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北海道発・記者ブログ

2007年10月22日リングサイド・ストーリー

 札幌市中央区南14条中央線、通称行啓通の一角で風情のある居酒屋が、のれんを垂らしている。大ぶりな赤ちょうちんに迎えられ、引き戸を開ける。炭火の煙と香ばしいにおい…。カウンターに並ぶ、新鮮な海の幸、色とりどりの山の幸が、食欲をそそる。人気メニューの「スペアリブ」は、ほどよく漬け込まれ、味わい深く、ボリュームたっぷりの逸品である。

 この6月、札幌に帰省した際、母親と2人で久々に「晩酌御殿 居酒屋鳥魚(いざかや・とりうお)」に足を運んだ。もう、20年以上になるだろうか。味はもちろん、良心的な価格設定と店主やおかみさんの人柄にひかれ、学生時代から通い続けている。当時、店の看板娘だった次女は現在、2児の母親だという。

 午後7時過ぎ、すでに店内は、家族連れやカップルでにぎわっている。店主は娘婿2人に厨房(ちゅうぼう)を任せ、旧知の常連客と談笑している。その片隅に、赤いボクシンググローブが、無造作にぶら下がっている。壁に掲げられたボクサーのモノクロパネルは、違和感なく、煙の中にとけ込んでいる。写真の主は、札幌出身のボクシング元東洋バンタム級王者、金沢和良である。

 札幌冬季五輪開幕を数カ月後に控える、71年10月25日だった。金沢は世界同級王者ルーベン・オリバレス(メキシコ)に挑戦した。当時68戦66勝61KOの戦績から「怪物」「ミスター・ノックアウト」の異名を持つ、強打の王者に敢然と立ち向かった。得意の右ストレートで活路を開き、チャンピオン圧倒的有利の下馬評を覆した。

 終盤の13回にラッシュをかけ、ダウン寸前まで追い込んだ。しかしながら、決め手を欠き、フィニッシュに至らなかった。逆に14回、オリバレスの反撃を受け、力尽きた。計3度のダウンを奪われ、無念のKO負けを喫した。

 沢木耕太郎の「敗れざる者たち」(文藝春秋刊)にボクシングを題材にした「クレイになれなかった男」という作品が収められている。その中で金沢の世界戦に触れている。一節を引用する。

 <二度目のダウン。しかしヨタヨタしながら金沢は立ち上がった。そして、凄まじい形相で、口を大きく開けて絶叫したのだ。もちろん歓声によってかき消されはしたが、ぼくには彼が何といっているかはっきり分かった。このヤロー! そう叫んでいたのだ。相手に対してというより、自分自身に向かって絶叫していたのだ>

 <負けはしたが、そして「やはり金沢敗れる」という調子でジャーナリズムに嘲笑されたが、プロスポーツとは、まさにこの叫びそのものではないか、とぼくには思えた>

 さらに、である。沢木は<ぼくにとってボクサーとは、例えばジョー・メデル、例えば金沢和良のことだ>と、書いている。バンタム級の「無冠の帝王」の名にふさわしい「最高級のボクサー」と評する、メデルの鋭利なKOシーンを引き合いに、こうたたえている。

 <金沢は必ずしも一流のボクサーではなかったが、彼にとってのラスト・チャンスに見せたファイトの魂は、もうひとつのボクシングの極をいくものだった>

 事実、オリバレス対金沢戦は、同年の日本ボクシングコミッション(JBC)の年間最高試合に選出されている。ボクシング通の北野武は、ある専門誌のインタビューで「日本のボクシング史上最高の世界戦」と、賞賛している。

 屈指の名勝負から36年後の07年10月11日、東京・有明コロシアムで日本人同士の世界戦が行われた。WBC世界フライ級14位の亀田大毅が、豊浦出身で同級王者の内藤大助に挑んだ。結果は、無惨だった。

 心技体、すべてに劣る18歳の挑戦者は、若さを露呈した。敗色濃厚の試合終盤、レスリング技のような反則行為で減点を重ねた。敗れるべくして、敗れた。<魂の絶叫>と対極をなす、あまりに見苦しい、愚行だった。

 代償は大きかった。亀田はJBCから「ボクサーライセンスの1年間停止処分」を受けた。指導するトレーナーの父史郎氏は「無期限のセコンドライセンス停止」となった。内藤戦でセコンドを務めた史郎氏、兄興毅の「反則を指示する行為」(当人は否定)が問題視された。

