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2006年02月28日

恩師の死を乗り越えて:

高校2年の終盤にはコクド入りが内定し、高校3年の初秋(2000年9月)の国際大会「アジアカップ(札幌)」では日本代表入りを果たすなど、福藤豊のキャリアは急上昇の局面を迎えていた。

異例の高校生選手、しかも前例のない宮城県からの日本代表選出。それゆえに当初、日本アイスホッケー連盟内でも多くの論議が交わされたという。当時の日ア連強化部長の清野勝氏は「実業団や大学生をさておき、高校生の代表入りはちょっと…」と渋い顔をしたが、ジュニア強化に関わってきた信田憲司氏が強力にプッシュした。

福藤にとっては、偶然というタイミングも後押しとなった。世界選手権極東予選を兼ねたアジアカップで戦う相手は、韓国、中国とかなり格下のチーム。従って、実際の世界選手権代表となるフルメンバーよりも、若手主体のチーム編成になっていた。しかも大会期間中、コクドがロシア遠征で不在、雪印が食中毒事件の影響で活動自粛という事情が重なり、代表選手の供給先を実業団以外にも目を向けざるを得ない状況が、日ア連にはあったのだ。

その頃、か細かった福藤の身体はたくましく成長していた。1年の終わりごろから練習後に腕立て伏せ、腹筋、背筋50回を3セット、5キロのバーベルを持っての走り込み、10分走などでパワーアップ。牛乳を1日1.5リットル飲んだことも手伝い、1年時から体重は17キロアップの83キロに達していた。

当時の日本代表GKの選手層はかなり厚かった。岩崎伸一(元コクド、現コクド監督)、芋生ダスティ(元西武鉄道、現王子製紙)、二瓶次郎(元コクド、現日本製紙クレインズ)に加え、春名真仁(日光アイスバックス)が頭角を現していた。しかし、その次の世代というと当時大学生だった菊地尚哉(元西武鉄道、現コクド)くらいしか育っていない。若手の早期育成が必要な時期でもあり、素質があるのなら伸ばすべきという日ア連の英断から、福藤の日本代表入りは整った。アジアカップでは出場機会には恵まれなかったが、福藤にとっては貴重な経験となった。

その一方で、福藤は東北高校で最後のシーズンを迎えていた。インターハイでは1年生でベスト8進出、国体では決勝進出を果たしたが、2年の冬はインターハイは1回戦負け、国体では健闘むなしく4位に終わっていた。それだけに、3年の冬に賭ける福藤の思いは並々ならぬものがあった。

インターハイを控えた2000年12月、東北高校はその前哨戦となる東北大会に出場していたが、その大会にチーム監督の金子勝利先生の姿はなかった。大会直前に体調不良を訴えて入院していたのだ。

普段はよく食べ、よく飲む金子先生ではあったが、急に食欲を失った様子を見て周囲は心配した。過去5年間は学校行事とアイスホッケー部の両立で非常に忙しかった金子先生は、ろくに健康診断すら受けていなかったのだそうだ。高橋コーチが無理矢理病院に連れていき、検査後判明した結果はあまりにも痛烈かつ冷酷だった。原発巣すら分からない末期がん。すでに手の施しようのない状態だったという。

定年まであと1年と勤め上げて襲った不幸。周囲は少しでも希望をもたせようと、病気の詳細について本人には知らせなかった。実際、金子先生自身は、入院すれば、翌月のインターハイや国体に同行できると考えていたのだという。
一方、選手たちには金子先生の病状については公には報告されていなかったが、インターハイに出発する頃にはすでに選手全員が知るまでに至っていた。

福藤にとって、金子先生は恩師であることはもちろんのこと、釧路で埋もれていた自分を発掘してくれた恩人でもある。また、決して生徒を特別扱いするタイプではなかった金子先生にとっても、福藤については多くの思い入れがあったはずだと、周囲は証言する。ある人は「2人は孫とおじいちゃんのような関係だった」と表現する。福藤がおどけて金子先生の物真似をする。それを笑顔で見守る金子先生。それは、年の離れたいい感じの師弟関係であった。またある人は「子供のなかった金子先生にとって、福藤は我が子のような存在だったのでは?」と語る。高校入学後、経済的に苦しかった福藤に対し、金子先生が経済的な援助もしていたのでは、という声もある。

