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<title>相原コラム</title>
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<modified>2008-02-28T17:47:12Z</modified>
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<title>コーエン兄弟のこだわり</title>
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<summary type="text/plain">ノー・カントリー（３月１５日公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　３人の男たちにはそろって自信がある。それぞれの信念に基づいて直線的に行動する。が、本人がまっすくであるほど端からみれば滑稽である。三者三様に突き進み、ひとたび交われば火花を散らす。わずかでも自信が揺らいだほうが負ける。命取りになる。画面には常に怖いほどの緊張感が漂っている。が、やはり滑稽である。コーエン兄弟監督の新作はピリピリしていてかつ可笑しい。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ベトナム帰還兵のモス（ジョシュ・ブローリン）は狩りの最中に２００万ドルの札束を発見する。周囲には大量のヘロインや死体がころがり、銃撃戦が行われたようだ。明らかに“危ない金”だが、彼にはその金を奪って逃げ切る自信があった。</p>

<p>　その金を取り戻すために雇われたのが殺し屋シガー（ハビエル・バルデム）。エアガン、といっても空気で弾を飛ばすのではなく、空気そのものの噴出で相手を殺す異様な武器を使用している。「約束」とコインの表裏だけで殺しを決める。</p>

<p>　シガーにストップをかけるべく動き出したのがベル保安官（トミー・リー・ジョーンズ）だ。昔ながらの信念があり、いかなる無法であろうとも、止める方法があると信じている。</p>

<p>　個性派３人が文字通り渾身の役作りである。</p>

<p>　それぞれの目標にまい進しながら、ブローリンふんするモスの恐れやジョーンズふんするベルの不安はスクリーンからにじみ出るように伝わってくる。役者の腕の見せ所だ。</p>

<p>　が、バルデムのシガーだけはそんな要素が微塵もない。ひたすら表情を殺している。それでも不思議なことに３人の中で図抜けて人間くささや滑稽さを感じるのである。</p>

<p>　これまでスクリーンに登場した数多い殺し屋キャラの中で、妙に重なる気がするのがジム・ジャームッシュ監督の「ゴースト・ドッグ」（９９年）に登場したフォレスト・ウィテカーだ。伝書鳩を唯一の友に、「葉隠」＝武士道を信奉して生きる一匹狼の殺し屋だ。</p>

<p>　信じるのは自分だけ、を貫くシガーとは一見対極にあるのだが、バルデムが全編に漂わす空気、ベル保安官とのニアミスを連想させる一瞬の挿入場面で見せた意外な表情に想像力をかきたてられた。スクリーンには登場しないこの殺し屋シガーの私生活をいつの間にか「ゴースト・ドッグ」に重ね合わせていた。</p>

<p>　コーエン兄弟は３人が操るツールにかなりこだわっている。シガーが操るエアガンはボンベの先に射出部分をつけた消火器のような不恰好なものだ。他では見たことがない。モスは２００万ドルを隠すにあたってホームセンターのようなところに出かけてテントをいくつも買う。潜伏先のモーテルのエアダクトの奥に押し込むための長い鍵棒をそのポールをつなぎ合わせて作るためである。そのポールのためだけにテント丸ごと何組も買ったのである。工作好きなのだろうか！？　ディテールの描き方が面白い。</p>

<p>　映像の美しさ、ヒヤヒヤさせる娯楽性、マニアックなこだわり－三拍子そろった作品である。</p>]]>
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<title>佐藤隆太と学生プロレス</title>
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<modified>2008-02-25T15:25:06Z</modified>
<issued>2008-02-21T09:44:35Z</issued>
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<summary type="text/plain">ガチ☆ボーイ（３月１日公開）</summary>
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<![CDATA[<p>　松本幸四郎のおっとりした教授ぶりがはまっていた「天才柳沢教授の生活」（０２年、フジテレビ）で、実は一番気になっていたのが、娘世津子（国仲涼子）の恋人恩田ヒロミツ役の佐藤隆太だった。</p>]]>
<![CDATA[<p>　入り婿的雰囲気、かなり優柔不断だが、何事も鼻にかけない－こういうユルめのいい人は、はっきりしたキャラを演じるより数段難しい、と思う。それをまったく臭みなく、自然にものにしているところがすごいと思った。その甲斐あってか、テレビＣＭを含め最近の露出は決して少なくない。が、どの作品でも、ヒロミツ的役柄を当てられることが多い。</p>

<p>　せっかく力があるのに、このテのキャラが主演にすわった作品はイメージしにくい。その難問にピタリと答えたのが今作だと思う。以前このコーナーでも取り上げた濱田岳の「アヒルと鴨のコインロッカー」（０７年＝バックナンバー参照）のように俳優と作品の“出会い”を感じさせる作品だ。</p>

<p>　主人公の五十嵐（佐藤隆太）には「高次脳機能障害」がある。眠るとその日にあったことをすべて忘れてしまう。大学進学までは成績優秀で弁護士を夢見ていた彼は、事故をきっかけにこの障害をおってから空しい日々を送っていた。事故までの記憶は鮮明なのに、それから何カ月たってもいったん眠ると事故直後に戻ってしまう。</p>

<p>　そんな彼が出会ったのが学生プロレスだった。脳の記憶が無くなっても体がその感触を覚えている。唯一の生きる実感となる。だが、技は“体得”できても、試合の運び（シナリオ）は覚えることができない。結果、彼の登場する試合は“ガチンコ”となってしまう。</p>

<p>　勉強の虫だったそれまでを映すように佐藤のほっそりとした体が痛々しい。文字通り１日１日を生きる純な心を宿す顔にもリアリティーがある。恐る恐る部室を訪れる、毎日が“初日”の表情にも臭みはない。佐藤はピュアさをにじませるのが上手い。</p>

<p>　原作は劇団モダンスイマーズの舞台「五十嵐伝～五十嵐ハ燃エテイルカ～」（作・演出蓬莱竜太）。懸命な五十嵐は終盤にヒーローとなる。「チャンス」（８１年米）「フォレスト・ガンプ」（９４年米）をほうふつとさせる、純な心が奇跡を起こす物語だ。</p>

