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相原斎「新作チェック!」

2007年11月29日

母娘愛とは

-サラエボの花(12月1日公開=ボスニア・ヘルツェゴビナ)-

 父と息子の微妙な距離感に比べ、母と娘はよくも悪しくも濃密な関係にある、ような気がする。街中や電車の中でまれに遭遇する、耳をふさぎたくなるような親子喧嘩はたいてい母娘である。私自身、妻と娘の“濃厚な”やりとりにはついていけないことがある。

 そんな密な関係の奥にどうしようもない憎しみの根があったら…。もっともシンプルな愛憎関係にこれ以上はあり得ないと思われる反戦のメッセージが込められた一編だ。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが舞台。シングルマザーのエスマは12歳になる1人娘サラと2人暮らしだ。あけすけに語り合い、喧嘩もするが幸せそうだ。父親は紛争で亡くなったジャヒード(殉教者)ということになっている。

 が、修学旅行が近づくにつれ、サラは疑念を抱く。ジャヒードの子弟には優遇措置があるはすなのにエスマは修学旅行の費用を稼ぐために昼夜働き続けている。級友からはサラの父の名がジャヒードのリストに無い、と聞かされる。

 紛争時の収容所でエスマが敵の兵士にレイプされ、出産したのがサラだったのだ。サラに激しく詰問され、エスマはとうとう告白してしまう。

 エスマに扮するのは、最近では「ライフ・イズ・ミラクル」(04年)に出演したミリャノ・カラノヴィッチ。気持ちを遮断してしまったかのような空ろな目が「地獄の過去」を象徴する。一転、娘と罵り合い、胸の奥底にしまっていた秘密を告白するシーンでは、内臓まで覗かせるような咆哮で、その振幅はすさまじい。

 対してサラ役のルナ・ミヨヴィッチは今回がデビュー作。文字通り純な魅力である。ボーイッシュな雰囲気が役柄に馴染んで痛々しい。

 真相を知ったサラは頭を丸刈りにしてしまう。心を閉ざしてしまう。

 ラストは修学旅行への出発シーンだ。詳述は避けるが、言葉では表せないような母娘の氷解。決して消えない悲しみ、憎しみを抱えながらも通じ合う母娘、ポジティブな“気”が宿る娘の瞳…。悲しくて、温かい。余韻がものすごく多い幕切れだ。

 作品資料にあるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦公共放送東京支局長の西浜滋彦氏の記述によると、3民族が混在する同国では「民族浄化」の名のもとに、紛争時多くの非道が行われた。死傷者は戦場だけから出るわけではない。占領地域の住民は自宅から追い立てられる際に男性や子供は殺され、女性は辱められた上に本人の意思に反して出産までさせられた。民族間の和解の可能性を消し去るためだという。

 同国では、エスマとサラは特殊というよりはむしろ典型ということになるのかもしれない。サラエボ生まれのヤスミラ・ジュバニッチ監督は「(前略)憎しみという感情の中で生まれてしまった子供を持つ女性の、心を襲う感情とはすさまじいに違いない」という思いでこの映画を撮ったという。また、シナリオを書き上げたのは自分の子供に授乳していた時期であり、女性ならではの感覚が作品の随所にのぞく。

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2007年11月22日

三船敏郎と織田裕二

-椿三十郎(12月1日公開)-

 この映画は圧倒的に不利な前提に立っている。どうしても黒澤明監督のオリジナル作品と比較されてしまうこと。ストーリー上にまぶされた様々な仕掛けやユーモアの初見ならではのインパクトが、旧作を知っている人間にとっては半減してしまうこと。モノクロからカラーに転じたことが表現上のプラスには働きにくいこと(モノクロ映像にパートカラーで色づけされた椿の花の強烈な印象がカラー映像の中で薄まってしまうし、陰影が随所にもたらす効果がどうしても弱くなる)―等々上げればきりがない。

 今さらながらだが、黒澤監督の「椿三十郎」(62年)はパーフェクトな作品である。個人的には黒澤映画の中でも最も好きな作品であり、名画座とビデオで計3、4回は見ている。全編真芯で捉えて揺るぎがなく、新たな味付けをすれば芯を外すことになる。

