2005年11月29日

日本人初のAHL出場&勝利:

 ついに、福藤豊が歴史を作った。日本人選手としてAHLに史上初の試合出場を果たし、見事勝利を飾ったのだ。

 AHLでのベンチ入りは、すでに2003年ECHLシンシナティー時代に1度経験済み。またAHL公式戦出場は、過去、辻占スティーブン建、桑原ライアン春男といった日系選手によって達成されているが、「日本生まれ、日本育ち」の選手としては、まぎれもなく史上初である。

 11月26日、場所はアウエーチームの本拠地であるマサチューセッツ州スプリングフィールドのマスミューチャルセンター。対戦相手は、NHLタンパベイ・ライトニングのファームであるAHLスプリングフィールド・ファルコンズだ。福藤が所属するAHLマンチェスター・モナークスにとって、ファルコンズは同ディビジョンのライバルチーム。ディビジョン2位を走るモナークスに対し、ファルコンズは4ポイント離れての4位。モナークスとしては、この試合を勝ってライバルチームとの差を広げておきたいところだった。

 背番号はレディングで付けた35番ではなく、これまで付けて来た44番。NHLキングズと同じパープルのジャージをまとい、福藤はついにその舞台に立った。

 この前日の午前中の練習後に、翌日の先発を言い渡された福藤は言う。

 「それまでは、自分なりには一生懸命練習はしていましたし、この日は『やってやる』という気持ちが強かったことは確かです。試合前はかなり緊張しましたが、試合が始まったら緊張なんてもう関係ないですよ」。

 その福藤の言葉通り、緊張の余韻を感じる暇もないまま、試合開始直後から相手ファルコンズのオフェンス陣が福藤を容赦なく襲いかかった。モナークスの全体的な傾向だが、試合前半はスローペースの立ち上がりというパターンがどうも多い。第1ピリオドのモナークスがシュート5本に対し、相手チームが放ったシュート数は実に17本。うち、福藤が失点したのは、味方に当たって跳ね返ったリバウンドを相手に決められた1点のみ。この福藤の好守もあって、第1ピリオドは1−1というスコアでモナークスは切り抜けた。

 序盤からシュートの多い展開は、GKにとっては序盤から忙しいことは確かではあるが、福藤は「たくさんシュートを受けておけば、そこから自分のゲームが作れる」と考える。この日はまさにそんな流れである。「このまま、いきたい」と、福藤は思っていた。

 しかし、第2ピリオドは、モナークスが攻撃を仕掛けたことで逆にオープンな内容に。コンスタンチン・プシュカレフに、前日のトレードでキングズ組織内に戻ってきたヤニック・ラフーが連続得点で、一時はモナークスが3-1とリードした。

 だが、その後ファルコンズも追いすがる。ルースパックとなったリバウンドを相手に決められて3-2、さらにモナークスのペナルティーで相手がアドバンテージから数的優位となったところで、またリバウンドをたたかれて3-3。「リバウンドを出さなければ…」と福藤は、この2失点を少し悔やむ。ただ、味方もよく援護してくれる。その直後にラフーが再びゴールを挙げて4-3と再びリード。その後、福藤は相手のブレイクアウエーを止めるなど、いい守りで味方の援護に応える。

 そうなってくると、第3ピリオドの流れもモナークスが掌握した。その後2点を追加して、6-3で勝利。この日計37セーブを記録した福藤は、試合のサードスターに選ばれた。

 「歴史に名を残したことは、素直にうれしいです。でも、まだシーズンは始まったばかりですからね。とりあえず、ほっとしてはいますけど」。

 ほっとするのも束の間。ライバルGKであるバリー・ブラストは、AHLマンチェスター昇格時には6試合出場、4勝1敗1OT負け、セーブ率.923という堂々たる数字を残しているのだ(福藤はこの1試合で1勝、セーブ率は.925)。

 「ブラストの数字は当然気にしないわけにはいかない。ただ数字だけがすべてでないし、試合の内容にもよりますね。AHLはゴール前の混戦が多いので、特に課題としてきたリバウンドコントロールが大切になってきます。それにチームメートとのコミュニケーションにも注意しています。周りに声を掛けたり、後ろから指示を出して選手を動かしたりというのは、ECHLに送られた時の一番の課題でしたからね。もうひとつの課題、パックハンドリングも、自分としてはよくやっていると思います。あとは、チームとしていい結果が生まれれば…」。

 いかに、与えられた課題をクリアしながら、最終的に数字や勝敗として残して行くか。福藤の進化と模索は続いている。

 余談になるが、NHLエドモントン・オイラーズでは、マイク・モリソンというGKが活躍している。現在26歳のモリソンは、1998年エドモントン全体186位指名。メイン大学卒業後、過去3シーズンはECHLやAHLでプレーしてきたいわばマイナーリーガーだった。

