2007年02月23日
競艇界初の双子姉妹が挑む頂上:山本善憲
最近、テレビでよく目にするお笑い芸人で、全く同じタイミングで言葉を放つ、息の合った双子のコンビが人気だ。ひとつの芸として狙った演出に違いないが、双子だからこそ可能なのかも…。ふと、そんなことを思う。
競艇界にも双子レーサーがいる。引退した選手を含めると男子が2組、そして女子の池田明美、浩美(30=静岡)だ。その池田姉妹。実は記者たちの悩みの種でもある。当たり前だが、顔の区別がつかないのだ。まさか「どっち?」と聞くわけにもいかず、恐る恐るの取材も多いが、姉の明美は「もう慣れてますし、遠慮なく聞いてくださいよ。むしろ間違ってもらった方が面白い。ツッコめるしね」と笑った。
「子どものころからずっと一緒。仲も良かった」と口をそろえた2人。だが、選手へのプロセスは微妙に違う。「最初は大学に行きたかったけど、お父さんの薦めもあって」と妹の浩美が選手の受験を決めると、犬の美容師の専門学校に通っていた姉の明美も「浩美だけカッコいいのは嫌(笑い)。受かってもダメでも一緒のはず」と同時に受験した。
結果、浩美は合格したが明美は健康診断で不合格。先に浩美が訓練施設に入学した。ところが、選手デビューは明美が先というから複雑だ。浩美は「訓練がつらかったわけじゃないけど、いろいろ思うこともあって」と途中で訓練施設を後にする。そして遅れて入学した明美が先に選手になった。その時のことを浩美は「(自分がやめて)明美にかわいそうなことをした」と思いやったが、後に訓練施設へ再入学。無事、デビューを果たし、艇界初の双子女子レーサーは誕生した。
再挑戦を決断した浩美は「途中でやめた自分に納得がいかなかったから」と姉との関係を否定したが、選手を続ける今「(明美が)いなかったら、楽しさも全然違ってたでしょうね」。明美も「浩美がいなかったら、とっくに選手をやめていたと思う」と告白するように、堅く結ばれた絆は双子ならではのものかもしれない。
その池田姉妹は27日から徳山競艇場で行われる「女子王座決定戦(G1)」にそろって出場する。双子での女子王座参戦はもちろん競艇界で初めてだ。明美は「不思議と特別な意識はないんです」と語るが、浩美は「自分以外が優勝するなら明美がいいかな」と妹らしいところを見せた。「双子には双子にしか分からないことがある」。そう話す2人の活躍に注目したい。
February 23, 2007 01:50 PM 投稿者:山本善憲
2007年02月09日
競輪界、新たな主役候補にチャンス到来:川尻将志
またしても涙だった。1月25日から28日まで、小倉競輪場でG1競輪祭が開催された。その開催中に小倉をホームバンクにして活躍し、昨年限りで現役を引退した吉岡稔真さんの引退セレモニーが実施された。吉岡さんは自身が中心になって立ち上げた練習グループ「不動会」のメンバーに胴上げされると、「小倉のファンに育ててもらった」と引退レースとなった昨年のグランプリに続き、再び大粒の涙をこぼした。
吉岡さんは名実ともに競輪界の看板選手だった。これからの予定はまだはっきりと決まっていないが「恩返しのためにも、自分でファンの方々にお礼を言いたい」と各競輪場を行脚し、イベント等に出席する予定だ。4日に岸和田競輪場、8日には花月園競輪場で開催されるトークショーに出演する予定。競輪ファンにとっては一時代を築いた吉岡さんの来場は、大きな楽しみとなりそうだ。
しかし、いつまでも吉岡さんに頼っているわけにはいかない。1つの時代が終われば、新しい時代は必ずやってくる。不動会のメンバーであり、現在トップクラスのS級で活躍する園田匠(25=福岡)も「吉岡さんの引退は凄くショックだった。常に背中を追いかけてきたし、突然目標がいなくなったみたいで…」と感慨深げに話しながらも「吉岡さんの分まで、僕らが頑張っていかないと」と気合を入れ直す。
絶対的な主役がバンクを去り、次はどんな展開が起こるのか。一抹の寂しさはあるが、いい意味で考えれば、新たな主役候補たちにとっては大きなチャンスでもある。“吉岡不在”の競輪界の行方を、期待を持って見守りたい。
February 9, 2007 06:12 PM 投稿者:川尻将志
2007年02月03日
「フットサルの伝道師」が目指すもの:上野竜一
今年9月に開幕する日本フットサルリーグの愛称が「Fリーグ」と決まった。8チームが参加し名古屋からも、昨年4月に日本初のプロフットサルチームとして発足した「大洋薬品/BANFF」が、チーム名も新たに「名古屋オーシャンズ」として参戦。新チーム名の発表会見が1月24日、名古屋市内で行われた。
チームを率いる真境名(まじきな)オスカー監督(42)は「フットサルの伝道師」と呼ばれる、日本フットサル界のカリスマだ。ブラジル・サンパウロ出身の日系3世で、ブラジルの強豪チームでプロフットサル選手として活躍後、日本へ移住し、国内最高のプレーヤーとして活躍する傍ら、大会などを企画運営、引退後も指導者としてフットサルの普及、レベルアップに力を注いできた。
来日したのは1989年(平元)。仕事を求め日本にやってきたが、フットサルを続けたいという思いもあった。「82年にブラジルで開催された第1回世界サロンフットボール(南米で発展したフットサルの起源)選手権大会に日本代表が出場したのを見て、日本にもフットサルリーグがあると思っていた」という。しかし当時、日本では競技を知る人はほとんどいなかった。
工場で電化製品の梱包業務などをして働きながら選手活動、普及に力を注ぎ続けた。「昔、ある地方でフットサルクリニックをやった時、サルの一種がやってくると思われた(笑)」(同監督)こともあった。地道な活動が実を結び、Jリーグの誕生、サッカー日本代表のW杯出場、日韓W杯開催を引き金に、今では競技人口が約150万人にまでなった。会見で同監督は「感無量。とてもうれしい」と話した。
日本のフットサル界が大きな転機を迎える。「リーグができて、プロ化の流れが進めばこれからもっと変わると思う。子供たちにも目標ができる」。日本初のプロチームであるオーシャンズが優勝することに意味があると感じている。「責任もあるけど、やりがいがある。南米の人間は負けず嫌い。負けたくない」とオスカー監督。フットサル界のカリスマはリーグ初代王者の先に、競技の更なる発展を夢見ている。
February 3, 2007 03:30 PM 投稿者:上野竜一