迎えた01年インターハイと国体。金子先生不在のため、顧問から監督代行としてチームを指揮することになった嘉悦先生は「金子先生の状況を、チームのパワーに変えよう」と選手たちに語りかけた。金子先生の病状は深刻で、おそらく春までもたない状況。今は病床で結果を聞くことしかできないけど、せめていい結果を出して喜んでもらおうじゃないかと。嘉悦先生の目からはいつしか涙がこぼれていた。他の選手同様、福藤も瞳に涙をたたえながら、その話を聞いていた。しかしインターハイでは1回戦で八戸工大一高に敗れた。

インターハイ、国体が終わり、すでに痛み止めの緩和治療に入っていた金子先生の意識は朦朧(もうろう)としていた。福藤はその後、2月初旬の国際大会での日本代表に選出され、国立代々木第一体育館で開催されたカナダのアマチュアチャンピオンチーム相手に試合出場。ゲーム後半を無失点に抑える鮮烈代表デビューを飾った。薄れいく意識でも、福藤の状況を常に思いやる金子先生に、東北高校のチームスタッフは逐一、その活躍の次第を報告した。重篤な状態の金子先生が、どの程度理解していたのかは分からない。しかし、その活躍ぶりには、金子先生は満足そうにうなずく仕草を見せたという。

そして3月31日、金子先生は逝去した。現在は故郷である栃木県鹿沼の地に永眠している。以来東北高校アイスホッケー部は、毎年開催される4月初旬の日光での大会に出発する際に、金子先生のお墓参りに出向く。また金子先生の仏壇の前には、福藤が日本代表としてデビューした際の背番号44のユニホームが飾られている。

現在は日本を離れ、北米で奮闘中の福藤であるが、キャリアにおいて何らかの変化が起こった際には、仙台にいる関係者に連絡することを忘れない。

「ドラフト指名された時とか、キングズと契約に至った時とか、節目の時には必ず連絡が来るんですよ。ヤツにはここ2年くらい会ってませんが、年に2回くらい会ってるような気持ちになりますね」(嘉悦先生)。

「ホントに律儀なヤツです。自分はもう『親ばか』ならぬ『福藤ばか』。それだけ彼の力を信じているんです。コネクションのない北米でも、彼なら実力ひとつでやり抜けると思う。起用されるチャンスさえあれば、絶対に認めてもらえると信じています」(鈴木コーチ)。

東北高校アイスホッケー部に、偉大なる足跡を残した福藤豊。金子先生に由来を持つ背番号44は、その神聖さと、福藤のキャリアの偉大さも相まって、その後チーム内では誰も着ける選手がいない「永久欠番」となっている。

February 28, 2006 10:07 AM

2006年02月21日

高校時代の素顔:

福藤豊が高校1年のインターハイ、国体で華々しい脚光を浴びたというニュースを、嘉悦一壽さんは大学の1年後輩であり、インラインホッケー友達でもある鈴木秀之さん(東北高校コーチ)から聞かされていた。

嘉悦さんは、当時福島県の郡山北工業高校に勤務していた。平成7年に福島県は冬季国体を開催したが、開催県としてのアイスホッケー強化のために、成年の部で選手として出場でき、なおかつ少年の部の指導者となれる人材を探していたという。

法政大学卒業後、嘉悦さんは教員を目指して東京でフリーターという職に収まっていた。当時はバブルがはじけた後とはいえ、それほど就職難の時代でもなかった。アイスホッケー部出身という肩書きがあれば、「体育会系の人材」として雇用側からはかなりの人気を博していた頃でもあった。しかし大学4年時の6月に教育実習を経験後、教員という仕事に魅了され、あくまで教員職にこだわった。民間企業に就職してしまったら、自分の教員になる夢から離れてしまうという危惧(ぐ)もあった。その後はアルバイトをしながら、通信教育を続けるという毎日。北海道その他の教員試験を受けたが、結果は不合格。そんな時にこの福島県での話を伝え聞いた嘉悦さんは、2年目にして福島県教員試験に合格。大学卒業後3年目にして、晴れて郡山北工業高校の教員となったのだ。