 そして、今季トレーニングキャンプでこのモリソンは、2試合出場で防御率0.48、セーブ率.978と、素晴らしい成績を残すも、すでにオイラーズでは2人のGKがNHL契約で確保されていたので、マイナー行きに。さらにオイラーズは今季AHLでトップファームチームを抱えることができず、他のNHLチームのAHLトップファームに数人ずつ選手を送らねばならないという事情があった。それゆえ、今季はNHL2人、AHL1人、ECHL1人というGKの配置に。ECHL送りとされたのが、このモリソンだったわけだ。

 しかし、神様はこのモリソンを見放さなかった。今季のオイラーズでは、03-04年シーズンに1番手の座に座ったタイ・コンクリンが序盤から絶不調。あまりのひどさに、AHLハミルトン送りで調整を強いられた。そこで、オイラーズ首脳はモリソンに白羽の矢を立てた。それも、モリソンがプレシーズンでオイラーズ首脳を強烈に印象付けることに成功していたからだ。そして、モリソンは11月14日@コロラド戦で念願のNHL初先発。応援に駆けつけた両親と妹が会場で見守る中、31セーブ2失点でNHL初勝利を挙げたのだ。その後モリソンは、NHLここまで4戦全勝と、乗りに乗っている。

 福藤に「ECHLから一足飛びに、NHLに昇格したGKがいる」と告げると、「マイク・モリソンですよね?」とすかさず返してきた。「日本から持参したラップトップが故障中」という福藤ではあるが、こういう情報は漏れなく仕入れている。そうしたチャンスは誰にでもきっと訪れるはず。あとは、そのチャンスをいかにつかむかが、NHL選手とマイナーリーガーの分かれ目でもあるのだ。

November 29, 2005 08:19 AM

2005年11月22日

「GK福藤豊」誕生のエピソード:

 釧路市立美原小学校4年生で、FWからGKに転向した福藤豊。豊の素質を見抜き、その転向を勧めたのは、陸上自衛隊に勤務しながら美原小のコーチを務めていた高橋紀明さんだった。

 高橋さんは、自身も小学校5年生でホッケーを始め、高校時代にケガでいったん辞めたものの、自衛隊入隊後に再びホッケーと出会った。ポジションはGK。自宅が美原小の近くにあったので、他の自衛隊勤務の人に誘われてGKの指導をボランティアとして当たることになった。ホッケー王国カナダでも同様だが、少年ホッケーレベルでは、生徒の父兄などボランティアレベルの指導者たちの尽力がまだまだ必要なのだ。

 現在41歳の高橋さんは、日本リーグで名選手として活躍した鈴木宣夫、矢島敏幸(ともに王子製紙)と同世代にあたる。今では自ら趣味としてホッケーを続けながらも、釧路アイスホッケー連盟役員として、アジアリーグの試合の際にはペナルティー計時やタイムキーパーなどのオフィシャル役も務めている。

 その高橋さんに、小学校当時の豊について話を聞かせてもらった。

 --最初はFWとしてホッケーを始めた福藤選手ですが、GKに転向した当時は「嫌だった」と語っていますね。その転向のいきさつをお聞かせ願えますか?

 高橋さん(以後敬称略):ははは、そうですか。子供時代は、動き回っていた方が楽しいですからね。GKは寒くても動けない時がありますから。まあ、いろいろ指示は出して、ゴール内で身体を動かせるようにはしていましたけど。

 FWとしての豊ですか? 実はちょっと印象が薄くて…(笑い)。リンクの上では口数の少ない子供でしたからね。当時、サッカーですでにGKをやっていたのは知っていました。

 美原小のホッケー同好会は人数が多かったので、GKをもう1人選ぼうという話になったんです。すでに、豊よりひとつ上の学年にGKが1人いたので、その下の学年から選ぼうということになって、豊のことを真っ先に候補に考えました。3年生の時からFWとしてやっていましたが、いろんな素質がありましたからね。スケーティングが基礎的なものがしっかりしていたし、加えてあの身長の高さ。当時からすでに160センチ近くはあったでしょうか。ただ、私ひとりで決めたことではないです。他のコーチとも相談してから決定しました。

 最初はまず試しに防具を付けさせて、シュートを受けさせてみたんです。すると、すごくいい反応をしてくれるじゃないですか。そこで確信したんです。「やっぱり豊しかいないな」と。

 --福藤選手のお母さんによると、GK転向にはいろんな事情から懸念を抱いていたようですが…。
 
 高橋:そうですね。私も事情は知っていたので、強くは勧められなかったのですが、事情は知っていたので、まずはお母さんと話をしました。親御さんの承諾を得ようと、「GKの防具や用具については、心配しないで下さい」と押したんです。

 ホッケー同好会は父母会の方で後援してもらっていましたし、用具はいろんなところから調達しました。自分の使っていたものを使わせたこともありました。なるべく長くやってもらえるように、私なりにできる範囲のことはしたつもりです。そうやって、同好会顧問の先生も含め、GK転向の方向へと持っていったんです。
 
 --当時の練習はどんな感じだったのでしょうか? 福藤選手によると「スケーティングを中心に基礎練習が多かった。かなり厳しくって、泣きながらやったこともあります」ということでしたが?

