2007年09月27日
中国バブルの裏側
-白い馬の季節(10月6日公開=中)-
私が入社した80年は、ちょうど新聞の組版がそれまでの鉛の活字から新しいコンピューターシステムへ移行する時期に当たった。
取材セクションの仕事に大きな変化は無かったが、実際に新聞を組み上げる植字の仕事がもろに時代の波をかぶった。一刻を争う新聞製作の中で、膨大な活字ケースから一字一字を拾い出し、記事を組み上げる作業の難しさは、技術に縁のない私でも想像できる。日頃使っているハンコをしみじみ眺めてみれば分かるが、そこには自分の名前が左右逆に彫られている。つまり新聞の植字の仕事は左右逆さまの活字を瞬時に拾い出して組み上げる極めて特殊なスキルによって成り立っていたのだ。
元になる原稿は手書きだ。時間に追われて書きなぐったクセ字であり、手を入れたデスクの文字はこれに輪を掛ける。半端な解読力では務まらない。そんな高度な技術が一夜にしてコンピューターにとって代わられてしまったのである。移行後、モニターに向き合ったベテランの植字担当が「鏡をつけてくれないか」と要求したエピソードも聞いた。モニターを鏡に映し、従来通り左右逆に見ながら仕事をしたい、というのである。
時代の流れとはいえ、長年培った技術や伝統の否定はそう簡単に受け入れられるものではない、と思う。小学校の国語の時間に副読本で読んだ新美南吉の「おじいさんのランプ」ではないが、頭で分かるのと、身近に接するのとはやはり違う。
30年近く前のことを思い出したのは、今回の作品も技術や伝統が時代に翻弄される物語だからであり、さらに環境問題や地球温暖化も悲劇のファクターとなっている。
舞台は中国内モンゴル自治区。遊牧民のウルゲン一家は羊の放牧で生計を立てている。草原は砂漠化が進み、同業者は次々に遊牧生活を捨てて町に移住している。政府の生態環境保護政策によって僅かに残った草原も囲い込まれ、一家の遊牧生活も風前の灯で、一人息子の学費にも事欠く。一家の誇りであった白馬も手放さざる状況となるが…。
荒涼とした大地で村の長が狂ったように雨乞いの詩を歌うシュールな幕開けから、緑の失われた大地は哀しくも美しい。ポツンと立ったゲル、所在無げな白い老馬…、まるで淡色の風景画だ。きちんと繕われた民族衣装、茶の道具、ヨーグルト容器…、生活用具にはいずれも機能美がある。余計、余分とは縁のない美しさだ。中盤、牧草地に突如現れるビール工場の宣伝隊や街の喧騒の醜さとは対照的である。
しばしば挿入されるウルゲンの回想シーンは、かつての遊牧民の生活だ。豊かな牧草と羊の大群、これを追う騎乗の自身の姿は、現実の淡色風景の光度を上げたように眩い。ウルゲンがさっそうと遊牧民としての技を見せるのは回想シーンだけである。
全編がこのコントラストで貫かれる。妻のインジドアが羊の皮の売買に鷹揚なのに対し、皮商人は彼女を騙すように上前をはねる。一見お人好しの漢族の男にも下心がある。売られた白馬が登場した町のキャバレーのショーで、馬に乗っていたのは一見して醜い女だった。
この善悪、美醜の溝をまたぐように終盤、遊牧民の心を取り戻す画家の存在が面白い。序盤、ウルゲンを突き放したはずが、最後は彼に救いの手を差し伸べる。最後はほんのりと将来への明るさを映し出すが、それはあくまでウルゲン一家のことであり、遊牧民には未来がない。経済拡大で北京五輪に突き進む中国を、取り残され、追いやられた側から描く異色作と言えるだろう。
中国映画の近作では、経済的繁栄を誇るかのような「夜の上海」(日中合作、9月22日公開)が対照的であり、この2作が文字通り今の中国の表裏を映し出している。
監督はこれがデビュー作で、内モンゴル自治区出身のニンツァイ。
2007年09月20日
メガネの喜び
-めがね(9月22日公開)-
及川光博が宇多田ヒカルに持参のチェーン付きメガネを掛けさせ、その姿に惚れ惚れした表情を浮かべていた。最近の「HEY!HEY!HEY!」(フジテレビ)の一場面だ。及川は引き気味のダウンタウンの2人に「グッとくるのは僕だけではないと思いますよ」と畳み掛けた。確かにいい感じである。国語の教科書で円地文子の「めがねの悲しみ」を読んだ世代の私にも、何故かピンとくる魅力である。別に及川のようなメガネフェチというわけではない。収録会場の好意的な反応からもメガネのポジティブなイメージが根付きつつあることが印象付けられる。時東ぁみ人気に象徴される「メガネっ娘」の静かなブームがすそ野を広げているのだろう。
