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2006年01月31日

仙台からホッケーの表舞台へ:

福藤豊が3年間在籍した東北高校(宮城県仙台市)。宮城県下では、仙台育英とともに有名スポーツ選手を輩出することでよく知られている。

しかし、ひと言で「スポーツエリート校」といえども、所属する部活動や個人の能力によって、学内でのコースは分かれている。例えば、10年前から開校した泉校舎には、いわゆる体育コース(スポルティーボ)が設置されている。こちらの卒業生には、ダルビッシュ有(プロ野球・日本ハム)、荒川静香(フィギュアスケート)、宮里藍(ゴルフ)らが名前を連ねる。このコースでは、通常の学科の授業は午前中まで。午後はトレーニングや練習を単位として認めるという方式を採用しており、スポーツ医学やメンタルトレーニングの講習まで実施しているとか。野球、ゴルフ、バレーボール部などの部員全員がこちらのコースに進学しているそうだ。

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一方、古くからある小松島校舎には、普通科の進学コースに加え、大学進学を目指す文教コース(現カレッジ進学コース)の一部として、体育コース(現スポーツ・健康福祉科)が設けられていた。こちらのコースでは、生徒たちは毎日5、6時限の授業を受けた後に、それぞれの部活に向かって練習に励む。福藤が所属したのはこの文教コースであり、同学年にはサッカー今野泰幸(東京)の存在もあった。

親元の釧路を離れた福藤は、高校近くの寮に住むことになった。当時で築30年というかなり古い建物である。以前は、とあるビール会社の社宅だったが、その後は利用されずに空家となっていたのを、高校が借り上げたという物件だった。建物の傷みが激しいために、2年前に閉鎖となったというこの寮暮らしについて、福藤はこう回想する。

「洗濯とか身の回りのこととかは、高校時代の寮生活のおかげでもう大丈夫です。アイロンも掃除も大丈夫。寮がけっこう汚かったから、あそこで暮らせたらもうどこでも暮らせるって感じですよ」。

3LDKが6件、2LDKが5件という間取り。うち2LDKひとつは、当時ここで寮監を務めていた大久芳輝さん夫妻の住まいとなっていた。大久さんは、東北高校で保健体育担当教師として教えるかたわら、寮に住み込んで寮生たちの生活指導を担当していたのだ。妻の佐和子さんは、生徒たちの私生活の面倒もみていたという。

アイスホッケー部の新入生として、福藤がこの寮に入寮してきたのは、1998年3月末のこと。当時の印象を、大久さんはこう語っている。

「(アイスホッケー部顧問の)金子先生から『中学で全国優勝したGKだ』と聞いていたので、かなり図体の大きな子を想像していたんです。そしたら現れたのは、まるでマッチ棒。線が細くて驚きました。上背があったので、60キロはあったかとは思いますけど、おそらく60キロそこそこだったんじゃないでしょうか」。

しかしそのマッチ棒は、高校在学3年間でみるみるうちにたくましくなった。食事は学内食堂で朝、昼、晩と1日3食出され、栄養面では何の心配も必要なかった。夜はバイキング方式の食べ放題。育ち盛りの胃袋にはありがたかった。

「寮の掃除や、風呂を入れる仕事は、1年生の役回りでした。福藤は、そういう仕事も含め、何ごとも率先してやる生徒でしたよ。寮生活では本当にいろいろな子がいますが、彼はヘラヘラしないし、真面目なヤツでしたね(大久さん)」。

当時の寮では、風呂は旧式で、湯船の大きさは1人がやっと入れる程度。シャワーのお湯は出ないという状況だった。アイスホッケー部は、夕食の後でリンクに出向いて練習することが多かったが、寮に戻ってきても風呂は先輩優先という状況だった。

「代謝の激しい年頃だし、いろいろ苦労はあったと思いますよ。でも、おおむね運動部の子は苦労を先生に言わないんです。クーラーもなかったから、北海道出身の福藤には、初めて過ごす仙台の夏はこたえたんじゃないでしょうか? 扇風機くらいしかありませんでしたからね。夏はパンツ一丁で過ごしていたはずです」。