福島で実績を残しつつあったある時、旧友の鈴木さんからこんな話が持ちかけられた。東北高校で長年アイスホッケー部に関わってきた金子勝利監督は、教員としてもう定年間近。よって東北高校では新たにホッケー経験者の教員を探している、と。嘉悦さんは悩んだ。東北高校の話は魅力的ではあったが、公立の教員を辞めて私立高校に就職するのは大きな決断が必要だった。それに何よりも、自分を最初に雇ってきれた福島県には恩義がある。自分が手がけてきた福島のホッケーを、途中で放り投げて仙台に行く気はなかった。そのため、鈴木さんに「2、3年の猶予が欲しい」と告げていた。

そして1999年3月、嘉悦さんは採用面接のため東北高校を訪れた。面接といってもほぼ内定が出された状態であり、今後、アイスホッケー部に新しい顧問の先生がやってくるという情報は、すでに選手たちの間にも広まっていた。嘉悦さんはそれまでに東北高校の試合を数回観戦しており、選手たちから顔を覚えられていた。面接を控えて校舎に向かったとき、ちょうど陸トレを終えたばかりのアイスホッケー部の選手たちと出くわした。福藤を含む1年生選手たちから会釈をされた。「これから面接だけど、4月からよろしくな…と会話をしたのが、福藤と初めて話をした機会でした」と、嘉悦さんは回想する。

大学時代から、ワゴン車にチームの防具を積んでの移動などはお手のものだったという嘉悦さんは、福島で大型免許も取得した。東北高校に着任後は、本州内のバス移動の多くを自身が担当している。仙台から軽井沢、あるいは東伏見まで一気に飛ばす。これも指導者の仕事の一部となっている。

すでに嘉悦さんは、福藤のプレーについては高校入学直後の日光での対抗試合で目撃していた。本州勢数校にて毎年対抗戦として開催されるこの大会で、福藤は当時本州勢では傑出した存在だった埼玉栄高校相手に、堂々したプレーを見せていたという。

「当時の埼玉栄は、河本彰仁、千葉良平がいて、かなり強力だったんです。最終的に福藤は、河本、千葉に何点かやられたのですが、高校生としての初試合で、しかも相手が埼玉栄で、これだけの守りができるGKがいるとは…という強い印象を受けたんです。そして、仙台で再会した時は、福藤にはすぐ気づきましたよ。身体がでかいし、マスクもいいので、すぐ気づきました。『あ、あれが福藤か?』という感じで。あいさつの仕方とかから、実にしっかりした生徒だなと思いました。彼は人間性が表面に出てるから、その後チームで付き合った後もその第一印象は変わっていませんよ。とにかく練習では、手を抜かないヤツでした。外面でも浮ついたところはありませんでした。高校生は髪伸ばしたがる年頃ですが、福藤は3年になっても坊主頭でした。『面倒くさいから全員坊主でもいいんじゃないですか?』と自分から言うくらいでしたから」。

とはいえ、求道者としてストイックに突き詰めすぎていたかというと、そうでもないという。現在でも福藤は音楽好きとして知られるし、中学時代にはバンドを組んでドラムをたたいていたなんて話もある。そして高校時代はヒップホップ全盛期。福藤は、ホッケー部のチームメートたちと一緒に、自作のラップを披露することもあったようだ。

「彼らの間で自分たちで詩を作り、寮でノートに詩を書きとめたりしていましたよ。“海を越え、山を越え、たどり着いたよ仙台、ウー、ウー!”って感じのノリの曲でした(笑い)。ホッケー部の部室の脇で、小杉(潤)、八反田(将也)たちとよくやってましたよ。ホッケーでは真面目とはいっても、普通の高校生がやることは、一通りやっていた感じでした」(嘉悦さん)。

「あの頃、寮にはホッケー部だけではなくて、柔道部、バスケットボール部の生徒たちもいて、かなりにぎやかでした。ヒップホップは寮内でかなり流行っていましたよ。ターンテーブルやミキサーを持ち込んで、レコードを2つ回している生徒もいましたよ。福藤もよくやってましたね」(当時の寮監、大久さん)。

高校1年のインターハイ、国体で一躍注目された福藤は、高校2年の1月開催の長野でのU20代表(ディビジョン2)入り。さらに4月ラトビアで開催されたU18代表(ディビジョン1)にも選ばれた。U20では1番手GK石川の存在ゆえに出番が少なかった福藤だったが、ここでは彼が1番手としての仕事を託された。

