2008年02月28日
コーエン兄弟のこだわり
-ノー・カントリー(3月15日公開=米)-
3人の男たちにはそろって自信がある。それぞれの信念に基づいて直線的に行動する。が、本人がまっすくであるほど端からみれば滑稽である。三者三様に突き進み、ひとたび交われば火花を散らす。わずかでも自信が揺らいだほうが負ける。命取りになる。画面には常に怖いほどの緊張感が漂っている。が、やはり滑稽である。コーエン兄弟監督の新作はピリピリしていてかつ可笑しい。
ベトナム帰還兵のモス(ジョシュ・ブローリン)は狩りの最中に200万ドルの札束を発見する。周囲には大量のヘロインや死体がころがり、銃撃戦が行われたようだ。明らかに“危ない金”だが、彼にはその金を奪って逃げ切る自信があった。
その金を取り戻すために雇われたのが殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)。エアガン、といっても空気で弾を飛ばすのではなく、空気そのものの噴出で相手を殺す異様な武器を使用している。「約束」とコインの表裏だけで殺しを決める。
シガーにストップをかけるべく動き出したのがベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)だ。昔ながらの信念があり、いかなる無法であろうとも、止める方法があると信じている。
個性派3人が文字通り渾身の役作りである。
それぞれの目標にまい進しながら、ブローリンふんするモスの恐れやジョーンズふんするベルの不安はスクリーンからにじみ出るように伝わってくる。役者の腕の見せ所だ。
が、バルデムのシガーだけはそんな要素が微塵もない。ひたすら表情を殺している。それでも不思議なことに3人の中で図抜けて人間くささや滑稽さを感じるのである。
これまでスクリーンに登場した数多い殺し屋キャラの中で、妙に重なる気がするのがジム・ジャームッシュ監督の「ゴースト・ドッグ」(99年)に登場したフォレスト・ウィテカーだ。伝書鳩を唯一の友に、「葉隠」=武士道を信奉して生きる一匹狼の殺し屋だ。
信じるのは自分だけ、を貫くシガーとは一見対極にあるのだが、バルデムが全編に漂わす空気、ベル保安官とのニアミスを連想させる一瞬の挿入場面で見せた意外な表情に想像力をかきたてられた。スクリーンには登場しないこの殺し屋シガーの私生活をいつの間にか「ゴースト・ドッグ」に重ね合わせていた。
コーエン兄弟は3人が操るツールにかなりこだわっている。シガーが操るエアガンはボンベの先に射出部分をつけた消火器のような不恰好なものだ。他では見たことがない。モスは200万ドルを隠すにあたってホームセンターのようなところに出かけてテントをいくつも買う。潜伏先のモーテルのエアダクトの奥に押し込むための長い鍵棒をそのポールをつなぎ合わせて作るためである。そのポールのためだけにテント丸ごと何組も買ったのである。工作好きなのだろうか!? ディテールの描き方が面白い。
映像の美しさ、ヒヤヒヤさせる娯楽性、マニアックなこだわり-三拍子そろった作品である。
2008年02月21日
佐藤隆太と学生プロレス
-ガチ☆ボーイ(3月1日公開)-
松本幸四郎のおっとりした教授ぶりがはまっていた「天才柳沢教授の生活」(02年、フジテレビ)で、実は一番気になっていたのが、娘世津子(国仲涼子)の恋人恩田ヒロミツ役の佐藤隆太だった。
入り婿的雰囲気、かなり優柔不断だが、何事も鼻にかけない-こういうユルめのいい人は、はっきりしたキャラを演じるより数段難しい、と思う。それをまったく臭みなく、自然にものにしているところがすごいと思った。その甲斐あってか、テレビCMを含め最近の露出は決して少なくない。が、どの作品でも、ヒロミツ的役柄を当てられることが多い。
