2006年04月29日
エド・マローの視線が飛んでくる
グッドナイト&グッドラック(米)
目ヂカラがすごい。容赦ない。「ジャーナリズムとは何だ、圧力やしがらみに屈していないか」と、問い掛けてくる。スクリーンを通しても、さらに劇中のテレビ画面を通しても。40~50年代に米CBSテレビで活躍した実在のキャスター、エド・マロー(デビッド・ストラザーン)の静謐(せいひつ)で厳しい視線が、いくつものフィルターをくぐり抜けて問い掛けてくる。
赤狩りが吹き荒れた時代のメディアと政治を描いた、というと一見ピンポイントな作品だが、マローの視線は時代を超えて、今に飛び込んでくる。自分にも周りにも、あちこちに視線が飛んでいる。この視線をまともに受けて踏ん張って立っていられる人は、どれくらいいるんだろう。
まじめなテーマながら、説教くさくなく、ちゃんとした娯楽作品に仕上がっているところが、監督も務めた、ジョージ・クルーニーのセンスなんだろう。全編がつややかでなめらかなモノクロ。時代にも、自分たちの良心をかけて戦っているといった風なテレビマンたちにもぴったり合っている。関係者の笑い声だけが響く、今のバラエティーの現場には、このモノクロは持ってこられないだろうなと思うと、またあの視線を思い出してしまう。
1時間33分という、最近にないコンパクトさもいい。いろいろ詰め込みすぎて、気付いたら3時間超えてました、というような作品も多い中、きゅっとまとまっている。クルーニーの監督2作目。次が楽しみになってきました。【小林千穂】
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2006年04月22日
「あのときの自分」の視線
チェケラッチョ!!(日)
職場と自宅の往復しかない筆者(独身女=30)は、ほろ苦い初恋や思い出に浸る気分ではないし、その余裕もない。中途半端な甘酸っぱさなら、すぐ試写室を出ようと身構えていたのだが、その必要はなかった。潔いほどまっすぐな、青臭さに徹した物語が、体に染みこんだ日常という力みをときほぐしてくれた。
決して珍しくはない、普遍的な青春ものだが、視線が違う。大人目線であの時代を表現する、振り返ることはだれでもできる。なんらかの説明や結論を出してしまう方が分かりやすいが、あの時代にそんな明快なものなどありはしない。それこそ恐れていた中途半端さだ。でも、これは「あのときの自分」の視線にこだわっている。
進路に悩む沖縄の高校生男女4人が、ラップに取り組みながら成長していく。大人の女性に恋する鈍い少年(市原隼人)、好きな男の恋を応援してしまう強気な少女(井上真央)、少女の恋を見守る秀才(平岡祐太)、何も知らない振りをするが実はよく分かっている少年(柄本佑)。みんな一生懸命だけど、みんなうまくいかない。「もどかしさ」というキーワードに徹している。
「スウィングガールズ」「69 sixtynine」「リンダ リンダ リンダ」…。最近は、青春の空気感が巧みに表現された佳作も多いが、いずれも男女など特定の目線に固定されていた。今回は、男女4人の目線を等分に尊重した。そのバランスの良さも、リアルさを支えていると思う。
青い海、白い雲、オレンジレンジの楽曲…。舞台装置も完ぺきで、高い金を払うリフレッシュ法よりも、心に効くクスリだったりする。【近藤由美子】
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2006年04月15日
だまされた!ジョニデの伏し目に
「リバティーン」(英)
当代一の俳優といえばジョニー・デップ(ファンは「ジョニデ」と呼ぶ)。美ぼうと、演技力と、2000万ドルを超えるギャラと、数々の美女とのゴシップを経て円満な家庭まで手中にした三国一の幸せ42歳だ。日本で言えば、キムタク(男前感)と浅野忠信(存在感)を足してスケールと危険度を10倍増しにした感じか。
血だらけ逆噴射殺しにされたデビュー作「エルム街の悪夢」は忘れるべき例外としても「シザーハンズ」「デッドマン」「フェイク」「チャーリーとチョコレート工場」など、どれも彼でなくっちゃ成立しないオンリーワン演技。本作は、そんな多様なジョニデ歴の中でベスト3に入る。
17世紀に実在した放蕩(ほうとう)詩人を演じるジョニデ。いきなりスクリーンのこっち側の観客をにらみつける。「私はいつでも女を抱ける。男も抱ける。見終わったらきっと諸君は私が嫌いになるさ」。ガビーンな導入。実際、描かれる詩人の半生はえげつない。現代の放送コードにも引っかかりまくるエロ戯曲を書き、不倫して、梅毒で鼻が崩壊。アル中になる。野たれ死ぬ。