U18代表は、大会前にまずフィンランドで合宿を実施。そこで組まれたフィンランドの社会人チームとの試合に、福藤は出場した。社会人チームとはいえ、ホッケーが盛んなフィンランドのレベルは高い。全く歯が立たないだろうと日本U18代表チームスタッフは予想したのだが、福藤の好セーブ連発によりこの試合に勝利してしまった。

そして勢いをつけて臨んだ大会第1戦。試合前の練習を観たU18代表川村克俊監督が「あれはAプールでやれるチーム。これでは勝てないな」と分析したほどの相手ノルウェーを、日本は3-2と振り切った。さんざん攻め込まれたが、ここでも福藤の守護神ぶりがチームを救った。試合後、福藤はこの試合のベストプレーヤーに選出されている。結局日本は8チーム中4位に終わったが、日本の5試合全てに出場した福藤はセーブ率で大会2位という好成績を残した。

初の海外での試合から帰国後、福藤は当時の東北高校寮監であった大久先生に、ラトビアで買い求めた土産を手渡したという。それはロシアの民芸品として知られるマトリョーシカだった。マトリョーシカにもいろいろ種類があって、民族衣装をまとった女性をかたどった伝統的なものから、現在では歴代大統領、ホッケー選手バージョンもある。福藤の土産は当時のロシア大統領ゴルバチョフのものだったという。「いまでも、自宅に大切に飾られてもらっています」と、大久先生の佐和子夫人は語る。

そうしてスポットライトが当たる立場になった一方で、福藤は東北高校でのプレーには少なからずとも苛立ちを覚えていたようだ。高校2年のインターハイでは1回戦敗退、国体では4位入賞を果たしたものの、福藤1年当時に攻撃面でサポートをしてくれた3年生が抜け、東北高校の戦力はダウンしていたのだ。自分がゼロに抑えない限り、勝てないという責任感が、常に福藤には重くのしかかっていた。

「周りが騒がしくなったけど、福藤は福藤のまま。選抜チームでいろんなところに行くことになっても、東北高校を自分のチームと考えて、一番に考えてくれる人間性があったんです。金子先生が言っていたんですが、『こんな状況でも腐らないで、ホントに頑張ってくれてるな』と。苛立ちもあったでしょうが、それをチームメートにぶつけたり、表面に出すことはありませんでした。日の丸つけても、天狗になることは一切なかったです。ただウチとして痛手だったのは、チームとして重要な遠征、合宿の際に、福藤が不在というパターンが多かったこと。これには本人も残念がっていました。でも福藤と同期にGKがもうひとりいて、『あいつがいるから、自分がいなくても大丈夫ですよ』と、福藤は気を使って私たちに話していたほどでした」(嘉悦さん)。

そんな福藤ゆえに、東北高校のチームスタッフは、福藤の代表入りを静かに後押しもしていた。ジュニア代表最終選考合宿が開催された苫小牧には、金子先生がわざわざ鈴木コーチを送り込み、福藤の合宿での出来をチェックをさせていたほどだった。しかし、福藤3年の冬、その東北高校アイスホッケー部に突然悲しみが襲うことになる。

February 21, 2006 09:48 AM | コメント (2)

2006年02月14日

初の国際舞台へ:

福藤豊が高校2年の1999年秋、東北高校アイスホッケー部は地元ミヤギテレビの30分番組「輝け青春」に取り上げられた。

同年1月のインターハイ、国体で好成績を収め、一躍注目を浴びた福藤は、8月には帯広の世界ジュニア選手権の代表候補選考合宿にも選ばれていた。世界ジュニア選手権代表候補と、番組内でクローズアップされる彼は、か細い体型に坊主頭。静かな趣きをたたえた小顔は今とさほど変わりないが、ニキビが花盛りを迎えていた。

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ビデオであらためて、この番組を見た福藤は「気取ってるな~、カメラ意識しちゃって」と苦笑いした。「輝け青春」とは、なんともこそばゆい響きの番組タイトルだが、「この番組に出ることが、宮城県内高校生のあこがれでもあり、目標だったんですよ」と明かした。

番組のエンディングで福藤は、こう自らの夢を語っている。「将来は…やっぱりホッケーでプロになることです」。

期待で胸を膨らませる一方で、福藤は素質を開花させるための地道な努力を怠らなかった。チームのメニューとは別に、1年生の終わり頃から練習後に腕立て伏せ、腹筋、背筋50回を3セット、5キロのバーベルを持っての走り込み、10分走などでパワーアップ。さらに牛乳を1日1.5リットル飲んで身体作りにも努めていたという。