<p>　五十嵐が思いを寄せるプロレス研究会マネジャーにサエコ、妹に仲里依紗、父親に泉谷しげる、研究会ＯＢに宮川大輔とキャスティングにも工夫がある。</p>

<p>　メガホンは佐藤と同い年の２７歳、小泉徳宏監督。前作「タイヨウのうた」（０６年）に続いて難病が題材だが、どちらもしっかりと青春ものに仕上げているところは、早くも手練を感じさせる。今回はコメディの色もたっぷり盛り込まれている。学生プロレスの独特の世界をのぞき見る面白さもある。</p>]]>
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<title>クイーン今昔</title>
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<modified>2008-02-18T17:55:12Z</modified>
<issued>2008-02-13T17:47:48Z</issued>
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<summary type="text/plain">エリザベス：ゴールデン・エイジ（２月１６日公開＝英）</summary>
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<![CDATA[<p>　昨年の「クイーン」がいつの間にか頭に浮かぶ。鋼のような精神力と表に出さない脆さ。危機に際した胆力に感服し、１人の女性としての素顔が魅力的だ。「クイーン」も今作も女王の周囲には逆風が吹いている。前者はダイアナ妃の死から巻き起こった王室バッシング、後者は当時の最強国スペイン無敵艦隊の襲来。後者のほうがスケールが大きい、遡（さかのぼ）ること１６世紀の話だから大胆な脚色も可能だ。</p>]]>
<![CDATA[<p>　というわけで、今作は権謀術数が渦巻き、それを乗り切る強いエリザベス１世が登場し、ときに彼女が女性としての一面も覗かせる一大娯楽絵巻である。まだ弱小国だったイングランドが女王主導で黄金時代を迎えるまでが描かれる。</p>

<p>　エリザベス１世即位を巡る政争を描いて話題となった「エリザベス」（９８年）の続編なのだが、前作の公開から９年を経る間に女王役のケイト・ブランシェットが身につけたものが、そのままスクリーン上の貫録となっている。剃り上げた眉が目力を強調し、唇の両端をかすかに下げるだけで他を圧するような迫力が出ている。</p>

<p>　女王の強さは常に捨て身の姿勢に支えられている。自らの離婚のためにローマ教皇と決別した父ヘンリー８世の政策を受け継ぎ、国教会を主柱に据えたエリザベス１世は国内の半数を占めるカソリック回帰派の反発を買い、常に暗殺の脅威にさらされている。にもかかわらず、ことあるごとに民衆の前に姿を見せる。無防備である。「クイーン」であらためてイメージアップした現女王エリザベス２世が７５年に来日したとき、警備の厳重ぶりに「これは誰のため。常に命をさらすのが私の仕事です」という主旨のコメントをしたというエピソードが重なる。</p>

<p>　文字通りのヴァージン・クイーンであった１世はテューダー朝最期の女王であり、現女王はウィンザー朝。だが、あらためてエリザベス繋（つな）がりの２人には共通点が少なくない。ともに生まれた段階では王位継承順位は決して高くなく、様々な偶然が重なって王位に就いている。そろって２０代半ばの若さで即位し、在位年数は長い。だからというわけではないが、まだ記憶に新しい「クイーン」の残像がどうしても重なってしまう。</p>

<p>　「クイーン」の女王がもっとも人間くさかったのは、河のほとりで１人きりになって、ほろりと涙を流すシーンだったが、今作はかなり生々しい。航海士ウォルター・ローリーに抱く恋心である。分身ともいえる侍女ベスを媒介に面会を重ねるうちに、ベスがローリーの子を宿してしまうという昼メロのような展開が、淡色の上品な映像でスケール感のある大河絵巻にさりげなく溶け込んでいる。</p>

<p>　スペクタクル部分の迫力も見逃せない。無敵艦隊を撃破するアルマダの海戦、兵士を鼓舞する女王の甲冑姿…。前作に続いてメガホンを取ったインド出身のシェカール・カプール監督は隅々まで凝っている。</p>

<p>　ケイト・ブランシェットばかりに目がいきがちだが、前作に続いて側近ウォルシンガムを演じたジェフリー・ラッシュ、ローリー役のクライヴ・オーウェン、べス役のアビー・コーニッシュがそろって好演している。</p>]]>
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<title>まとわりつくカメラ</title>
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<modified>2008-02-06T16:30:02Z</modified>
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<summary type="text/plain">アドリブ・ナイト（２月９日公開＝韓）</summary>
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<![CDATA[<p>　じりじりとまとわりつくストーカーのような視線。ヒロイン（ハン・ヒョジュ）を盗み見るようなカメラワークが印象的な幕開けだ。</p>]]>
<![CDATA[<p>　韓国映画界の期待をになうイ・ユンギ監督の作品は実は初めてなのだが、独特の覗（のぞ）き見のような手法にまずは引き込まれた。</p>

<p>　ヒョジュふんするヒロインを注視していた２人の若者は、痺（しび）れを切らしたように彼女に声を掛ける。「幼なじみのミョンウンではないのか？」。否定する彼女に散々食い下がった末に、２人はミョンウンの父親が死の床にある事実を突きつけて、家出中の娘の身代わりとして臨終に立ち会って欲しい、と懇願する。断りきれなくなった彼女は、郊外にあるミョンウンの実家に同行することになる。</p>

<p>　親族や隣家の人たちの思惑が交錯する“最期の夜”に居合わせることになった彼女は、泥仕合に巻き込まれながら大切な“何か”も得ることになる－。</p>

<p>　原作は平安寿子さんの短編小説。後半の山場となる親族、隣人のやりとりは、本音むき出しの罵（ののし）りあいだ。韓国風のバイタリティーにあふれているが、終始突き放したようなユンギ監督の目線はどこかさっぱりしている。不思議と“お茶漬け風味”を感じる。</p>

<p>　ヒロインが家出中の娘の部屋に通され、１人きりになったところで部屋の主ミョンウンのソックスを履くシーンが印象的だ。ためらいから、ふと行方知れずの娘の気持ちと同化していく心の動きが手に取るようだ。空（うつ）ろな目にほんの少し安堵（ど）の色が宿ったような―ヒョジュの演技は瑞々（みずみず）しい。原作ではわずか２行で表現されているのだという。ユンギ監督の読解力なのだろう。</p>

<p>　背景の色調も巧みに使い分けられている、気がする。冒頭のソウルの街中は淡いブルーで冷たい。ミョンウンの部屋はほんのり黄色く温かい。だが、差し込む月明かりは青い。全編に使用されている高感度カメラの自在な動きがドキュメンタリーのような自然な流れも生んでいる。</p>

<p>　ヒロインをはじめ登場人物たちのキャラクターの輪郭はほどよくぼやかしてある。多面的ともいえる。心地よい余韻がある。韓国映画の多様化、成熟をあらためて実感させる作品でもある。</p>

<p>　高岡早紀の若い頃に似ているハン・ヒョジュは２０歳だが、高校在学中の０３年に「ミスにっこり選抜大賞」で優勝して芸能界入りしたというから今年で５年目となる。日本映画のファンで、好きな作品は「ジョゼと虎と魚たち」「ランドリー」「ゆれる」「亀は意外と早く泳ぐ」…。何となく今作に空気が重なる。分かる気がする。</p>