そんな環境ゆえに、この寮からは何人か脱走者が出たほどだった。アイスホッケー部員にも、置き手紙を残して北海道に帰ってしまった生徒がいたらしい。しかし福藤は、この環境に慣れるとともに、鈴木コーチとの信頼関係を基盤に、練習でも試合でもその頭角を現すようになっていた。この頃には、体重もすでに70キロ前半にまで増えていた。

そして迎えた高校1年でのホッケーシーズン。98年12月の東北高校総体で、東北高校は同じ東北の強豪・八戸工大一高を破る殊勲を見せる。当時の東北高校は3年生に有力メンバーが揃っていて、チーム力がかなり充実していたという。ただし、この時に試合出場していたのは福藤ではなく、3年生のGKであった。

ただし、年明けのインターハイ、国体を迎えるにあたり、東北高校アイスホッケー部のコーチ陣は、頭を悩ませた。東北総体で起用した3年生GKをそれまで通り起用するのか、あるいはGKとしてすでに完成形に近付きつつある福藤を使うのか? 

コーチ陣を確信させたのは、意外にも選手たちの意見だった。当時3年生だった選手たちが「福藤を使って欲しい」と意見したことが、コーチ陣の背中を押したのだ。

そして軽井沢で開催されたインターハイ。福藤にとって大きな見せ場がやってくる。99年1月22日、東北高校のインターハイ2回戦の相手は、本州勢では屈指の強豪として知られる日光高校であった。

実は日光高校は、金子監督が東北高校でアイスホッケー部を創設以来、「お手本」として見習ってきた存在でもあったのだ。元々栃木県鹿沼市出身で、日光中学から作新学院、東北大学と進学した金子監督は、東北高校に教師として着任以来、中学時代の同級生である菱沼正幸さん(元古河電工、その後レフェリーとして活躍)に、ホッケーについていろいろな相談を持ちかけていたのだった。

そうした経緯からも、胸を借りるつもりの日光高校相手に、福藤は飛んでくるシュートを止めまくった。シュート数では27対45と、圧倒的に上回られたが、最終スコアは4-2で東北高校の勝利。秋の練習試合で負け続けた相手でもあった強敵に対しての勝利は、東北高校にとって公式戦では実に史上2回目の快挙でもあった。

そして、続く長野冬季国体(少年の部)でも快進撃は続いた。東北高校の単独チームとなった宮城は、これまた日光高校中心チームとなった栃木に、2回戦で2-1と勝利。インターハイ同様、福藤の堅い守りはこの試合でも際立った。そして準決勝では地元長野を7-1と破り、学校史上初の準優勝という好成績を収めるに至った。

こうして釧路時代の埋もれた原石は、スポットライトの当たる表舞台へと自ら力強く踏み出した。そして福藤の周辺はにわかに騒がしくなっていくのである。

※写真は00年全国高校アイスホッケー選手権大会から

January 31, 2006 09:31 AM | コメント (3)

2006年01月24日

培った師弟関係:

自分のキャリアに影響を与えた人物として、福藤豊は3人の名前を挙げる。

まずは、現NHLロサンゼルス・キングズGKコンサルタントのアンディ・ノーウィッキ。カナダ・ナショナルチームにも参画した経験があり、オフアイスでは語り口の柔らかな愛すべき人柄も、オンアイスでは練習でもGKから常に100%を求める鬼コーチである。福藤がキングズからドラフト指名後、2004年夏に初めて参加したキングズの若手キャンプでは、「GKの心得」として数か条を書き綴ったものを、福藤含む参加GK全員に手渡している。

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次に、2002-03年ECHLシンシナティ・サイクロンズ留学時代に、2回ほど指導を受けたGKコーチ、イアン・クラーク。現NHLバンクーバー・カナックスのGKコーチであるクラークと、NHLサンノゼ・シャークスと提携関係があったサイクロンズとは、一見接点がなかったように思われる。しかし、当時サイクロンズのオーナーシップとコネを有していたクラークには、シンシナティに立ち寄り、福藤を含めサイクロンズのGKを指導する機会があったのだ。