また、北海道から離れた仙台でホッケーを続けるには苦難もあった。試合相手を求めて北海道に遠征する際の費用は、毎回7、8万円はかかった。兄政幸さんは、限られた給料の多くを弟のこの遠征費に費やした月もあった。遠征後は自由解散というのが常だったが、飛行機で仙台に戻るチームメートを尻目に、旅費を節約するため、ひとりだけ電車で帰ったこともあった。自らのキャリアは上り坂にさしかかったにもかかわらず、経済的にひっ迫する実家の事情も考え「いつまで仙台の高校でホッケーが続けられるだろうか? いずれは釧路に帰らないといけないのだろうか?」と苦悩もしていた。

だが、福藤の周りで運命の輪は着実に回り始めていた。当時、日本アイスホッケー連盟強化コーチ2年目の信田憲司氏は、当時ジュニアU20代表のアシスタントコーチも兼ねており、リトアニアで開催されたU20ディビジョン2大会から帰国後すぐ、インターハイの開催される軽井沢を訪れていた。「全くまっさらな状態で訪れた」というこのインターハイ3回戦で、信田氏は福藤のプレーを見た。相手は強豪・駒大苫小牧高校だった。

「一方的に攻め込まれる展開でしたが、福藤がよく守っていたので、途中まですごくいい試合でした。福藤の第一印象ですか? ひょろひょろ、ガリガリ。筋肉がなく、手足が長いという感じでしょうか。キャッチングサイドが大きく開くという、ポジション取りでの難点はありましたが、パックに対する反応は鋭いものでした。ポジションさえなんとかすればかなりのGKになると思いました。その頃からゲームの読みは素晴らしかった。それに、これまでのGKにないものを持っていたんですよ。失点してもがくんとプレーが落ちない図太さで、次のパックに向かって行ける。彼だったら、代表入りしてもいいプレーをするのでは? という感触がありました」。

自らもコクドのGKとして優勝に貢献した経験を持ち、GKについて目利きがある信田氏がその場に居合わせたのは、福藤にとって福音だった。翌2000年のU20大会は地元・長野での開催。前年のリトアニア大会では、石川央(当時日光高校、現日本製紙クレインズ)がいい働きを見せており、長野大会でも1番手として計算できる存在だった。しかしこの石川に続くGKがいない。そこでその穴を埋める選手として、突如福藤の名前が浮上してきたのだ。

そして福藤は、8月の帯広でのジュニア代表候補合宿メンバーに選ばれる。しかし合宿中に体調を崩し、練習にはかろうじて参加したが評価試合には出場できず。練習でも精彩を欠いた。「受けたことのないシュートばかりで面白かったけど、力を十分に発揮できませんでした」と、悔いだけが残った。

しかしその2カ月後に名誉挽回の機会が訪れた。10月に東京で開催されたU20代表選考を兼ねたヤングオールスター戦で、大学生中心の選手相手にいい守りを見せたのだ。

この時点で、すでに信田氏は福藤をU20長野大会に控えGKとして代表入りさせることを決意していた。ただ仙台の高校生という背景もあって、福藤代表入りはすんなり行くものではなかったそうだ。しかも福藤はまだ17歳になったばかり。当時の日ア連強化部長の清野勝氏からも「本当に福藤で大丈夫なのか?」と、念を押すような言葉があったという。しかし信田氏の強い決意は変わらなかった。そして福藤は晴れて、99年12月30日から長野で開催の世界ジュニアU20大会代表に選ばれた。

宮城県からアイスホッケー世界ジュニア代表に選ばれたのが初なら、福藤自身が国際大会代表に選ばれることも初。それよりもなによりも、それまで外国人選手のシュートは未経験だった。大会前は「とにかく目立ってきたい」と福藤は控えめな目標を語っていた。

U20日本代表コーチ陣は、この大会のGK起用についてはこう考えていた。大事な試合では、まずは国際経験豊富な石川を起用する。国際経験ゼロの福藤については、大切に育てたい。いきなりプレッシャーのかかった場面で、がつんとやられるのは厳しいだろう、と。

しかし、このコーチ陣の親心を知らずしてか、福藤は大会中にいらだちを隠せない雰囲気だった。「とにかく悔しかったんです。なぜ試合に出してくれないのかと、イライラしていました」。

