近場のアウェイゲームには、マイナーリーグの場合はたいていバスで日帰り移動をする。それまでロードはもっぱら留守番だった豊であったが、この頃から試合出場予定はなくともチームバスに強行乗り込みする、という態度に出た。チームメートには積極的に自分から話しかけ、コミュニケーションを取るように努めた。チーム練習では相変わらず豊に与えられた練習時間は限られていたが、チームメート数人をつかまえて居残り練習をすることで、練習不足を補っていた。彼がそうして自分から働きかけることで、チームメートとの関係はみるみる改善されていった。
豊は当時、こう語っていた。
「自分なりに考えた結果、自分の居場所は自分で確保しなければいけないなと思ったんです。当たり前のことなんですが、その当たり前のことができていなかった。なぜか知らないうちに、僕が皆を避けてしまってたんですね」
シンシナティで、豊を含めサイクロンズのGK3人をクラークが指導したのは、たった2回である。だが、クラークから教えられた内容を、何度も復習していたのは豊だけであった。1番手GKヒューイットは、すでに自分のスタイルを築いていて、ある程度自信を持っていたため、アドバイスを受け入れて自分のスタイルまで変えようとはしなかった。控えの空軍出身GKキールクッキについては、クラークの指導に対して全く聞く耳をもっていなかったばかりか、テクニック不足かつ性格にも問題があり、チームメートたちからは嫌がられる存在となっていた。そんな状況も手伝って、黙々と練習に励む豊の姿を、チームメートたちは徐々に注目することになった。
「前は声もかけてくれなかった選手達が、『なぜお前が試合にでれないんだ? 』とか『俺はお前のプレーが一番好きだ』とか、声をかけてくれるようになったんですよ。小さいことですが、僕の中では大きな進歩。そしてとても励みになる言葉でした」
シンシナティでこんな状況が続いていたら、彼のためにはならないのでは・・・とまで正直思えた。だが、彼は一度も「日本に戻りたい」とは、口にしなかった。納得いかない状況に多くの屈辱を受けたはずだが、自分にとって避けては通れない道と受け止め、乗り越えることに決めたのだ。
現状については耐え忍びながら、まずは自分ができることをコツコツと積み重ねようと、豊は努めた。
手始めに考えたのは、ビルドアップについてだった。以前は「身体が細くても、反射神経で補えるはず」と思っていた豊だったが、シンシナティでチームメートからのシュートを受けるにつれ、ビルドアップの必要性を肌で感じるようになって来たのだ。
日本ではうまく反射神経でさばくことができていたのが、パワーのあるチームメートが放ったシュートには、ちゃんと反応して身体に当てたとしても、そのままパックがゴールに収まってしまうこともしばしば。また、リストの強さからリリースの速いシュートを打たれて、それがスルリと脇を抜けることもちょくちょくあった。まず、豊はポジションの取り方など、他の方法を試すことで順応を図ったが、結局そうした失点を防ぐためには、身体をビルドアップすべきであるという結論に至った。とはいえ、焦って身体を作りすぎては、肝心の反射神経に支障が出る。とにかく焦らず、じっくり身体作りをしていかなければという必要性に目覚めたのがこの頃だったのだ。
練習時間が限られていることもあって、TVでのNHL放送はできるだけ観るようにも心掛けた。速いリリースからのローショットに対応するためのスタイルを、豊はちょうど模索中でもあった。当時、注目していたNHLゴーリーは、ジョセリン・ティボー(当時NHLシカゴ)。身体は大きくないが、低い構えからバタフライセーブを繰り出すタイプの選手である。
その後、豊はビザの切り替えのために、いったんアメリカ国外に出ることになった。ビザ申請に行かせるということは、サイクロンズが豊のことを戦力として認め始めたという現れでもある。豊にとっては、喜ぶべき出来事でもあった。
