、温かく見守りサポートしていくといった風情。

かと思えば、前出のビンちゃんはもう、繊細でおとなしいので圧倒的にいじめられっ子、からかわれっ子の役回り。そういえば、つい先頃行われたアレン・ザ・プリンスの毎年恒例ソフトボール大会でも、王子に後ろから冷たい水を首筋にかけられ、悲鳴をあげていたそうである。

そんな中、もちろん<親分肌>なプレーヤーもたくさんいる。シャッQダディ(シャキール・オニール)はいまや重鎮扱い。LA時代はチームメート全員にロレックスの時計をプレゼントしていたこともあったし、貫録のゴッド・ファザー。

そして、知る人ぞ知る、生粋の<親分さんで賞>は、今でも我がNYのお気に入りプレーヤー、ラトレル・スプリーウェル親分だ。

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スプリー親分といえば、「あ~ぁ、あの、コーチの首絞めた人ね」という悪名高い事件で皆に知られているお方なのであるが、行く先々で子分を作って従わせてしまうことでも有名なのである。もちろん、ただ命令を下すだけでなく、面倒見も良いから舎弟が従ってくるわけで、生まれながらの<親分気質>なのだろう。

ウォリアーズで最初に作った子分、クリス・ウェバーは、今でもスプリー親分の最大の舎弟で、決して逆らえない。ニックスに拾われてからも、スプリはこの子分をNYに呼ぶことに躍起になっていたわけだが、ついぞそれはかなわなかった。しかし、今回、ミネソタ追放がほぼ確実なスプリ親分、フィリーに減給で買われていく!? なんてうわさも飛んでいて、そうなったら念願の第1子分とのプレーなわけだし、アレン・ザ・プリンスを従えられるのかどうか、ということも興味深く、フィラってなんと面白いチーム、私も思わず移住してしまいそうである。

ニックス時代は、(マーカス)キャンビーが可愛い舎弟であった。21丁目に<Justin’s>というパフ・ダディ経営のレストランがあるが、ここにキャンビー舎弟を伴ってよく出没し、いつも豪快にチキンにかぶりついていた。

ミネソタではどうやら、KG(ケビン・ガーネット)はピュアな子分にはならなかったようだが、ここでは(マーク)マドセンが子分に加わったようである。

スプリ親分は、ああ見えてもなかなか頭の回転が速く、緻密。この2人はチェス仲間でもあるらしいが、マドセンはまだ1回もスプリ親分に勝ったことがないらしい(怖くて勝たないようにしているのかも、しれないが)。

スプリ親分の輝かしい活動!? はたくさんあって、

「カーリシモ首絞め事件」に始まり、高校時代の彼女に訴えられたり、おまわりさんにハイウエーで捕まったり、ニックスのGMに「おりゃ~、このやろ、見たか、バーカ!!」って感じでほえたりもしたし(このときは、ゲイだと言われているカルバン・クラインに相当気に入られ、口説かれた模様)、女性ファンに性的侮蔑な言葉を浴びせたとか、そして最近では、「俺さまはね、家族を食わさなきゃならんのだからね」発言をして、まぁ~ミネソタの皆さんの口があんぐり

、となったわけであるが、それでも、親分はニューヨーカーのお気に入り。もちろん、99年のプレーオフは強い印象となって残っているし、ワイルドでタフで、ダイ・ハード・ディフェンダーな親分は、NYが大好きな条件を揃えているのだから。

スプリ親分がニックスにいたころは、彼の写真がバスの横腹にどかん! と貼られ、街を疾走していたものだった。自分を信じ、自分を表すことを恐れない、決してひるまずクールなハードボイルド、<男1匹>なスプリ親分はある意味、

NYの野郎どもがあこがれる<理想の男像>でもあったのだ。

「俺はね、<他人>が何を言ったって、気にしないよ」。

と言う親分だが、実はメディア受けだって、良い。

意外にもとても紳士的なしゃべり方をする人で、私が初めて質問したとき「バスケのことではなくオフコートの質問なんだけど」と切り出すと、「お、それなら、練習に来てくれない? そしたら、ゆっくり答えられるからね。NYに住んでいるの? だったら、次の練習はあさってだから、ね」と断るにしても非常に丁寧だった彼に、好印象を抱いたものだ。