 森田芳光監督は徹底的にオリジナル版と寄り添うように撮り進めている。木材や土の色合い、着物…黒澤作品を光度分析して色を選んだような、気さえする。スタッフの丁寧な仕事ぶりと黒澤作品への深い敬意がうかがえる。

 正義感に燃える9人の若侍の意気にほだされた腕利きの浪人三十郎が、とある藩の汚職と陰謀を暴く痛快物語は、藩内の人間関係と勢力図を巧妙に提示する山中の社殿の幕開けから一気に畳み掛ける。

 織田裕二の三十郎は当時の三船敏郎より3歳若いことになるが、太く作った声に工夫がうかがえる。しっくりくる。冒頭シーンはかなり清潔な身なりで、食い詰めた印象には遠い気もしたが、苦闘を続ける中で少しずつ汚れていく様子がかえって分かりやすかった。

 対して黒幕の懐刀として敵役となる豊川悦司は、旧作の仲代達矢よりやや丸い印象だ。切れ者でありながら三十郎に裏をかかれ続ける僅かな“抜け”がより強調され、ユーモア交じりの三十郎のキャラに重なる部分も増した。ラストの「あいつと俺は同じだ」という三十郎の“同族意識”を受け入れやすくしているのは確かだ。

 若侍に組する腰元のガッツポーズ、そしてラストの織田×豊川の対決シーンがもっとも目についた旧作との違いだ。この腰元村川絵梨のキャラ、佐々木蔵之助の“押入れ侍”という笑わせどころの微妙な現代風アレンジは森田監督の得意なところ。中村玉緒と鈴木杏のおっとり母娘も-見た目もここまで“三枚目”でいいの、と思った鈴木の結い上げ髪姿も含め-森田流を感じさせる。

 が、ラストの対決はン? 旧作が無ければ工夫もあるし問題なく目を見張るシーンなのだが、台本に「ここから先は文字では書けない」と記されたと言われる黒澤版に比べると、文字で描写可能の域に止まったと思う。

 他も、風間杜夫、小林稔侍、西岡徳馬の3悪人、旧作の伊藤雄之助から“馬面”つながりの藤田まことと、おそらくベストと思えるキャストの演技には特別な気合いを感じる。森田演出はもちろんだが、背後の“クロサワの神通力”につき動かされたような印象だ。

 松山ケンイチを始めとする若侍もいい。年齢には思えないほど役作りが深い。彼らが“大作感”を支えている気がする。

 黒澤作品を知らない若者には、映画の面白さを心底味わえるはずである。そして、知っている年配者も色んな意味で楽しめた。

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2007年11月15日

ヒッチコックが好きな人に

-モーテル(11月17日公開=米)-

 近年のホラー映画にはどうも食指が動かない、という人の多くは過剰な残虐シーンやルール無視の突然の脅かしに引いてしまうのだ、と思う。緻密に積み上げられていく恐怖、暗闇や音へのシンプルな恐怖…ヒッチコックの作品群を懐かしむ人は少なくないと思う。

 そんな往年のスリラー映画の味わいがこの作品にはある。

 舞台は荒原の中にポツンと建ったモーテル、登場人物は全部で7人。設定はいたってシンプルである。その分、7人にはそれぞれストーリーの展開に関わる役割があり、少しずつ判明するモーテルのからくり屋敷のような作りが迷路のような物語を象徴している。

 デビッド(ルーク・ウィルソン)とエイミー(ケイト・ベッキンセール)の夫妻は離婚目前の危ういカップル。親族のパーティーの帰りに道に迷い、やむなくさびれたモーテルで一夜を明かすことになる。

 モーテルに至る車中のやり取りには身につまされる。すれ違い、口げんかの加減がリアルである。幹線道路を外れ、近道のつもりが迷ってしまった夫をなじる妻、イライラを募らせる夫。一方で、長年連れ添ったゆえの“絆”も見え隠れする。

 対して、取り巻く環境はどんどん怪しくなる。街灯もない暗闇が不安を掻き立てる。演出的には、サイドミラーを“第2の画面”に利用し、妻の不安げな表情を際立たせる。ジャン=ジャック・ベネックス監督のデビュー作「ディーバ」(81年)でも効果的に使われていた手法だ。