この作品ではとりあえず登場人物全員がメガネをかけている。見始めてしばらくはやはり気になる。メガネは何の象徴なのか。何かを見ることの、あるいは外すことによって何かを見ないことの…。披露試写会の舞台挨拶で、萩上直子監督は「(タイトルには)深い意味があるんです…というのはウソです(笑)。あんまり考えなくていい映画になってますから」と語っていた。ようは見る人が勝手に感じなさいということなのだろう。
序盤を過ぎれば、映画のペースに引き込まれ、そんなことは気にならなくなる。ゆったりとした時間の流れが心地よい。萩上監督のこれまでの作品、「バーバー吉野」(03年)や「かもめ食堂」(06年)と共通する不思議な空気である。
舞台は南の浜辺にある小さな町。大きなトランクを引きずったタエコ(小林聡美)が小さな宿ハマダを訪れる。宿の主人はユージ(光石研)。カキ氷をすすめるナゾの女性サクラ(もたいまさこ)、地元の高校教師ハルナ(市川実日子)もいる。異様に小さい看板。「あんまりお客さんが来ると困っちゃうから」と解説するユージ。あまりにもマイペースな人たちにタエコはなかなか馴染めない。「観光するところは?」の問いかけには3人そろって訝しげな顔をする。「では、ここでは何を?」「たそがれることかなあ」。
煙にまかれたような、バカにされたような、でも不思議に心地よい。タエコがハマダに溶け込み、癒されていく過程の詳述は避けるが、タエコの気持ちに重なるようにこちらもハマダペースに引き込まれる。
ラジオ体操ならぬサクラ発案の「メルシー体操」に象徴されるように、かなりズレているのに不思議に懐かしい。「○泊○日」なんていう観念が無くなり、知らず知らずのうちにタエコはハマダの“一部”になっていく。
白い砂浜を始め自然はひたすら美しい。食べ物はいずれも美味しそうだ。小豆、梅干、魚介類に肉…。いずれもシンプルだがていねいに調理され、皆で食卓を囲む。
紋切り型には言いたくないのだが、「本当の贅沢」がここにはある、気がする。
淡色の背景に映えるのは食べ物だけではない、タエコが編み続ける真っ赤なマフラーが印象に残る。終盤、メガネにまつわる何やら象徴的なシーンもある。ゆったりとした作品にも、確かなアクセントはある。
はっきりした“答え”もなく、なぜ? の部分をたくさん残しながら、それらが気持ちの良い余韻となるところが萩上作品の味なのだろう。
ハマダのライバル「マリン・パレス」の女主人に薬師丸ひろ子、タエコを追ってきて彼女を「センセイ」と呼ぶ青年に加瀬亮と、メーンの4人以外のキャストも劇中の料理同様にていねいに配置されている。
2007年09月13日
セレブの意味
-キャプティビティ(9月15日公開=米露)-
もうひと昔前の話題になってしまったが、“セレブ”の代表選手パリス・ヒルトンの収監騒動で米マスコミは異様に盛り上がった。日頃、好き放題に生きているセレブが自由を奪われるという状況が、「大衆的サディズム」をくすぐった一例なのだ、と思う。
わがままなトップモデルが、猟奇的な殺人犯によって拉致監禁されてしまう今回の作品も、まずはそんな屈折した心根を引っ掛ける。
被害者となるジェニファーに扮するのは、「24」でジャック・バウアーの一人娘キムを演じるエリシャ・カスバート。若さを強調するように張り詰めた肌が印象的であり、「24」のイメージもあるのだろうが、負けん気の強い雰囲気が今回の役柄にはまっている。
パーティー会場から突然拉致され、意識を失った彼女は気付くと窓の無い個室に監禁されている。スピーカーを通した犯人の声に着せ替え人形のように衣装代えを強いられる。必死の反抗もしだいに萎える中で、一方の壁が実はガラス張りであり、塗料を落とすと向こう側がもう一つの監禁部屋であることに気付く。そこには、トップモデルの彼女とは縁遠い労務者風の青年がいた。
彼からいずれ殺されてしまうであろう見通しを聞き、極限状態の中で2人の間には恋愛感情が芽生えていくのだが…。
中盤、この労務者風の青年から「あんたの職業は?」と聞かれて「セレブよ」とそっけなく答えるやりとりがある。職業=セレブ? 思わず映画「クイーン」(4月公開)のシニカルな一場面が頭に浮かんだ。
ダイアナ妃の葬儀について執事が女王一家に説明するシーンである。「葬儀には世界のセレブが出席されます」と執事。女王の母、つまり皇太后が「セレブ?」と聞き返す。執事はエルトン・ジョンら著名人の名前を挙げる。その後の皇太后の納得のいかない表情が記憶に新しい。Celebrity(名士)の文字通り頂点に立つ英国王室にとって、すそ野を広げ、主に著名人というよりもゴシップのネタになる面々を指す“現代用語”的な「セレブ」の意味が理解できないのだ。
英語に通じた人たちに、この「セレブよ」がどう響くのか分からないのだが、私の場合は「クイーン」の一場面のお陰で、主人公ジェニファーの思い上がり、勘違いが印象付けられた。
