2007年08月30日
優作さんから引き継いだもの
-ワルボロ(9月8日公開)-
親子や兄弟の間柄は、傍目にもはっきりと見分けられるものである。電車の中や街中で夏休みの家族連れを見ていて改めてそう思う。全体的な雰囲気であったり、体や顔のパーツそのものが似ていたり…。一歩も二歩も引いてみるからだろう。親戚縁者や本人同士より、かえって他人の方が類似点に気付き易いのかもしれない。
松田優作さんを取材したのは主に森田芳光監督作品の撮影現場だった。「家族ゲーム」(83年)、「それから」(85年)である。どちらかといえば「動」の印象が強い優作さんがひたすら「静」の演技に取り組んでいた。だからこそ、全身から立ち昇る空気のようなものが印象に残った。鋭い目や袖口からにょきっと伸びた手や指の長さが妙に記憶に残った。
全体の印象や空気のようなものを受け継いでいるのが兄・龍平なら、目や手といったパーツが不思議なほど似ているのが弟・翔太だ、という気がする。傍目にはそう見える。
翔太が主演する今回の作品でも、ギロッと鋭く、どこか哀しい目と学ランの袖からスイッと伸びた手と指が彼の演じる役柄を決定付けている。
「ワルボロ」は、10代を暴走族やヤクザ予備軍として過ごしたゲッツ板谷の自伝的小説が原作だ。高校受験を目指して真面目な中学生活を送っていたコーちゃん(松田翔太)が、同級生のツッパリ、ヤッコ(福士誠治)とのけんかをきっかけにワルの世界に足を踏み入れていくひと夏が描かれる。ツッパリ集団が群雄割拠する東京・立川市で、彼ら三中の6人組が“独立愚連隊”として名を揚げていくひと夏の痛快ストーリーでもある。
翔太は「ヤンキー母校に帰る」(05年、TBS)でもいい味を出していたが、横にらみの目に迫力がある。一方でヒロイン山田(新垣結衣)と向き合うときの訴えかけるような目には丸みがある。手首から先の長さは、学ランの袖を短いくらいに感じさせ、若さ、伸び盛り、可能性を象徴するかのようだ。若さを暴発させ、体を張った無茶を繰り返しながら、この若者の将来を楽天的に思わせる効果がある。
全体的に“二”の線にまとまっているからだろうか。テレビ画面や映像で見る限り翔太は兄・龍平よりかなり小柄に思えるが、実はわずか2センチ低いだけの181センチの長身であり、敵対ツッパリ集団の“怪物的キャラ”を向こうにまわした乱闘シーンでも見劣りしない。
作品全編に漂う空気は、仲村トオルと清水宏次朗が主演した「ビーバップ・ハイスクール」(85年)をほうふつとさせる。ゲッツ板谷の原作を受けて初メガホンを取った隅田靖監督は、勝ち負けだけでは終わらない、力関係やタブーなど大人の世界の駆け引きを縮図的に映し出している。
翔太、福士に加え、木村了、城田優、古畑勝隆、途中慎吾の三中6人組の個性とバランスは見事。仲村トオルがコーちゃんの叔父で、武闘派のヤクザとしてカメオ出演しているのは「ビーバップ―」へのオマージュの意味合いか。
2007年08月23日
SM的構図に癒される不思議な映画
-ブラック・スネーク・モーン(9月1日公開=米)-
洋の東西を問わずアクション、サスペンスものの映画、テレビでよく見かけるシーンがある。潜入捜査、もしくは捕らわれの身となり意に反して麻薬中毒になってしまった人間(男女を問わずたいてい若い)を、先輩もしくは兄貴分的人間(だいてい男で年配)が介抱する。ベッドに縛りつけ、警察関係者の場合は手錠で固定して禁断症状に備える。決まり文句は「とことん付き合ってやるからな」。幻覚症状で暴れれば押さえつけ、汗を拭き、水分補給も行う。やがてカーテンの向こうが明るくなり、中毒症状が和らいで2人はホッとした表情で見詰め合う…。
このテのエピソードはたいてい山場を越え、結末も定まった状況で後日談的に扱われるケースがほとんどだ。かなりの省略がほどこされ、ベッドに縛りつけられてから明るくなるまで、たとえCMを挟んでも数分がせいぜいである。
今回の作品は麻薬ではなく、精神的な呪縛からの解放が題材なのだが、他の作品では添え物的に位置づけられる“中毒抜きエピソード”に徹底的に絞り込んだという意味で異色である。