<p>　今回の作品では終盤、ヒロインの意外な素顔が明らかになる。あらためて序盤の様子まで遡（さかのぼ）って思い出してみると、一見そうは見えないのだが、よく見ればそんな雰囲気も－という感じを彼女は上手くかもしていると思う。次の作品が楽しみな女優さんだ。</p>]]>
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<title>観てから読む</title>
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<modified>2008-01-31T08:32:54Z</modified>
<issued>2008-01-30T17:12:58Z</issued>
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<summary type="text/plain">チーム・バチスタの栄光（２月９日公開）</summary>
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<![CDATA[<p>　ジョージ・クルーニーが主演した「スリー・キングス」（９９年）は、湾岸戦争のどさくさに紛れて金塊強奪をたくらむ３人の米兵の物語だった。鮮明に覚えているのは本筋とは関係ないアニメチックな挿入映像である。銃弾が体内に撃ち込まれた後、どのように内臓を損傷していくかを具体的に示すものだった。内臓はいかにもＣＧ風だったが、銃弾が残酷に命を奪っていく過程を否応なく記憶に焼き付けた。</p>]]>
<![CDATA[<p>　当時、戦況はテレビゲームのように伝えられたが、戦場の生々しい命のやり取りを伝えようという製作者のこだわりだった、と思う。そんな映像を思い出したのは、今作のこだわりが「心臓」に象徴されており、手術中のそれが繰り返しアップになるからだ。それは想像より白く、湯掻く前のアンキモのように見える。繰り返し登場させることによって、劇中の医師たちの“慣れ”のようなものに、観客を同化させようという狙いなのだろう。試写会後「吐きそうになった」と言葉を交わす女性たちもいたが、私の場合は観賞後にアンキモが平気で食べられるくらい同化した。</p>

<p>　現役医師の原作者・海堂尊氏の手術描写へのこだわりを、「アヒルと鴨のコインロッカー」（０７年）の中村義洋監督が彼なりの手法で映像化した結果だ。「アヒル―」のときは、原作（伊坂幸太郎）に張りめぐらされた様々な仕掛けを映像にしてみせたこと自体に驚かされた。原作の本質をすくいながら、表面上のディテールを織り上げる技には感服する。</p>

<p>　チーム・バチスタとは、成功率６０%といわれる心臓手術（バチスタ手術）を専門にした医術チームのことで、舞台となる東城大学病院では２６例の手術を連続して成功させているという設定で物語はスタートする。</p>

<p>　が、その後の３例で立て続けに患者が死亡。病院長は内部調査を思い立ち、外科手術とは無縁の心療内科医・田口（竹内結子）と厚労省の役人・白鳥（阿部寛）がその任に当たる。どうしても「トリック」の仲間由紀恵＝阿部寛コンビを思い浮かべてしまう。</p>

<p>　仲間がふんした売れない手品師は一本調子にボケていたが、窓際医師の竹内の演技には振幅がある。序盤は極端な内また歩きで頼りないキャラクターを強調する。これが後半に少しずつ明らかになる“鋭さ”に「意外な」印象を与える。狙い通りなのだろう。阿部の役人は「トリック」の教授よりキレる感じだが、自己顕示欲の強さはピタリと重なる。十八番といっていい役柄だ。</p>

<p>　チーム・バチスタのキャラもメリハリが効いている。リーダーのすご腕外科医・吉川晃司の不思議な貫録はなんだろう。「すかんぴんウォーク」（８４年）の頃から思っていたことだが、この人がスクリーンに現れると他の登場人物を圧する感じになる。一方、思い込みが強く、やや軽い第２助手はいかにもいそうなリアリティーがある。玉山鉄二が上手い。さらに佐野史郎、池内博之、田中直樹…くせ者が揃っている。キャスティングの妙である。</p>

<p>　竹内ふんする心療内科医がバチスタメンバーを動物にたとえてイラスト化するのだが、これを効果的に使うなど、観客に“パズル”を見えやすくしてくれる。原作者のこだわり、素材の味を活かしながら、口当たりの良い仕上がりになっている。</p>

<p>　中村監督の作品に関しては「読んでから観る」より「観てから読む」方をお薦めしたい。結果を知らずにハラハラと楽しみたい。</p>]]>
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<title>子供に見せたいファンタジー</title>
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<modified>2008-01-23T16:53:00Z</modified>
<issued>2008-01-23T16:59:42Z</issued>
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<summary type="text/plain">テラビシアにかける橋（１月２６日公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　ヒロイン・レスリーを演じるアナソフィア・ロブ（１４）を見ながら、「ペーパームーン」（７３年）のテイタム・オニールを思い出した。ブロンドのショートヘアということもあるが、明るさというか活力が湧き出てくるような印象が重なった。</p>]]>
<![CDATA[<p>　オニールにはどこか寂しそうな一抹の“影”もあったが、ロブは底抜けだ。だからこそ、ストンと落とされるような終盤の展開に思わず泣かされる。最近、押しなべて子役たちは達者で、涙腺をくすぐられることも少なくないのだが、ストレートな明るさにやられるのは久しぶりである。</p>

<p>　原作は世界で５００万部以上を売った同名の児童文学。１１歳の少年ジェス（ジョシュ・ハッチャーソン）は、姉２人、妹１人の貧しい家庭でのけ者扱いを受け、学校にもいじめっ子がいて居心地が悪い。心が安らぐのは絵を描いているときだけだ。</p>

<p>　が、隣家に越してきた転校生のレスリーとは気が合った。芸術家夫妻の一人娘の彼女は個性的で田舎町の学校を窮屈に感じていた。先入観抜きで物事に接し、ジェスの絵の才能にもいち早く気付いた。<br />
２人は家の裏の小川の向こう岸にツリーハウスを発見し、２人だけの世界を築く。想像の王国テラビシアでは２人は王と王妃。２人の想像は虚実を超えて、ファンタジーをつむいでいく。</p>

<p>　「シンプソンズ」や「ラグラッツ」の製作で童心をつかんできたガボア・クスポ監督は、さりげなく現実と幻想の境界を曖昧にしていく。「ナルニア国物語」のように仕切り目がはっきりきている訳ではなく。気付いてみれば、見る側も２人のテラビシアに足を踏み入れているという作りだ。この滑らかな接合というか融合が上手くいっている。</p>

<p>　テラビシアでの勇気ある行動は、現実世界にも反映され、真っ暗だったジェスの実生活にも明かりがさしてくる。が、とんでもない悲劇が２人に降りかかって…。</p>

<p>　原作者のキャサリン・パターソンは実子デヴィットをおそった悲劇をきっかけにこの作品を書いたという。また、映画ではそのデヴィットが共同脚本で参加している。幻想的な作品のそこここに身につまされるようなくだりが挿入されるわけである。</p>