 高橋:私の言ったことには、子供ながらホントによく付いて来てくれていたと思います。厳しいことをさせたのに、愚痴も言わなかったですし。 確かにスケーティングの練習は、かなりキツかったと思います。GKも他の選手と一緒に、周回遅れでもいいから滑らせていました。小学校の校庭に水を張って作った天然のリンクの外周を、右回りに20周、左周りに20周。遅れた選手はさらにペナルティーで数周…という内容でしたから。さらにGKは、リンクのはじからはじまで、Tプッシュ(GKのゴールネット内での基本スケーティング動作)という練習までありました。もちろん休ませる時にはちゃんと休ませていましたし、私も一緒にこのスケーティングの練習はやりましたよ。かなり太ももに鞭(むち)を打ってやっていました。GKには上下運動が求められるので、下半身の強い選手になって欲しかったんです。

 バタフライセーブの際の、ひざを氷上に付けるスタンスや、シュートを受ける際のゴール前でのポジション確認とかも、かなり時間を割いていました。

 さらに小学生プレーヤーたちは、総体的にシュートを上方向にあげようとする傾向があるので、それに対してキャッチングやブロッカーなどグラブを使った技術を教えたかった。相手がシュートミスしたら低いのが来るのですが、往々にして高いシュートが来るので、そちらの反応への練習を重点的にやっていました。

 低いシュートについては、まずはスティックワークを1番に指導しました。右手を動かすとスティックのポジションが変わってしまうのですが、低い姿勢でもスティックのブレード部分が身体の中心にあることを確認するように、と強調しました。

 私のシュートは、スピードはないのですが、かなり力任せです。防具は付けていたけど、パックが当たった時にはかなり痛かったはずですし、豊はよく我慢して練習に耐えていたと思います。練習のために「ポジションに付きなさい」というと、喜んでシュートを受けていたほどです。なので私も身体が続く限り、必死にやりました。帰宅する頃には、ぐったり疲れていたほどです。

 --GK転向後、5年生で美原小学校の試合に出場するようになった福藤選手のプレーは、いかがでしたか? 現在のプレーを比べてどうですか?

 高橋: 当時から瞬発力があったし、速いシュートにもすぐに慣れていました。5年生の時には、もうすっかり芽が出ていて、年長のGKよりも成長の度合が早かったほどです。豊が5年生の時には、市内大会で上位まで進出し、これに勝てば全道大会進出という場面がありました。相手は、いつも負けている鳥取西小学校でしたが、この試合に勝利して、全道大会に進出したという記憶があります。

 最近豊のプレーを見たのは、NHLのキャンプに行く前の2003−04年。日本リーグでのプレーですが、私が教えていたころの面影は全然ありませんね(笑い)。
 
 --その福藤選手が、2004年にNHLロサンゼルスからドラフトされ、現在は北米でプレーしているわけですが、最初にドラフトされたというニュースを聞いた時には、驚きましたか?

 高橋:私の中では、1番の自慢です。いえ、自分が教えていたとか、GK転向を勧めたというのではなくって、知り合えて良かったという意味で(笑い)。当初は日本リーグに入り、コクドでレギュラーポジションを獲ったこと自体、素晴らしいことだと思っていたのですから。

 その後、豊とは2、3回食事をしたでしょうか。そのころには、逆に私が「ああです、こうです」と言われる立場になっていました。私はまだ趣味でGKを続けているのですが、負け試合の話をしたら「高橋さん、点取られ過ぎですよ」と、指摘されたり…。私にシゴかれたことを、恨んでるんじゃないですか?(笑い)

 とはいえ、すべてにおいて、懐が大きくなったという印象があります。昔を振り返って「あの時はああでしたね」と自分から話してくれるし、近況についてもいろいろ教えてくれる。リンクの上では静かですが、陸に上がった時は元気。小学生当時から親御さんとか、友達とか一緒の時には、活発な子供に変身するような、典型的なホッケーマンでしたし、現在もそのままです。

<今週の福藤豊>
 11月12日の試合後、ECHLレディングのカール・テイラーコーチから「明日、AHLマンチェスター・モナークスに行くように」と告げられた福藤。以前レポートした通り、AHL昇格は前々から言い渡されていただけに、心の準備はすでに整っていたという。13日にフィラデルフィア空港まで陸路で移動し、夕方マンチェスターに飛行機で移動。現在はアリーナ近くのホテルにひとり住まいだ。

 翌14日には、合流後初練習を実施。11月18日からの3連戦で出場が期待されたが、モナークス首脳陣は「もう少しAHLのプレーに慣れてから」と、出場を見送った。「AHLでの練習の方がテンポがかなり違うし、選手自体のスピードも速いんです。シュートの質も違いますしね。ただあと何回も練習すれば慣れるとは思います」。モナークスは11月23日からの7日で5試合とハードスケジュールを抱えており、ここで福藤の出番が期待される。AHLでの試合出場となれば、日本生まれ、日本育ちの選手としては史上初となる。