「彼には、GKの基本的動きを教えてもらいました。シュートを受けた後、体勢を直す前にどちらの足から立つかとか、バタフライセーブをした後に、座ったままの姿勢でクリーズ内を移動したりとか。あの時ちゃんと教わっておいて、本当によかったと感謝しています」(福藤)。

そして、福藤が3人目に挙げるのは、東北高校時代に指導を受けた鈴木秀之氏である。

「鈴木さんの存在は、僕のここまでのキャリアにとっては、かなりの大きさであることは確かです。GKとしての心構えとか、失点した時にどう自分の気持ちをケアするかとか、いろいろ精神面について教わりました」(福藤)。

鈴木さんは、宮城県出身。高校は地元仙台の東北高校に進学してホッケー部で活躍後、ホッケーでも強豪として知られる法政大学に進学、大学2年時から法大の主力GKとして活躍していた。北海道、日光、青森と、ホッケーどころ出身者がズラリを顔を揃える法大において、宮城出身で早くから頭角を現し、大学リーグのMVPも獲得した鈴木さんの存在は、かなりの異例であったといっていい。

当時の法大は、同学年には勝田紳嗣(現コクド・マネジャー)小林秀(元コクド)高橋淳一(元古河電工)と実業団に進んだメンバーが揃っていた。鈴木さんが在籍した4年間には、秋のリーグ戦2回、インカレ1回、春の選手権1回と、計4回の大学リーグ優勝を果たしている。

4年間の法大でのキャリアを終えた後は、ちょっとした回り道を経て、鈴木さんは故郷である仙台に戻った。仙台では、同じく東北高校、法大と進んだホッケー部の先輩、高橋司さんの経営する会社に勤務する一方、高橋さんがコーチとして指導していた母校・東北高校ホッケー部にも携わることになった。94年ごろの話だ。

福藤の東北高校入学前から、すでに鈴木さんは福藤の存在については、早くから金子監督、高橋コーチから伝え聞いていたという。そしてこの全国中学大会優勝、かつ日本随一のホッケーどころ出身GKの東北高校入学が決定し、GKとしての経験を有する鈴木さんの存在がにわかにクローズアップされたのだ。

鈴木さんは、その時を振り返ってこう語っている。

「釧路からウチの高校にGKが入ったということだけでも、かなりの話題だったんですよ。当時、西武鉄道で監督をされていた法政の先輩、中島(正敬)さんには『あのGK、東北に行ったのか? もったいないねえ』とまで、言われてしまいました」。

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その福藤のプレーを、鈴木さんが自らの目で改めて見たのは、新入生が入寮式を済ませた翌日に参加したチーム初練習のことであった。ホッケー部の新入生は、他の部活よりちょっと早めに、中学校卒業後、3月後半に仙台に集結するというのが、ならわしだ。

この日の練習では、金子監督は氷に乗らず、高橋コーチは病気で入院中という状況で、鈴木さんが高橋コーチのメニューを氷上で仕切ることになっていた。そして、このひょろっと背の高いGKの動きに戦慄(せんりつ)を覚えることになる。

「すごい、とは聞いてましたが、あそこまでとは…本当に驚かされました。なんというか、オーラがあったんです。とにかく素地が違う。あれが釧路で鍛えた部分か、と唸りました。1学年上に、仙台出身でうまいGKはいたのですが、正直比較にはなりませんでした」。

そこで鈴木さんは改めて考えた。これだけ完成に近いGKを、いったいどう指導したらいいものか? 

 「あのGKはきっちり教えないと、かわいそうです」と翌日、病院にいる高橋コーチに報告。まずは法大の後輩であり、日本リーグの雪印にも在籍経験もある青木武俊さんに、福藤の指導を依頼した。また、高橋コーチは、同じく法大出身で雪印に進み、日本代表GKとしても活躍した日野正樹さんにも、声を掛けた。

かくして日本リーグ経験者から指導を受けるチャンスに恵まれた福藤であったが、なぜだか、彼にはピンと来なかった。日野、青木両氏は「彼は、すでにGKとしての土台ができあがっているから、もう教えられない」という理由で、それ以降、東北高校の練習に現れることはなかったという。