<p>　冒頭で触れたロブの明るさとは対照的にハッチャーソンは哀しげな表情が印象的だ。繊細で場面に合わせて表情も自然に変化する。現在１５歳であり、脱子役後の活躍が楽しみだ。<br />
人生賛歌のファンタジーといえば、最近ではティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」（０３年）があった。少年期を描いた今作に対し、あちらは晩年を彩るそれだった。</p>

<p>　不思議なことにこの２つのファンタジーは同じような幕切れを迎える。今回主人公が完成した橋を渡って向こう側に見る風景と、「ビッグ―」の葬式シーンで主人公が目の当たりにしたそれはまさに相似形である。</p>]]>
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<title>ジョニー・デップの歌声と隠し味</title>
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<modified>2008-01-16T17:04:45Z</modified>
<issued>2008-01-17T12:31:55Z</issued>
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<summary type="text/plain">スウィーニー・トッド（１月１９日公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　ひと手間ふた手間の違いで料理の味には格段の差が出る、という。この作品には想像以上に手間が掛かっている。隠し味が仕込まれている。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ブロードウエー・ミュージカルの映像化は少なくないが、今回は実際に舞台の曲を書いたスティーブン・ソンドハイムがスタッフとして立ち会い、歌唱場面の演出に関わっている。映画史の生き字引ともいえるベテランプロデューサーのリチャード・Ｄ・ザナックでさえ「ティム（バートン監督）とソンドハイムが（スタジオの）両側に立っている風景はあまりに興味深かった」と振り返っている。</p>

<p>　一方、１９世紀のロンドンのすすけた、重苦しい雰囲気を再現したのが美術のダンテ・フェレッティ。フェデリコ・フェリーニ監督の６作品に関わった達人である。さらっと聞き流したり、単なる背景として細部を見逃すのはもったいない。噛めば噛むほど味が出る。</p>

<p>　ジョニー・デップの初めての歌声ばかりが注目されているが、名コンビのティム・バートン監督は完璧ともいえる周辺環境も整えているのである。ジャック・スパロウも良かったが、デップの底力を引き出すのはやはりバートン監督だ、と思う。コンビ作でいえば、「シザーハンズ」（９０年）を連想させる内容で、より重く、哀しい。だが、暗いにも関わらず不思議に心に温かさを残す。コンビならではの味わいである。</p>

<p>　主人公のトッド（デップ）は理髪師。彼の妻に横恋慕した悪徳判事（アラン・リックマン）のワナにかかり、監獄に送られる。１５年後脱獄したトッドは再び同じ街で開業するが、妻は自殺し、一人娘はあの判事のもとに幽閉されていると聞かされる。ひょんなことで彼の秘密を知った同業者を殺してしまい、その死体の処理に困るが、大家のラベット夫人（ヘレナ・ボナム＝カーター）がミンチにしてミートパイの原料にすることで解決してくれる。</p>

<p>　判事への復讐の思いに駆られるトッドは商売道具のカミソリで殺人を重ねる。それまで客足の絶えていたラベット夫人のミートパイの店はおいしいと町中の評判となり繁盛する。１８４７年に初めて舞台にかけられたという原作は文字通りのブラック・ユーモアに貫かれている。やがて夫人が隠していた秘密が明らかになり、復讐劇は意外な方向へ…。</p>

<p>　「スウィーニー・トッド」は９７年にも映画化（ジョン・シュレジンジャー監督、ベン・キングスレー主演）されているが、この作品で描かれていたトッドの物欲的な部分は省かれ、今回は復讐劇に純化している。連続殺人鬼ではあるが、より感情移入しやすい設定といえる。実は先の映画化時にもバートンの名が監督候補に挙がり、スケジュールの都合で断念したいきさつがある。その長年の思いが冒頭で書いたような“手間”にもつながり、残酷な復讐劇を愛の物語に昇華させている、といってもいいのだろう。</p>

<p>　さて、ようやくデップの歌声である。本当は先入観を持たないで聞いていただいた方がいいのかもしれないので詳述はさけるが、通常の話し声よりやや高い。想像以上に上手い。最初の歌はさりげなく歌いだすのだが、普通のセリフのように入りながら自然と盛り上げていく感じも堂に入っている。バートン＝デップが織り成すきめ細かさにあらためて驚かされる。</p>

<p>　首をカミソリで真横に裂いた後、首全体に血があふれ昔の郵便ポストのように見えるシーンは妙に美しい。バートン作品の“危ない部分”である。舞台とは違う、映画ならではの表現ともいえる。色んな意味で“怖い”作品である。</p>]]>
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<title>地球に見とれる</title>
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<modified>2008-01-15T05:55:56Z</modified>
<issued>2008-01-10T09:31:12Z</issued>
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<created>2008-01-10T09:31:12Z</created>
<summary type="text/plain">アース（１月１２日公開＝独英）</summary>
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<![CDATA[<p>　新しいツールはものの見方を変えてくれる。最近ではグーグル・アースが典型だ。地球が一惑星であることを再認識させ、自分の仕事場や自宅までズームアップすることで不思議な一体感も覚える。地球温暖化問題が、決して一過性ではなく、話題に上り続けていることにもこの新ツールがひと役買っている、と思う。</p>]]>
<![CDATA[<p>　今回はそんなグーグル・アース的視点で製作された作品だ。その名も「アース」。最近、頻繁に製作される自然ものドキュメンタリーを集大成風に、その視点は天空から地上まで滑らかにズームアップしていく。</p>

<p>　５０億年前、隕石の衝突によって地軸に微妙な角度が生まれ、それこそが多彩な生物を生み出すきっかけになったという太古の逸話からスケール感を持ってスタートする。</p>

<p>　製作に５年。撮影日数２０００日という映像には確かに厚みがある。熱帯から北極まで幅広い。生命が溢（あふ）れかえる地域とかすかなそれとのコントラスト、それぞれの美しさにも目を奪われる。</p>

<p>　総花的、網羅的なわけではない。際立つ部分にスポットが当てられ、ドラマもしっかり描かれる。生きるか、死ぬか。人間社会を映し出すような興亡に引き込まれる。</p>

<p>　もっとも印象的だったのはゾウとライオンのエピソードである。</p>

<p>　２４年前になるが、「少年ケニア」のアニメ映画化に際して、原作者の山川惣治先生の現地取材に同行したことがある。草原でキャンプをはった夜、ガイドたちが大きな火を絶やさないのが気になった。彼らが恐れたのはライオンではなくゾウだった。大群が通過すれば、テントなどひとたまりないという。移動用バンの運転手は「お前たちはブレイブだから残る。俺はクレバーだから家に帰る」というようなことを言って、その夜は自宅に帰ってしまった。確かに後で、白日のもとで見たゾウの群は圧巻だった。</p>