 問題のモーテルへの宿泊を余儀なくされ、しだいに追い詰められるに従って、夫妻のささくれは氷解し、絆が甦る図式だ。リアルな夫婦関係と、現実とは思えなくなっていく周辺環境が不思議なほど折り合う。今作がハリウッドデビューというニムロッド・アーントル監督の演出は堅実だ。ロス生まれながら、90年からつい3年前までハンガリーで過ごしたというプロフィールを見てしまったせいかもしれないが、全体にセピアなトーンが東欧調の重さのようにも思える。

 詳述は避けるが、モーテルではスナッフ・フィルム(実際の殺人を撮影したフィルム)の製作が秘かに行われている。そのための秘密の地下通路などのからくりもあり、夫妻がこれを逆手に取って反撃を試みる場面もある。

 血しぶきが飛び散るシーンは皆無といっていい。突然背後から、なんていうこともない。恐怖はじわじわと、しだいにその理由も明らかに、というオーソドックスなパターンをしっかりと踏んでいる。

 妙な言い方になるが腰をすえてヒヤヒヤ、ハラハラを楽しめる作品である。逆にもの足りなさを感じるとしたら、「残虐」「意表」という部分が欠落しているからである。

 片田舎のモーテルのセットは、実際に米国の田舎を知らないにも関わらず“いかにも”と思わせる質感がある。小物に至るまで細心の注意が払われているのだと思う。

 米国のディープな田舎にひそむ言い知れない恐怖については、これまでも様々な映画で描かれてきた。「イージーライダー」(69年)のラストで主人公をオートバイごと吹っ飛ばした農夫の銃弾はいまだに鮮やかに記憶しているし、「悪魔のいけにえ」(74年)を始めとする類作ホラーの数々の根底にもその空気のようなものが反映されていた。

 今作に漂う“田舎の恐怖”はそんな伝統に裏打ちされている。

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2007年11月08日

最後のジェイソン・ボーン

-ボーン・アルティメイタム(11月10日公開=米)-

 携帯電話が映画やテレビドラマに与えた影響は計り知れない。単純なセリフも携帯メールの形をかりて絵文字を載せればラブストーリーの恰好のアクセントになる。キム兄と妻夫木聡のデコメールCMの如く、「顔で怒って心で笑って」という2層構造を瞬時に示すツールにもなる。

 が、何よりサスペンスものへの貢献が一番だろう。「24」が好例だ。体一つの単独行が多いジャック・バウアーと本部のクロエを結び、解析データの現場送りやそこにいる容疑者の顔写真照会が写メによって容易にできるのも携帯電話のお陰だ。観客(視聴者)も日常使っているから理解が早い。テンポアップした多層進行ストーリーが当たり前のように理解できる所以である。

 今作も序盤に携帯が重要ツールとなる。CIAが監視カメラの目を張り巡らし、多数の追跡班、狙撃手を送り込んだロンドンのウォータールー駅が舞台だ。主人公の一匹狼ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は大胆にもここで情報源の新聞記者と接触するのだが、すれ違いざまに記者のポケットにプリペイド携帯を滑り込ませると、これで連絡を取りながら素人の記者を巧みに誘導する。記者自身の携帯を盗聴し、これを頼りにしていたCIAは新たなプリペイド携帯を捕捉できず大混乱に陥る。

 ドームのような駅の構内や、そこをはみ出した車道での息詰まるアクションはいかにもロバート・ラドラム原作の風味である。CIAのハイテク包囲を市販のプリペイド携帯一組で突破するところが痛快だ。

 対照的に肉弾戦に徹したシーンもある。中盤のモロッコ・タンジールだ。ボーンと彼を追う刺客の死闘は、石造りの建物が路地を挟んで林立する旧市街で繰り広げられる。屋根から屋根へ、壁から壁へ、“立体迷路”の中で鍛え抜かれたプロ同士の格闘は打ち身の痛さがひりひりと伝わってくるように生々しい。

 ラドラム作品は映像が頭に浮かぶような克明な描写が一つの特徴だと思うが、シリーズ第2作「ボーン・スプレマシー」(04年)に続いて完結編の今作でもメガホンを取ったポール・グリーングラス監督はそのイメージを膨らませる。ハイテク戦の序盤、肉弾戦の中盤とメリハリも効かせる。

