2007年12月27日
高品質の米実録もの
-アメリカン・ギャングスター(08年1月公開=米)-
見応えがある。今年のアカデミー賞候補というのも納得できる。
(1)事実は小説よりも奇なり、を地で行く内容である。
(2)(1)に関係するが、主役2人は真逆の立場に対峙しながら生き方はまるで相似形。コントラストの強調から最後に収束していく流れは絵に描いたようである。
(3)そして2人に扮するデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウは文字通りのベストキャストである。
ワシントン演じるフランク・ルーカスは、長年ギャングの大ボスに仕えてきた運転手だったが、ボスの死後、暗黒街からの様々なリクルートを蹴って独り立ち。ベトナム戦争の軍用機を利用して東南アジアから麻薬を密輸するという大胆な“産直商法”で一気にのし上がる。
対するクロウ演じるリッチー・ロバーツは、警官が暗黒街から平然と賄賂(わいろ)を受け取り、公然と恐喝や横領をしていた時代にこれを拒み、特別編成のチームで麻薬供給ルートを粘り強く絞り込んでいく一本気な刑事だ。
2人は70年代の実在の人物である。ギャングと警察という正反対の世界で頭角を現しながら、それぞれの世界の中では異端視され、ある意味四面楚歌の身であるところは鏡に映したようだ。一方、大金を手にして家族孝行するルーカスに対し、仕事にのめり込むロバーツの家庭は崩壊状態だ。
ルーカスの産直商法に脅威を覚え、あの手この手で圧力をかけてくるマフィアをはじめとする既成の組織や、恐喝まがいに賄賂を求めてくる警察に対し、ルーカスは硬軟織り交ぜて巧みに対処する。大胆さとこの政治力が彼の持ち味だ。整った顔立ち、よく焦点の変わる目。ワシントンには切れ者、知恵者の役が似合う。一瞬脇を見る表情は、冷静な中に恐れや陰りをにおわせる。この辺が上手い。
クロウもタフで一直線のロバーツにピタリとはまる。優雅なルーカスとは対照的にいかつい表情で通している。密輸ルートを突き止めるために軍にまで踏み込んでいく強引さにもリアリティーを与えている。
当然の成り行きで、ロバーツはルーカスの首根っこを押さえることになるのだが、そこから先は一転2人が共同戦線をはることになる。汚職警官の容赦ない割り出しである。
リドリー・スコット監督の演出は、序盤から本当のワルは誰なのか、根本的な問題はどこにあるのか、を端的に示していく。汚職警官の典型として登場するジョシュ・ブローリンのワルぶりが印象に残る。
完璧とも思えたルーカスの密輸ルートがボロを出したいきさつ、彼が一転ロバーツの捜査協力に同意する過程などは実話ならではの説得力がある。反目から協力、宿敵の間に芽生える友情に似た思い、最後に収斂(れん)していくのはありがちな結末だが、そこがちっとも陳腐に見えないところが、監督と2人の力なのだろう。
2007年12月20日
エンタメになった陰謀史
-ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記(12月21日公開=米)-
ちょうど10年前にメル・ギブソンとジュリア・ロバーツが共演した「陰謀のセオリー」(リチャード・ドナー監督)という映画があった。主演の2人が国家権力に絡んだとてつもなく巨大な陰謀に触れてしまったことから、次から次へと危険に巻き込まれていくスリラーだった。
虚実の境目を縫うような展開で、世間的には概ね高評価の作品だったが、私にはしっくりこなかった。ギブソン演じる主人公の“陰謀恐怖症”にどうしても馴染めなかった。特に序盤に著しい誇大妄想的な言動にはついていけなかった。
「陰謀」「裏面史」というような“部分”で、日米の(米国人と私の)間には多分に感覚の違いがある、ような気がする。米国人の多くは主人公ギブソンの思いや行動に思い当たる部分が少なくないのだろうが、私には思い込みの強い変な人にしか見えなかった。
今作は、そんな風土に基づいて陰謀史を題材にした典型的な娯楽作品といえそうだ。米独立宣言に隠された暗号を巡って展開された第1作(04年)に続き、今回は副題通りリンカーン大統領を暗殺した男の残した日記に残された暗号を発端に物語が進行する。
現実や日常生活と微妙にリンクした「陰謀のセオリー」とは色合いを異にし、「ダヴィンチ・コード」+「インディ・ジョーンズ」的な徹底した娯楽作に仕上がっている。陰謀説を絵空事と突き放してしまう私のような人間でも、素直に楽しめる作品だ。