<p>　劇中でも、自力ではゾウがライオンを圧倒する。水を求めて移動するゾウの大群の周囲をライオンが徘徊するが、親ゾウに威嚇されて狙いの子ゾウには近づけない。わずかな水を飲むときは、ゾウが堂々と飲む近くでライオンは身をすくめるようにしながらおこぼれにあずかる図式だ。</p>

<p>　だが、ライオンはあきらめない。子ゾウ狙いと見せながら、わずかなチャンスに一頭の親ゾウを群から引き離し、集団で襲いかかった。粘り勝ち。狡猾（こうかつ）さが強さを上回った瞬間だ。練り上げた脚本のような成り行きに息をのんだ。</p>

<p>　「ディープ・ブルー」（０３年）のアラステア・フォザーギル監督とアフリカを舞台に多くのドキュメンタリー作品を手がけたマーク・リンフィールド監督の共同作品となっている。</p>]]>
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<title>人情のアンサンブル</title>
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<modified>2008-01-02T18:21:17Z</modified>
<issued>2008-01-03T09:03:45Z</issued>
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<summary type="text/plain">歓喜の歌（２月２日公開）</summary>
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<![CDATA[<p>　登場する男性たちはどうにも半端である。スジを通そうとしない。対照的に女性たちはしっかりと自己主張する。身につまされるやりとり。どこにでもありそうな光景。が、様々な思いが交錯しながら、最後は気持ちのいいクライマックスに至る。最近では「東京タワー　オカンとボクと、時々、オトン」（０７年）を撮った松岡錠司監督は一見さらっとした描写の積み重ねによって登場人物たちの人情の機微を浮かび上がらせる。</p>]]>
<![CDATA[<p>　原作は立川志の輔の新作落語。年末の２日間、地方の小さな町を舞台に物語はトラブルで幕を開ける。主人公は文化会館の主任（小林薫）。市役所から飛ばされてきた彼はまったくやる気がない。注意力散漫がたたって大晦日のイベントをダブルブッキングしてしまう。申し込んできたのが「みたま町コーラスガールズ」と「みたまレディースコーラス」だから無理もないが、晴れの日を目指して練習を重ねてきたママさんコーラスの２グループはともに譲らない。</p>

<p>　庶民派のガールズが初のお披露目会ならセレブなおば様が集うレディースは結成２０年の節目である。仕事も人生もなめていた彼がいきなり剣が峰に立たされる。女性たちのパワーに煽られ、難事に正面から立ち向かわざるを得なくなる。</p>

<p>　植木等の“無責任男”のようにいつの間にか状況が好転していくわけではない。けっこうリアルに“壁”にぶつかり、不恰好にこれを乗り越えていく展開だ。周囲の様々な思惑に突っつかれながら、無責任な中年主任がしだいに仕事への情熱を取り戻す更生譚でもある。</p>

<p>　小林をはじめとする出演陣アンサンブルが絶妙だ。誰かが引っ張る感じはない。目立とうというよりはセーブする意識のほうか勝っている印象だ。由紀さおり、藤田弓子、根岸季衣らいるだけで何かありそうなママさんコーラスのメーンの顔ぶれは、それでも、だからこそ、個性がほどよく光る。すごくいい人もすごく悪い人もいない。誰にも二面性がある。という当たり前の人間模様が逆に新鮮だ。</p>

<p>　コワモテのコーラスメンバーの中で“理想の女性”として異彩を放つのがガールズのリーダーの元音楽の先生役の安田成美だ。唯一の、すごくはないがいい人かもしれない。ダメ亭主（光石研）も温かく包み、主任と部下（伊藤淳史）とともにダブルブッキングの落としどころを模索する。</p>

<p>　そんな元先生が、いい加減のくせに“法律”の一線を越えるとなるとすっかり及び腰になる主任を後押しし、日常の一部のような雰囲気で違法行為の共犯者になってしまうところが面白い。詳述は避けるが、ここでの「違法」は法よりは義、的でやむを得ない行動である。主任に象徴される型から抜けられない「官」と自在な発想と行動をとる主婦の「民」がコントラストをなす場面でもある。</p>

<p>　渡辺美佐子、浅田美代子らも今の年齢ならでは味を出している。「ミスサイゴン」のジジ役、平澤由美の声量、キャラも効果的だ。</p>

<p>　季節感を気にする方ではないのだが、本来、年末に公開して欲しかった作品だ。</p>]]>
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<title>高品質の米実録もの</title>
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<modified>2007-12-26T16:41:52Z</modified>
<issued>2007-12-27T08:42:32Z</issued>
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<summary type="text/plain">アメリカン・ギャングスター（０８年１月公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　見応えがある。今年のアカデミー賞候補というのも納得できる。</p>]]>
<![CDATA[<p>（１）事実は小説よりも奇なり、を地で行く内容である。</p>

<p>（２）（１）に関係するが、主役２人は真逆の立場に対峙しながら生き方はまるで相似形。コントラストの強調から最後に収束していく流れは絵に描いたようである。</p>

<p>（３）そして２人に扮するデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウは文字通りのベストキャストである。<br />
 <br />
　ワシントン演じるフランク・ルーカスは、長年ギャングの大ボスに仕えてきた運転手だったが、ボスの死後、暗黒街からの様々なリクルートを蹴って独り立ち。ベトナム戦争の軍用機を利用して東南アジアから麻薬を密輸するという大胆な“産直商法”で一気にのし上がる。</p>

<p>　対するクロウ演じるリッチー・ロバーツは、警官が暗黒街から平然と賄賂（わいろ）を受け取り、公然と恐喝や横領をしていた時代にこれを拒み、特別編成のチームで麻薬供給ルートを粘り強く絞り込んでいく一本気な刑事だ。</p>

<p>　２人は７０年代の実在の人物である。ギャングと警察という正反対の世界で頭角を現しながら、それぞれの世界の中では異端視され、ある意味四面楚歌の身であるところは鏡に映したようだ。一方、大金を手にして家族孝行するルーカスに対し、仕事にのめり込むロバーツの家庭は崩壊状態だ。</p>

<p>　ルーカスの産直商法に脅威を覚え、あの手この手で圧力をかけてくるマフィアをはじめとする既成の組織や、恐喝まがいに賄賂を求めてくる警察に対し、ルーカスは硬軟織り交ぜて巧みに対処する。大胆さとこの政治力が彼の持ち味だ。整った顔立ち、よく焦点の変わる目。ワシントンには切れ者、知恵者の役が似合う。一瞬脇を見る表情は、冷静な中に恐れや陰りをにおわせる。この辺が上手い。</p>

<p>　クロウもタフで一直線のロバーツにピタリとはまる。優雅なルーカスとは対照的にいかつい表情で通している。密輸ルートを突き止めるために軍にまで踏み込んでいく強引さにもリアリティーを与えている。</p>