アメリカからほど近い国外というと、必然的にカナダになる。豊は元コクド監督でもあり、トロントのホテルで支配人を務める若林仁氏の元で、ビザ申請の間を世話になった。若林氏の勤務するホテルには、近所でも評判の高級日本料理店がある。久々の日本食ということもあって、豊はその料理店の電気ジャーにあったご飯をすっからかんに平らげて、若林氏を驚かせた。ホッケーの本場、カナダ・オンタリオ州生まれで、アメリカ・ミシガン大学でホッケーキャリアを積んだ日系2世の若林氏は、ホッケー選手についてもかなりの鑑識眼を持っているはず。また若手選手については、滅多に誉めることがない厳しい目を持つ若林氏でもあるのだが、豊については後日こう語っている。
「彼はなかなかいいじゃないですか? 若いのにしっかりしてるし、とにかくよく食べるのがいいね」
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「おい、お前どこ行くんだ?」
「近くのレストランに」
「帰りのアパートまでの足はどうするんだよ?」
「大丈夫、タクシーに乗るから」
「タクシーって、こんなところにタクシーなんて来てくれないぞ」
チームメートであれば当たり前の他愛のない会話。そんなごく普通のコミュニケーションすら、チーム合流当初は成立していなかったという。これは、他の選手が彼に心を徐々に開きつつある証拠でもあった。英語の言葉を繰り出すのは苦しそうな豊ではあったが、相手の言う内容はかなり理解できるようにもなっていた。
なんとか近所にチャイニーズレストランを見つけ、帰りの足は、サイクロンズ広報のグレッグに依頼して確保することで、事なきを得た。そこで豊は、合流してから今までの自分の状況について語り出した。
「なんでお前はここにいるんだ? という目で、最初はみんなに見られていたんです。プレシーズンのヨーロッパ遠征で試合に出て、まずまずの仕事をして、それである程度周囲から認めてもらえると思ったんだけど、実はそうじゃなかった。
でも考えてみたら、当然ですよね。他のみんなはそれぞれにこっちで実績を積んだり、トライアウトに合格したりしてチームに残ったのに、僕だけそういうのもないまま、遅れてチームに合流したんですから」
この映画では、北米ホッケーにおける「ルーキーイニシエーション」が描かれている場面が出てくる。ロブ・ロウが演じるジュニア選手が、ルーキーとして新しいチームに合流する。そこで、ルーキーに対する洗礼として、彼は先輩たちに取り押さえられて全裸にされ、剃毛されてしまうというのが、問題のシーンである。
近年、北米ジュニアホッケー界においてこうした「ルーキーイニシエーション」は忌むべき行為として取り上げられ、現在はかなりの収束を見せてはいる。その代わりに、プロのレベルでは「ルーキーディナー」という習慣が根付いている。往々にしてチーム内では低年俸のルーキー選手たちが、高級レストランで先輩選手たちをもてなすというこの習慣には、賛否両論分かれるところではあるが、イジメ同然の「ルーキーイニシエーション」と比べれば、ルーキーたちを取り巻く状況は以前よりはずっと改善されているといっていい。
また北米スポーツにおいては、「プラクティカルジョーク」と呼ばれるイタズラもつきものだ。ホッケーの世界においては、そのイタズラの標的となる選手のスケート靴の中にシェービングクリームをたんまり塗りたくったり、誕生日の選手の顔にパイをぶつけたり、というのは、これまたよくある話ではある。こちらの場合は、「ルーキーイニシエーション」とは異なり、チームメート同士の親愛の情を示すバロメータでもあると言える。
ただし、時に「ルーキーイニシエーション」と「プラクティカルジョーク」においての線引きが微妙な場合もありうる。福藤豊がECHLシンシナティ・サイクロンズに合流して間もない頃、彼の防具一式がシャワールームで水浸しにされるという一件があった。自分の防具をびしょ濡れにされて呆然とする豊を見て、チームメートたちからは笑いが起こる。チームメートたちがこれによって豊に親愛の情を示したのか、はたまた日本から来たルーキーに対するイジメだったのか? いずれにしても、当時の豊にとっては「プラクティカルジョーク」「ルーキーイニシエーション」なる習慣すら、知る由もなかった。こうした生活を続けるうちにストレスを溜め込んだせいか、漆黒の豊の髪には、いつしか白髪が目立つようにもなっていたという。
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Q:先シーズンを振り返っていかがでしたか?
