2008年04月23日
日本人の名前は無限?
「「イチローさん」続きですよ」から続く。
■ 名前に関連した社会には、二つの類型があって、それは、「閉鎖的社会」と「開放的社会」だと私は述べてみた。「閉鎖的社会」とは、名前に発展性がなく、繰り返しストックから選ばれて使われる社会。中国の姓に、2字の例外があるものの大方が一字ずつ漢字を使うという(名は1字もしくは2字)強い制限がある点に注目して、あえて私は「閉鎖的社会」の分類に中国を入れてみた。
■ 他方、日本社会に見る名前の「開放的社会」とは何なのか。これは、名前の種類や数も極めて多く、家族の中に、次々と新しい個人名が創作され、名前の流行が激しい社会だ。使われる字体からして、漢字・平仮名・カタカナと多彩で、英語読みで漢字を当てることも自在。
■ この社会では、名前はその個人特有のものであって、高い個人的機能を有する。名前の基本的特性は、創造される点にある。ちょっと大げさに言ってしまえば、私は、明治以降、近代日本が発展してきたのは、日本政府が「開放的社会」を発展させる政策をとってきたからだ、とさえ考えている。
■ これは、どういうことか。明治期まで日本人は苗字をもつことが制限されていたけど、明治維新によってすっかり変わってしまったのだ。明治政府の名前政策は、「名前の単純化」「命名の自由確立」「一人一名主義」「原則改名禁止」といったものに要約できる。

■ こうした名前に関する近代化政策は、名前の個人的機能の向上を基本原理として、徴兵・徴税・教育の円滑化をめざしたと言える。このようにして日本では名前が極端に増殖していったわけだ。今現在、日本に存在する苗字は、推定14万といわれる。名前は、次々に新しいものが創作され、その数は無限大となりえる。∞なのだ! このように、社会・政治の変化は、新しい仕事を生み出し、それは新しいアイデンティティと名前を人々に与えたとも言える。
(写真:私が14歳の時に作ったヘタクソな「篆刻」。蔵書の裏にペタペタ押したものだ)
■ 日本のような「開放的社会」では、名前は強く人格の象徴となり、「閉鎖的社会」の中国よりも、名前に重きが置かれる。まるで名前をデザインする感覚と言えばよいか。こうすることである程度満足感が得られているのか、英語名まで届かず日本名で満足できているようだ。
■ むしろ中国では、文化や風習で固定されていた名前への反発というか、ある種の閉塞感があって、英語という新しい「名前文化」を吸収することで、精神的開放感を味わえるのかも知れない。むろん、中国、とりわけ香港が持つ歴史的成り立ち理由、つまり植民地として宗主国英国の言語に支配されて、中国人の名前に「遺物」として残っているという解釈もあり得る。姓も名も漢字一字というのは、なんとも重く、英語名のハーモニーを帯びた軽い響きに憧れを抱くのはうなずける。
■ 精神的開放感や歴史的抵抗感のなさが、中国人をして、あまりこだわりなく英語名を使える理由の一つであるかも知れない。ただだからと言って、外国名を自分に溶け込ませる抵抗感のなさにオンブし、彼らに「谷口さん」「片岡さん」と自称させて良しとするには、人格をないがしろにして泣きを見る危険は拭えないだろう。
April 23, 2008 08:49 PM
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コメント
なるほど!非常に参考になりました!