November 22, 2005 06:20 AM

2005年11月15日

「ホッケーやりたい」と直訴:

福藤豊が生まれ、中学まで過ごした釧路市には「昭和スポーツ幼稚園」というのがある。

かつて十條製紙(現・日本製紙)監督、日本アイスホッケー連盟理事を務めた矢口正光氏が、自らの資金を投じて設立し、園長を務めるこの幼稚園では、スケートと柔道と水泳を柱に、身体を動かすことを基本に教育を行っている。

ここでは、年長組の園児の授業に、「アイスホッケーごっこ」を取り入れているそうだ。ルールにこだわらずにパックをとにかくゴールに入れるという動きの中で、参加する園児全員の運動能力を上げることを目標に置いている。

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豊の幼少時代、福藤家は釧路市の市営住宅の4階に住まいを構えていた。その市営住宅の同じ棟の1階に、この昭和スポーツ幼稚園に通っている子供がいた。

母・エミさんは当時を回想する。

「その子はもう幼稚園時代からホッケーをやっていたんです。私はその頃、ホッケーのことなんて全然分からなかったし、豊にやらせようという気もありませんでした。

でも小学3年(釧路市立・美原小学校、1992年)の頃、豊が自分から『お母さん、ホッケーやりたい』と言い出したんです。『ホッケーって何?』と私は聞き返しました。すると豊は言いました。『(1階に住む)トモくんがやってるやつ』。

私はとっさに『無理よ』と言いました。豊はすでにサッカーもやっていたし、ウチはその頃経済的にも楽ではなかったのです」

当時、豊の父・政吉さんは、夏は釧路、冬は出稼ぎしていたという。エミさんは、「お母さんはホッケーのことはよく分からないから、お父さんに電話をかけて相談してごらん」と、豊を諭した。以来、豊は毎日のように、政吉さんに電話をかけはじめた。

エミさんは続ける。

「よっぽどあの子は、ホッケーがやりたかったんでしょうね。しまいに、お父さんが私に電話をかけてきて『一体どうなっているんだ』と尋ねてきました。私は『ウチでは無理ですよ』と言いつつ、一度練習を見学に行ったんです」

練習を母と見学に行った後、豊の「ホッケーやりたい」熱は、さらにエスカレートした。「ねえ、ホッケーやりたい」と絶えず言い続け、エミさんを悩ませたのだ。そして色よい返事がもらえるまで、埼玉で仕事をしている政吉さんに懲りずに毎日、電話を鳴らし続けたという。

「お父さんには、『ホッケーはすごくお金がかかるらしいですよ。防具とか買ってやれないし」とこぼしていたんです。ただ豊は、「ホッケーやりたい」と口にしても、「アレが欲しい」「コレ買って」とは一切言いませんでした。そうもしているうちに、チームの関係者の方が『いや、小学校では防具は貸し出しますよ』と言ってくださった。そしてついにホッケーを始めることになったのです」

小学校3年生で始めたホッケー。しかし当時のポジションは、現在とは異なりFWだった。「攻めるのは好きだったし、FWがやれて楽しかった」と豊は振り返る。

だが、転機は早くも小学校4年生時に訪れる。牛乳やにぼしなどをスナック菓子代わりに食べてスクスク育った豊は、長身の人にまれに見られるという、通常よりも脊椎の骨が1個多いという「人類学的進化」も手伝い、当時の身長はすでに160センチにも達していた。この身長と、身体の柔軟性、瞬発力の良さに目を付けた美原小学校のPTA関係者で、GKの指導に当たっていた高橋紀明さんが、豊にGKへの転向を勧めたのだ。

当時の豊の瞬発力の良さについては、こんな実話がある。小学5年の時、インラインスケートで道路を滑っていた豊は、十字路で急発車してきた車に跳ねられたことがあった。だが、驚くほどの瞬発力の良さが、彼の身を守った。

「その時、僕は余裕でボンネットに手をついて、気がついたらちゃんと着地していました。大きなケガはなく、ひざをすりむいただけで済んだんですよ」と、いたずらっぽい瞳で豊は笑う。

だが、「GKという仕事の面白さを楽しんでいる」という現在の豊も、GK転向当初は「嫌だった」と明かしている。

「『1回試しにやってみろ』と言われて試したけど、一度倒れたらなかなか立てなかった。『やりたくない』と言ったんだけど、誰もやりたがらなかったから、結局僕がキーパーに収まったんです。自信がついたのは、試合に出てシュートをとれるようになってからでしょうか。それまでは嫌でした。子供の頃って、点を取られると全部キーパーのせいだったんです。今みたいにフォワードやディフェンスの責任が問われていなかったから。でも指導者の方が熱心だったおかげで、徐々に自分が納得できるプレーができるようになってきた。そうしてやっと、他のポジションと違う楽しみが見えてきたんです」