舞台は米南部の田舎町。初老の黒人ラザラス(サミュエル・L・ジャクソン)はかつてギターを手にブルースを奏でる町の人気ミュージシャンだったが、今では清貧をよしとして畑仕事に精を出している。が、気付かないうちに妻の心は離れ、去られてしまう。
そんな彼が道端に半裸で倒れていた白人の若い女性レイ(クリスティーナ・リッチ)を拾う。彼女は幼年時代の性的虐待が原因でセックス依存症に罹っており、唯一の支えだった恋人ロニー(ジャスティン・ティンバーレイク)が志願して軍隊に入ったことで自暴自棄になっていた。
ラザラスは自宅にレイを鎖でつなぎ、依存症の呪縛から解き放とうとする。しまいこんでいたギターを手に、魂の歌を聞かせることも“治療”だった。鎖は比喩的表現ではなく、文字通りのごつい鎖であり、見た目はSM的な構図である。
クレイグ・ブリュワー監督(兼脚本)とは「ハッスル&フロウ」(05年)でもコンビを組んだ製作のジョン・シングルトンが、脚本を読んだ当初映画化に逡巡した気持ちも分かる。
確かに初老の黒人男性と若い白人女性を鎖とブルースで結びつけるという設定は強引だ。だが、心の深い傷を癒すための強い意志と献身の象徴という意味では理解しやすい。いったん状況を飲み込んでしまえば、レイが強い意志に愛を感じ、しだいに癒されていく過程も分かりやすい。ラザラスの友人の牧師や少年が、鎖で拘束されたレイの姿を見て最初は呆然としながら、ラザラスの強い意志に引き込まれるように協力していくくだりはSM的構図と絡み合うと妙におかしい。笑ってしまう。
軍隊に耐えられず、逃げ出してきたロニーが、ラザラスとレイの関係を誤解して(誤解されて当たり前の状況だが)、殺意を抱くところはスリリングだが、総じてラザラスとレイの間に芽生える愛情、信頼関係が心地よい。「レオン」(94年)の殺し屋と少女の関係に重なるものがある。
2007年08月16日
性を描いて心で感じる映画
-ショートバス(8月25日公開=米)-
私が映画記者として足繁く撮影現場に通った80年代、日活ロマンポルノは下り坂に差し掛かっていた。どちらかというと性の明るさより哀しさを描く作品の比率が年々高まっていた、気がする。調布撮影所で目撃した数々の“前貼り”も妙に哀しかった。ビキニ水着の極小三角巾のように見た目もドキッとした女優さんそれとは違い、筒状のものを装着してその上からテープでべたべたと貼る男優さんのはびっくりするほど大きかった。現場の真剣な空気に気圧されていたが、哀しさを越えて笑いたくなるような光景だった。
今回の作品も「性の哀しさ」が描かれる。前貼りをこすり合わせる文字通りの結ばれない性ではなく、全編“本物”である。が、心の底では結ばれない、決して絶頂には達しない、そんな空しさ、哀しさである。「へドヴィグ・アンド・アングリーインチ」(01年)で熱烈な支持を受けたジョン・キャメロン・ミッチェル監督は、全編本物の性を描きながら、本来の狙いである“心のつながり”に観客を誘導する。
不思議なもので前貼りをこすり合わせていると分かっていたロマンポルノにはずいぶん興奮させてもらったのだが、全編本物の性が登場する今作には、そういう意味ではピクリともしなかった。私が年を取ったから、というわけではない、はずだ。代わりに満たされない心同士が困難の末にかすかに触れ合って生まれる温もりにホッとし、不思議なほど癒された。カタルシスとはこのことかもしれない。
主人公はセックスカウンセラーの女性。彼女は様々なカップルにアドバイスを与え、自身は夫とアクロバティックなセックスをしている。だが、実は“絶頂”を体験したことが一度もなく、これを打ち明ける相手もいない。患者のゲイカップルから紹介されたサロン「ショートバス」を訪れると、そこには様々な悩みを抱えた人々が集っていた。世間体、相手の気持ち…様々なものに縛られて本当の喜びを味わえない人たち、心のふれあいを求める人たち。その場でセックスを楽しむ人もいる。元ニューヨーク市長もいた。