福藤の指導という課題は、こうして再び鈴木さんの手に戻って来た。もう頼るべき人材もいない今、鈴木さんにとって頼れるのは自分自身であった。

福藤が高校入学したてのころ、その素質の素晴らしさは誰もが認めるところではあった。しかしその伸びやかな身長をやや持て余し、スピード面という点では今ひとつという欠点も残っていたため、当初は3年生GKと併用という形がとられていた。その3年生GKは、身体こそ小さいが俊敏な動きをしていたという。福藤の向上心が非常に強いことはすでに理解していた鈴木さんは、その3年生GKとプレーを比較しながら福藤の足らない部分を指摘することから、試した。

すると、福藤は鈴木さんに、GKの技術についていろいろな質問を浴びせて来るようになったという。その質問に対し、鈴木さんが答えを返すと、まずはそれを試そうとする。かなり細かい指導さえも真摯(しんし)に受け止め、よく聞き、よく理解し、よく吸収した。

「人の話をよく聞くヤツですよね。誰から何を言われても、とりあえず聞く姿勢を持っている。仙台のホッケー関係者に『こうスティックを持ってみたら?』と言われても、一応実践してみたり。すごく素直ですよ。こっちも見ていて楽しいですね。試合中にもピリオドが終わった後は、必ず意見を求めに来るんです。『どうでした?』という顔つきでね。なかなかそういう選手はいませんよ。普通はコーチを避けたがるものなんですが、福藤の場合は必ず来るんです。だから試合中は、僕も集中して全部観ていなければならなくって、大変でしたよ(笑い)」。

技術だけではない。鈴木さんは、GKとしての頭脳プレー、メンタル部分についての指導も徹底した。

「バックドア(筆者注:「裏口」の意。ゴール前でGKが一方のサイドに寄って守る際に空く、逆サイドを意味する)」に素早く回られて打たれたシュートや、フリーで打たれたシュートは、まずはGKが止めるべきだ。ワンタイムシュート(筆者注:もらったパスをワントラップせずにダイレクトに打つシュート)は、状況をちゃんと判断していれば取れるとか、ひとつの状況から何通りものシナリオを想像しろとか。究極としては、味方には頼るな、と。DFにはちゃんと守ってもらわないといけないし、コミュニケーションもちゃんとやらなければならないけど、頼れるのは最後は自分なんです」。

かつてささやかれた、あの福藤を、宮城の指導者が教えられるのか? という周囲の疑問。しかし福藤と鈴木さんの間に芽生えた師弟関係は、すでにその疑問を乗り越え、新たな次元への跳躍を迎えていた。

<<今週の福藤豊>>

ECHLレディング・ロイヤルズで、1月18日から21日までの4日間で3試合とハードスケジュールをこなした後、ECHLがオールスターブレークに入ることもあり、28日までお休み。16日間で9試合出場した福藤にとっては束の間の休息となる。NHLロサンゼルスに故障者が続出したあおりを食って、選手をAHLマンチェスターに供給し続けたロイヤルズは、戦力が大幅にダウン。その間好セーブを連発して、チームの勝利に貢献してきた福藤ではあるが、さすがに今週はやや息切れもあって失点がかさみ、3連敗も経験。しかしブレーク前のvsジョンズタウン戦は、7-2と勝って締めた。

※写真は00年全国高校アイスホッケー選手権大会から

今回から、福藤選手に対する応援コメントを募集します! 以下の「コメント」部分からどしどし投稿してください。反映されるまで多少、お時間がかかりますが、ご了承ください。

January 24, 2006 08:55 AM | コメント (9)

2006年01月17日

東北高入学、背番号44のルーツは:

釧路市立景雲中学3年で、全国制覇。優勝GKとして注目を浴びる存在となった福藤豊だったが、中学3年の2月初旬というこの時期に、いまだ今後の進路は決定していなかった。それまで釧路というホッケーどころにおいて、福藤はいわば埋もれたダイヤの原石。同じ釧路だけでも、同学年には千田哲也(緑陵中学)、金丸久(鳥取中学)と有望GKがひしめく状況下で、中学に入ってから釧路選抜に選ばれることはなかった。