<p>　当然の成り行きで、ロバーツはルーカスの首根っこを押さえることになるのだが、そこから先は一転２人が共同戦線をはることになる。汚職警官の容赦ない割り出しである。</p>

<p>　リドリー・スコット監督の演出は、序盤から本当のワルは誰なのか、根本的な問題はどこにあるのか、を端的に示していく。汚職警官の典型として登場するジョシュ・ブローリンのワルぶりが印象に残る。</p>

<p>　完璧とも思えたルーカスの密輸ルートがボロを出したいきさつ、彼が一転ロバーツの捜査協力に同意する過程などは実話ならではの説得力がある。反目から協力、宿敵の間に芽生える友情に似た思い、最後に収斂（れん）していくのはありがちな結末だが、そこがちっとも陳腐に見えないところが、監督と２人の力なのだろう。</p>]]>
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<title>エンタメになった陰謀史</title>
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<modified>2007-12-19T17:35:46Z</modified>
<issued>2007-12-20T12:32:23Z</issued>
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<summary type="text/plain">ナショナル・トレジャー　リンカーン暗殺者の日記（１２月２１日公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　ちょうど１０年前にメル・ギブソンとジュリア・ロバーツが共演した「陰謀のセオリー」（リチャード・ドナー監督）という映画があった。主演の２人が国家権力に絡んだとてつもなく巨大な陰謀に触れてしまったことから、次から次へと危険に巻き込まれていくスリラーだった。</p>]]>
<![CDATA[<p>　虚実の境目を縫うような展開で、世間的には概ね高評価の作品だったが、私にはしっくりこなかった。ギブソン演じる主人公の“陰謀恐怖症”にどうしても馴染めなかった。特に序盤に著しい誇大妄想的な言動にはついていけなかった。</p>

<p>　「陰謀」「裏面史」というような“部分”で、日米の（米国人と私の）間には多分に感覚の違いがある、ような気がする。米国人の多くは主人公ギブソンの思いや行動に思い当たる部分が少なくないのだろうが、私には思い込みの強い変な人にしか見えなかった。</p>

<p>　今作は、そんな風土に基づいて陰謀史を題材にした典型的な娯楽作品といえそうだ。米独立宣言に隠された暗号を巡って展開された第１作（０４年）に続き、今回は副題通りリンカーン大統領を暗殺した男の残した日記に残された暗号を発端に物語が進行する。</p>

<p>　現実や日常生活と微妙にリンクした「陰謀のセオリー」とは色合いを異にし、「ダヴィンチ・コード」＋「インディ・ジョーンズ」的な徹底した娯楽作に仕上がっている。陰謀説を絵空事と突き放してしまう私のような人間でも、素直に楽しめる作品だ。</p>

<p>　今回は、歴史学者兼冒険家の主人公ベン・ゲイツ（ニコラス・ケイジ）の祖先がリンカーン暗殺に絡んでおり、暗殺を主導する立場にあったとの“汚名”を晴らすことがゲイツが謎解きに挑戦する動機になっている。敵役のウィルキンソン（エド・ハリス）も暗殺事件に関わった人物の末裔という設定で、血脈で遡（さかのぼ）る“重厚な”筋書きは、陰謀好きの米国ならではといえる。</p>

<p>　暗殺者の日記に記された暗号からスタートした謎解きは、パリ、ロンドンと場所を移し、再び米国に戻って黄金都市の伝説から、歴代の大統領に受け継がれた秘密文書へと続き、リンカーンら４人の大統領の巨大な顔がそびえるラシュモア山で大団円を迎える。</p>

<p>　謎解きのからくりは必ずひとひねりを加えるが、ビジュアル的にはあくまで分かりやすい。舞台には誰でも知る名所を選んでいる。日本でいえば、国会図書館で幕を開けた徳川埋蔵金秘話が、日光東照宮で驚くべき結末に至る、という絵に描いたような展開ということになる。一方で、背景はていねいに作りこまれ、俳優たちの演技もシリアスできめ細かい。娯楽作品はかくあるべきというお手本のような映画に仕上がっている。</p>

<p>　ケイジを中心に恋人役のダイアン・クルーガー、相棒の天才ハッカー役のジャスティン・バーサが主軸トリオとなるが、ケイジの両親にふんするジョン・ボイドとヘレン・ミレン、敵役のハリス、ＦＢＩ捜査官のハーヴェイ・カイテルと周囲にはわくわくさせるような芸達者をそろえている。</p>

<p>　「クィーン」の印象が未だに強いミレンが「ヴィクトリア女王が…」というセリフを口にしたときの微妙な“間”にパロディの匂いを感じたのは考えすぎか。</p>

<p>　前作に続き、製作ジュリー・ブラッカイマー、監督・製作ジョン・タートルトーブがコンビを組んでいる。</p>]]>
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<title>娼婦の街の少女の歌声</title>
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<modified>2007-12-12T18:46:26Z</modified>
<issued>2007-12-13T08:11:31Z</issued>
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<summary type="text/plain">線路と娼婦とサッカーボール（１２月２２日公開＝スペイン）</summary>
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<![CDATA[<p>　何と美しい歌声なのだろう。元娼婦であり、“後輩”たちにコンドームを売って生計を立てているマリナの歌がスーッと心に染みてくる。路上を歩きながら、不安に苛（さいな）まれた後輩の傍（かたわ）らで、ひたすら歌う。</p>]]>
<![CDATA[<p>　少女時代から２０年間娼婦として働き、１８年前に引退した彼女は片方の目がない。酒に酔った恋人につぶされ、別の男が義眼をくれたが、それもなくしてしまった。断片的に語られる半生は余りにも悲しい。</p>

<p>　だが、その声は不思議なほど澄んでいる。腹から出るような厚みもないし、年輪を感じさせるハスキーな魅力というわけでもない。少女のような美しさなのだ。この歌声を聴くだけで、この映画は見る価値がある。</p>

<p>　最近、ドキュメンタリー映画を見る頻度が高くなっている。「撮りたい」という衝動のようなものがよりダイレクトに伝わってくるからだと思う。</p>

<p>　旅行ライターからドキュメンタリーも撮るようになったスペインのチェマ・ロドリゲス監督は当初、グアテマラのストリート・ギャングに興味を抱いた。彼らから線路（リネア）沿いのスラムで働く最下層の娼婦たちのことを聞いた。</p>

<p>　彼女たちは２ドル半で体を売り、夫や恋人や子供や猫を養い、その夫や恋人の暴力に怯え、警察からも嫌がらせを受けている。人権を求めて今にも立ち上がろうとしている。サッカーチームを結成してアピールしようと考えている。ドキュメンタリーとして打ってつけの素材ではないか。</p>