エミさんは、その時の豊の言い分を克明に再現してくれた。

「今度は、チームにキーパーがいないということで『お母さん、僕キーパーやるから』と言い出した。『キーパーって何よ?』と聞いたんですが、『ま、いいから、いいから』と豊にうまく乗せられてしまいました。サッカーですでにキーパーをやっていたことは知っていたのですが・・・それにキーパー用のスティックは、安いものでも7000~8000円するんです。『こんなの買ってやれないよ』と豊に言うと、『誰かからもらうからいいよ』とあの子は言う。そんなに簡単にキーパー用のスティックなど貰えるわけがないと思っていたら、豊をキーパーに推薦した方がどこかから貰ってきてくださったんです。実際には、それは折れたスティックだったようですが、豊は『これ、テープで巻けば、使えるみたいだよ』と、すごく得意げでした」

そして、小学4年からは、小学校のホッケー同好会だけでなく、釧路市内のクラブチームである大進ジュニアにも所属。ほぼ毎日、GKとしてホッケーの練習に豊は明け暮れることになった。

GK転向後の豊について、当時の美原小学校でホッケー同好会顧問を務めていた木村之啓(ゆきひろ)先生(現・釧路市立・新川小学校勤務)は、こう述懐する。

「福藤は5年生の時からすでに、チームの正キーパーでした。長身で、走るのが速いというイメージが、彼にはありました。GKの重い防具を着けていても、同年代の子供たちと同じくらいのスピードで滑っていましたからね。

当時は、釧路町の自衛隊に勤務されながらホッケーをされていた高橋さんがGKを指導してくれていましたが、その高橋さんが放つ全力シュートを、豊は問題なくバンバン受けていました。氷から離れると、ごくごく普通の小学生でしたが、ホッケーがとにかく大好きという子供でした。ホッケーのことになると途端に目を輝かせる子でしたね

彼が5年生の時の美原小学校は、結構強かったんですよ。全道大会出場までは行ったはずです。しかし4年、6年の頃は、なかなか勝てずにいつも苦しい試合が続いていました」

息子の負け試合を何度も目撃したエミさん。GKの母として、さぞかし辛い思いをしたのではなかろうか。

「PS戦(シュートアウト)になったりした時には、まともに試合を見られずにアリーナを飛び出してしまったこともありますよ…。負け試合の後、豊はよく泣いていました。コーチの方たちは『まだ泣くだけ、豊くんは見込みがある』とは言ってくださってはいましたが、お父さんは『泣くくらいなら、辞めなさい』とも言っていました。

でもね、あの子はああ見えて、出しゃばりじゃないけど、実は目立ちたがり屋のところがあるんです。最初はGKが嫌だったかも知れないけど、結構好きなんですよ、そういうのが。そのうちGKをやってるうちに、面白みが出て来たんでしょうね。絶対サボらないんです。本当に一生懸命練習をやっていましたからね」

<今週の福藤豊>

ここまで、ECHL4試合に出場、2勝1敗1シュートアウト負け、防御率3.20、セーブ率.907という数字。11月12日にECHLレディング・ロイヤルズのチームスタッフから、AHLマンチェスター昇格を言い渡された。
当初の予定では、先にマンチェスターでプレーしていたバリー・ブラストが、福藤と入れ替わりにECHLレディング降格となるはずだったが、NHLロサンゼルスのGKジェイソン・ラバーベラが「個人的理由」のため、いったん戦列を離れることが判明。よってここまでAHLマンチェスターで8試合に出場していたアダム・ハウザーがNHLロサンゼルスに昇格したため、現在のAHLマンチェスターには福藤とブラストの2人のGKが、当面は一騎打ちのポジション争いを演じることになる模様だ。

※写真は幼稚園時代の福藤

November 15, 2005 08:40 AM

2005年11月08日

誕生から幼少期:

福藤豊は1982年9月17日、釧路市内で誕生した。

父・政吉さん(2003年7月に他界。享年67歳)は、北海道の虻田町出身、母・エミさん(58歳)は函館の出身だったが、釧路市内の職場で知り合い、結婚。その後、長男(博さん:38歳)、二男(政幸さん:31歳)に恵まれた。エミさんが博さんを出産したのは19歳の時だったが、その後三男となる豊を出産したのが35歳。父・政吉さんは当時46歳であった。

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「豊本人はどう思っていたかは知らないですけど、両親は豊には甘かったと思いますよ。歳が行ってからの末っ子ですからね」と、政幸さんは、当時を振り返る。博さんにとっては、豊は15歳も離れた弟。「一緒に外出すると、よく僕と豊は親子と間違われました。豊が2歳の時に、僕が仕事に出ようとすると泣かれたこともありますし・・・」と、博さんは苦笑する。