北海道内に留まれば、ホッケーの名門校はたくさんある。公立高校はもちろんのこと、駒大苫小牧に、釧路緑ヶ岡(現武修館高校)といった強豪私立の存在は絶大だ。しかし福藤がその名を知らしめた全国大会優勝は、こうした強豪校が動くにはタイミングとしてすでに遅すぎた。2月ともなれば、すでに私立高校の推薦枠はほぼ埋まってしまっていたのだ。

「北海道の高校から声がかかったのは、緑(釧路緑ヶ岡)だけです。でも結局、緑は当時釧路で実力ナンバーワンと言われていたGK(千田)を獲ることになったので、断念したんです」(福藤)。

当時の状況を、母エミさんはこう説明する。

「中学卒業間際まで、どこからも声がかからずに大変でした。工業(釧路工業高校:引木孝夫、鈴木宣夫、矢島敏幸など多くの有名選手を輩出)か、西校(釧路西高校)はどうでしょうか? と進路指導は受けていましたが、豊は『そういうところは行きたくない』と言う。高校も釧路に行くことになったら、周りはまた上手い選手ばかりになるから、自分は伸びないと思ったんでしょうね。中学の先生によると、埼玉栄からも引き合いがあったんだそうです。でも埼玉栄は、修学旅行に外国に行くような校風ですし、豊が家計のことを考えて断ったんでしょう。そんな時、うちに金子先生がやってきたんです」。

宮城県仙台市の東北高校。佐々木主浩、宮里藍、荒川静香と多くの著名選手を輩出した、スポーツエリートが集う名門校である。野球、ゴルフ、サッカー、フィギュアスケート、競泳…と、各部は専用バスを所有していることでも有名だ。アイスホッケー部の歴史も古い。戦前から部活動歴があるのに加え、1965年に部再建以来、華々しい実績こそないものの堅実な活動を続けて来た。金子勝利監督は、このアイスホッケー部の再建以来ずっと関与してきたというベテラン教師であった。

長い歴史を有する東北高校アイスホッケー部ではあるが、宮城県内では練習試合の相手は大学か社会人チーム。同じ高校レベルの対戦相手を見つけようと思うと、首都圏や八戸、日光、軽井沢など、本州をバスで大移動しなければならない。それだけに、スケジュールに余裕のある夏の時期には、毎年対戦相手を求めて北海道で夏合宿を実施している。金子監督が福藤の存在を知ったのは、そんな夏合宿の期間であった。

釧路の大進ジュニアの練習に居合わせた金子監督は、氷上にひときわ際立つスラリと長身のGKに、目を見張った。いい選手がいればもちろんスカウトの対象にはなる。だが、クラブチームである大進ジュニアの練習を見ていても、その長身GKがどの中学に所属しているのかは、見当もつかない。それが景雲中学2年の福藤豊であると確認するまで、しばらく時間がかかったのだそうだ。ただ釧路の強豪中学のGKであるがゆえ、「まさかあのGKがウチに来てくれることになるとは思っていませんでした」と、当時東北高校のコーチをしていた高橋司さんは振り返る。

だが1998年2月、まだ福藤の進路が決まっていないという情報を、金子監督は伝え聞いた。通常の流れでいくと、福藤ほどの実績があれば、東北高校では特待生として迎え入れられるはずであった。しかしすでに時は2月。特待生制度内で進学手続きを進めるのにはあまりにも遅過ぎる。当時の東北高校での特待生には、2種類があった。特待生Aは授業料月額4万円を全額免除、その下の特待生Bなら半額免除だ。金子監督は福藤を入学させたいという思いから、特待生Bという待遇で福藤を受け入れるよう、高校側と掛け合い、なんとか実現させたのだった。

親元を離れての仙台の高校進学。しかも優待されているとはいえ、私立高校だけに学費も高ければ寮費も必要だ。エミさんは仙台行きを反対したが、最後は父政吉さんが賛成してくれた。そして、中学卒業時には「これまでいろいろ我慢させたから」と50万円近くをはたいてGK防具一式を、父は買い与えてくれた。もっとも「『なんだ、防具はもう買ってきたのか? ウチでちゃんと用意していたのに』と、高校側では言われてしまいましたけどね」(エミさん)という、行き違いはあったようだったが…。