「私も、子分になっても、いいかも!」

と思ったくらい、優しく頼れる感じであった。

そして親分の意外な点その2は、タトゥーが1つもないこと。あれだけのコワモテで、リーグ最初のコーンロウ・プレーヤーで、バッドボーイ風なのに? 「あんな、痛いものは、やだよ」と親分。

コンピュータと車が大好きなスプリ親分、今度はどの土地で、だれを子分にするのかなぁ…NY好きなクリスを引き連れて、今ごろ、NYをうろついていたりして。いつでも、戻っておいでよ~。

※写真はニックス時代のスプリーウェル(AP=共同)

July 20, 2005 12:05 PM | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年07月13日

スター・ポン吉

プレーヤーを取材をするときの方法は、それはもう、その記者それぞれだ。ペンとノートを持って、恐ろしい速さでミミズのような文字を書きなぐっていく人、テレコやMDや、はたまた我が友人のようにi-podなどの最新機器を使い録音する人、かと思いきや、何も使わずそっくり頭にインプットできる記憶力自慢は、腕を組み、目を閉じ、集中して聞き入るだけだったりするし・・・。私の場合は、時と場合によってはメモを取る時もあるが、たいていは音質の良いMDで録音しておく。これが、なかなか面白いのだ。声やしゃべり方には、本当にその人の性格が出るから、聞いているといろいろなことが発見できる。

kaoru0713.jpg録音したものを聞き返すとき、「ぷっ。」といつも、微笑ましい気持ちになって吹き出してしまうのが、我がNYニックスのスタープレーヤー、ステフォン・マーブリー(写真)。キリッとした眉の不敵な面構え(「ねえ、眉毛、揃えてる・・・よね?」っていつか聞いてみたいと10年間思っているが、恐くていまだ実現していない)、NY魂あふれるタフなアティテュードとは正反対の、鼻にかかった、甘えん坊バレバレのしゃべり方。チームメートのだれもが、「現ニックスで一番ママっ子なのは、ステフ」と認めるくらいの、甘えっ子なのである。

そんなステフの、真田の勝手なカジュアル・ジャパニーズ・ニックネームは、

<ポン吉>

以下、ポン吉でよろしく。だってほんとに、そんな感じなんだから。彼に日本語が分かるなら、このニュアンスを教えてあげたいくらいだ。

ニックスというのは、さすが伝統の大都市チームなだけあって、Bling Blingな華やかさを誇るLAレーカーズに対し、こちらは洗練されたプロフェッショナル・スタイリッシュ・チームであらん、とする方針。プレーヤーたちの出勤!? は、基本的にバリッとキマったスーツでなければならないし、メディアへの受け答えも、プロフェッショナルらしく冷静で上品でなければならないし、ロッカールームもきちんと整とんされているはず、なのである。

ところがそんな中、ポン吉だけは、スーツは着てくるものの、なで肩なのでいつも七五三風、メディアへの対応も機嫌が悪ければその通りムス、としているし、ひどいときにはわがままを言い出すし(プレーオフ中に記者会見場に行かなければならなかったとき、ゲームに負けて不機嫌だった彼は、呼びに来たPRに、「いやだ! 俺は、行かない! 今日はここで、しゃべる!」とわれわれの目の前でゴネたこともあった。私がひそかに<シンジ>と呼ぶ谷村新司似の熟練アメリカ人記者に、「もう、おめえには、しゃべんねえぞぅ!!」と、大ゲンカをふっかけていたこともあった、etcetc)。そしてガニ股のポンちゃんのパンツだけはいつも、そのまま脱いだ通りに、ガニ股の形通りに、でやっ!! というカンジで豪快に、吊るされているのだった。

しかし、そんなポン吉は、日本ではまだあまりメジャーでないらしいが、真田も含めNYの人々、特に野郎どもの間では、絶大な人気を誇るのだ。

NYはブルックリンの果て、コニーアイランドで技を磨き、その名をNY中にとどろかせ、NBA入り。そして今も、プレースタイル、スピリット、面構え!? アティテュード、すべてがあまりにも<NYらしい>男、ポン吉。ニューヨーカーは、このNYという大都市生まれであること、独特のスピリットについて、とてつもない誇りを持っている。

ソフト(軟弱)なヤツはダメ! 売られたケンカを買えないような弱虫はダメ! ときにはイヤなやつとも思えるくらいの強い態度とはったりと負けん気、それがなければ、この厳しいびっぐ・あぽーではサバイブできないのだ! と思っているニューヨーカーには、ポン吉こそ、NY魂を具現するボーラー。れぺぜん・NY! っちゅうことで、もう大変な、ヒーローなのである。