「ルーキーキャンプから始まって、自分自身調子は良かったんですが、NHLのキャンプで残れずに、AHLのキャンプに行くことに。そこでも調子はよかったんですが、ECHLからのスタートになりました。でもAHLからECHLに落とされる時に、モチベーションが下がったわけでもない。シーズン最初からいいプレーができていました。
AHLでは2試合しか出場できなかったけど、納得できるプレーもできたし、次の年に繋がるプレーができたと思う。ケガが多く、調子がいいときにケガをしてしまったのが残念。波に乗れなかったが、自分のできる限りのプレーはしたつもりです。
AHLの試合出場も果たしたし、今年これからすべきことははっきりしている。契約最後の年で勝負になるが、出来る限り一生懸命やりたい。今は身体をゆっくり休めて次のシーズンに備えたいです」
]]>NHLの往年の名選手として鳴らし、引退後はホッケー殿堂入り。さらに日本人オーナーを誘致してNHLエクスパンションチームのタンパベイ・ライトニング設立に貢献したフィル・エスポジトと、その右腕的存在のデヴィッド・ルフィーバー。元ECHL会長のリック・アダムズ、元NYレンジャーズGMニール・スミス、ABCとESPNのキャスターを務めるジョン・サンダーズ。さらにはトム・クルーズ主演の映画「ザ・エージェント」でフットボール選手役を演じ、「Show me the money!」との台詞を流行らせた俳優キューバ・グッディングJrも、オーナー陣に名前を連ねていた。
福藤豊がシンシナティに留学した2002−03年シーズンからは、NHL提携先がサンノゼ・シャークスに代わったが、それまでは地理的にも遠くないカロライナ・ハリケーンズとも提携していた。そういった事情から、エリック・コール(現カロライナ)、ヤロスラフ・スヴォボダ(元カロライナ、現ダラス)、デヴィッド・タナベ(元カロライナ、現ボストン)といった、現在NHLで活躍する選手たちも、サイクロンズでプレーして巣立っていったという経緯がある。また、サイクロンズ創設2年目の1991−92年には、芋生ダスティ(現・王子製紙)も9試合プレーしたという記録が残っている。
このサイクロンズのヘッドコーチを務めることになったのが、マルコム・キャメロン(現ECHLロングビーチ・ヘッドコーチ)である。キャメロンは、ECHLを含めマイナーリーグでのキャリアを終えた後、カナダの大学やECHLよりも下部にあたる独立リーグでアシスタントコーチとして修行を積みながら、33歳でシンシナティでの仕事にありついていた。豊によれば、現役時代はFWとしてプレーしていたそうだ。
このキャメロンコーチに、練習後に話を聞いた。ECHLヘッドコーチ1年目とあって、はにかむ笑顔からは若さがはち切れている。そのキャメロンコーチは豊について聞かれると、まずはひと通りの社交辞令的コメントを発した。
「ユタカは素晴らしい若者です。運動神経も優れているし、非常に将来性があると思いますよ。彼にとって一番の課題は、北米スタイルのホッケーに慣れることですが、毎日の練習でどんどんうまくなっています。彼のその真摯な姿勢も評価しています」
「7月に彼がウチに合流すると聞いた時には、正直どうなるか予想がつかなかったのです。日本のホッケー事情もよく知りませんでしたからね。ただヨーロッパで実際に試合に出場させてみて、彼の潜在能力、運動能力が強く印象に残りました。あとはこちらの競争環境に慣れれば、きっと成功できるでしょう。チームメートたちが彼のことを気に入ったようですし、彼も楽しくやってますよ」
こうした壁は、何も日本だけに限ったことではない。過去の経緯を辿ってみよう。鉄のカーテン崩壊後、東側選手がNHLに参入しはじめて18年ほどになるが、旧ソ連、チェコといった世界選手権や五輪での金メダル獲得諸国の選手であれど、当初は「たとえスキルが高くても、フィジカルなNHLではやつらのプレーは通用しない」と言われ続けた。五輪で優勝を収めて大会ベスト6に選ばれるような選手であっても、NHLの壁にぶちあたり、早々に故郷に引き上げるものもあった。
だが、すごすごと尻尾を巻いて故郷に帰ることは、かつて「ステートアマ」として活躍した彼らのプライドが許さなかった。その後、彼らは北米生活に馴染む努力やフィジカルに戦う意志を見せ続けることで、北米ホッケー関係者やファンのメンタルブロックを徐々に取り払い、持ち前の高いスキルやスピードで魅了することを覚えていった。その後、第1世代から第2世代が流入して選手数も増え、彼らが偏見なく正当な敬意を得てNHLでの本流として活躍し始めるまでに、5〜6年という年月を要した。そして、今ではロシアやチェコなど故郷にNHL的カルチャーが輸入されたことが拍車となり、北米出身者を凌駕するようなフィジカルプレーヤーも続々出現。北米ホッケー関係者がかつて当たり前のように唱えていた「ヨーロピアン=スキルは高いがフィジカルプレーが苦手」というステレオタイプなイメージを、いまさらヨーロッパ出身者に押し付けるものがいたとすれば、それは時代錯誤というものだ。