東北高校入学に備え、福藤はすでに中学卒業後の3月下旬には、他選手とともに集合。高校の入寮式を終えていた。そしてすぐにチーム初練習に参加した。そこで与えられた背番号は、現在も着用している44番である。

アイスホッケー選手は、超有名スター選手であれ、レクリエーションでプレーするホッケーファンであれ、それぞれが背番号には大きな思い入れを抱いているケースが多い。こだわりのある背番号は着け続ける。また背番号を変えて心機一転を図る選手もいれば、ケガや不調に見舞われたら、その都度ゲンかつぎとして背番号を変える選手もいる。

その中でもアイスホッケー界で世界的に一番有名な例が、ウエイン・グレツキーの99番である。グレツキーは、子供時代からゴーディー・ハウという選手の大ファンだった。そのハウが着けていたのが背番号9であったが、新たに所属したジュニアチームでその背番号はすでに先輩選手が着けていた。その時、彼の代理人の「9を2つ重ねて99にしてみたら?」という助言に従い、着けてみたのが始まりであった。

当時はアイスホッケーの世界では、30番以上の背番号を着けるのはまれであり、グレツキーは対戦相手の選手から「フットボールでもやるつもりか?」とヤジの対象になったという。しかし、この大きな番号がその後「NHLの至宝」と呼ばれる絶大な存在感の象徴ともなり、グレツキー引退後の現在では、99番はNHLリーグ全体での永久欠番とされている。

また、背番号が政治的意味合いを含んでいるケースもある。その代表例が、ヤロミール・ヤーガー(現NYレンジャーズ)の68。チェコ出身のヤーガーにとっては、この68は「プラハの春」からロシアがチェコに侵攻した1968年を意味するのだ。加えてその年は、反共産党運動家だった彼の祖父が、獄死した年でもあるという。

話を福藤の背番号44に戻そう。当時、背番号について金子監督は、「ディフェンスの背番号ひとけた、フォワードは10から24くらいまで。キーパーはぜったいゾロ目」という一家言持っていた。そこで、新入生として入部してきた福藤と、もう1名のGKに与えられたのは、33番と44番だった。

「もうひとりのGKに、先に33番を取られてしまい、僕には44番しかなかったんです。でもキーパーで44番は見かけない番号なので気に入ってます」(福藤)。

現在となっては、福藤がとても大切にしている背番号44。この番号を背中に、福藤のキャリアはその後大きな飛躍を見せることになる。

January 17, 2006 07:24 AM

2006年01月10日

全国中学大会での優勝:

福藤が入学する前から、全国有数のホッケー強豪中学として知られていた釧路市立景雲中学。しかし「いつかは全国制覇するだろう」と言われて久しく、相変わらず無冠の強豪のまま、なかなか優勝を果たせず。いつしか福藤は中学3年の冬を迎えていた。

当時の景雲中には、福藤に加え、斎藤哲也(現・王子製紙)、佐藤翔(現・コクド)、今尾圭祐(元・王子製紙)と、計4人の実業団入りした選手が存在していた。地元からの高まる期待もあって「今年こそは創設以来初の全国制覇を」との機運が景雲中学校内でもさらに高まっていた頃だ。ましてや、この年の全国中学大会(1998年2月)は、地元・釧路市での開催。優勝の2文字が、景雲中学に重くのしかかっていた。

全国大会での景雲中学は、決勝まで順調な出来だった。2回戦のvs八戸第2中学戦では、0-2とリードされた場面はあったものの、準決勝のvs日光中宮祠中学戦まではほぼ一方的な展開で、決勝進出。そして迎えた決勝の相手は、同じ釧路勢の強豪、鳥取中学であった。地元での釧路勢対決とあって、当時オープンしたばかりの釧路丹頂アリーナは、両校応援団に加えて地元のホッケーファンが数多く詰めかけ、アリーナ完成以来の観衆を記録したという。

「試合前から異様な雰囲気でした。地元の試合なのに、センターアイスを挟んで真っ二つに応援が分かれていたんですから」と、福藤は当時を振り返る。「選手たちはみな、試合前から感極まって涙を流していました。高橋先生が心に響く言葉を語ってくれたんです。各ピリオドが始まる前には、校歌をチーム全員で唄ったり…チーム全員がひとつになれるいいチームでした」。