母・エミさんは、さしずめ肝っ玉かあさんという風采(ふうさい)だ。ふくよかな外見に、元気で明るく響く声で笑いながら、豊の父・政吉さんの思い出をこう語る。

「いつも一生懸命で、真面目一本やりの人でした。豊には、ちょっとホッケーがうまくなったからって鼻高くなるな、あいさつはしっかりしろ、人間そうなったら終わりだと、いつもうるさく言い聞かせていました。私が教えないことを全部教えていたはずです。子煩悩な人でしたが、そういう厳しさがありました。ですから『子供たちがグレたらお前のせいだ』と、私はいつも言われていました。私にとっては、お父さんよりいい人はいないと思えるくらいです。生活は楽ではありませんでしたが、子供達には苦労はさせないことをいつも考えていました」

35歳での出産には、豊の運命の強さを象徴するような出来事が秘められていた。

エミさんは続ける。

「豊の前にも1人男の子を授かっていたのですが、10カ月で死産していまいました。お医者さんの話によると、へその緒がぐるぐるに絡まっていたそうで、もし命があって生まれてきたとしても苦労する子だった。でも豊は、ちゃんと生まれて来てくれたから、よっぽど生まれて来たかったんでしょうね。おそらくその亡くなった子の分まで、命をもらっていたんだと思います」

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とはいえ、豊の誕生時にはかなりの苦労があったそうだ。出産前の安定した時期に、体調も良かったことから仕事を続けていたエミさんだったが、ある日、自宅に戻った際に急に具合が悪くなり、立てなくなった。そして誰の手を借りるわけでもなく、自らの手で赤子を取り上げることになったという。

「それから自分でハサミでへその緒を切り、バスタオルにくるんで慌てて病院に行ったんです。看護婦さんには『こんな風に生まれて、この子はよく生きていましたね』と言われました。体重は2040グラムしかなかったですし、見た目は骨と皮という感じでした。『この子はちゃんと生き延びられるかどうか・・・』とお医者さまに言われていたんです。2週間保育器に入って退院した後も、ミルクが全然飲めなかったんです。お父さんと2人で「この子はもうダメかも知れないね」と話していたほどです。なのにその後はぐんぐん成長して・・・ホントに運が強い子だと思います」

豊という名前は、政吉さんが命名した。最初は父が勤務していた会社の社長さんが名前を付けてくれたそうだが、あまりにも古めかしい名前だったので、その後政吉さんが辞書と首っ引きになって調べ、たどり着いたのがこの名前だったという。

「幼稚園のころから豊はどんどん丈夫になって、すでに他の子供たちよりも頭ひとつ大きかったんです。ちょっと大人びた子供だったので、幼稚園の先生は、園内のおゆうぎとか劇とかで、豊に合う役がなくって困っていたそうです。お地蔵さん役をやるにしたって、フォークダンスをやるにしても、どうも目立ちすぎてしまって・・・でも親の口から言うのもなんですが、何をやっても本当に可愛かった。ですから、まさかこんなホッケーをやる子になるとは、思っていなかったんです」

<<今週の福藤豊>>

ここまでECHLレディング・ロイヤルズで、3試合に出場。1勝1分1シュートアウト負け。防御率2.93、セーブ率.922という数字を残している。ここまで3試合は、どうも味方の守りが甘いのか、過去2試合で圧倒的に相手よりもシュート数で上回られる展開のロイヤルズだが、福藤は自らの好守でチームの再三のピンチを救っており、現地での評判も上々だ。

福藤 「こっちのロードでのバス移動は大変ですよ。グリーンヴィルまで8時間、その後デイトンまで8時間、そして今朝、また8時間かけてトリドからレディングまで戻ってきました。トリドのリンクはすごかったです。通常の規格より全然狭くって、ゴール裏などはやっと1人通れるくらいのスペースしかないんですから・・・。僕自身の調子はいいですよ。結果はこれから付いてくると思います。あ、ヘアスタイルはまた、坊主頭にしました」

※写真は幼少期の福藤豊

November 8, 2005 08:23 AM

2005年11月01日

釧路での中学時代 その2:

 福藤豊の、今年の夏は短かった。

 NHLロサンゼルス・キングズとの契約を8月9日に済ませ、12日に帰国。15日からはコクドの練習に合流しながらも、練習の合間を縫ってのメディアのインタビューへの対応が続いた。実に40社以上からの問い合わせが殺到したが、福藤は1社ごと真しに対応していた。

 8月25日に西東京市・東伏見アイスアリーナでの「福藤豊感謝祭」に出席後、やっと釧路にがい旋帰郷。とはいえ、9月1日にはもう練習に復帰するため東京に戻っていたのだから、まさに束の間の休息であった。釧路では、中学校時代の同窓会にもTVカメラが取材に入るという、異例の事態もあったそうだ。

 その同窓会の模様も含め、福藤が通った釧路・景雲中学で、1年生から3年生までを通してずっと福藤の担任を務めていた浦辺弘之先生に、話を聞いた。また、浦辺先生が現在勤務する鳥取西中学には、かつて福藤が景雲中学1年生当時にアイスホッケー部顧問を務めた高木典男先生も在籍しており、インタビューに同席してもらった。

 --まずは、景雲中学での福藤との最初の出会いについて、お話いただけますか?