そうした流れを考慮すると、日本人選手たちが今後北米ホッケーでひとつの勢力として認められることがあるとすれば、気が遠くなるような期間を要するに違いない。日本のホッケー事情に明るくない北米のホッケー関係者にとっては、極論を言ってしまえば「日本もシンガポールも同じ」、なのである。(筆者注:ちなみにシンガポールは、世界選手権に選手団を派遣していないため、世界ランクは不明。日本は最新の世界ランクで21位。サッカー日本代表の世界ランクは17位)
ただし過去に日本ホッケーと関わってきた経緯から、日本人選手の良さを十二分に熟知している関係者もいる。当時ECHLシャーロット・チェッカーズのヘッドコーチを務めていた、ドン・マキャダム(現ECHLデイトンGM)はまさにそんなひとりだ。自らを「日本ホッケーの大ファン」と称するマキャダムの下で、鈴木貴人(現コクド)はチェッカーズの一員として素晴らしい活躍を見せていた。NHL.comにも寄稿する現地アメリカ人記者は、鈴木のプレーを見るやいなや、驚きのあまりシャーロット取材中の著者の元を訪れ、こう告げたほどである。
「あのスピードや得点力はもちろん、細かいプレーがちゃんとできている。無理せずスマートなプレーに徹しているし、システムホッケー内での守りの意識もちゃんとある。素晴らしいホッケーセンスだ。あれであと3インチ、20パウンド身体が大きかったら、間違いなくNHLでプレーできるだろうに(筆者注:鈴木の身長体重は、コクドHPによると173cm、73kg。NHL選手の平均身長、体重は185cm、90kg程度)」
鈴木のそうしたプレーは、もちろん天性の能力の部分も大きいが、1998年長野五輪前から日本がカナディアンホッケーを取り入れて強化してきた影響も大きい。長野五輪前の強化合宿組であった鈴木には、システムホッケーや守りの大切さは基本中の基本として叩き込まれてきたのだ。だから、いきなり北米のチームでプレーすることになっても、試合で実施するコーチの指示は日本とさほど変わらないし、また日本人選手は概ねそうしたコーチの指示をすんなり理解でき、むしろ忠実に実行できる。前述の記者によれば、ECHLレベルであっても北米出身選手がそうした戦略を十分理解・遂行できなかったりする場合もあるらしく、長野五輪から一連の強化で得られた日本人選手のこうした資質には、自信を持っていいと断言したい。
実際にECHLのリーグ全体のレベルを見ると、それほど高いものではない。確かに選手のサイズ、フィジカル度は、日本とは比べられないほど高いのだが、実際のスキルやスピードについては、日本人選手も十分ついていける程度のものである。要は、適切なコネを辿って十分な出場機会を与えられれば、日本代表主力クラスならECHL主力を張れることは鈴木が証明してくれたのだ。
実際、福藤豊の場合、そのあたりはどうだったのか? 留学先のECHLシンシナティ・サイクロンズのフロントには、かつてのNHLタンパベイ・ライトニング首脳の名前があった。ライトニングは、創設期に日本人オーナーがチームを所有していたことはよく知られており、この豊の留学もそれに似たコネクションが生かされて実現したものではあった。
]]>福藤豊がプレーするECHLレディング・ロイヤルズの本拠地、ソヴリンセンター前の通りにも、この五重塔を象ったイリュミネーションがところどころに飾られている。NHLを目指してこの地にやってきた日本人ゴーリーにとっては、滑稽なほどハマり過ぎの光景である。とはいっても、そのダウンタウンで、他に日本的なものを探そうとしても困難を極める。日本人、もしくはそれらしき人影すら見当たらない。
「日本料理のレストランは一応あるんですけど、純粋な日本料理じゃないし、なにしろ値段が高いんです。だから行く気はしないですよ」と、豊は以前語っていた。
NHLロサンゼルス・キングズから指名される前に、豊はすでに一度この地を踏んでいる。2003年の年末から2004年年始に企画された、若手日本代表遠征「ヤングジャパン・サムライツアー」において、レディングでは試合が組まれていたのだ。街の象徴であるパゴーダ(五重塔)を配して「パゴーダカップ」と銘打たれたその試合で、豊は試合前半に出場。16セーブ1失点という記録を残している。日本代表はその試合を2−3と惜敗したが、その試合を評した地元紙は、豊と試合後半を守った荻野順二(王子製紙)について「この2人だったら、ロイヤルズのゴールを守らせても不足はない」と誉めたたえた。ちょうどその試合が開催された時期は、当時もロイヤルズで活躍していたコディ・ルドカウスキがAHLに昇格したタイミングであり、ロイヤルズとしては新たにゴーリーを見つけなければならない状況ではあったのだ。そのロイヤルズのゴールを今季豊が実際に守ることになり、しかもルドカウスキとはチームメートとなったのだから、不思議な縁ではある。