今回は、歴史学者兼冒険家の主人公ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)の祖先がリンカーン暗殺に絡んでおり、暗殺を主導する立場にあったとの“汚名”を晴らすことがゲイツが謎解きに挑戦する動機になっている。敵役のウィルキンソン(エド・ハリス)も暗殺事件に関わった人物の末裔という設定で、血脈で遡(さかのぼ)る“重厚な”筋書きは、陰謀好きの米国ならではといえる。
暗殺者の日記に記された暗号からスタートした謎解きは、パリ、ロンドンと場所を移し、再び米国に戻って黄金都市の伝説から、歴代の大統領に受け継がれた秘密文書へと続き、リンカーンら4人の大統領の巨大な顔がそびえるラシュモア山で大団円を迎える。
謎解きのからくりは必ずひとひねりを加えるが、ビジュアル的にはあくまで分かりやすい。舞台には誰でも知る名所を選んでいる。日本でいえば、国会図書館で幕を開けた徳川埋蔵金秘話が、日光東照宮で驚くべき結末に至る、という絵に描いたような展開ということになる。一方で、背景はていねいに作りこまれ、俳優たちの演技もシリアスできめ細かい。娯楽作品はかくあるべきというお手本のような映画に仕上がっている。
ケイジを中心に恋人役のダイアン・クルーガー、相棒の天才ハッカー役のジャスティン・バーサが主軸トリオとなるが、ケイジの両親にふんするジョン・ボイドとヘレン・ミレン、敵役のハリス、FBI捜査官のハーヴェイ・カイテルと周囲にはわくわくさせるような芸達者をそろえている。
「クィーン」の印象が未だに強いミレンが「ヴィクトリア女王が…」というセリフを口にしたときの微妙な“間”にパロディの匂いを感じたのは考えすぎか。
前作に続き、製作ジュリー・ブラッカイマー、監督・製作ジョン・タートルトーブがコンビを組んでいる。
2007年12月13日
娼婦の街の少女の歌声
-線路と娼婦とサッカーボール(12月22日公開=スペイン)-
何と美しい歌声なのだろう。元娼婦であり、“後輩”たちにコンドームを売って生計を立てているマリナの歌がスーッと心に染みてくる。路上を歩きながら、不安に苛(さいな)まれた後輩の傍(かたわ)らで、ひたすら歌う。
少女時代から20年間娼婦として働き、18年前に引退した彼女は片方の目がない。酒に酔った恋人につぶされ、別の男が義眼をくれたが、それもなくしてしまった。断片的に語られる半生は余りにも悲しい。
だが、その声は不思議なほど澄んでいる。腹から出るような厚みもないし、年輪を感じさせるハスキーな魅力というわけでもない。少女のような美しさなのだ。この歌声を聴くだけで、この映画は見る価値がある。
最近、ドキュメンタリー映画を見る頻度が高くなっている。「撮りたい」という衝動のようなものがよりダイレクトに伝わってくるからだと思う。
旅行ライターからドキュメンタリーも撮るようになったスペインのチェマ・ロドリゲス監督は当初、グアテマラのストリート・ギャングに興味を抱いた。彼らから線路(リネア)沿いのスラムで働く最下層の娼婦たちのことを聞いた。
彼女たちは2ドル半で体を売り、夫や恋人や子供や猫を養い、その夫や恋人の暴力に怯え、警察からも嫌がらせを受けている。人権を求めて今にも立ち上がろうとしている。サッカーチームを結成してアピールしようと考えている。ドキュメンタリーとして打ってつけの素材ではないか。
片方の目がないマリナは、娼婦チーム(リネア・オールスターズ)の一員ではなく、応援団の1人に過ぎなかった。単なる“添え物”である。が、撮影が進むに従って“主役”の1人として膨らんできたのだという。さりげない語りに“重み”があり、歌には力がある。気が強く、美しく、恋人は服役中のギャング-というバレリアが、彼女の歌に癒され、涙するシーンが印象的だ。
“添え物”がいつの間にか“主役”に。「撮りたい」思いに従う臨機応変こそドキュメンタリーの醍醐味だろうし、マリナの数々のエピソードがそれを具現している。
メンバー全員が娼婦という素性を明かしたために女子サッカー大会の参加資格を失ってしまったリネア・オールスターズは、ジャーナリストや旅行会社の支援を受けながら“草サッカークラブ”を相手に各地を転戦する。世間の注目は集めるが、文字通り話題先行型で連敗が続く。だが、リネアのスラムしか知らない彼女たちにとって転戦先の風景はすべて新鮮であり、生きる喜び、のようなものを実感していく。