英語圏で中国人が自分のことをジョンだのチャーリーだのと呼ばせて喜んでいるのとはワケが違うのですね、文化って深いんですね。
この一連の記事で、やれウチの知り合いの中国人はニコールで、とか、いやうちはアンドリューじゃけん、とか、いやいやウチの知り合いはトーマスだきゃあ、とか小学生がいちいちいちいち報告するみたいに書きこんでいらっしゃる几帳面な方々も、本記事を読んで文化というものの持つ深さそして異文化の相互理解の持つ危険性を認識していただけると、私としてもこの上なく幸いである。
投稿者 夫名無しですが : 2008年04月24日 05:52
ネイティブアメリカンなどでもそうらしいのですが、昔の日本において元服前と元服後で名前が変わるのは、生命力の弱い元服前は仮の名前を付けておき、敵対的存在からの霊的な攻撃を避ける意味合いがあったそうですね。
名前を使った呪詛を受けても本当の名前じゃないから大丈夫、と言う訳です。
これは名前そのものに人間を存在させる力が含まれているという考え方で、言霊信仰の一環ですね。
対して、中国の場合、名前と言うものはもっとシステマチックな物であったように思います。主たる目的は”登録”で、社会におけるIDナンバーのようなものなんじゃないかと思いますね。ただ長じるにつれて、その人の性格、実績を表すようなあだなは頻繁に付けられていたようです。
日本人の場合、最初から名前にすばらしい人間になるように願いが込められているのに対し、中国人はその人間がすばらしい功績を上げると、もともとの単なるIDコードが新たなアイコンになる、という構造の違いがあるのではないでしょうか。孔明といえば神算鬼謀の智者を思い浮かべますが、もともとの孔明という名前そのものにあまり意味は無いように思います。
そういった構造の違いを思うと、現世の国際社会においてはややこしい問題も出てくるでしょうね。やはりある国の人間がある国の名前を名乗るケースは一方通行である場合が殆どであるのに現れているように思います。そこには命名文化を通して国際間の、歴史、力関係が反映されるからです。
世界的常識にのっとり、どこの国の人間がどこの国の名前を名乗ってもそれはぜんぜん不自然なことではない、と言うなら話は別ですが。
中華系マレーシア人も特に若い連中は米国風な名前を持っています。仕事で一緒になった男性に一度、なんでなの?と聞いてみた所、ビジネスで通りがいいからと親がつけたそうです。英語をしゃべるのが我々の強みの一つなので、名前もそのようにしているとのことです。
この割り切ったビジネスオリエンテッドな考え方に華僑のしぶとさを見た思いがしました。
以上、久しぶりでしたのでつい長文になりました。
すんません。
投稿者 ジロー : 2008年04月24日 11:54
>人格をないがしろにして泣きを見る
少なくとも農家の例において「人格をないがしろにしている」とは言い切れないように思います。
「人格をないがしろにしたと訴えられて泣きを見る」じゃないでしょうかねー。
・・・・・・・
ベビーコメ
ご愛読ありがとうございます。
「訴えられる」という例もありますが、
ほかに、いろいろなやり方でやり返されかねないという意味です。
2008-4-24 22:30
投稿者 うし : 2008年04月24日 12:39
中国がいくら経済成長したとしてもまだまだ地方や農村部まで上海のお金持ちと同じ生活までたどり着くののはあと千年かかりる。共産国での超格差社会、昔であればすでに一揆だが、今は中国人も外国へ出稼ぎにいける時代、コネはないが才能がある人はどんどん外国に行ってる。だから出稼ぎができるなら名前ぐらいはなんともないはずである、中国国内の一ヶ月一万円の生活に比べれば、日本名でも英語名でもどうぞ。
投稿者 kobe : 2008年04月24日 13:13
確かに海外(西洋文化圏)で生活されている中国人の方々はマイク(Mike)などの英語名(ニックネーム)を併用されております。 しかし、これはあくまでも名に対してのものであり、姓に対してのものではありません。 今回の川上村でも姓にあたる片岡、佐藤ではなく楊光さんにはヒカルさん、王さんには名から一文字拝借しリュウもしくはタツさんとすべきだったと思います。 彼等が将来日本人と接する機会があったときも私の日本名はヒカルですと言えば、それだけでお互いの距離が少しは近くなるのではないでしょうか。
