2006年02月28日
恩師の死を乗り越えて
高校2年の終盤にはコクド入りが内定し、高校3年の初秋(2000年9月)の国際大会「アジアカップ(札幌)」では日本代表入りを果たすなど、福藤豊のキャリアは急上昇の局面を迎えていた。
異例の高校生選手、しかも前例のない宮城県からの日本代表選出。それゆえに当初、日本アイスホッケー連盟内でも多くの論議が交わされたという。当時の日ア連強化部長の清野勝氏は「実業団や大学生をさておき、高校生の代表入りはちょっと…」と渋い顔をしたが、ジュニア強化に関わってきた信田憲司氏が強力にプッシュした。
福藤にとっては、偶然というタイミングも後押しとなった。世界選手権極東予選を兼ねたアジアカップで戦う相手は、韓国、中国とかなり格下のチーム。従って、実際の世界選手権代表となるフルメンバーよりも、若手主体のチーム編成になっていた。しかも大会期間中、コクドがロシア遠征で不在、雪印が食中毒事件の影響で活動自粛という事情が重なり、代表選手の供給先を実業団以外にも目を向けざるを得ない状況が、日ア連にはあったのだ。
その頃、か細かった福藤の身体はたくましく成長していた。1年の終わりごろから練習後に腕立て伏せ、腹筋、背筋50回を3セット、5キロのバーベルを持っての走り込み、10分走などでパワーアップ。牛乳を1日1.5リットル飲んだことも手伝い、1年時から体重は17キロアップの83キロに達していた。
当時の日本代表GKの選手層はかなり厚かった。岩崎伸一(元コクド、現コクド監督)、芋生ダスティ(元西武鉄道、現王子製紙)、二瓶次郎(元コクド、現日本製紙クレインズ)に加え、春名真仁(日光アイスバックス)が頭角を現していた。しかし、その次の世代というと当時大学生だった菊地尚哉(元西武鉄道、現コクド)くらいしか育っていない。若手の早期育成が必要な時期でもあり、素質があるのなら伸ばすべきという日ア連の英断から、福藤の日本代表入りは整った。アジアカップでは出場機会には恵まれなかったが、福藤にとっては貴重な経験となった。
その一方で、福藤は東北高校で最後のシーズンを迎えていた。インターハイでは1年生でベスト8進出、国体では決勝進出を果たしたが、2年の冬はインターハイは1回戦負け、国体では健闘むなしく4位に終わっていた。それだけに、3年の冬に賭ける福藤の思いは並々ならぬものがあった。
インターハイを控えた2000年12月、東北高校はその前哨戦となる東北大会に出場していたが、その大会にチーム監督の金子勝利先生の姿はなかった。大会直前に体調不良を訴えて入院していたのだ。
普段はよく食べ、よく飲む金子先生ではあったが、急に食欲を失った様子を見て周囲は心配した。過去5年間は学校行事とアイスホッケー部の両立で非常に忙しかった金子先生は、ろくに健康診断すら受けていなかったのだそうだ。高橋コーチが無理矢理病院に連れていき、検査後判明した結果はあまりにも痛烈かつ冷酷だった。原発巣すら分からない末期がん。すでに手の施しようのない状態だったという。
定年まであと1年と勤め上げて襲った不幸。周囲は少しでも希望をもたせようと、病気の詳細について本人には知らせなかった。実際、金子先生自身は、入院すれば、翌月のインターハイや国体に同行できると考えていたのだという。
一方、選手たちには金子先生の病状については公には報告されていなかったが、インターハイに出発する頃にはすでに選手全員が知るまでに至っていた。
福藤にとって、金子先生は恩師であることはもちろんのこと、釧路で埋もれていた自分を発掘してくれた恩人でもある。また、決して生徒を特別扱いするタイプではなかった金子先生にとっても、福藤については多くの思い入れがあったはずだと、周囲は証言する。ある人は「2人は孫とおじいちゃんのような関係だった」と表現する。福藤がおどけて金子先生の物真似をする。それを笑顔で見守る金子先生。それは、年の離れたいい感じの師弟関係であった。またある人は「子供のなかった金子先生にとって、福藤は我が子のような存在だったのでは?」と語る。高校入学後、経済的に苦しかった福藤に対し、金子先生が経済的な援助もしていたのでは、という声もある。
迎えた01年インターハイと国体。金子先生不在のため、顧問から監督代行としてチームを指揮することになった嘉悦先生は「金子先生の状況を、チームのパワーに変えよう」と選手たちに語りかけた。金子先生の病状は深刻で、おそらく春までもたない状況。今は病床で結果を聞くことしかできないけど、せめていい結果を出して喜んでもらおうじゃないかと。嘉悦先生の目からはいつしか涙がこぼれていた。他の選手同様、福藤も瞳に涙をたたえながら、その話を聞いていた。しかしインターハイでは1回戦で八戸工大一高に敗れた。
インターハイ、国体が終わり、すでに痛み止めの緩和治療に入っていた金子先生の意識は朦朧(もうろう)としていた。福藤はその後、2月初旬の国際大会での日本代表に選出され、国立代々木第一体育館で開催されたカナダのアマチュアチャンピオンチーム相手に試合出場。ゲーム後半を無失点に抑える鮮烈代表デビューを飾った。薄れいく意識でも、福藤の状況を常に思いやる金子先生に、東北高校のチームスタッフは逐一、その活躍の次第を報告した。重篤な状態の金子先生が、どの程度理解していたのかは分からない。しかし、その活躍ぶりには、金子先生は満足そうにうなずく仕草を見せたという。
そして3月31日、金子先生は逝去した。現在は故郷である栃木県鹿沼の地に永眠している。以来東北高校アイスホッケー部は、毎年開催される4月初旬の日光での大会に出発する際に、金子先生のお墓参りに出向く。また金子先生の仏壇の前には、福藤が日本代表としてデビューした際の背番号44のユニホームが飾られている。
現在は日本を離れ、北米で奮闘中の福藤であるが、キャリアにおいて何らかの変化が起こった際には、仙台にいる関係者に連絡することを忘れない。
「ドラフト指名された時とか、キングズと契約に至った時とか、節目の時には必ず連絡が来るんですよ。ヤツにはここ2年くらい会ってませんが、年に2回くらい会ってるような気持ちになりますね」(嘉悦先生)。
「ホントに律儀なヤツです。自分はもう『親ばか』ならぬ『福藤ばか』。それだけ彼の力を信じているんです。コネクションのない北米でも、彼なら実力ひとつでやり抜けると思う。起用されるチャンスさえあれば、絶対に認めてもらえると信じています」(鈴木コーチ)。
東北高校アイスホッケー部に、偉大なる足跡を残した福藤豊。金子先生に由来を持つ背番号44は、その神聖さと、福藤のキャリアの偉大さも相まって、その後チーム内では誰も着ける選手がいない「永久欠番」となっている。
February 28, 2006 10:07 AM