 記憶を失った元暗殺者ボーンは第1作「ボーン・アイデンティティ」(02年)では、極秘計画を知る彼を消そうとするCIAに追われ、第2作では反撃に出た。そして、今回は自身が“暗殺マシーン・ジェイソン・ボーン”誕生の秘密に迫るべくCIAに立ち向かうという筋立てだ。

 諜報の世界は当然のように同じ組織内にも確執、裏切り、不正があり、黒白ははっきりしない。前2作同様今回もボーンに同情するか、しないかでこの灰色の世界がしだいに白黒に分離していく流れになっている。

 マット・デイモンはこれが最後ではもったいないくらいボーンにはまっている。CIA幹部にデヴィッド・ストラザーン、ジョアン・アレンら。ボーンを助ける支局員役のジュリア・スタイルズ、刺客の1人にふんしたエドガー・ラミレスが好演だ。

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2007年11月01日

突き抜けた調和

-アフロサムライ(10月27日公開=日米)-

 織田信長の家来にヤスケと呼ばれた黒人がいたことはよく知られている。舶来ものが大好きな信長が宣教師一行の中にいた黒い肌に惚れ込んだと伝えられ、本能寺の変にも居合わせという。この黒人侍ヤスケは歴史公証に厳密なNHK大河ドラマ(ガクトの謙信はちょっとハメを外しているかもしれないが)にも何度か登場している。

 というわけで、“アフロサムライ”が史上皆無というわけではないのだが、今回のアニメ作品の主人公は文字通りのアフロヘア、最初からその辺の枠組みを大きく突き抜けている。サミュエル・L・ジャクソンが製作総指揮と主人公の声を担当していることで、さらなる日本風からの逸脱を連想するが、原作(岡崎能士)脚本(山下友弘)監督(木崎文智)はそろって日本人。背景は純日本的であり、登場人物も“ジャパニメーション”ならではのきめ細かい線で描き込まれている。

 他の時代劇アニメとの違いは、“アフロ”のタイトルにふさわしくそこに70年代に多く見られたポップでファンキーなイラストの雰囲気が加味されていることである。例えは古いが、マイルス・デイビスの「オン・ザ・コーナー」や「イン・コンサート」のアルバムジャケットに近いイメージだ。主人公のアフロサムライに引きずられるように登場人物の多くが8頭身以上のプロポーションになっているのも特徴だ。

 本筋はシンプルな復讐劇だ。アフロサムライの父親は「神」とあがめられる“一番鉢巻”を締める侍。彼の幼少時に父親は挑戦者の“二番鉢巻”のガンマン、ジャスティスに殺されてしまう。「神」に近付けるのは二番鉢巻を手に入れた挑戦者だけであり、いまや「神」となったジャスティスに復讐するためには、これを手に入れなければならない。が、二番鉢巻の持ち主は“挑戦権”を狙う全国の剣客の標的にされ、周囲には常に血の匂いが漂う。

 物語はアフロサムライが修行を重ね、二番鉢巻を手に入れ、血で血を洗う修羅の道を歩んでジャスティスに挑むまでが描かれる。回想シーンを織り込む手法で、時系列を行きつ戻りつする進行はテンポがいい。

 バトルシーンはアニメならではの自在な迫力がある。アクセントの効いた遠近法で、奥行きのあるというか、前後の動きが激しい3D的なアクションに引き込まれる。スパルタ軍の戦いを描いた「300」(07年)をさらに誇張した感じ、といったらいいだろうか。

 サムライの世界になぜか携帯電話やハイテク機器、最先端医療まで登場し、国も時代もはなから超越しているのである。これらがとことん抑え気味の時代劇トーンの中に意外なほど自然に包含されてしまうのは、アニメ世界だがら、それもひたすら灰色に近いモノトーンタッチで貫かれているからだろう。

 米国では今年1月ケーブルテレビ、スパイクTVでオンエアされ、カルト人気となっている。これだけ突き抜けた内容ながら、一部外国作品に見られる“ヘンな日本”を感じることもなく、自然体で楽しめる一編だった。

 アニメーション製作は「ブレイブストーリー」(06年)などで知られるGONZO。

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