初勝利の後、隣国エルサルバドルの娼婦チームとの“国際親善試合”が実現する。が、世間の注目もしだいに冷める。“お祭り騒ぎ”をきっかけに道が開けた者もいれば、そうならない者も…。
無常観漂う中で、救いとなるのが、やはりマリナのエピソードである。チームの転戦と並行する形で彼女の家の“建築風景”が挿入される。豪雨で流された家を、「神様の導きで出会った」現恋人カルロスが仲間とともに修復している。廃物利用の文字通り雨風を防ぐだけの家だ。それでも終盤、彼女はカルロスの腕に抱かれて窓から荒んだ町並みを眺めながら「私は幸せだ」と繰り返す。思わず「本当に良かったですね」と返したくなる屈託のない笑顔だ。
どうしようもない貧困、差別。娼婦たちの元気やマリナの笑顔も本来痛々しいはずなのだが、明るさがストレートに伝わる。ともすれば“上から目線”で見てしまいそうなこちら側が、逆に彼女たちの強さに励まされる不思議な作品だ。
2007年12月06日
ジョン・レノンの時代
-ピース・ベッド(12月8日公開=米)、チャプター27(12月15日公開=米)-
81年の12月8日、入社2年目の私は日比谷公園で行われたジョン・レノンを偲ぶ会を取材する機会があった。主催のファンクラブのスタッフに話を聞いていると、全国紙の社会部の記者が「私もいいですか」と割り込んできた。ビートルズは何人組ですか? 解散のいきさつは? えーっと奥さんは? 等々。ジョン・レノンにまつわる基礎的情報をほぼ同世代のその記者がまったく知らないことにまず驚き、こちらの取材が進まないことにイライラしつつ、いつの間にか知識ゼロでも物怖じしない社会部記者の姿勢に妙に感心していた。翌日、それなりのスペースで扱われたその新聞の記事にレノンへの“思い”のようなものまで込められていたことにもう1度感心した。
ジョン・レノンの生き方は、短時間の口伝てでも人の心に染み込むだけのインパクトがあったということなのだろう。
そのイベントのちょうど1年前の80年12月8日、ニューヨークの自宅マンションの前で、レノンは凶弾に倒れた。27年目の今年、命日とその1週後にくしくも彼にまつわる2本の映画が相次いで公開される。
「ピース・ベッド」(デヴィッド・リーフ&ジョン・シャインフェルド監督)の原題は「THE U.S. VS. JOHN LENNON」。合衆国対レノンということである。レノンとオノ・ヨーコ夫妻の発言力を時のニクソン政権がいかに疎(うと)ましく思っていたか。多くの若者が支持する一方で、いかに大きな反発があったか。ビートルズ時代の発言にまで遡り、ヨーコをはじめとする周囲の人々のインタビューも交えたドキュメンタリーの決定版だ。
私生活を追い回すマスコミを逆手に取り、夫妻は世界各地でベッドルームでの会見を行う。戦場とは対照的なシチュエーションでひたすら平和を訴える。これも“政治力”と言っていいのだろう。夫妻が放つパワーが当時いかに圧倒的なものだったがうかがえる。
もう1本の「チャプター27」(J・P・シェファー監督)はレノン銃撃犯チャップマンの犯行までの3日間を再現した作品だ。原案となったのは現在も刑務所に収監されているチャップマン本人に200時間に及ぶインタビューを行った「ジョン・レノンを殺した男」(ジャック・ジョーンズ著)。チャップマンはレノンの熱烈なファンであり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していた。ニューヨークでの最後の3日間はこの小説と同じような行動を取りながら、26章からなるこの作品にレノン殺害という“27”章(チャプター27)を自ら付け加えてしまう。
チャップマンにふんするジャレット・レトは体型までオタク風デブに“改造”してなりきっている。こんな男のいびつな衝動がレノンの命を奪ったのか、と思う一方でチャップマンに不思議な魅力さえも感じてしまう。人間チャップマンに入り込んだレトは掛け値なしの好演だ。
お騒がせの話題提供ばかりのリンジー・ローハンもファン仲間のジュード役で女優としての地力を見せている。息子のショーン・レノンや乳母にも愛された彼女は、“最悪のファン、チャップマン”の対極の存在として描かれる。
「ピース―」が内側から見たレノンなら、「チャプター」は外側から見たそれ、前者にはヨーコが「レノンをレノンたらしめる存在」として登場し、後者では単なる“影”にしか扱われていない。半生を網羅した前者と最後の一瞬にこだわった後者という具合に文字通り対極の作品である。が、どちらのジョン・レノンにも代えがたい魅力が漂っている。