チャンスは巡って来た。最初の3試合で石川を出場させた日本代表だが、3戦目のvsイギリス戦では、相手の6人攻撃が成功して2−2と痛い引き分け。この時点ですでにメダルの可能性は消滅していた。大会では順位決定戦があと1試合残っている。そこでコーチ陣は、その順位決定戦vsエストニア戦での福藤先発を決めた。

初めて受けた外国人のシュートに、福藤はこれまでにない違和感を感じていた。外国人は手足が長いし、手首の強さなどからシュートを放つタイミングも日本人選手と異なる。そのタイミングの違いゆえに、GKは常にパックに正対すべきなのに、ポジションを取り違えてスペースが空いてしまう。

そうした順応を強いられたものの、パニックからばたつくこともなく、福藤は持ち前の冷静さで難なくこの試合をこなした。日本代表は相手のカウンターアタックをよく許していたが、そうしたピンチも福藤はよく凌いだ。そして試合は9-1で勝利。国際舞台デビュー戦としては、上々の出来だった。

※写真は2001年冬季国体から

February 14, 2006 10:11 AM

2006年02月07日

日本代表GKとの出会い:

福藤豊が高校1年で出場した初のインターハイ(1999年1月)で、東北高校は強豪の日光高校を撃破した。43セーブ2失点と、勝利に大きく貢献した福藤は「100点の出来です。日光くらいじゃビビりませんよ。止める自信はありました」と試合後、豪語する余裕を見せていた。

その後の長野・冬季国体(少年の部)でも福藤の守りはさえわたり、東北高校勢で結成された宮城県代表を決勝進出まで導いた。一方的に攻められる展開ながら、シュートの集中砲火を凌いでいくその姿は、早くも日本の実業団チームのスカウトたちの目を奪っていた。

その頃、コクド・アイスホッケー部監督を務めていた松田幹郎(みきお)氏は、インターハイでの日光高戦を観戦していた。といっても、当時の松田氏の関心事は対戦相手の日光高校に所属する選手にあったわけで、福藤を見かけたのはほんの偶然であった。その時の印象を松田氏はこう語る。

「1年生ながら、実に落ち着いて、肝っ玉が座っていましたよ。キーパーというポジションはある意味孤独なのだけど、彼は孤独ではなかった。チームメートから慕われていたんです。彼のために頑張ろうと、味方に思わせるタイプですね。FWがミスしたとしても大丈夫、という雰囲気も漂わせていました」。

同様に、コクド・アイスホッケー部部長を務める岩本武志氏も、このインターハイに足を運んでいた。岩本氏は、苫小牧東高から法政大学を経て、国土計画(現コクド)で活躍。1978年世界選手権Bプール・ユーゴ大会では、最優秀GKにも輝いた往年の名ゴーリーである。その大学の大先輩でもある岩本氏を会場で見かけた鈴木秀人氏(東北高校コーチ)は、「釧路出身のGKで、うまいヤツがいるんですよ」と、試合前に岩本氏に耳打ちをしていた。岩本氏が観戦したのは、3回戦の駒大苫小牧戦。優勝候補の対戦相手に一方的な試合展開だったが、それに耐え、何とか試合の形にしていく福藤の守りに、岩本氏も目を見張った。

「体格もいいし、運動神経も優れている。攻められっぱなしでも、あれだけやれるのはかなりの素質があるということ。キーパーとしての器が備わっていると思いましたよ」(岩本)。

鈴木コーチとしては、まずは母校法大への進学の道を福藤に築いてやろうという親心で、話を持ちかけたはずだった。だが、福藤のインターハイでの活躍で、いきなり実業団入りというルートも浮上してきたわけだ。そして長野国体での準優勝もあって、日本のアイスホッケー界において福藤株は急上昇。福藤が2年になるころには、コクドと王子製紙が激しい争奪戦を繰り広げるまでに至っていた。

王子は、当時監督を務めていた高橋啓二氏が苫小牧からわざわざ仙台に足を運ぶなど、熱心なスカウト活動を展開していた。コクドとしても負けるわけにはいかない。そもそも、福藤とは釧路時代からも縁がある。福藤が小学、中学時代に所属していたクラブチーム、大進ジュニアは、コクドに所属していたことでも知られる中島谷兄弟の家族が経営するチームであり、実際に岩本氏も釧路で中学時代の福藤を指導した経験があるのだ。

