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北海道発・記者ブログ

2007年3月28日旭川南を甲子園に導いた名監督

 旭川南が出場していたセンバツ甲子園の取材が27日で終わった。創造学園大付(長野)との1回戦で0-1。惜しい試合だったが、まだ本当の力がなかったということだろう。

 だが考えてみれば今年、公立(道立)校の旭川南が代表になったのは、ものすごくアンビリーバブルな出来事なのではないか。かつて夏の甲子園出場が1回あるとはいえ、最近まで弱小校だった旭川南。それが南北一緒の(室蘭地区も札幌地区も入っている)秋季全道大会を優勝したことに、あらためて敬服する。

 最大の要因は小池啓之という名監督の指導力にほかならないだろう。就任5年で弱小校を甲子園に導いたのだから。加えて05年度から推薦入学制度が取り入れられたことが大きかった。この制度のおかげで、有力中学選手が公立校に目を向けてくれるようになった。浅沼寿紀投手ら現3年生はその1期生である。

 つい3年ぐらい前までは駒大苫小牧、鵡川、東海大四など全道の強豪と練習試合をやると5試合で100点取られていたという。そのチームがなんと甲子園。決してぶれない一貫した小池監督の指導法が、選手の心をつかんだからこそだった。

 練習では非常に厳しい。若いころを知る教え子はみな「今は優しくなった」と言うが、しかる時の言葉はきついし、脱落者が何人も出ても不思議でないほど、練習時間も長い。キャンプでは午前6時から午後10時にまで及ぶ。それでも選手が黙ってついていくのは、何なのだろう。

 今回、小池監督は1個の古ぼけた球をお守り代わりに持ち込んだ。04年11月15日の日付と当時のメンバーの名が書かれていた。「弱かった時代に、3カ月以上かかって内野の球回し連続100回を達成した時のボールです」という。

 山なりの送球であっても、とにかく100回連続を達成した。「練習常善」を掲げる旭川南の原点が詰まっている球。「この日は私の誕生日でもあるんです」。例年ならもうグラウンドは使えない時期だが、その年はまだやれたのだそうだ。当時の小池監督の喜びが目に見えるようだ。

 試合当日まで毎朝、散歩がてら宿の近くにある中馬庚(ちゅうま・かのえ)氏の墓参りをしたという。同氏は日本で初めて「baseball」を「野球」と訳した人とされ、70年に野球殿堂入りしている。監督は「勝たせてください、なんて願いません。勝利は自力で勝ち取るもの。僕はただ誰にもケガなく試合に臨めますように、と」。

    ◇

 ある夜、スポーツ紙の記者仲間3人で飲んだ時、高校野球の指導者の話になり「応援したい監督を各自3人挙げよ」という話題で盛り上がった。その時、小池監督の名前は3人全員から挙がった。「ああ、やはりそうなんだ」と思った。

 私は野球の、というより人生の指導者として高く評価したい。小池監督は選手たちと話す時「先生はなぁ…」と、自分のことを「先生」と言う。普通、運動部の監督は「オレ」だろう。野球を教えているのではなく、生き方を教えている。そんな自負がその言葉に含まれているように思えてならない。

 小池先生、また夏も一緒に甲子園に行きましょう!

本郷 昌幸(ほんごう まさゆき)

 北海道苫小牧市出身。76年北海道本社入社。東京支社編集整理、北海道本社取材記者をはじめ、販売部、営業部(現広告部)も経験。編集部では一般スポーツ中心にレジャー、事件・事故など社会ものまで幅広く取材。北大時代は将棋部に所属、北海道学生名人になったこともある。現在は酒とラーメンが趣味。1953年2月生まれ。

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