そんなポン吉は、コニーアイランドのプロジェクト(低所得者用住宅)に生まれた。裕福ではなかったが、シングル・マザーの家庭が多い中、ポン吉たちにはパパがちゃんと同居していたし、3人のお兄ちゃん、双子のお姉ちゃんに囲まれて、愛情豊かに育てられたようだ。このすぐ上のお姉ちゃんの1人はステファニーというが、彼女は弟に自分の名前にちなんだネームを与える権利と引き換えに、彼の面倒を見ること、と言いつけられた。それで、ポン吉は主にこのお姉ちゃんに世話されて育った。ママ、そしてこのお姉ちゃん、ポン吉の甘えん坊さんはこうして助長!? されていった。

3人のお兄ちゃん、エリック、ドニー、ノーマンは、いずれもバスケットボール・エリートだった。しかし、誰一人NBA入りすることはかなわなかった。そこで兄弟は、1番下の弟に期待をかけた。それぞれの得意なことを伝授しようと、やっきになった。ポン吉は、2歳のときにドリブルを始めていたという。ポン吉一家の住んでいたプロジェクトの人々は今も、当時を振り返って言う。「ステフォンのつくドリブルの音がうるさくってね(笑)。だってあの子は、朝から始めて本当に深夜まで、ずーっとバスケットボールの練習をしているんだもの。注意したかったけれど、そんなに懸命なあの子を見てるとつい、応援してやらなきゃ、って気持ちになってね」。

ポン吉は、14階建てのビルを駆け上がり、駆け下り、足腰を鍛えた。そのうち、近所のプレーグラウンド、その名も<The Garden>、遠いマンハッタンにあるあこがれのマジソン・スクエア・ガーデンにちなんでそう呼ばれたコートで、いつかニックスでプレーすることを夢見、プレーに励むことになった。

13歳までには既に、彼の噂は広まっていた。ハイスクールのキャンプに参加することも許された。エリックから授けられた、<NYボーラー>には必須のタフネスとはったり、ドニーのシューティング・スキル、ノーマンのボールハンドリング、すべてを見につけたポン吉は向かうところ敵なしで、末っ子で甘やかされて育ったところに周囲からちやほやされることも加わり、かなり増長していた。相手チームのコーチに向かっても、平気で暴言を吐いた。「ヘイ、俺をガードできるヤツを、よこせよ!!」。

高校を選ぶ時点ですっかり注目の的だったポン吉は、リンカーン・ハイスクールに進む。彼が入学して1年目、リンカーン・ハイは、ほとんどの相手チームをブロウアウトで破った。鼻は、さらに高くなっていく。既にNYの伝説的PGであった。

しかしこの年の終わり、ポン吉を目覚めさせる、大きな出来事があったのだ。<Harper’s Magazine>という有名雑誌上で、

「横柄でマナーが悪く、しかもナルシスト。このままでは彼は、自滅の恐れがあるだろう」

と、こてんぱんに批判される。そしてこのライター、Darcy Freyがのちに<The Last Shot>を書いてもう1度批判したとき、ポン吉は決意した。180度、変わってみせる。謙虚にならねば、そして勉強もして、バスケットボールのことをもっと長い目で見つめなければ、と。

このことは、ポン吉を大きく成長させたわけだが、しかしジョージア工科大に入学してからも、<NY的プレースタイル>を変えるのは、そう簡単ではなかった。「もっとパスを出すように」とコーチからもさんざん言われたが、彼は構わず自分でスコアリングを狙い、そして多くの場合成功した。3人の兄たちも「それが実は、NBA入りできるための秘訣だ」と助言したためもあったという。

<スターブリー>は、こうしてティンバーウルブスに入り、KG(ケビン・ガーネット)とチームメートになった。そして、ご存知のとおり、ネッツ、サンズを経て、念願のニックス入りを果たし、今に至る。

初めてニックスのユニホームに袖を通したとき、彼の目は潤んでいた。

「この青と、オレンジが、着たかった」

もう本当にうれしそうで、こんなにここでのプレーを望んでいた人を、どうしてもっと早く獲得できなかったものかと、仕事仲間同士で話したのを覚えている。コニーアイランドの<The Garden>時代から夢見続けていたニックス入りは、実に20年経って、実現した。

