記者コラム「見た 聞いた 思った」

2005年08月15日

「内輪感」の心地悪さ:永井孝昌

 「チャンスよォォ」だの「打てェェ」だの「前に、前にィィ」だの。

 「現役女子高生がァァ」だの「絶対に負けられません」とあおっていたかと思えば試合後には「まだ次があります」だの「次こそ負けられません」だの。

 何の騒ぎですか。

 先の東アジア選手権、男女の試合とも久々にテレビで観戦したが、正直に言って試合に集中するどころではなかった。「代表の試合はテレビで見るもんじゃない」。そう思っていた理由が、何となく分かった気がする。

 サッカー中継を見ていて味わう心地悪さ。その元凶はきっと「内輪感」にある。興奮するのは当たり前。応援するのがコンセンサス。ちょっと油断すると「テレビの前の皆さんも力を貸してください」と呼びかけられちゃうトンチン感。「応援しなきゃ非国民」的な、乱暴な前提のもとに放送が進んでいくから、静かに試合を見たいと思うと疎外感すら覚える。

 注目度が低い大会だと、その色はさらに顕著になる。冒頭でちゃかすように書いたのは申し訳ないが、例えば完全に内輪になりきってしまっている解説だったり「内側」の視聴者を逃がすまいと必要以上に危機感をあおる実況だったり。日本代表戦の中継が時に40%、50%も視聴率を稼ぐ優良コンテンツに育ったことは、同時に20%では満足できないという焦りを生んでいるのかもしれない。それが無意味なテンションの高さにつながっているのなら、この国のサッカー文化のもろさ、根の浅さを痛感せざるを得ない。

 元選手の解説のつたなさや、サッカー好きを自任するアナウンサーやタレントの増長っぷりも内輪感に拍車をかける。例えば語尾にね、いちいちね、ねがね、ついてね、内容よりも口調に気が散ってしまうような解説。海外サッカーの鮮やかなゴールシーンに「エッキシャイティン、ゴゥッ!」と叫んでしまうアナウンス。選手経験を踏まえた的確な解説や、冷静かつ巧みに試合を伝える実況も少なからず存在するだけに、そうしたある意味の未熟さ、計算された自己陶酔の演出が一方で放置され続けている現実が「何興奮してんだかよく分かんねえや」という内輪感を助長している気がして仕方ない。

 この10年で、日本サッカーは急激に成長した。ファンの目も肥え、日本代表の試合なら何でも見たいという一時期のブームは取捨選択の時代へと移行しつつある。だからこそ今、サッカー界全体がさらに成熟するために伝える側が要求されているのは、サッカーをサッカー好きのためだけのものにしない内輪感、排他性の打破なのではないか。

 「後半も見逃せません」と連呼してCMに突入し、選手にやたらとニックネームをつけるバラエティー的手法で試合をショーアップすることも、時には必要なのかもしれない。だがその手法も度が過ぎれば内輪感を加速させるばかり。力ずくで盛り上げようとするえげつなさは、内輪のファンすら興ざめさせる。主役となるべきは選手であり、試合そのもの。「ゴ~~ル」と叫ぶアナウンサーの肺活量ではない。

August 15, 2005 11:01 AM