人々がそれぞれ異質のカミングアウトを繰り返す中で、カウンセラーの女性もしだいに心を開き、解放されていく…。
出演者は無名の俳優がほとんどだが、長年の顔見知りのようにサロンの中に溶け込んでいる。ミッチェル監督が1年にわたって全員と“共同体”のような生活を続け、彼らとコミュニケーションを取りながら脚本を仕上げていった成果なのだろう。ニューヨークの演劇シーンで伝説的存在となっているジャスティン・ボンドが本人役で出演しており、彼が美輪明宏ばりの説得力で作品に奥行きを与えている。
自分で自分のあそこをくわえるヨガのポーズのようなマスターベーションや、ゲイカップルに一人の青年が加わって輪のようにくわえあうシーンも登場する。児童書「ちびくろサンボ」でそれぞれの尾を追いかけて木の周りを高速回転するうちに溶けてバターになってしまったトラたちのエピソードを思い浮かべてしまった。
が、私のように“守備範囲”の狭い人間にとっては奇異なはずのシーンがいつの間にか当たり前の行為に見えてくる。人間には様々な趣味嗜好があり、自由である、という日頃建前的にしか思っていないことをこの映画は実感として訴えてくる。
主人公のカウンセラーとともに癒され、いつの間にか心が広くなったような気がする作品である。
2007年08月09日
極め付きのB級作品
-デス・プルーフinグラインドハウス(9月1日公開)、プラネット・テラーinグラインドハウス(9月22日公開)-
最近、このコラムで紹介する作品に占める“お子様向け”の比率が高くなっている。意識したわけではないが、どこかに理屈抜きというか荒唐無稽の面白さを求める気持ちがあるのだと思う。
確かに、舞台となる業界を細部まで調査した跡がうかがえたり、登場人物の背景が細密に描かれていたり、つじつまがしっかりと合っている映画は「大人の観賞に耐える作品」にくくられる。シリアス作品だろうとコメディだろうと、こうした積み重ねを前提に泣いたり、笑ったりしている現実がある。
だが、不思議なもので、洗練された作品ばかりではもの足りない。たまにはお子様向けも見たくなる。そもそも大人向けの荒唐無稽作品、つまりB級作品を楽しみたい。そんな思いに応えてくれたのが今回紹介する2作品だ。
「デス・プルーフ」は、改造車を武器に女性を襲う異常な男にタフな女性たちが復讐する物語。男は目を付けた女性の車を追い回し、最後は自らの改造車を激突させるとんでもないワルというか変質者だ。映画の作りはざっくりしたもので、前半は男が4人の女性を惨殺するまでの残虐編、後半は新たなターゲットとなった3人の女性が実はスタントウーマンを含むワイルドな映画スタッフで、男を返り討ちにする爽快編という構成になっている。
「プラネット・テラー」は、生物化学兵器によってゾンビ化した兵士に勇敢なゴーゴーガールや保安官が立ち向かう物語。片足をゾンビに食いちぎられたゴーゴーガールは義足代わりに機関銃を装着した人間兵器となって奮戦する。
このあらすじでワクワクするかは個人差があるだろうが、どちらも様々な趣向が凝らされている。
両方の作品にふられた「グラインドハウス」の副題は60~70年代にかけて大量生産されたインディーズ系の低予算映画を指す。痛んだフィルム、コマとびはもちろん1ロールごと紛失なんてこともざらだったのだそうだ。そんなテイストをわざわざ最新のデジタル技術で再現している。このテの作品の売りの一つであるお色気も適度にまぶされているのだが、ベッドシーンに差し掛かると「ロール紛失」の但し書きが挿入されていきなり次のシーンが始まるというユーモラスな処理も施されている。