 浦辺先生(以下敬称略) 中学の入学式で一番最初に怒られたのは、実は福藤だったんです。最初から彼のことは、職員室で話題になっていたんです。『美原小からホッケーをやりに来た子がいる』とね。その福藤が、入学式に後ろ髪だけ伸ばしたヘアスタイル(筆者注:「マレット」と呼ばれ、ウエイン・グレツキーやマリオ・ルミューといったNHLのスター選手の多くが、昔はこの髪型だった)で出席していたんです。中学のホッケー部はみんな丸刈りと相場が決まっていたんですが…(苦笑)。

 福藤は、背も高いし目立つ子でした。入学式を終えて、クラスの教室に入ってくる時は、身長の高い順に並んで入って来ていたので、そこで福藤に声を掛けたんです。

  「お前か、美原からホッケーやりに来たのは?」
 すると福藤は、「ああ」と答えた。
  「いや、ああじゃなくってなあ、もう中学生なんだし、先生も大人なんだから、ちゃんと“はい”って言わないと。分かるか?」と返すと、福藤はまた、「ああ」。
 その瞬間、私はプチっときて、「おまえ、誰に口きいてんだ?!」と怒ったのが、最初の出会いだったんです。

 その一件は、ちょうど1年4組の教室に入るところで起きたのですが、その場面は見事に入学式で撮影されたビデオに映っていました(笑い)。それを同窓会の時に福藤に話したら、よく覚えていましたよ。

 いわゆるその年端にありがちな、「トッポイ」生徒でした。当時は、背も高いしホッケーでも目立っていたから、そう振る舞いたい気持ちもあったんでしょうね。でも彼はすぐに態度を改めました。

 というのも、当時からホッケー部の高木先生は、「生活態度がちゃんとしていない生徒には、部活をやらせない」という姿勢を貫いていたんです。当たり前のことかも知れませんが、勉強もちゃんとやった上でホッケーができるんだ。送り迎えや、防具やリンク代など、金銭面で親御さんの負担も大きいのだから、感謝しなければいけないんだと。そう先輩の選手たちが、高木先生に教育されていたので、新入生たちもすぐその水に馴染むわけです。じきに福藤にも、その「トッポイ」雰囲気はなくなり、頭は坊主になっていました。「福藤!」と呼びかけると、「はい!」とすかさず返事をするようになっていましたしね。

 高木先生(以下敬称略) 浦辺先生は、体格がよくて柔道の心得もあるから、おっかないですよ。生徒はみんな怖がってましたからね(笑い)。

 浦辺 福藤は、私に「顔を上げろ」と言われるのが、一番おっかなかったと言っていました。何か悪いことをして怒られてる時に、下を向いているのはダメだ。ちゃんと顔を上げて、話をしている人の目を見なさい、という意味だったのですけどね。

 高木 私は、彼が中学校1年生の時に、初めてプレーを見ました。彼と同学年にGKが3人いましたが、入学当時から「この子がレギュラーになるだろう」という感触はあったし、「将来的に日本リーグでもやれるかも」という素質も見えてはいました。その体格の良さというか、手足の長さは当時からかなり目立っていました。

 中学1年生という年代は、誰もまだちゃんとした筋力がついていない時期で、福藤もそれは同じでした。ただ、筋力さえついてきたら、中学後半から高校にかけて、どんどんいいプレーができるようになるだろうと予想がついていました。ただ、景雲中学ではかなり練習が厳しかったので、中学1年生のうちは、陸トレについていくのが大変だったかも知れませんね。

 --福藤の中学校時代の素顔というのは、どんな感じだったのでしょうか?

 浦辺 活発で、身長があって、スポーツができて、おどおどしないし…みんなから慕われていましたよ。

 といっても、福藤だけが目立っていたクラスではありませんでした。もちろん彼よりも明るくはしゃぐ生徒もいたし…だからこそ、彼が同窓会で戻ってきても、みんなと違和感なく、また馴染めるのかも知れません。かつてのクラスメートたちは、同窓会にTVカメラが入ったことで、ちょっとソワソワしていたようでしたが…「豊が帰ってきたんだ」「頑張ってるらしいね」くらいに受け止めていたと思います。

 女子からの人気ですか?  意地悪しないし、ホッケーをバリバリにやっていた生徒だったから、かなりモテたんじゃないですか? バレンタインデーにはチョコレートをかなりもらっていたと思います。

 中学校時代は、もっと照れ屋でモジモジする場面もありましたが、今ではメディアとの対応にも慣れて、随分と大人っぽくなりましたね。TVに出まくってるのを見て、あいつも成長したなと思います。

 高木 中学時代からひょうひょうとしていましたよ。キーパーは失点したら普通は動揺するものですが、彼は淡々とプレーできる子供でした。とにかく物事に動じないんです。あまり彼が怒ったところを見たところもないですし、ふてくされることはありませんでしたね。