 ロシアのことわざに「くじゃくは羽で装い、人は教育で装う」とある。王者内藤は「素質のある選手なので、これからも頑張ってほしいと思います」と、エールを送る。亀田は、まだ若い。再生の道は、閉ざされていない。

 日本人同士のボクシング世界戦といえば、94年12月のWBC世界バンタム級統一戦である。王者の薬師寺保栄が、暫定王者の辰吉丈一郎を下し、3度目の防衛を果たした。両者が流血する壮絶な「ど突き合い」のすえ、2-0の判定勝利を収めた。試合後、死力を尽くした2人のボクサーが、リング中央で抱き合った。

 「ええファイトしたのう」と薬師寺。「ああ、お互いにな」と辰吉。

 テレビ視聴率は、当時プロボクシング史上歴代3位の39・4%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録した。偶然の一致なのか。日本の誇る実力者同士のマッチアップは、オリバレス対金沢戦同様に名古屋で開催された。間違いなく、記録以上に記憶に残る、一戦だった。

 昨秋、30数年前にボクシングファンを魅了した「史上最高の世界戦」のフルラウンドをビデオ観戦する、機会があった。試合終盤だった。白いジャケット姿の青年がリングサイドに駆け上がり、金沢の顔を引き寄せ、キスするように、耳打ちした。若き日の「鳥魚」の店主、金沢清良さんだった。

 金沢は高校時代、兄清良さんの影響で本格的にボクシングを始めた。天賦の才だろう。高校2年時に全日本社会人選手権でフライ級王者に輝いた。卒業後の65年、満を持してプロデビューを果たす。アベジム期待のホープだった。

 金沢兄弟の原点は「青空ボクシング」にあった。昭和30年代、日本のボクシング界は黄金期を迎えていた。当時北海高スキー部所属の清良さんは「四角いジャングル」の魅力にのめり込んだ。札幌ジムに通い、基礎を学んだ。

 さらに、自宅前の庭にリング形状の線を引き、ロープを張った。近所の子供たちを集め、即席のボクシングジムを開業した。自宅前の「青空リング」から巣立った金沢は、清良さんの熱き思いを胸に秘め、世界戦までたどり着いた。

 その目に、内藤対亀田戦は、どう映ったのだろうか。清良さんに聞いた。

 「もう腹が立って、腹が立って…。今まで応援してくれた人たちに申し訳ないでしょう。あのボクシングは攻めるだけ。兄貴(興毅)の方も見てるけど、同じだね。パンチをかわして、打つ技術はまったくない」。そして、続けた。「練習はしてるから、スタミナだけはある。ちゃんとしたトレーナーにつけば、もっと、もっと、強くなる」。

 あのころの経験がある。「まな弟子」の金沢は、こぶしひとつでプロの世界に飛び込んでいった。いつの間にか、自分自身の足で歩み始めていた。遠く離れて暮らしながら、目に見えない、心の絆でつながっていた。だからこそ、父離れできない兄弟ボクサーに対する評価は、厳しく、温かかった。

 今回の世界戦で、セコンドにつく、肉親のアドバイスがクローズアップされた。30数年前のあのとき、観衆の熱気渦巻く試合終盤、リングサイドで、金沢に何を伝えたのか。清良さんは一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した。そして、しばらく間をおいてから、照れくさそうに、教えてくれた。

 「危なくなったら、でっかいアッパーで一発逆転を狙え、と。ずっと練習してきたんだから。よし、あれ打っていこうぜ、と」。

 金沢兄弟の積年の夢を凝縮した、執念のアッパーカットは、不発に終わった。百戦錬磨の王者にかわされ、空を切った。

 「ロープを背負ってから、打つはずだったんだ。それをあのやろー…。いきなり真正面から、面と向かって、打ちやがって…」。

 濃紺の作務衣に身を包んだ清良さんは、開店前の仕込みをしながら、壁のパネルに目をやった。今日もまた「鳥魚」の赤ちょうちんにあかりがともった。

白船 誠日(しらふね まさひ)

 北海道札幌市出身。92年北海道本社入社。編集部、販売部、編集部、営業部、編集部を経て07年4月から編集部東京駐在。過去にサッカー、高校野球など担当。1963年12月生まれ。

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