当時の景雲高校には、試合前や試合中にいくつかの儀式があった。まずは、その各ピリオド前にチーム全員で校歌を歌うことだ。強豪と言われてはや数年。なかなか優勝に手の届かない景雲中学ホッケー部顧問(当時)の高橋帝寿先生は、なにかチームの士気を高める策はないかと頭を悩ませていた。そして、それを選手たちに課題として尋ねてみた。すると、当時まだ2年生だった斎藤哲也が、兄毅(現・王子製紙)の通っていた駒沢苫小牧高校で、「試合前やピリオド間に校歌を歌う」というモチベーション策を実施していると聞きつけ、「ウチでもやりましょうよ」と進言してきた。そして上級生もこのアイデアに賛同したという。

また、試合前には、もうひとつ儀式があった。ホッケーの試合では、ゴールネットの前で円陣を組み、雄叫びをあげて気合を入れる…というのが、よく見られる光景である。しかし、この学年の景雲中学は、ひと味違った儀式を実施していた。

まずは、GKを囲み、他の選手たちがゆっくりと渦巻き状にスケーティングしながら、氷をスティックでタンタンタンタン…とたたいて気持ちを徐々に高める。そしてそれがピークに達した頃、勢いを付けていきなりGKに向かってボディアタックするという、一見奇天烈(きてれつ)な行為に至るのだ。

この儀式も、高橋先生が「全国大会で、気持ちを高める方法として、何かないかな?」と選手たちに与えた課題のひとつで、どこかの大学がやっていたのを選手たちの意見で取り入れたのだという。全国大会で景雲中学のこの「気合入れ」は、すっかりお馴染みとなり、いつの頃からかその光景の可笑しさから笑い声が会場から漏れるようになった。試合前のピーンと張りつめた緊張感を、程よいユーモアがうまくほぐしてくれる。決勝戦に至っては、気持ちが昂った選手たちが、ゴールネット前の福藤に向かって猪突猛進。身の危険を感じたのか、真面目にそのチームメートから逃れようとする福藤の姿に、さらに会場からは爆笑が起こったほどであった。

試合は、第1ピリオドからシーソーゲームの展開だった。景雲中学は、まずは1ピリ前半に2−0とリードを奪う。しかしその後、鳥取中学は5人対3人のパワープレーという絶好のチャンスにゴール。さらに当時から高いスコアリング能力で注目されていた石岡敏(現・明治大学)がゴール前でパックの方向を変えて、2−2とあっさり同点に追いついた。

当時の福藤は「まだNHLのことなどほとんど知らなかった」というが、偶然にも着用するマスクは彼が尊敬するGKであるマルタン・ブロデューア(ニュージャージー:スタンレーカップ3度制覇、五輪金メダルも獲得したNHLを代表するGKのひとり)仕様のものだった。厳しい攻めにも冷静で悠然とゴールを守るその姿は、ブロデューアが降臨したかのようにも映る。

だが、第2ピリオド、鳥取中学はキャプテンの佐藤博史(現・日本製紙)が、右サークル付近から鮮やかなリストショットで、福藤のグラブサイド上を抜いて、3−2と逆転。しかし、景雲中学も、斎藤哲也がゴール裏側のルースパックを拾い、素早くゴール裏側から巻き込む華麗なゴールを決めて、3−3と同点にした。

第2ピリオドを終えて3−3の同点。第3ピリオドを迎える前に、高橋先生は選手たちにこう語りかけたという。「今まで辛かったなあ。先生も辛かったぞ。ここでこれまでの辛さを思い出して、思い切ってプレーして勝ちたいね! 悔いがない試合をしよう」

高木先生の時代から始まり、高橋先生の時代になっても、景雲中学では生徒と一緒に先生も氷に乗り、練習を懸命にやっていた。だから、たとえ練習が厳しくても生徒はよく付いて来ていた。また強豪高校並といわれる、厳しい陸トレの積み重ねも、土壇場での精神力となっていたのだ。