ダウンタウンが翳り出す時間帯になり、五重塔のイリュミネーションが輝き出してくると、それまで静まり返っていたソヴリンセンター前は、徐々に活気づいて来た。ホイーリング・ネイラーズとのプレーオフ第4戦が行われた4月19日、レディングの街ではMLBフィラデルフィア・フィリーズの2Aチーム、レディング・フィリーズの試合も開催されていたので、観客の入りは二分されるであろうと予想されていた。しかし、そこは地元ファンの応援には定評のあるロイヤルズ。多くのファンがアリーナに続々と集結していた。
]]>故障を抱えながら第2戦で見事にチームの勝利に貢献した豊は、「第3戦、第4戦と連勝で決めますよ。ウイーリングにはショッピングモールがあるんですが、そのために第5戦でここに戻りたいとは絶対思わないし」と語っていた。その言葉を裏切らず、この第3戦での第1ピリオドはミスのない安定したプレーを見せる。かなり難しいシュートが飛んではくるのだが、冷静にパックを弾くほぼ完璧な守りだ。リバウンドショットに対するリカバリーも、故障の影響を感じさせないような本来のスピードで立て直している。だが、ところどころ、彼本来でない動きが見え隠れし、ヒヤリとさせられる。やはり故障箇所の状態はかなり厳しいのだろうか。
そんな豊の状況も見据え、チームメートは早々に2点のリードを与えてくれた。ロイヤルズにとってはいいペースだ。被シュートが多いのが気になるが、少ないチャンスを確実にモノにしている。第2戦の流れをそのままキープし、第3戦もこのまま勝利すれば、豊の予言通り地元レディングに戻った第4戦でシリーズの決着がつく。そんなシナリオも至極可能かと思われた。
]]>2006年4月16日、場所はアメリカ・ウエストヴァージニア州ウイーリング。ECHLプレーオフ・アメリカンカンファレンス、ノースディビジョン準決勝第2戦で、豊は先発出場し、33セーブ1失点で見事チームを勝利に導いた。これで、日本人としては初のECHLプレーオフでの1勝を記録したことになる。過去に鈴木貴人、伊藤賢吾(ともにシャーロット・チェッカーズ)と、ECHLプレーオフで1シーズンを戦った選手はいたが、いずれもプレーオフ進出には至らなかった。
また豊の場合、2002−03年に在籍したシンシナティはプレーオフ進出を果たしたものの、留学期間が終了したということで豊はプレーオフでの出場を諦めざるを得なかった。また昨季所属したベイカーズフィールドでは、チームのプレーオフ進出に大きく貢献したにもかかわらず、終盤の膝の故障で欠場を余儀なくされたという事情があった。
まさに3年越しでつかんだプレーオフ出場での初勝利。「すごく達成感があります。自分でもかなり興奮しているのが分かる。そのせいか、昨日はあまり眠れませんでした」と、豊はその気持ちを切り出した。
]]>ECHLはNHLにとって2Aレベルにあたるリーグである。とはいえ、年間試合スケジュールが40試合程度と少ない日本でのプレーとは異なり、ECHLではレギュラーシーズンだけでも72試合と長丁場だ。豊も当然そのあたりは現地出発前に予習済だった。必要があれば、全72試合だって出てみせる、という密かな決意も心中にはあった。
豊が敬意を抱くNHLスーパースター選手、マルタン・ブロデューア(ニュージャージーGK)などは、NHL年間レギュラーシーンで70試合以上、さらにプレーオフでは20試合以上に出場している。NHLで通用するには、多くの試合をこなすスタミナが必要であることはすでに理解していたのだ。実際に北米出身者たちの中には、ジュニア時代から年間70試合にプレーオフというハードスケジュールと、厳しい移動を経験している選手たちも多い。そうした厳しさを体験してきた日系人選手とは異なり、日本で純粋培養されてきた豊にとっては、そういうハードなホッケー社会の波に一刻でも早く晒されることが必要だった。
そして10月後半、ECHLは開幕を迎える。ECHLシャーロット・チェッカーズでトライアウトを受けていた鈴木貴人(FW、現コクド)は、プレシーズンゲームで確実に結果を出し、堂々の開幕ロースター入り。しかもその得点力とスピード、切れのあるプレーを高く買われ、チームのトップラインやパワープレー出場など、チーム主力としての役割を与えられていた。そしてレギュラーシーズン開幕戦vsグリーンヴィル戦では、地元ファンの前でいきなり名刺代わりのハットトリックという、華々しいデビューを見せた。
だが、シンシナティ・サイクロンズの開幕ロースターには、豊の名前はなかった。登録された開幕ロースターには、グレッグ・ヒューイット、マーク・キールクッキという2人のゴーリーの名前のみしか見つからない。さらに不可解なことに、しばらくすると、福藤の名前はサイクロンズの故障者リストに載せられた。コクドに照会したところ、福藤が現地で故障したという事実はないという。これは一体どうしたものだろうか?