 福藤が中学3年時の、全道大会での話です。全道大会では準決勝で負けてしまうと、当時は全国大会に行けなかったんです。つまり全道大会では、決勝まで進出するのがひとつの目標でもあったのですが、その年の準決勝で当たったチームには、2点ビハインドと苦しい戦いを強いられました。

 序盤リードされたので「豊はこのまま崩れるのかな?」と思って見ていたのですが、崩れたのは相手のGKが先でした。景雲中学が1点取り返した時に、相手GKがスティックをたたきつけて悔しがっていたんです。結局この試合は、景雲中学が逆転勝利し、その後はこの年の全国大会を制することになったのです。

 --そして今年の夏は、中学時代の同窓会が開催されることになったのですが、そのときのいきさつを教えていただけますか?

 浦辺 昔の生徒から「豊が釧路に帰って来るので、みんなで会いませんか」という電話をもらいました。豊と中学時代、仲が良かった生徒が現在働いている店を貸し切って、クラス35人のうち、20人近くが集まりました。

 豊とは、ラーメン屋でばったり会ったことなどもありましたが、じっくり話をしたのは卒業以来初めてでした。顔はその当時のままなのですが、自分の将来についての考えが明確にできていて、大人らしく成長したという印象を受けました。

 この同窓会の最後に、豊がみんなに向けて語ったひと言には、すごく感動したんですよ。

 「オレには、こういう風に帰ってこられる場所がある。それには本当に感謝しているんだ。みんなにこうして会えて、だから頑張れる。それが、自分の力になって、やっていけるんだ」とね。

 かつての同級生たちも、みんな感動してました。ヤツも大人になったなあと。中学校時代は、活動的ではあるけど、クラス全体に訴えかけるような発言をするタイプではありませんでしたし。地元を離れて高校に行って、実業団に入って、いろいろな経験を積んだ結晶が、この成長にあるんだなあと実感しました。会えて本当にうれしかったです。

 ただ、恥ずかしくて、サインは書いてもらえませんでした。中学校の時には、さんざん彼に厳しく接していたので、いまさら「おい、サインをくれよ」とは言えないですからね(笑い)。

 --高木先生の元にも、福藤が先生のご自宅に遊びに来たり、中学の練習に参加しに来たりなんて場面があったようですね。

 高木 はい。2004年の夏には、コクドの研修で釧路に戻ってきていました。その時には、内山(内山朋彦、同じく景雲中学出身で、コクド所属)と一緒に、鳥取西中の練習にも参加してくれたんです。

 ウチの中学生たちは、喜んでいましたよ。最初に「景雲時代の教え子で…」と紹介すると、目を輝かせて彼らの動きを追っている。だから彼らも練習で気が抜けない(笑い)。ウチの選手たちと、スライディング練習まで一緒にやってくれました。「おまえらはそこまでやらなくっていいんだよ」と声はかけましたが、一緒に雪まみれになってやってくれたんです。

 その直後に、豊がNHLにドラフトされることになって、本当にびっくりしました。実は、豊から「僕はドラフトされるかも知れないんです」と打ち明けられてはいましたが、その1週間後にそれが現実化して「東京に戻ることになりました」と言われたのですから。

 私自身、NHLが大好きで、向こうの試合はよく見るので、NHLの事情はよく知っています。豊には悪いけど、正直、今年は厳しいシーズンになるだろうなと思っていました。でも今後経験を積んでいけば、きっと上に届くと思いますよ。

 --現在は北米に渡って頑張っている福藤ですが、現在はどう応援されているのですか?

 浦辺 「高木先生が、新聞やTV、インターネットなどで状況を逐一チェックしてくれるので、私はもっぱらその情報を頼りにしています。

 私自身は柔道をやっていたのですが、叔父(浦辺秀夫氏:日本リーグでベスト6に選ばれたこともある往年の名選手)が、王子製紙でホッケーをやっていたこともあり、自分でちょくちょくプレーをしています。現在は教員同士のチームでプレーしているのですが、福藤がキングズでプレーするようになって背番号を貰ったら、同じ背番号でプレーしたいと思っています。

 現在はもちろん44番(高校時代からコクド、ECHLベイカーズフィールドで付けた背番号)を着けています。ただ私の所属するチームのジャージがNHLバンクーバー仕様なので、44番を着けていると「あ、トッド・バーツージ!(筆者注:NHLトップレベルのスコアラーとして知られるが、2004年3月に、相手選手に対するラフプレーで長期出場停止処分を受けた)」と指を差されるのが難点です(苦笑)。

 高木 浦辺先生とは「福藤がキングズに昇格したら、ぜったい現地に見に行こう」と話をしているんですよ。

 浦辺 かつての生徒たちの試合を見に行くと、「あ、先生が見に来てくれた」と、みんな必ずうれしそうな顔をするんです。そうやってみんな純粋に喜んでくれるのがうれしいんです。

November 1, 2005 08:40 AM