第3ピリオド、序盤いきなり鳥取中学はカウンターアタックから、ピンボールのような速いパス回しで、見事なゴールを決め、4−3とリードする。追いつめられた景雲中学。しかし、ここから土壇場の精神力が生きた。「あれだけ辛い練習をやっていたのだから、負けるわけがない。全員がそう思っていたんです。だから、3−4と逆転されても『絶対勝つ』と思っていました」(福藤)。

「普通ならバタバタしたプレーが続いて負けてしまうところ。しかしこの学年はこうしたバタバタを乗り越えてきた経験があった。土壇場でも吹っ切れる力があったんです」(高橋先生)。

同様の経験が景雲中学にはあった。全国大会進出がかかった全道準決勝でのことだ。同じ釧路の北中学との対戦となったこの試合では、第1ピリオドを終わって3点差を付けられていた。その時点で、北中学の関係者たちはすでに勝利を確信して全国大会のチケット手配などを始めていたという。しかし景雲中学はそこから盛り返し、最後には逆転勝利に至ったのである。

その後、景雲中学が4-4と同点にしてから、しばらくスコアが動かず。鳥取中学にもチャンスは数回あったが、福藤は持ち前のサイズを生かし、相手のシュートコースを消すいい守りで応戦する。第3ピリオド残り2分を切っても、スコアは4−4のまま。試合は終盤の展開を迎えた。

チャンスを作ったのは、コクドでもチームメートであった佐藤翔だった。スピードを生かし、ゴール前にヒラリと切り込む佐藤の得意のプレーから、オーバーラップしてきた工藤にパスが渡り、見事にゴールが決まった。景雲中学が5−4と勝ち越した。

あとはこの1点を守り切ればいい。試合残り3秒、アイシングで時計が止まった。景雲中学の自陣フェイスオフで試合再開。フェイスオフから相手のシュートが枠を外れる。場内のカウントダウンが歓声に変わってゲームセット。その瞬間、喜びから飛び上がった福藤は、自らベンチのある方向に向いてチームメートを迎え入れた。背番号22の福藤に向かってなだれ込むチームメートたち。あっという間に22番は、チームメートたちに飲み込まれて見えなくなった。

「GKが下敷きになるのは基本形ですから、予想はしていました。痛かったかって? いや、うれしかったですよ。ずっと優勝できなかったから…それも中学最後の年で優勝できたのだから、最高でした」(福藤)。

優勝後は、高橋先生も涙にむせんでいた。氷上で始まった胴上げで、身体が宙に舞った高橋先生だが、ジョーク好きな選手たちの悪ふざけもあって、最後は着地に失敗するという一幕もあった。

「『このやろう、お前ら!』と思いましたけど、選手にとっては『これまで本当にありがとう』という気持ちの裏返しのジョークだったんですよね、きっと」と、高橋先生は当時を懐かしむ。

その後も強豪と言われ続けた景雲中学だが、この1998年の優勝が最初で最後の全国制覇となった。

こうした晴れの場では、主力選手は往々にして胸を張って中央に出て行くものだが、表彰式では福藤はどこか遠慮がちに列の後半に並んでいた。全国大会優勝という栄光は手に入れた。だが中学3年の2月初旬という時期になっても、今後の進路はまだ決まっていなかったのだ。

<<今週の福藤豊>>
 12月24日、AHLマンチェスターからECHLレディングに降格。マンチェスターでは結局2試合にしか出場機会がなかったが、レディング降格後はここまで5試合に出場。今季レディングでの通算成績は、9試合出場6勝2敗1シュートアウト負け、防御率2.87、セーブ率.925と数字をアップさせている。しかも、現在レディングではAHL昇格したりケガ人が出たりで、選手不足が深刻化。厳しいチーム事情の中で、黙々とセーブを重ねる福藤の姿にカール・テイラーコーチはじめ、チームメートからの福藤への信頼が、もはや敬意に変わりつつあるという。
 次のマンチェスター昇格(変更がなければ1月末か2月初旬が予想される)までに、試合出場を稼いで調子を整えておきたいところ。現地1月10日からは、また6日で4試合というハードスケジュールが待っている。

January 10, 2006 09:23 AM