ニックスはさえない成績を続けていて、ちまたではポン吉のせいだとも言われている。ポン吉が出たチームはその後、成績が良くなるので真価に疑問も出てもいる。今季は、

「俺ぁ、リーグNo.1のPGだ」

発言をして、ほんとーうかい!? とさんざん笑われ、たたかれた。NYメディアって、ほんとに厳しいしイジワルだ。でも、アイザイア(・トーマス)がいいこと言っていたっけ。「ここはNY。そして、彼が所属するのはNBA。ここでは、自分こそがNo.1だと思うくらいの自信と負けん気がなければ、やっていけないよ。真実がそうかそうでないか、ということは、関係ないと思う。彼がそれを口にして、何が悪いんだい?」と。私は思わず、さっすがアイザイア、全くその通り! と大きくうなずいたものだ。少しでも、ポン吉らが育ってきたような、厳しいNYの環境、そして、タフなB-Ballストリート・シーンを知ってる者にとっては、そんなはったりが必須であること、分かってるんだい! 実力が全然ない者だって、「俺さまが一番だ」くらいのセリフは平気で口にする。ポン吉が言って、何が悪いのだ!? と、私も言いたかった。

夏の間のポン吉の過ごし方は、
1.ラッカーパークのEBCで、ラッパーのFat Joeチームでプレーすること
2.そのFat Joeや、仲良しのFabolousなどのミュージック・ビデオに出演すること(どれもこれも、アスリートらしい大根ぶりで、愛らしい)
3.大好きなキッズのためのイベントを主催すること、の3つがメーンだ。

ニックスのメンバーが、ポン吉について口を揃えて言う。「ロッカールームでも移動の飛行機でも、いつも1番騒がしいのは、ステフ。イタズラ好きで、彼がいると明るくなる」。そんなポン吉は、キッズと精神年齢が合うのか!? 非常に子供好き。キッズのためのキャンプを開いたり、キッズを自宅に集めてパーティしてあげたり。そういえば今季行ったニックスのイベントでは、騒ぐのをやめないキッズに向かってポン吉が説教を始め、またそれが堂に入っているので、おかしかった。

「俺が子供のとき、やっぱりNBAプレーヤーのキャンプに参加した。すごく楽しかった。感動した。こんなに楽しくうれしいことが、世の中にあるのか、って、思った。俺みたいな、あまり裕福でない家の子供にとって、そんな機会は本当に夢のように思えたものだよ。そのときから俺は、思ってた。いつかNBA入りを果たすことができたら、自分も絶対に、俺と同じような境遇の子供たちにそれを返してやるんだ、って」。

この夏のキャンプでは、1人の子供の母親が、目に涙を溜めていたそうだ。「うちの子は、周りの同年齢の子供たちに比べて体がとても大きいことで、いつもからかわれていたの。そのせいで、とても内気でシャイで、自分に自信のない子だった。キャンプに参加しても、最初のうちは、ミスター・マーブリーに近づいてもいけないで、隅っこでもじもじしていた。でも、ミスター・マーブリーはそんなうちの子を見つけて、向こうから来てくれたの。そしてうちの子に話しかけ、ボールを使って彼の周りを動き回って遊んでくれ、うちの子がリラックスしてなじめるように、とても気を使ってくれた。そのときからうちの子、変わったの。明るく、自信が持てる子に。とても感謝しています」。

ポン吉はこれに対し、こう答えている。

「誰か1人の子の人生を、ちょっとでもいい方向に変えることができたのなら、それでもう大成功なんだ。キッズにとっては、そういうことが本当に大きな転機になり得るし、自分がそのヘルプになれたなんて、大きな感動なんだ」。

人は見かけによる、場合もあるが、よらない場合もある。ポン吉は、コワモテとは正反対の、愛情深い、お茶目な、甘えん坊さん。

「あなたはずっと、NYスタイルのPGだと思う?」と以前、ポン吉に聞いたことがある。「うん。だって俺、それしか知らねーもん」と。

ポン吉は今でも<俺さまスターブリー>に変わりはないが、しかしプレーについては、ニックスに来てから相当努力していると思う。セルフィッシュなプレーが減っているのは、アシスト数を見てもらうだけでも分かる。あとは、ここぞ! というときに、つい自分でスコアリングを狙ってしまうクセ!? をなんとかできればいいけど、それが<NYボーラー>の使命だからなぁ…サポートキャストを充実させる方が、早道であると思う。ニックスはまだコーチを探しているが、ポン吉がこのような<猛獣>である以上、ラリー(・ブラウン)さんが来てくれるのが一番なんだがなぁ・・・しかし、無理そうだし・・・なんだか最近、ポン吉をフィリー(76ers)にやってしまうといううわさまで飛び、アイザイアが思いっきりそれを否定していたが、私個人としては、そりゃーないぜ、べいべー、という感じ。ポン吉はNYでプレーせねばならないし、彼でなくてだれがNYニックスにふさわしいのだ、と思う。それに、MSGの廊下で後ろから私を「うりゃー!!」と驚かす人がいなくなると、とても寂しいよ。