しかし、時流とともにカナダの大学は純然たるホッケー留学先としては魅力が低下し、それと入れ替わるようにして、若手選手にはカナダやヨーロッパのジュニアチーム、中堅選手には北米マイナーリーグやヨーロッパのチームという線が、留学先としてシフトしてきた。また長野五輪を機に存在を示したNHLの影響もあって、日本国内のプレーでは飽き足らないという選手も現れて来た。日本の実業団チームから海外に期限付で派遣される選手あり、父兄が資金を捻出して息子をカナダの高校へ留学させるというケースあり、はたまた自力で海外のチームのトライアウトを受験する選手ありと、日本人選手の海外挑戦の形態は、近年かなりの多様化を見せている。
2002年夏、そういった環境の下でコクドに所属する2人の選手の海外挑戦が発表された。まずひとりは、コクドでは中核選手として、日本代表でも活躍している鈴木貴人(FW)。スピーディーで機敏なスケーティングと、高いスコアリング能力を有する鈴木は、ECHLシャーロット・チェッカーズのトライアウトを受けることを明かしていた。
鈴木は海外挑戦を決断した理由をこう語った。
]]>コクドといえば、傘下にプリンスホテルやゴルフ場などのスポーツ施設を抱える大企業として知られている。ホッケー選手といえども、シーズンオフには会社の一社員として、系列のホテルやゴルフ場などに配属されて実際に仕事を任されるというのが実情だ。
入社1年目の豊の配属先は、軽井沢プリンスホテルだった。ここで研修も兼ねて、豊は客室のベットメーキングをする仕事を担当した。
「速く仕上げるのが、結構大変でした。1日6人ぐらいのグループになって、15室ぐらいこなすんです。 今なら僕ひとりでも、1部屋20分あればできますよ」。
その軽井沢での仕事を終え、コクド1年目の暮らしの基盤となったのは、なんと東京の原宿であった。当時のコクドの選手寮は、原宿駅・明治神宮口至近のコクド本社(現在は所沢に移転)の真裏に位置していたのだった。ここから選手たちは、当時コクドが本拠地としていた新横浜のアリーナまで、電車で通勤するという生活を送っていたのである。
]]>現地3月13日終了時点で、36勝17敗7OT負け、79ポイントは、ノースディビジョン1位の成績。昨季はチーム最高のレギュラーシーズンの成績(43勝22敗7分)を残したロイヤルズだが、今季あと12試合を残しての現在の成績なら、昨季打ち立てたチーム記録を上回ることも十分可能である。
3月4日vsトレントン戦では、今季あと16試合を残してプレーオフ進出決定。地元ソヴリンセンターには史上最高の7315人のファンが詰めかけ、大いに盛り上がった。一時は、移籍や昇格、故障などで、チーム登録選手の数が14人まで減り、厳しい状況に追い込まれていたが、現在では19人(規定登録上限数は20人)まで増えた。大学卒選手がプロチームと契約できる時期となり、大学からの選手補強も可能となった。しかしこうして嵐を乗り越えたロイヤルズがプレーオフ進出を決定した試合に、福藤豊の姿はなかった。以前から痛めていた右足首を再負傷していたのだ。
福藤が右足首を再負傷したのは、2月25日@トリド戦。その試合中に、相手チームの選手がゴールに突進。故障している足首の上に乗りかかってきた。
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