投稿者 昔アメリカ今ロンドン : 2008年04月24日 19:17
米国で活躍している友人が数人います。
本名はマサキ。現地では Max。
ソウイチ君はScott、サトシ君はSteveです。
やはりアメリカで仕事をする場合、相手に名前を覚えてもらわないと
うまく行かないらしいです。
それなりの理由があり、成功のための知恵であると思います。
投稿者 アムロ : 2008年04月25日 10:00
姓はともかく、名が1文字というのは何時の時代のことでしょう?それこそ三国志の時代のことですよね。
もうちょっと、正確に。
投稿者 ichiro : 2008年04月25日 17:12
今日は台湾の取引先の副社長(女性、社長はだんなさん)と電話で商売の話をしました。彼女はジュディです。娘も同じ会社で働いています。キャシーです。分りやすくて良いです。
韓国の別の取引先の担当者ジェームスからも電話がありました。姓はパクですが、同じ会社にパクさんがやまほどいて、実務上はジェームスが便利です。
私はエディです。これから、アジア人も欧米人も分りやすいファーストネームで呼び合うのが、当たり前になるかもしれません。どなたか、コメントされていましたが、中国の四声を踏まえて、正確に相手の名前で呼ぶのはほとんど困難です。
社主は、韓国で自己紹介するのに、日本人でもパクです・・・とか言えますか?とコメントされました。それで人間関係がうまくいくなら、やぶさかではありません。
でも、中国の若者が、日本のキャベツレタス農場に来て、「私は片岡です」と言うのはちょっと勘弁して、って言いたい。せめて、「私はイチローです」「マサユキです」といってもらった方がよかった。
投稿者 エディ(EJ改名) : 2008年04月25日 22:29
>やはりアメリカで仕事をする場合、相手に名前を覚えてもらわないと
>うまく行かないらしい
これは事実です。
アメリカが意外と(?)閉鎖的な社会であることは、聡明な方々ならすでにご存知のはず。
私も昨年米国である面接試験の対策カウンセリングを受けてきたのですが,私の名が読みにくいと指摘され,解決策として本気で英語名のあだ名を提案されました。
「チャイニーズはやってるわよ」ですって。
英国や米国の人々を相手に活躍しようとする香港人・中国人が英語の通称を付けようとするのは,「成功」を最大の目的とするならば,むしろ理にかなった行為なのかもしれません。
今回はその流れで日本名をつけようとしたのかもしれませんが・・・
かといって,少なくとも私は他国の人に日本名を強要しようとは思えませんし,やはりそこまですることに「正しさ」は感じませんよ。
・・・・・・・
ベビーコメ
ご愛読ありがとうございました。
>私も昨年米国である面接試験の対策カウンセリングを受けてきたのですが,私の名が読みにくいと指摘され,解決策として本気で英語名のあだ名を提案されました。
「チャイニーズはやってるわよ」ですって。
ここ、いまひとつ状況がわからないのですが、
ちょっとおばかなカウンセラーのように思います。
大事なビジネスなら、相手は覚えますし、
大事な人だったら、黙っていても覚えるのでは?
逆にアメリカ人に対して
「あなた、日本のあだ名を考えたら?」という日本人カウンセラーは
ちょっといないのではないですか。
お笑いプラグマティズムですね。
2008-4-29 21:00
投稿者 azrs : 2008年04月29日 14:01
よしだまさゆき様
Ichiroです。わざわざ新たにエントリーをたてて頂き有難うございます。しばらく海外出張中だったため、レスが遅れてしまいすみませんでした。
なるほど、歴史的背景に基づいた名前の「閉鎖性」「閉塞性」がそのような行動を取らせることになるのではということですね。大変勉強になりました。有難うございました。
投稿者 Ichiro : 2008年05月07日 00:01
テレビを見ていると現代の人でも名前が一字の人結構見かけますよ。珍しいのかもしれませんが。
フィギュアスケートの伸 雪さんとか(読み方がシンセツだったので覚えてます。が、他は思い出せません^^;)
投稿者 mrnm : 2008年05月07日 03:40