写真は、04年アテネ五輪から(AP=共同)

July 13, 2005 11:31 AM | コメント (9) | トラックバック (0)

2005年07月07日

力石ベンさん

NBAもオフに入り、私にも少しのサマーブレークがやってきた。とはいっても「バスケットボール・シティー」とうたわれるNYに住む私、夏は夏でストリートボール取材も待ち受けているので、あまりのんびりはできない。それでも、NYの夏も蒸し蒸しと嫌な暑さだし、ついだらけてしまいがち。こんなとき、<ストイック>な人には文句なく感動してしまう。

<ストイック>といって私の頭にまず浮かぶのは、かの<明日のジョー>の力石徹だ。極限まで己を厳しく律し、目標に向かって真摯(しんし)に取り組む姿はとても男っぽく、官能的ですらある。そんな男がアメリカにいるとするならば…。

私が、<あなたは力石徹で賞>を勝手にもうけるとするならば、鋼鉄のブルーワーカー、ピストンズのべン・ウォーレスに授けたい。

ドラフトもされず、地道にサマーリーグからトライ。カットされてもめげずにイタリアでプレーし、そのうちロースターの最後、12番目のベンチ・ウォーマーとして何とかNBAに入り込み、そこからフランチャイズプレーヤー、ディフェンシブ・オブ・ジ・イヤー、オールスターまで上り詰め、ついにチャンピオンリングまで手にした男だ。

今でも変わらず黙々と、ダーティーワークに励む。リバウンドをもぎ取り、ショットをハエたたきのように弾き、鍛え上げられた黒い腕に汗の珠を伝わらせる。無口に、懸命に。なんて力石なんでしょう(ちなみに、<ジョーで賞>はアレン・アイバーソンに授けたけれども、どうでしょう?)。

余談だが、そんな彼を勝手に「ベンさん」と呼んでいる。その人のキャラによって、例えばレイ・アレンなら間違いなく<レイさま>なのだけど、彼の場合は…ベンちゃん=うーん可愛すぎ、ベンさま=うーん、美しい野生動物のような彼にはちと優雅すぎ、ベン殿!?=うふふふ、ベンさん=うん、ベンさんでしょ、やっぱ、となったのである。真田の愉快な仲間たち!? の間では、おおむね賛同を得ているようだ。

そんなベンさんは、アラバマのホワイトホールというところに、11人兄弟の10番目として生まれた。ベンさんママは、大所帯のファミリーをやりくりしていくために、野菜などを栽培し、綿花も育て、一家の服はすべて手作り。それでも余分なお金はなかったから、ベンさんは、ピーカンを売ったりしてお小遣いを作らねばならなかった。ベンさんら子供たちの楽しみは、魚釣りとバスケットボール。でも、その中で一番体の小さいベンさんには、なかなかボールは回ってこない。ボールが欲しかったら、フープに当たって跳ね返ったボールを追う--つまりリバウンドか、スティールなどで手にするしかなかった。

兄弟にもまれながら、ベンさんはとても優秀なアスリートに成長した。何でもできたが、中でも秀でていたのはフットボール。背が高くてクイックなため、優れたディフェンダーになれると言われていた。しかし、1番好きなのは、バスケットボール。アラバマで行われるという、当時ニックスにいたオークリーのキャンプに参加したいベンさんは、参加費を作らねばならなくなった。

ベンさんの趣味を聞いたことがあるけれど、

「うん、ラジコンカーの、修理」

と、ポツ、と答えてくれたものだ。あの超合金のような体をして、意外にも手先が器用なのだった。そんなベンさんは、近所の人のヘアカットを1人3ドルで引き受けてお金をつくり出し、オークリーのキャンプに参加できることになる。<Fear The Flo>は、なかなか優秀なヘアスタイリストだったようだ。