<p>　片方の目がないマリナは、娼婦チーム（リネア・オールスターズ）の一員ではなく、応援団の１人に過ぎなかった。単なる“添え物”である。が、撮影が進むに従って“主役”の１人として膨らんできたのだという。さりげない語りに“重み”があり、歌には力がある。気が強く、美しく、恋人は服役中のギャング－というバレリアが、彼女の歌に癒され、涙するシーンが印象的だ。</p>

<p>　“添え物”がいつの間にか“主役”に。「撮りたい」思いに従う臨機応変こそドキュメンタリーの醍醐味だろうし、マリナの数々のエピソードがそれを具現している。</p>

<p>　メンバー全員が娼婦という素性を明かしたために女子サッカー大会の参加資格を失ってしまったリネア・オールスターズは、ジャーナリストや旅行会社の支援を受けながら“草サッカークラブ”を相手に各地を転戦する。世間の注目は集めるが、文字通り話題先行型で連敗が続く。だが、リネアのスラムしか知らない彼女たちにとって転戦先の風景はすべて新鮮であり、生きる喜び、のようなものを実感していく。</p>

<p>　初勝利の後、隣国エルサルバドルの娼婦チームとの“国際親善試合”が実現する。が、世間の注目もしだいに冷める。“お祭り騒ぎ”をきっかけに道が開けた者もいれば、そうならない者も…。</p>

<p>　無常観漂う中で、救いとなるのが、やはりマリナのエピソードである。チームの転戦と並行する形で彼女の家の“建築風景”が挿入される。豪雨で流された家を、「神様の導きで出会った」現恋人カルロスが仲間とともに修復している。廃物利用の文字通り雨風を防ぐだけの家だ。それでも終盤、彼女はカルロスの腕に抱かれて窓から荒んだ町並みを眺めながら「私は幸せだ」と繰り返す。思わず「本当に良かったですね」と返したくなる屈託のない笑顔だ。</p>

<p>　どうしようもない貧困、差別。娼婦たちの元気やマリナの笑顔も本来痛々しいはずなのだが、明るさがストレートに伝わる。ともすれば“上から目線”で見てしまいそうなこちら側が、逆に彼女たちの強さに励まされる不思議な作品だ。</p>]]>
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<title>ジョン・レノンの時代</title>
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<modified>2007-12-05T15:40:31Z</modified>
<issued>2007-12-06T08:53:17Z</issued>
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<summary type="text/plain">ピース・ベッド（１２月８日公開＝米）、チャプター２７（１２月１５日公開＝米）</summary>
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<![CDATA[<p>　８１年の１２月８日、入社２年目の私は日比谷公園で行われたジョン・レノンを偲ぶ会を取材する機会があった。主催のファンクラブのスタッフに話を聞いていると、全国紙の社会部の記者が「私もいいですか」と割り込んできた。ビートルズは何人組ですか？　解散のいきさつは？　えーっと奥さんは？　等々。ジョン・レノンにまつわる基礎的情報をほぼ同世代のその記者がまったく知らないことにまず驚き、こちらの取材が進まないことにイライラしつつ、いつの間にか知識ゼロでも物怖じしない社会部記者の姿勢に妙に感心していた。翌日、それなりのスペースで扱われたその新聞の記事にレノンへの“思い”のようなものまで込められていたことにもう１度感心した。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ジョン・レノンの生き方は、短時間の口伝てでも人の心に染み込むだけのインパクトがあったということなのだろう。</p>

<p>　そのイベントのちょうど１年前の８０年１２月８日、ニューヨークの自宅マンションの前で、レノンは凶弾に倒れた。２７年目の今年、命日とその１週後にくしくも彼にまつわる２本の映画が相次いで公開される。</p>

<p>　「ピース・ベッド」（デヴィッド・リーフ＆ジョン・シャインフェルド監督）の原題は「ＴＨＥ　Ｕ.Ｓ.　ＶＳ.　ＪＯＨＮ　ＬＥＮＮＯＮ」。合衆国対レノンということである。レノンとオノ・ヨーコ夫妻の発言力を時のニクソン政権がいかに疎（うと）ましく思っていたか。多くの若者が支持する一方で、いかに大きな反発があったか。ビートルズ時代の発言にまで遡り、ヨーコをはじめとする周囲の人々のインタビューも交えたドキュメンタリーの決定版だ。</p>

<p>　私生活を追い回すマスコミを逆手に取り、夫妻は世界各地でベッドルームでの会見を行う。戦場とは対照的なシチュエーションでひたすら平和を訴える。これも“政治力”と言っていいのだろう。夫妻が放つパワーが当時いかに圧倒的なものだったがうかがえる。</p>

<p>　もう１本の「チャプター２７」（Ｊ・Ｐ・シェファー監督）はレノン銃撃犯チャップマンの犯行までの３日間を再現した作品だ。原案となったのは現在も刑務所に収監されているチャップマン本人に２００時間に及ぶインタビューを行った「ジョン・レノンを殺した男」（ジャック・ジョーンズ著）。チャップマンはレノンの熱烈なファンであり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していた。ニューヨークでの最後の３日間はこの小説と同じような行動を取りながら、２６章からなるこの作品にレノン殺害という“２７”章（チャプター２７）を自ら付け加えてしまう。</p>

<p>　チャップマンにふんするジャレット・レトは体型までオタク風デブに“改造”してなりきっている。こんな男のいびつな衝動がレノンの命を奪ったのか、と思う一方でチャップマンに不思議な魅力さえも感じてしまう。人間チャップマンに入り込んだレトは掛け値なしの好演だ。</p>

<p>　お騒がせの話題提供ばかりのリンジー・ローハンもファン仲間のジュード役で女優としての地力を見せている。息子のショーン・レノンや乳母にも愛された彼女は、“最悪のファン、チャップマン”の対極の存在として描かれる。</p>

<p>　「ピース―」が内側から見たレノンなら、「チャプター」は外側から見たそれ、前者にはヨーコが「レノンをレノンたらしめる存在」として登場し、後者では単なる“影”にしか扱われていない。半生を網羅した前者と最後の一瞬にこだわった後者という具合に文字通り対極の作品である。が、どちらのジョン・レノンにも代えがたい魅力が漂っている。</p>]]>
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<title>母娘愛とは</title>
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<modified>2007-11-28T16:10:45Z</modified>
<issued>2007-11-29T10:48:21Z</issued>
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<created>2007-11-29T10:48:21Z</created>
<summary type="text/plain">サラエボの花（１２月１日公開＝ボスニア・ヘルツェゴビナ）</summary>
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<![CDATA[<p>　父と息子の微妙な距離感に比べ、母と娘はよくも悪しくも濃密な関係にある、ような気がする。街中や電車の中でまれに遭遇する、耳をふさぎたくなるような親子喧嘩はたいてい母娘である。私自身、妻と娘の“濃厚な”やりとりにはついていけないことがある。</p>]]>
<![CDATA[<p>　そんな密な関係の奥にどうしようもない憎しみの根があったら…。もっともシンプルな愛憎関係にこれ以上はあり得ないと思われる反戦のメッセージが込められた一編だ。</p>