こう書いていくと、まるで“いい気味目線”で犯人の側に感情移入しているように思われるかもしれないが、そんな風に作品は構成されていない。監禁され、労務者風青年と恋に落ちることで、ジェニファーは目に見えるように魅力的になり、しだいに共感できるようになる仕組みだ。
また、冒頭から犯人のこれまでの犯行を垣間見せるように映像が挿入され、後半にはその異常さを際立たせる事実も明かされていく。さらに予想外のどんでん返しも用意されている(といっても、どうしてもその違和感に途中で気付いてしまうのだが)。
ともあれ“美の極み”のような登場から、時間を追って汚れていくなかで逆にヒロインが内面から魅力的に輝いていく不思議な作品なのだ。
脚本は「フォーン・ブース」(02年)「セルラー」(04年)を手掛けた、いかにものラリー・コーエン。監督は「キリング・フィールド」(84年)「ミッション」(86年)の、まさかのローランド・ジョフィ。このミスマッチも作品の独特のテーストにつながっている。監禁部屋のシーンに感じられる凝った照明の使い方、おかげで漂う不思議な荘厳さなどがそれである。
2007年09月06日
奇跡の老人
-ミリキタニの猫(9月8日公開=米)-
2001年の9月11日、世界貿易センターが崩れ落ち、騒乱状態となったニューヨークの路上で淡々と絵を描き続ける老人がいた。このドキュメンタリーの主人公ジミー・ミリキタニである。
全米がパニック状態となったあの日に、この一ホームレス老人にスポットを当てた映像があることにまずは驚かされる。撮影しているのは製作、監督、編集を兼ねるリンダ・ハッテンドーフ。ジミーとリンダの深い友情が生み出したこの作品は、そんなサプライズの連続だ。
リンダがジミーと知り合ったのは9・11の数ヶ月前。決して施しは受けず、絵を買ってくれる人からだけ対価を受け取る老人の毅然とした態度にリンダは惹かれた。彼女が絵を譲ってくれるように頼むとジミーはお金の代わりに自分を撮影してくれ、という。
米国の社会保障は受けないと言い張り、孤高を持するジミーだが9・11の粉塵でセキが止まらなくなる。見かねたリンダは自宅に招き入れる。奇妙な共同生活の中で、ジミーの信じられないような半生が明かされていく。
ミリキタニの漢字表記は三力谷。ジミーはサクラメント生まれ、80歳の日系人だった。教育は日本の広島で受けたが、軍国主義の日本を逃れ、自由に絵を描くために18歳の時に米国に戻る。が、待っていたのは強制収容所送りだった。財産も市民権も剥奪され、3年半の収容所生活。以後も市民権のないまま各地を転々とし、不当な労働を強いられながら、80年代後半にはニューヨークのホームレス生活に入った。
ジミーが描き続ける猫は、強制収容所で弟分の少年からせがまれて書いたものであり、少年がそこで病死したことに対する鎮魂の意味が込められているようだった。繰り返し描くもう1パターンの荒涼とした風景は収容所のそれだった。60年余にわたって自分を虐げた米国への抵抗のしるしなのだ。
ジミーは市民権を拒否し続けるが、リンダが彼の話をもとに関係当局と接触を続け、すべての権利を回復する。福祉センターでの絵画教師の職と、設備の整った住居が彼に与えられる。
クライマックスはツールレイク強制収容所跡への訪問。空気を吸い、草花を摘み、スケッチをした彼は帰りのバスの中でリンダに「もう怒ってはいない。思い出はワシに優しかった」とつぶやくように言う。
収容所で離れ離れになった86歳の姉との再会もリンダがお膳立てするのだが、この貴重な場面が贅沢にもラストのエンドロールのみで紹介される。これの布石のような形で中盤、初めての姉弟の電話対談が挿入される。日本語でとつとつと話しながらほんの少しずつ目を潤ませていくジミーと、撮影しながら思わず漏らしたリンダの嗚咽が聞こえるところが、どんな飾り立てた映像より強烈な効果を生む。当たり前の映像の随所にドキュメンタリーの強さが顔をのぞかせる。
ホームレス時代に黒ずんでミイラのようだったジミーの手が、リンダの家に移ってから甦ったように肌色を取り戻す過程。寡黙な男がしだいに頑固オヤジの一面を見せ始め、帰宅が深夜になったリンダを父親のように叱りつける場面など、一人の老人の再生が文字通り手に取るように伝わってくる。
9・11後の米国に住むアラブ系住民への仕打ちは、第2次大戦中の日系人に対するヒステリックとも言える収容所送りに重なる。時代を超えたテーマであることが否応なく伝わる。
60年間信念を曲げなかった奇跡、極寒酷暑のニューヨークのホームレス生活で80歳まで生き延びた奇跡、2人が出会い、妙齢の白人女性リンダが身元の定かでない老人を自宅に招きいれた奇跡…。信じられないような心温まるサプライズの連鎖である。