ジョニデ独特の「伏し目」が脳裏から離れない。善人が悪人を演じる(あるいはその逆)複雑さ。奥深い瞳の力。耐震偽造の某デベロッパー社長がどんなに表情を作っても無人情な目だけは隠せなかった。某社長がジョニデに演技指導を依頼していれば、喚問での心証も良くなったはずである。
今回もだまされた。あの伏し目に。「ギルバート・グレイプ」で演じた、知的障害の弟を守る静かな青年と、本作の妻子をないがしろにするお下劣詩人は同じ瞳だ。キムタクと浅野忠信を足して、さらに徳が高い仏像の「目」を付け加えればジョニデのできあがり。ありがたや、ありがたや。【高田博之】
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2006年04月08日
2時間笑わせる“カツドウヤ3代目”
「寝ずの番」(日)
21世紀だというのに、映画製作の現場で自分のことを「活動屋」と呼ぶノスタルジーの住人が苦手だ。CG世代を否定するような閉じた響きと、強烈な自意識に腰が引けてしまうのである。今作は、日本映画の歴史そのものであるマキノ一族のプリンス・津川雅彦ことマキノ雅彦監督が“カツドウヤ3代目”として初メガホンをとった。映画界の大名跡を意識した内容かと思ったら、すがすがしいほどのお客さま目線。笑いっぱなしの2時間だった。
上方落語の重鎮の通夜を通した人情喜劇。初監督作の題材に中島らもを選ぶセンスにピュアな娯楽志向がうかがえる。真夜中の猥談(わいだん)だから「チ○ポ」「お○こ」の放送禁止用語が雨あられ。三味線による春歌対決のヘビメタ感や、死体を担いでみんなでカンカン踊りをする衝撃映像…。ニッポンの笑いの雅(みやび)はブラウン管サイズに納まらない。おもしろきゃ何でもやるという、このロック精神がカツドウヤであるならば、閉じているのはむしろ最近の若手監督の方に思えてくる。
津川の兄、長門裕之の“死体芸”はもはや神の領域。死に顔だけでも爆笑なのだが、途中、ふと立っているシーンがある。原作にはない演出だが、映画史に残る爆笑名場面だ。
中井貴一、木村佳乃、堺正章ら東京勢の関西弁には集中できなかった。イケイケ関西文化の「艶(つや)」と、1歩引く関東文化の「粋(いき)」がごちゃまぜになっているのも居心地が悪い。木村佳乃が臨終間際の師匠に「そ○」を見せる場面。原作では師匠の顔面をまたいで力士のように股(また)割りするのだが、棒立ちのまま薄味になってしまった。下品の限界点を超えてもなお消しようのない品格が漂ってしまうところが、らも作品の良さなのに。【梅田恵子】
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2006年04月01日
「振れ幅の大きさ」感じる
「春が来れば」(韓)
テロリストや余命わずかなヒロインの登場も、ロミオとジュリエットのような悲恋もありません。夢にやぶれた中年男が、地方の中学で子供たちと触れ合ったり、離れて暮らすオカンに小言を言われたり、昔の恋人を忘れられなかったり。スクリーンで見てきた、かっこいい韓国男子よりも、こっちの方が何だか好感を持ってしまうのは、きっと本当は韓国男子、こんな感じなんだろう、と思ってしまったからなんでしょう。
そのさえない中年男を演じるのは「オールド・ボーイ」(04年)で強烈な印象を残したチェ・ミンシク。15年間監禁され、復讐(ふくしゅう)の鬼になった姿しか見ていないと、あまりの落差にぼうぜんとするかも。
でも彼は、今回の役柄については「自分にも共感できるんだよね」と言ってました。いやいや、まさか、ミンシクさん、あなたはもっとかっこいいでしょう、と言いたくもなりますが、それでもちょっと、ミンシクだけじゃなく韓国男子の、というより、愛すべき中年男の素(す)の部分が遠くに見えそうな、そんな作品です。
よく「韓国映画の底力」と言われますが、この映画を見ていると、底力というより「振れ幅の大きさ」を感じるのです。派手な大作を見る機会が多いかもしれませんが、こんな作品もぜひ見てほしいなと、ちょっとまじめに考えちゃいました。
最後に1つ。子役の中学生は「大統領の理髪師」(05年、これも必見です)に出ていたイ・ジェウンくん。彼の笑顔もほんっと、いいんです。タイトル通り「春が来れば」なんて、思わせてくれますので、ぜひぜひ。【小林千穂】
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