2006年12月23日

松嶋菜々子に“萌え”

「犬神家の一族」(日)

 今回、市川崑監督は旧作の映像を常にモニターしながら撮影したという。カメラ割りもセリフも、驚くほど同じ。リメークする必要がどこにあるのかさっぱり分からないが、やはりこの作品は面白い。自らの傑作をどう新解釈し、別解を示すのか。そんな受け手の期待や、リメークに課せられた宿命をあっさりと無視する風格も、逆にシブい。

 俳優陣が民放系でスクリーン全体が明るめの06年バージョンは、カジュアルなホームドラマ風。歯応え減でもあるし、親しみやすくもある。包装紙がカラフルだから、菊人形の生首、湖の逆立ち死体などの名場面もどこかスポーティー。物語のポイントになる珠世役の松嶋菜々子も仏壇がまるで似合わず、ヌードシーンもない。グロい秘密を抱えたワケあり美女というより「寅さん」のマドンナという感じだ。この撮り方、91歳の監督は松嶋に“萌え”だったのかもしれない。

 唯一と言える「陰」の部分を引き受けて見応えがあったのは、富司純子・尾上菊之助親子。世界最恐の仮面キャラ・佐清(スケキヨ)とその母という役どころを、本物の親子が演じた。歌舞伎界の名門親子という浮世離れしたプライベートが犬神一族と重なる。1歩間違えば見る方も照れてしまうキャスティングだが、犬神家を破滅に導く“親子愛”を1歩も引かずに演じていた。それに、菊之助のスケキヨは、ぷっくり太った旧作(あおい輝彦)よりリアルに怖い。

 これなら再上映するか、旧作DVDを見ればいいという声もあるが、話題性も動員力も「新作」には遠く及ばない。おかげで、日本映画の名作をこうしてまた見る機会ができた。「金田一はやっぱり石坂浩二」という実感とともに、めでたいことである。【梅田恵子】

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2006年12月16日

強烈な“反戦”メッセージ

「硫黄島からの手紙」(米)

 死から逃れられない運命を背負わされた日本兵の緊迫感が、終始スクリーンを支配し続ける。米国側からみた前作「父親たちの星条旗」に対し、日本側の視点から描いた。戦争が与えた影響を中心にした前作と比べ、画面から目を離すすきも余裕も持てなかった。

 生きて帰ると愛妻に誓った兵士(二宮和也)の目を通して、硫黄島の戦いが淡々とつづられていく。「花子、書いているだけでホッとする。お前と赤ん坊のことだけが気掛かりだ」。生きたいのに死を覚悟させられる。絶望的な状況を表すようなモノトーンの映像が続く。決して届かない手紙に託した家族への思いが、ただ一筋の光明に見える。

 そして、指揮官(渡辺謙)は家族が住む家のお勝手のすき間風を心配し、硫黄島のヒヨコの成長を手紙にしたためる。激しい爆撃の中とは思えないほど穏やかな表情だ。どんなセリフよりも胸が締め付けられる。家族を思う心に国も時代も関係ない。主要キャストのこれ以上にない演技だからこそ、素直にそう思えた。

 セリフは全編日本語。米国人監督が撮影したとは思えないほど、映像や進行に違和感はなかった。撮影前に、時代考証を丁寧に重ねたと聞く。日本兵が米兵をリンチしたり、米兵が日本人捕虜を銃殺するシーンも盛り込んだ。日本側からみた硫黄島の戦いを描くというイーストウッド監督の徹底した姿勢に、一瞬のぶれも感じられなかった。

 平和を振り返る余裕もない日常生活。「父親」と「硫黄島」の両作品を通じて、初めて“反戦”が胸に落ちた気がした。戦後60年。連作映画は戦争の忘却に対する強烈なメッセージだと感じた。【近藤由美子】

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2006年12月09日

引きずる切なさが名品の証し

「王の男」(韓)

 愛は陽炎(かげろう)-。つかまえようとしても、つかまえることすらできない。その切なさが全編を覆う。
 「王の男」というタイトルからは何のイメージもわいてこなかったが、この話は朝鮮王朝時、実在した暴君と、旅芸人の男2人、その3人の「トライアングル・ラブストリー」だ。

 美ぼうの女形と一座の座長。ふたりは、幼い時から心で強く結びついている。ところがその一座を見物した暴君が、その女形に横恋慕してくる。オレの女(男)になれと強引だ。「王の男」というタイトルは、王が恋したのが、たまたま男だったから。わかりやすく言えば「オレの女」と、そういことだろう。

 王は傍若無人、手に入らないものは何もない。会社のワンマン上司が結婚間近の部下カップルの女性の方に手をつけて、「オレの女になれ。あんな若造とは別れてしまえ!」と迫るような話である。

 おぉ~通俗! いや、この話は通俗で終わらない。

 それは三人三様の孤独の深さである-。何もかも手に入れることができる王は、謀略の中で母さえ殺され、心の飢えを満たすものは何一つない。旅芸人の座長は、「オレには失うものがない」と精一杯生きようとするが、暴君に目を焼かれて生涯の光を失う。

 2人の愛に翻弄(ほんろう)される女形は、純粋に生きようとすればするほど傷ついていく。そして、それもこれも、時代という大河に翻弄される3枚の木の葉…。人間の小ささ、愚かさである。

 女形を演じたイ・ジュンギは、この一作で一大スターになり、「韓国で、4人に1人が見た」というヒットになった。劇場を出た後も、引きずる切なさが名品の証である。【馬場龍彦】

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2006年12月02日

エロから夫婦愛へ

「武士の一分」(日)

 エロい。ぬれ場があるわけでもないのに。妻への疑惑。胸元に浮き出る汗。こんな見方は、作り手の意図から懸け離れているかもしれないが…。藤沢周平先生も天国で怒るかもしれないが…。不倫映画だ。エロの根源は不倫のジェラシーだ。

 石田純一は「不倫は文化だ」(96年)と開き直ったが、男女関係が多様化した21世紀、どうやら「不倫は分化」してきている。だから、家という価値基準が絶対だった封建時代のピュア&ディープなしっとが新鮮だ。ましてや藤沢である。艶(つや)っぽい彼の小説の中でも隠し剣シリーズは特に色気がある。山田洋次監督の前作「鬼の爪」は艶っぽさが薄まった純愛ものになってしまっていたが、同じシリーズを原作にする今作は違った。

 そして盲目の美男剣士を演じる木村拓哉。抱かれたい男NO・1が藤沢ワールドとマッチしたのか、艶っぽさの二乗になったのか、といえばそうとも言えない。むしろ、SMAPが江戸時代にタイムスリップして田舎侍になったら的な空気が漂う。「そのまんまキムタク」の、おちゃめなストイックさとのギャップが化学反応を起こし面白い。今日的で、艶っぽさに親近感がわく。

 エロいエロいと連呼したけど、疑惑の末にたどり着くのは夫婦愛。盲目だからこそ分かる愛する人のにおい、味、音、手触り。ラストシーンが静かに胸に染みる。石田純一が「不倫はメジャーだ」(06年)と宣言したハチャメチャな時代、夫婦愛を再確認する絶好のテキストかも。

 現在、単身赴任中の私。妻の手料理が無性に食べたくなった。【高田博之】

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