余分な(と思われる)シーンはこの手法で飛ばされ、エッセンスだけが提供されるから退屈しない。何より、細部や背景にこだわらなくもいい、という“環境”でクエンティン・タランティーノ(デス・プルーフ)、ロバート・ロドリゲス(プラネット・キラー)のB級好き監督が自在に遊んでいる印象だ。「デス・プルーフ」ではターゲットとなる女性たちの会話を延々と撮っている。これが放送禁止の、つまりテレビにはできない見どころ(聞きどころ)であり、彼女たちの個性が少しずつ浮き彫りになる仕組みだ。激突シーンはこれでもかという具合に細部までが描かれる。同じシーンを違ったアングルやスローモーションで繰り返す念の入れようだ。「ブラネット・キラー」の義足機関銃は文字通り見たことのない、想定外のアクション場面を生み出し、アングルも凝っている。
カート・ラッセル、ゾーイ・ベル、ブルース・ウィリス、マイケル・ビーンらも出演。「デス―」では舞台出身のトレイシー・トムズ、「プラネット―」ではゴーゴーガール役のローズ・マッゴーワンが光っていた。
2007年08月02日
極め付きのヒーロー作品
-トランスフォーマー(8月4日公開=米)-
日曜早朝、たまたまチャンネルが合ってしまったのだが、子供向けの変身ものはますます複雑化している。善悪双方が“巨大動物型ロボット”に変身して激突、これに中国拳法も絡んでいるのだ。ウルトラマン世代の私には色使いも眩しい。タイトルは「獣拳戦隊ゲキレンジャー」(テレビ朝日)とかなり激しく進化していた。松本人志も初監督作品「大日本人」の題材にしていたが、変身ヒーローものの根の張り方、その広さ、深さにはいまさらながらにうなってしまう。
日本発の変身ものをハリウッドでも最高水準の技術で実写化したのが今回の作品だ。トランスフォーマーは宇宙から来た金属生命体。地球上のあらゆる機器に姿を変え、自在に動かす能力を持っている。
原点はタカラトミーが発売した「ダイアクロン」「ミクロマン」シリーズである。米ハスブロー社がこれを他の変形ロボット玩具と併せて「トランスフォーマーズ」として米国仕様に再構成し、日本に逆輸入。今では誰もが知る人気シリーズとなっている、そうだ。
子供向け玩具が出発点だから、正義と悪のトランスフォーマーの間にはきっちりとした線引きがある。オートボットVSディセプティコン。この2つのグループが太古の昔に地球に飛来していたある“秘密”を求めてやってくるという設定だ。
ハイテク兵器に姿を変え、破壊を繰り返すディセプコンに対し、乗用車やトラックに姿を変えたオートボットは人間と協力しながらこれに対抗する。宇宙怪獣キングギドラにモスラやゴジラが立ち向かう図式に重なる。
乗用車のままでハイテク兵器に立ち向かえるわけはなく、オートボットは巨大な人型ロボット、自らの意志で動くガンダムのようなものに変身して戦闘モードに入る。この変身やその後の戦闘シーンが見せ場である。
総指揮スピルバーグ、監督マイケル・ベイのコンビは視覚効果に実感を持たせるために、戦闘の周囲には可能な限り“本物”を使ったという。真っ二つになる大型バスなどがこの典型で、金属の質感やそれがこすれるゴリゴリとした感じが伝わってくる。特殊効果については極め付きの巧者2人が組んだわけだから、それぞれの場面にアングルやタイミングの工夫が凝らされていて見慣れたようで必ず新鮮味がある。
主演のカップルも新鮮だ。シャイア・ラブーフの底抜けに純情な青年とミーガン・フォックスの不良っぽい色気が上手く絡み合っている。この青年がトランスフォーマーのメーンキャラ、車のオプティマスと出会うシーンはアメリカの中流青年が初めての自分の車に抱く感覚はさもありなんという描写だ。紋切り型かもしれないが、観客を異次元世界に導くために入り口だけは安心できるものにしておこう、という配慮なのだろう。
このコラムで紹介した「ナイトミュージアム」(バックナンバー参照)もそうだが、子供向け作品でもとことん凝ったものは、細部に大人の楽しめポイントがあるものだ。
自動車業界が典型だと思うが、日本の産業は積み上げ型の工夫に優れている印象がある。こと子供向け、ファミリー向けのエンターテインメントに関してはこれが逆で、日本はどちらかといえばオリジナリティーを発揮し、米国がこれに工夫や細工を積み上げる形で大掛かりな娯楽作品に仕上げている例が少なくない。今回の総指揮、監督コンビが童心を極めて練り上げた今作もまさにその一例だ。