このキャンプは、後々のバスケットボール人生において、大きなヘルプになった。オークリーとの1on1で、そのハードワーカーぶりを示せたベンさんは、オークリーに強い印象を残して、その後の転機ごとに、オークの助けを得られることになったのだ。いざカレッジに進む年齢になったが、来るのはどれもフットボールのスカウトばかり。でもベンさんは、バスケットボールをあきらめきれなかった。「両方をやれるのなら」とオーバーン大に進んだが、彼らの認めた<両方>とは、フットボールのオフェンスとディフェンス両方、ということ。だまされた、とがっかりしていたベンさんにオークリーのヘルプが入り、バスケのできる大学に転入することに。最終的にはいい成績を残したが、ベンさんはまだまだ無名の存在であった。

NBAのドラフトでは、声もかからないどころか、だれもベンさんを知らない状態。セルティックスのサマーリーグに参加したが、「パワーフォワード(PF)としては背が低い、体が小さい、シューティングガードならいいのだが」と言われてしまう。しかしベンさんは、シュートが下手だった。カットされた彼は、イタリアでプレーすることになった。

普通なら、この辺であきらめるか、「どうして自分はみんなの言う通りフットボールを選ばなかったんだろう」などと後悔したり、行き止まったりしてしまうだろう。しかし、ベンさんは違った。粘り強くチャンスを待っているうちに、ワシントン・ブレッツから声がかかり、12番目の選手としてNBA入りを果たしたのだった。

そこからの上昇は、みなさんご存じの通りだ。ゴール下のスペシャリストになることに徹したのが功を奏し、段々に上り詰めていく。寡黙に、真摯に、バスケットボールへの情熱を忘れずに取り組むベンさんは、コーチ陣からの信用も得られ、徐々にプレータイムも増えていった。

2000年にピストンズにトレードされて6年契約を手にしたときは、苦労して育ててくれた母親に「新しい家を買ってあげたい」と申し出た。でも、しっかり者のベン・ママはすぐには同意せず。数年後にそれは実現した。
カーライル・コーチがベンさんをピュアなPFにしてからは、飛躍的に成長した。オールスターにも選ばれたが、直前に最愛の、しっかりママが突然亡くなってしまう。それでもベンさんは、はじめてのオールスターに遅れて到着した。

「ママが、俺にオールスターには出てほしいということは、分かり切っている。天国の彼女のためにも、俺は絶対にここに来なければならない、そう思って、やってきた。今日のゲームは、彼女にささげるためにプレーする」。

そりゃあ、どこの国でも、みんなママが好きなのは同じだが、アフリカン・アメリカンの男の子たちは「もーう、ママはマイ・クイーン!!」なんてうれしそうに言っちゃう程、母親とのつながりが強い人たちが多い。そんな彼らにとって、ママが亡くなるというのは、それこそ自分も床に伏してしまうくらいの、大きな悲しみだろう。このとき初めて、鋼鉄の<力石ベンさん>の目が潤むのを見た。2、3、質問をした私も、思わずもらい泣きしそうになった。

そんなベンさんの、2回目のうるうる、を目撃したのは、ピストンズが優勝した去年。シャンパンをかけあって、狂乱の渦になっているロッカールームで、<上を向いて歩こう、涙がこぼれないように>状態になっている、ベンさんを発見。そんなベンさんに、私は日本のファンへのシャウト・アウトをお願いした。

「日本のみんな、元気か。ベンだ。ピストンズは優勝したぜ。みんなも、祝ってくれ」。

って、寡黙なベンさんにしてはたくさんの単語を、渋いながらもちょっと震えた声で、マジメに、言ってくれた。

フリースロー成功率リーグ最低とか、相変わらずのシュートベタとか、オフェンスについてはいろいろ言われているが、いいのだ。今でも変わらず、黙々と頑張るんだもの。ベンさんがたまにドリブルでボールを運ぼうとしたり、ジャンパーを打ったりするときなど(今ファイナルでも、なんと3ポイントにトライした場面があったっけ)、思わず心の中で、「頑張れ!」なんて応援してしまう。そんな力石ベンさんから、日本のボーラーへ。

「好きなことで食っていきたかったら、その中で何か1つでいいから、これだけは負けない、というものをみつけろ。そしてそれをあきらめずに磨いていけば、自分なりに日の目をみるときが、きっと、来る」。

July 7, 2005 09:06 AM | コメント (9) | トラックバック (0)