せっかく力があるのに、このテのキャラが主演にすわった作品はイメージしにくい。その難問にピタリと答えたのが今作だと思う。以前このコーナーでも取り上げた濱田岳の「アヒルと鴨のコインロッカー」(07年=バックナンバー参照)のように俳優と作品の“出会い”を感じさせる作品だ。
主人公の五十嵐(佐藤隆太)には「高次脳機能障害」がある。眠るとその日にあったことをすべて忘れてしまう。大学進学までは成績優秀で弁護士を夢見ていた彼は、事故をきっかけにこの障害をおってから空しい日々を送っていた。事故までの記憶は鮮明なのに、それから何カ月たってもいったん眠ると事故直後に戻ってしまう。
そんな彼が出会ったのが学生プロレスだった。脳の記憶が無くなっても体がその感触を覚えている。唯一の生きる実感となる。だが、技は“体得”できても、試合の運び(シナリオ)は覚えることができない。結果、彼の登場する試合は“ガチンコ”となってしまう。
勉強の虫だったそれまでを映すように佐藤のほっそりとした体が痛々しい。文字通り1日1日を生きる純な心を宿す顔にもリアリティーがある。恐る恐る部室を訪れる、毎日が“初日”の表情にも臭みはない。佐藤はピュアさをにじませるのが上手い。
原作は劇団モダンスイマーズの舞台「五十嵐伝~五十嵐ハ燃エテイルカ~」(作・演出蓬莱竜太)。懸命な五十嵐は終盤にヒーローとなる。「チャンス」(81年米)「フォレスト・ガンプ」(94年米)をほうふつとさせる、純な心が奇跡を起こす物語だ。
五十嵐が思いを寄せるプロレス研究会マネジャーにサエコ、妹に仲里依紗、父親に泉谷しげる、研究会OBに宮川大輔とキャスティングにも工夫がある。
メガホンは佐藤と同い年の27歳、小泉徳宏監督。前作「タイヨウのうた」(06年)に続いて難病が題材だが、どちらもしっかりと青春ものに仕上げているところは、早くも手練を感じさせる。今回はコメディの色もたっぷり盛り込まれている。学生プロレスの独特の世界をのぞき見る面白さもある。
2008年02月14日
クイーン今昔
-エリザベス:ゴールデン・エイジ(2月16日公開=英)-
昨年の「クイーン」がいつの間にか頭に浮かぶ。鋼のような精神力と表に出さない脆さ。危機に際した胆力に感服し、1人の女性としての素顔が魅力的だ。「クイーン」も今作も女王の周囲には逆風が吹いている。前者はダイアナ妃の死から巻き起こった王室バッシング、後者は当時の最強国スペイン無敵艦隊の襲来。後者のほうがスケールが大きい、遡(さかのぼ)ること16世紀の話だから大胆な脚色も可能だ。
というわけで、今作は権謀術数が渦巻き、それを乗り切る強いエリザベス1世が登場し、ときに彼女が女性としての一面も覗かせる一大娯楽絵巻である。まだ弱小国だったイングランドが女王主導で黄金時代を迎えるまでが描かれる。
エリザベス1世即位を巡る政争を描いて話題となった「エリザベス」(98年)の続編なのだが、前作の公開から9年を経る間に女王役のケイト・ブランシェットが身につけたものが、そのままスクリーン上の貫録となっている。剃り上げた眉が目力を強調し、唇の両端をかすかに下げるだけで他を圧するような迫力が出ている。
女王の強さは常に捨て身の姿勢に支えられている。自らの離婚のためにローマ教皇と決別した父ヘンリー8世の政策を受け継ぎ、国教会を主柱に据えたエリザベス1世は国内の半数を占めるカソリック回帰派の反発を買い、常に暗殺の脅威にさらされている。にもかかわらず、ことあるごとに民衆の前に姿を見せる。無防備である。「クイーン」であらためてイメージアップした現女王エリザベス2世が75年に来日したとき、警備の厳重ぶりに「これは誰のため。常に命をさらすのが私の仕事です」という主旨のコメントをしたというエピソードが重なる。
文字通りのヴァージン・クイーンであった1世はテューダー朝最期の女王であり、現女王はウィンザー朝。だが、あらためてエリザベス繋(つな)がりの2人には共通点が少なくない。ともに生まれた段階では王位継承順位は決して高くなく、様々な偶然が重なって王位に就いている。そろって20代半ばの若さで即位し、在位年数は長い。だからというわけではないが、まだ記憶に新しい「クイーン」の残像がどうしても重なってしまう。
