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北海道発・記者ブログ

2007年8月20日あの1球を…

 あの1球を打てていたら、あの1球を捕れていたら、あの1球のコースを間違えなければ、あの、あの、あの…。第89回全国高校野球選手権大会(甲子園)に出場していた南北海道代表の駒大苫小牧は11日、1回戦で広陵(広島)に4-5で敗れた。04年から3年連続決勝進出という偉業を成し遂げた同校の今年の夏は短かった。

 昨秋、新チームが始動してから、しばらく香田誉士史監督と選手の一部に不協和音があった。昨夏の甲子園から北海道に戻り、選手には8日間の休日が与えられるはずだった。それが5日繰り上げて練習が始まった。胃痛、吐き気による体調不良から検査入院中だった香田監督から「甲子園に行きたいなら練習しろ」との無言のメッセージ。それが理解できない選手もいた。後藤威彦外野手は言う。「練習にやる気が出なかった。監督に不満もあった」。他校ならチームの入れ替え時には一定の休日も与えられ、お盆休みだってあるだろう。ただ3年連続で日本一遅いスタートとなったチームに時間はなかった。

 そのちぐはぐとした関係がすべてではないが、室蘭地区2回戦で北海道栄に1-8で7回コールド負けを喫した。香田監督は選手に問いかけた。「普通に練習していてもマイナスからプラスマイナスゼロになるだけ。みんながやる以上に練習しなければプラスにはならない」。選手の顔色は変わった。実戦不足を補うため雪の上でも紅白戦を行った。足の速い選手を生かすために、積極的に次の塁を狙う走塁に力を入れた。

 夏へ向かって順調に準備は進むはずだった。それも春の特待生問題で狂った。部員111人(当時)中31人が抵触。当該部員は5月2日から30日まで対外試合が禁止された。3日から予定していた東北遠征は当該部員を除いたメンバーで行くしかなかった。夏へ向けて、道外の高校と行える貴重な6試合を逃した。ただ収穫もあった。特待生抜きのチームで全道大会優勝。代理主将の安孫子翔太三塁手が夏もレギュラーになるなど新戦力も台頭した。

 いよいよ夏。昨夏のエース田中将大(現楽天)のような絶対的な柱はいない。それでも総合力の高さで南北海道を勝ち上がった。過去3年に勝る3割8分5厘を残した打線は、7試合で51点を奪った。片山孝平、対馬直樹、久田良太の投手陣は昨夏の0・36に負けない防御率0・61を残した。

 背番号1を背負った片山は入学前はエースになるとは思っていなかった。シニアリーグ全日本選抜の菊地翔太、全国的な知名度がある対馬の両右腕が同期で進学することを知っていたからだ。当然、両親は入学を反対。片山はプライドを捨て「対馬と菊地に甲子園に連れて行ってもらう」と頭を下げて説得した。競争の中で格の違いを感じたこともあった。2年冬には野手転向も考えた。田中に諭され、思いとどまった。縦スライダーの握りを教わり武器にした。

 昨夏の準Vメンバーながらろっ骨骨折で甲子園で登板機会のなかった対馬は最後の夏にかけていた。秋は治療に専念。本格的な練習再開は年が明けてからだった。一時は退部まで考えた。この夏、室蘭地区3回戦の苫小牧南戦で8回1/3を4安打1失点で復活。その影には新たな“変化球”の存在もあった。対馬の直球は140キロを超える。北海道では本格派と呼ばれてもいいスピードだ。その8割が右打者の内側に沈み込むように変化するツーシームだった。甲子園で勝つには140キロ台の直球では通用しないと覚えたものだった。

 選手は個々にレギュラーになるために自分の特性を生かす方法を探り続けた。本多弘治遊撃手は1年冬に「他の選手より1歩でも早く一塁に行けるから」と左打者に転向。この夏は不動の9番打者として核となった。すべての汗、涙、努力は甲子園での勝利で結実するはずだった。

 しゃくり上げるように泣く片山、目を真っ赤にしながら逆転を許すことになった自身の失策について言葉を絞り出す幸坂好修捕手。精いっぱい戦いながらも1点に泣いた選手の姿を見てから1週間が過ぎた。敗因を挙げれば、きっときりがない。でも勝負事で「~たら」「~れば」を言っても仕方がない。きっと相手が上だったということなのだろう。香田監督らスタッフ、ベンチ入り18選手をはじめ部員110人のベクトルは確かに「勝利」へと向いていたはずなのだから。

北尾 洋徳(きたお ひろのり)

 北海道札幌市出身。07年4月北海道本社入社。高校野球、一般スポーツ担当などを担当。好物は甘いもので、酒と漬物がとても苦手。趣味はカフェ巡りと音楽鑑賞。シンガー・ソングライター馬場俊英の「スタートライン」「ボーイズ・オン・ザ・ラン」がお気に入り。1981年8月生まれ。

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