さらに、コクドにとって好材料もあった。福藤は、前年の長野五輪で日本代表GKとして活躍した岩崎伸一(現コクド監督)の大ファンでもあったのだ。そこで岩本氏は、福藤が高校2年となった夏に、同シーズンからコクド監督に就任した運上一美氏とともに、この岩崎を連れて仙台まで「福藤詣で」をすることになった。

明治大学出身の岩崎にとって、学年で1つ下にあたる鈴木コーチは、学生時代の良きライバルであり友人でもあった。共に学生選抜として海外遠征した経験もあるし、岩崎が大学3年の時には、鈴木コーチに学生リーグのベストGK賞を奪われたこともある。実業団に進むことはなかった鈴木コーチだが、岩崎は常に彼の存在には一目置いていた。そんな鈴木コーチは、岩崎を迎え入れるやいなや、こんな会話を交わしたという。

鈴木「やべえよ、真面目に福藤はすごい」。

岩崎「またまたぁ、お前らのへなちょこシュート受けてっから、セーブできないっしょ?」

鈴木「何言ってんだ? 見れば分かるべよ!」

その頃、30歳とキャリアの円熟期を迎えていた岩崎は、すでに世界選手権出場も8回を重ねていた。そのあこがれの存在が、仙台に自分を観に来ている。「リンク脇のレストランに岩崎が来てるぞ」と、鈴木コーチから知らされた福藤は、「マジすか!?」と興奮を隠せない様子だったという。

岩崎にとって、福藤のプレーを見るのはこれが実は2回目。1回目は福藤が中学時代に大進ジュニアでの練習を指導した際だったそうだが、当時はそれほど目立った感じではなく、目に留まるものはなかったという。大学時代の友人、鈴木コーチが指導している東北高校とはいえ、所詮ホッケーでは後進の部類。ただそのゴーリーは、どうも自分のファンらしい。チームのスカウトに少しは貢献できるのならいいか、と軽い好奇心で訪れたつもりだった。

しかし、リンクでパックを弾く福藤の姿を一べつするやいなや、岩崎の先入観はあっさり翻った。

「まず、ぱっと観ただけで『こんなにうまい高校生を、これまで見たことがあっただろうか?』と思いましたよ。実業団入りしたら、すぐ試合には出られるだろうと確信しました」。

友人の鈴木コーチの指導者としての技能に岩崎は敬服した。構えは隙なく決まっているし、軸がぶれることもない。スケーティングも確固としたものだった。プレー中に喜怒哀楽を出さず、失点してもあっけらかんとしている福藤の表情は、岩崎の記憶にある大学時代の鈴木コーチの姿そのままであった。

練習後、岩崎は鈴木に対して福藤を絶賛し、「このキーパーすごいね。いったい、どうやって教えたの?」と、声を掛けた。その頃すでに岩崎の心には、日本を背負うGKとしての福藤の将来像が浮かんでいた。

「GKというポジションは、試合出場できるかどうかのタイミングにも影響されるんです。いくら才能があっても、試合に出るチャンスがないと伸びない。まずは試合に出て経験を積まないといけないんです。福藤を見た後で、彼にうまく引き渡したいと思いました」。

仙台から戻った後、岩崎は福藤が新しいゴーリーマスクを欲しがっていたことを思い出した。当時コクドは、マスクのペイント仕事に定評のある、とある北米のゴーリーマスク専門業者に発注していた。だが、顔の型を取ってからオーダーメイドで作られたはずの岩崎のマスクが、なぜだが別人の顔型で仕上がってきてしまった。どうも日本の実業団チームのGKが一斉に顔型を取り、それが発注される経緯で手違いが生じたらしい。自分の跡を受け継ぐゴーリーへの思いも込めて、岩崎はそのマスクを福藤の元に送った。

一方、東北高校では金子監督の考えもあって、公平を期すために福藤を高校2年の夏にコクドと王子のキャンプに1週間ずつ参加させた。大学出身者が出世ルートに乗る企業的な側面を持つコクドに対し、高卒後活躍する選手が多い王子に福藤が一時傾いたこともあったというが、コクドにおける岩崎の存在は福藤にとって絶大であったことは明白であった。

February 7, 2006 10:00 AM | コメント (2)