「クイーン」の女王がもっとも人間くさかったのは、河のほとりで1人きりになって、ほろりと涙を流すシーンだったが、今作はかなり生々しい。航海士ウォルター・ローリーに抱く恋心である。分身ともいえる侍女ベスを媒介に面会を重ねるうちに、ベスがローリーの子を宿してしまうという昼メロのような展開が、淡色の上品な映像でスケール感のある大河絵巻にさりげなく溶け込んでいる。
スペクタクル部分の迫力も見逃せない。無敵艦隊を撃破するアルマダの海戦、兵士を鼓舞する女王の甲冑姿…。前作に続いてメガホンを取ったインド出身のシェカール・カプール監督は隅々まで凝っている。
ケイト・ブランシェットばかりに目がいきがちだが、前作に続いて側近ウォルシンガムを演じたジェフリー・ラッシュ、ローリー役のクライヴ・オーウェン、べス役のアビー・コーニッシュがそろって好演している。
2008年02月07日
まとわりつくカメラ
-アドリブ・ナイト(2月9日公開=韓)-
じりじりとまとわりつくストーカーのような視線。ヒロイン(ハン・ヒョジュ)を盗み見るようなカメラワークが印象的な幕開けだ。
韓国映画界の期待をになうイ・ユンギ監督の作品は実は初めてなのだが、独特の覗(のぞ)き見のような手法にまずは引き込まれた。
ヒョジュふんするヒロインを注視していた2人の若者は、痺(しび)れを切らしたように彼女に声を掛ける。「幼なじみのミョンウンではないのか?」。否定する彼女に散々食い下がった末に、2人はミョンウンの父親が死の床にある事実を突きつけて、家出中の娘の身代わりとして臨終に立ち会って欲しい、と懇願する。断りきれなくなった彼女は、郊外にあるミョンウンの実家に同行することになる。
親族や隣家の人たちの思惑が交錯する“最期の夜”に居合わせることになった彼女は、泥仕合に巻き込まれながら大切な“何か”も得ることになる-。
原作は平安寿子さんの短編小説。後半の山場となる親族、隣人のやりとりは、本音むき出しの罵(ののし)りあいだ。韓国風のバイタリティーにあふれているが、終始突き放したようなユンギ監督の目線はどこかさっぱりしている。不思議と“お茶漬け風味”を感じる。
ヒロインが家出中の娘の部屋に通され、1人きりになったところで部屋の主ミョンウンのソックスを履くシーンが印象的だ。ためらいから、ふと行方知れずの娘の気持ちと同化していく心の動きが手に取るようだ。空(うつ)ろな目にほんの少し安堵(ど)の色が宿ったような―ヒョジュの演技は瑞々(みずみず)しい。原作ではわずか2行で表現されているのだという。ユンギ監督の読解力なのだろう。
背景の色調も巧みに使い分けられている、気がする。冒頭のソウルの街中は淡いブルーで冷たい。ミョンウンの部屋はほんのり黄色く温かい。だが、差し込む月明かりは青い。全編に使用されている高感度カメラの自在な動きがドキュメンタリーのような自然な流れも生んでいる。
ヒロインをはじめ登場人物たちのキャラクターの輪郭はほどよくぼやかしてある。多面的ともいえる。心地よい余韻がある。韓国映画の多様化、成熟をあらためて実感させる作品でもある。
高岡早紀の若い頃に似ているハン・ヒョジュは20歳だが、高校在学中の03年に「ミスにっこり選抜大賞」で優勝して芸能界入りしたというから今年で5年目となる。日本映画のファンで、好きな作品は「ジョゼと虎と魚たち」「ランドリー」「ゆれる」「亀は意外と早く泳ぐ」…。何となく今作に空気が重なる。分かる気がする。
今回の作品では終盤、ヒロインの意外な素顔が明らかになる。あらためて序盤の様子まで遡(さかのぼ)って思い出してみると、一見そうは見えないのだが、よく見ればそんな雰囲気も-という感じを彼女は上手くかもしていると思う。次の作品が楽しみな女優さんだ。