<p>　ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが舞台。シングルマザーのエスマは１２歳になる１人娘サラと２人暮らしだ。あけすけに語り合い、喧嘩もするが幸せそうだ。父親は紛争で亡くなったジャヒード（殉教者）ということになっている。</p>

<p>　が、修学旅行が近づくにつれ、サラは疑念を抱く。ジャヒードの子弟には優遇措置があるはすなのにエスマは修学旅行の費用を稼ぐために昼夜働き続けている。級友からはサラの父の名がジャヒードのリストに無い、と聞かされる。</p>

<p>　紛争時の収容所でエスマが敵の兵士にレイプされ、出産したのがサラだったのだ。サラに激しく詰問され、エスマはとうとう告白してしまう。</p>

<p>　エスマに扮するのは、最近では「ライフ・イズ・ミラクル」（０４年）に出演したミリャノ・カラノヴィッチ。気持ちを遮断してしまったかのような空ろな目が「地獄の過去」を象徴する。一転、娘と罵り合い、胸の奥底にしまっていた秘密を告白するシーンでは、内臓まで覗かせるような咆哮で、その振幅はすさまじい。</p>

<p>　対してサラ役のルナ・ミヨヴィッチは今回がデビュー作。文字通り純な魅力である。ボーイッシュな雰囲気が役柄に馴染んで痛々しい。</p>

<p>　真相を知ったサラは頭を丸刈りにしてしまう。心を閉ざしてしまう。</p>

<p>　ラストは修学旅行への出発シーンだ。詳述は避けるが、言葉では表せないような母娘の氷解。決して消えない悲しみ、憎しみを抱えながらも通じ合う母娘、ポジティブな“気”が宿る娘の瞳…。悲しくて、温かい。余韻がものすごく多い幕切れだ。</p>

<p>　作品資料にあるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦公共放送東京支局長の西浜滋彦氏の記述によると、３民族が混在する同国では「民族浄化」の名のもとに、紛争時多くの非道が行われた。死傷者は戦場だけから出るわけではない。占領地域の住民は自宅から追い立てられる際に男性や子供は殺され、女性は辱められた上に本人の意思に反して出産までさせられた。民族間の和解の可能性を消し去るためだという。</p>

<p>　同国では、エスマとサラは特殊というよりはむしろ典型ということになるのかもしれない。サラエボ生まれのヤスミラ・ジュバニッチ監督は「（前略）憎しみという感情の中で生まれてしまった子供を持つ女性の、心を襲う感情とはすさまじいに違いない」という思いでこの映画を撮ったという。また、シナリオを書き上げたのは自分の子供に授乳していた時期であり、女性ならではの感覚が作品の随所にのぞく。</p>]]>
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<title>三船敏郎と織田裕二</title>
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<modified>2007-11-22T08:05:05Z</modified>
<issued>2007-11-22T08:18:55Z</issued>
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<summary type="text/plain">椿三十郎（１２月１日公開）</summary>
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<![CDATA[<p>　この映画は圧倒的に不利な前提に立っている。どうしても黒澤明監督のオリジナル作品と比較されてしまうこと。ストーリー上にまぶされた様々な仕掛けやユーモアの初見ならではのインパクトが、旧作を知っている人間にとっては半減してしまうこと。モノクロからカラーに転じたことが表現上のプラスには働きにくいこと（モノクロ映像にパートカラーで色づけされた椿の花の強烈な印象がカラー映像の中で薄まってしまうし、陰影が随所にもたらす効果がどうしても弱くなる）―等々上げればきりがない。</p>]]>
<![CDATA[<p>　今さらながらだが、黒澤監督の「椿三十郎」（６２年）はパーフェクトな作品である。個人的には黒澤映画の中でも最も好きな作品であり、名画座とビデオで計３、４回は見ている。全編真芯で捉えて揺るぎがなく、新たな味付けをすれば芯を外すことになる。</p>

<p>　森田芳光監督は徹底的にオリジナル版と寄り添うように撮り進めている。木材や土の色合い、着物…黒澤作品を光度分析して色を選んだような、気さえする。スタッフの丁寧な仕事ぶりと黒澤作品への深い敬意がうかがえる。</p>

<p>　正義感に燃える９人の若侍の意気にほだされた腕利きの浪人三十郎が、とある藩の汚職と陰謀を暴く痛快物語は、藩内の人間関係と勢力図を巧妙に提示する山中の社殿の幕開けから一気に畳み掛ける。</p>

<p>　織田裕二の三十郎は当時の三船敏郎より３歳若いことになるが、太く作った声に工夫がうかがえる。しっくりくる。冒頭シーンはかなり清潔な身なりで、食い詰めた印象には遠い気もしたが、苦闘を続ける中で少しずつ汚れていく様子がかえって分かりやすかった。</p>

<p>　対して黒幕の懐刀として敵役となる豊川悦司は、旧作の仲代達矢よりやや丸い印象だ。切れ者でありながら三十郎に裏をかかれ続ける僅かな“抜け”がより強調され、ユーモア交じりの三十郎のキャラに重なる部分も増した。ラストの「あいつと俺は同じだ」という三十郎の“同族意識”を受け入れやすくしているのは確かだ。</p>

<p>　若侍に組する腰元のガッツポーズ、そしてラストの織田×豊川の対決シーンがもっとも目についた旧作との違いだ。この腰元村川絵梨のキャラ、佐々木蔵之助の“押入れ侍”という笑わせどころの微妙な現代風アレンジは森田監督の得意なところ。中村玉緒と鈴木杏のおっとり母娘も－見た目もここまで“三枚目”でいいの、と思った鈴木の結い上げ髪姿も含め－森田流を感じさせる。</p>

<p>　が、ラストの対決はン？　旧作が無ければ工夫もあるし問題なく目を見張るシーンなのだが、台本に「ここから先は文字では書けない」と記されたと言われる黒澤版に比べると、文字で描写可能の域に止まったと思う。</p>

<p>　他も、風間杜夫、小林稔侍、西岡徳馬の３悪人、旧作の伊藤雄之助から“馬面”つながりの藤田まことと、おそらくベストと思えるキャストの演技には特別な気合いを感じる。森田演出はもちろんだが、背後の“クロサワの神通力”につき動かされたような印象だ。</p>

<p>　松山ケンイチを始めとする若侍もいい。年齢には思えないほど役作りが深い。彼らが“大作感”を支えている気がする。</p>

<p>　黒澤作品を知らない若者には、映画の面白さを心底味わえるはずである。そして、知っている年配者も色んな意味で楽しめた。</p>]]>
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