2006年10月28日
イーストウッドの集大成
「父親たちの星条旗」(米)
クリント・イーストウッドはおそらく、今、世界で最も「ハズレがない」監督だろう。映画界の「アタリ、ハズレ」は芸術的側面と興行的側面が必ずしも一致せず、浮沈も珍しくないが、それも彼に限ってはあてはまらない。そんな巨匠中の巨匠の26作目。しかもあえて挑んだ2部作だから、ハズレのわけがない。いや、集大成かもしれない。
実は少し心配をしていた。1つはスティーブン・スピルバーグ監督が製作に名を連ねたこと。良くも悪くも「ザッツ・ハリウッド」、娯楽作品の王様。一方のイーストウッド監督はアンチヒーロー路線を貫き、市井の人々の心理描写を通して人間の普遍的テーマをストイックに追求してきた。もう1つは舞台の広がり。ほとんど極めて個人的な、狭い世界を舞台としてきた。それがいきなり、第2次大戦の最激戦地と日米2つの国家に拡大した。
しかし、全く杞憂(きゆう)だった。戦闘シーンは「プライベート・ライアン」並みに激しくリアルでまさにスピルバーグ印なのだが、戦争と戦後を行き来する演出のせいで、イーストウッド印の人間ドラマを一層引き立てる効果をもたらしている。戦争ではなく、あくまで人間を描くという軸は舞台が広がってもみじんもぶれない。むしろ史実を丁寧に踏まえているため、これまで以上に人間の生きざまが抑制されて描写されている。イーストウッド監督は今回、自分で作曲した楽曲を使用しているが、これまた、静かに人間の内面を見つめる哲学を見事に主張していて、温かい。
日本側からの視点で描いた「硫黄島からの手紙」も見たくなったのは言うまでもない。【近藤由美子】
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2006年10月21日
マッチの裏に隠された謎
「ブラック・ダリア」(米)
メモしようと思って手元に紙がなくて、ナプキンとか、はし袋とか、あげくにティッシュなんかに書いちゃう時ってないですか。んでもって、見直そうと思ったら、にじんでぐっちゃぐちゃ…。デ・パルマ監督は、登場人物にそんなかっこ悪いことはさせません。マッチの裏なんです。いわゆるマッチ箱じゃなく、紙マッチの裏ってやつです。
デ・パルマ監督の最大ヒット作「アンタッチャブル」では、殺し屋がマッチの裏に、ショーン・コネリー演じる警官が住む住所「ラシーヌ通り」を書き、ケビン・コスナーがそれを見て、相棒を殺したのはコイツだと確信する、そんな場面がありました。
今作でも、マッチが物語を最後まで引っ張ります。元ボクサーでロサンゼルス市警のバッキーが、殺人事件の捜査過程で気になった女性の住所を車のナンバーから調べ、それを書くのがマッチの裏。原作にはないこのシーン。この瞬間「これは何かあるな」。だって、デ・パルマ監督だもん。マッチの裏大好きなんだもん。時代設定が現代だったら、マッチじゃなくライターだろうし、40年代が舞台だからこそ、自然に成立する小道具です。かっこいいです。このマッチ裏がどう物語を引っ張るか、それは見てのお楽しみです。
さて、役者陣。ダークで隠微なストーリーですが、若い役者陣の、耐えて若さを抑えてる感が、隠微さをさらにアップ。特にジョシュ・ハートネット。ナチュラル・ボーン・ダークネスのベニチオ・デル・トロを思わせるような、暗い目がセクシーです。若手俳優の1人としてしか認識してなかったのですが、年取った姿も見てみたくなりました。小悪魔スカーレット・ヨハンソンが往年の名女優のように見えたり、「ミリオンダラー・ベイビー」の筋肉女優ヒラリー・スワンクが魔性の女…。変身ぶりが楽しい作品でもあります。【小林千穂】
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2006年10月14日
計算づくの非政治的映画
「ワールド・トレード・センター」(米)
意外や意外、ストレートでベタ。オリバー・ストーン監督らしからぬ非政治的映画だ。
タブー視されていた5年前の9・11テロを初めて娯楽大作にした。世界貿易センタービルの倒壊で生き埋めになった2人の実在の警官と、安否を気遣う家族。その図式はありきたりで、演出もノーマル。倒壊寸前のビルの内部は、どんな音がして、どう揺れたのか。どのように爆風が人をなぎ倒したのか。圧倒的な事実の前に、鬼才巨匠もへりくつを述べる暇がない。
「人間は政治的動物である」。高校時代の世界史の先生は、アリストテレスの言葉を引用して社会の仕組みを教えてくれた。「政治とは、人が人を支配すること。それは教室でも家庭でも社会でも同じなんだぞ」。当時はよく理解できなかったが、会社に入って家族を持って、先生の言葉に納得するのだ。
この映画が非政治的なのは、究極の悲惨な現場では、他者を支配しようという気持ちすら起きないという真実を描いているからだ。救助する人、される人。駆け引きがない。「ニクソン」「JFK」などの超政治的作品群とは違う。同じ究極の悲惨を描いてはいるが、小さな部隊内ですら対立してしまう人間の醜さをあらわにした「プラトーン」とも根本的に違う。
ただし、内容が非政治的でも、取り巻く環境は政治的だ。そもそも「9・11」は米国と中東の征服合戦の結果だった。この映画が、米国にとってイラク戦争の正当性を強める一助になるかもしれないし、テロリストにはモチベーションになるかもしれない。そういう意味では極めて政治的な作品だ。ストーン監督のことだから、計算づくなのかもしれないが。
世界史の先生の教えは、やはり正しかった。【高田博之】
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2006年10月07日
24時間ガチンココミュニケーション
「夜のピクニック」(日)
担任の顔も名前も覚えていない。同窓会のお知らせも来たことがない。個人史のハイライトであるべき高校生活を何のインパクトもなくやり過ごした私には、まぶしくて立ちすくむばかりのピチピチの青春映画である。
互いの存在を黙殺してきた異母兄妹が、24時間かけて80キロを歩き通す学校行事「歩行祭」で小さな壁を超える物語。声を掛けてみたい、話がしたい。たったそれだけの願いを抱えてひたすら歩く。
持ち禁なのだろうか、携帯電話が出てこないため、非モバイルの10代を送った私にも違和感がない。「歩く」「話す」以外にすることがなく「メールだから言える」なんて言い訳が通用しない24時間のガチンココミュニケーションを見守ることになる。タイトル通り、注目は夜。本音は夜に語られ、大事なことは夜に起こる。特に、夜のマジックが解けてしまう直前の、微妙に薄明るい数分間がヤマ。物語の伏線である“おまじない”が、日の出とともにファンタジックに輝く。
「24時間も」歩き続ける疲労感と、「たった24時間」の間にいろいろなことを吸収して成長する10代のみずみずしさ。原作は2つの時間軸で彼らの24時間を想像する楽しさがあるのだけれど、映画は「ただ歩くだけ」の原作パワーに全体が飲み込まれてしまった。疲労感だけがリアルに感じられて、青春できない自分にヘコんだ。ストーリーに起伏を持たせようと挿入したアニメやギャグ、パロディーも、個人的には乗れなかった。
主演は、昨年のイチオシ映画「ヒノキオ」(最後のワンシーンはどう考えても要らない)でブルーリボン賞新人賞を受賞した多部未華子。しんの強そうな、透明度の高い目ヂカラはこの世代ではピカイチ。次回作も期待したい。【梅田恵子】
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