2007年2月 2日報道関係に身を置く者の責任感
報道の怖さと、そこに身を置く者としての責任感をあらためて感じる。データねつ造が発覚したテレビ番組「発掘あるある!大辞典2」問題に対する、素直な感想だ。識者のコメントまでねじ曲げて伝えていたとあっては「いくら何でも、そこまでやるか?」という驚きが先に立つが、傍観者ではいけないと思う。
自分も、報道の怖さを痛感した経験はある。書いた記事について、取材相手から「どうしてくれるんだ」と抗議された。記事内容についておしかりを受けたことはほかにもあるが、記者になって最初の年に起こったその一件は、今も忘れない(もちろん、ほかの件も覚えているが…)。
道内で行われた空手大会で、優勝者の1人を取材したときのことだった。名刺を差し出し、取材したい旨を伝えると、笑顔で答えてくれた。「実は今、ケガをして入院中なんです。それで病院に外出許可をもらってきた。大会に出ることは言ってないんですけどね。でも、優勝したから許してくれるかな」。確か、こんな内容だったと思う。
今なら、それを書いてよいか聞き返す。というより、その一件以来、できる限り確かめるようにしている。でも、当時は余裕も気配りもなかった。話を聞かせてもらったお礼を言って、札幌に戻り原稿を書いた。
翌日の新聞に載ったのは、15行ほどの短い原稿で写真もなかった。病院から外出許可をもらって出場したことを盛り込んだ。その日のうちに、本人から会社に電話がかかってきた。「新聞に出たせいで、大会に出たことが入院先の医師に知られてしまった。ひどく怒られて、病院に居づらくなった。どうしてくれるんだ」という猛抗議だった。「優勝したから許してくれるかな」という言葉を拾って、書いても大丈夫だろう。そう勝手に決め付けた自分の配慮が欠けていた。
新聞では、それぞれのページでのメーン原稿は本文が12字取りで60~80行で書かれている。15行の原稿は見出しも小さく、正直そう目立たない。それが、大きな迷惑を掛けた。胸を張れるような責任感は今でも持ち合わせているとはいえないが、苦い経験を忘れず、この先も気を付けていかなければと思う。