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相原斎「新作チェック!」

2007年07月26日

デカ鼻写真が好きな人に

-レミーのおいしいレストラン(7月28日公開)-

 主人公のネズミ、レミーが不思議なほど愛らしい。3D・CGアニメのピクサー作品では「トイ・ストーリー」と「ファインディング・ニモ」を見たのだが、こんな思いにとらわれたことはない。いい年をして自分でも気持ち悪い。どうやらレミーの楕円形に飛び出した鼻の動きに惹かれたようで、私がイヌを飼っていることとも関係がありそうだ。

 デカ鼻写真→イヌの可愛らしさの強調、の図式を応用したキャラクターデザインということなのだと思う。イヌの顔を正面から接写し、鼻が強調された写真は確かに愛嬌がある。ペットショップでは愛犬のデカ鼻写真を撮って、マグカップやバッグに焼き付けるサービスまでしている。ちなみに比較的顔が扁平のネコはデカ鼻写真に馴染まない。

 人間の言葉は理解できるが、話すことができないレミーが必死に意思を伝えようと真正面から見つめる顔に、いつの間にか自らの飼い犬の姿が重なる。ネズミを主人公にしながら“愛犬家泣かせ”の作品といえる、というか、そう思ったのは私だけかもしれないが。

 原案段階ではミッキーマウスのように二足歩行の擬人化したキャラクターが考えられていたようだが、あえてネズミそのままの姿で描いたことが、ペット的な愛らしさを際立たせることにもつながっている。

 料理の上手いネズミのレミーと料理が苦手な見習いシェフのリングイニがひょんなことで出会い、コンビを組んで人気料理店を開くまでの波乱万丈が描かれる。河に捨てられそうになったレミーがリングイニに命乞いするときの表情にいきなり惹き込まれる。ガラスビンに入れられたレミーの顔はレンズ効果でデカ鼻写真風になるのだ。ひと昔前の平面的なアニメーションだったら、目から大粒の涙、といった型にはまった表現になるのだろうが、ピクサーの3D表現は、目を潤ませじっと相手を見つめる微妙な表情を作り出す。いつの間にかリングイニと一緒に心を動かされる。

 あくまでアニメーションなので、おいしそうに見えると言ったらウソになるのだが、音や食感がそのまま伝わるリアリティはさすがだ。01年、米国のベストシェフに選ばれたトーマス・ケラーが調理する様子を撮影し、これをピクサーのスタッフがアニメーション化したのだという。

 アクションシーンも侮れない。舞台となるパリの街の喧騒、ちょっとしたチェイスもネズミ目線のアングルだと迫力がある。小動物の恐怖を実感できる。

 主人コンビを取り巻く面々も個性派揃いだ。幽霊として登場し、レミーを励ます今は亡き天才シェフ、グストーの言葉は示唆に富んでいる。「誰にでも料理はできる。だが、勇気ある者だけが一流になれるのだ」。これを金科玉条にしている女性シェフのコレットは文字通りの男社会に生きる女性。「王様のレストラン」(95年=フジテレビ)の山口智子や「バンビーノ」(07年=日本テレビ)の香里奈に重なる。儲け第一主義の料理長・スキナーは分かりやすい悪役であり、料理評論家のイーゴは容赦ない。フランスの料理評論家は総じてそういう傾向があるのかもしれないが、威張っていて、もっぱら辛口批評である。

 監督は「アイアン・ジャイアント」(99年)「Mr.インクレディブル」(04年)のブラッド・バード。文字通り、大人も楽しめるアニメである。

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2007年07月19日

住みたくなる町

-天然コケッコー(7月28日公開)-

 貧乏性なのだろう。リゾート地に行ってもたいてい1週間もすれば退屈になる。落ち着かなくなる。都会が恋しくなる。「Dr.コトー診療所」を見れば、美しい島だと思う。島民皆が顔見知りの濃い人間関係をいいなあ、とも思う。だが、いざそこに住むことを想像すると、数日もしないうちに景色は当たり前のものになってしまうだろうし、始終顔見知りに囲まれた生活はきっと窮屈に感じるだろう。短期間だから、映像で眺めるだけだから、結局は美しい環境をごく限定的にしか楽しめない。染みついた性を悲しく思う。

 だが、不思議なことに、この映画の舞台となった地方には住みたいと思った。こんな私でも馴染める気がした。

 原作はくらもちふさこさんの同名漫画。舞台は島根県浜田市。こんもりと緑に厚みのある山、そのふもとから風にそよぐ棚田が続く。小さな学校、鳥小屋…。どれもが癒しのパーツであり、そういう環境で育ったわけではないが、なぜか心に引っかかる。懐かしい。

 小中学校が一緒になった校舎には中2のそよを頭に全校生徒が6人。1人でトイレにいけない小1のさっちゃんの面倒もそよがみている。そこに東京から中2男子の大沢が転校してくる。初めての「同級生同士」には微妙な感情が生まれる。そよの父親と大沢の母親にも微妙な過去があったようで、それも中盤から露になってくる。

 生徒2人に先生3人という修学旅行の行き先はそよの希望で東京になった。旧友との再会にはしゃぐ大沢に対し、そよは人いきれにあたって困ぱいする。やがて、高校受験が近づき、2人は地元の高校を下見に行く。当然のように進学を決意するそよだが、大沢は規則のボウズが嫌だと、東京の高校への進学を口にする。生まれて初めての「別れ」を予感し、そよの心はブルーになるが…。

 そよが自らの言動を恥じる心の声が印象的だ。年頃ならではのヘアスタイル談義。そよは無意識に「だってこの辺にはダサい床屋しかないもんね」と言ってしまう。そこには1年下の中1女子あっちゃんがおり、その両親は床屋を営んでいるのだ。心の声は言う。「なんで私はいつも人を傷つけてしまうのだろう。あっちゃんたちはなぜそんな私と付き合い続けてくれるんだろう」。その瞬間あっちゃんはうつむいてしまうが、ぎごちなさはいつの間にか霧消する。互いの優しさが染みてくる。

 「リンダ リンダ リンダ」(05年)の山下敦弘監督はこの辺の機微を描くのが巧みだ。誰でも経験のある気まずさ、それをすっと飲み込む大らかさが居心地の良さを印象付ける。

 地元のショッピングモールまで足を伸ばそうと、修学旅行で東京に行こうと、そよは住んでいる町が好きだ。肯定も否定もせずあるものを自然に受け入れている。顔見知りの中に引きこもっているのでなく、しっかりと受け止める強さを感じさせる。

 序盤、山道を歩くシーンでそよ一行は“風の声”を聞く。実は、東京でへたったときにも同様の“声”が聞こえてくる。東京でもやっていけるという“天の声”なのだろう。彼女の環境を受け入れる力、強さをダメ押しするエピソードなのかもしれない。

 そよ役の夏帆、大沢役の岡田将生は瑞々しいというか、まぶしい。そよの両親役の夏川結衣、佐藤浩市はもちろん、友人役の柳英里沙、藤村聖子がどっしりした感じで2人の主役に自在性を与えている印象だ。

 山下監督には「リアリズムの宿」(03年)で大いに笑わせてもらったが、今作でも「間」で笑わせるワザは健在だ。その部分では劇団系の廣末哲万、斉藤暁が際立っている。

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2007年07月12日

極め付きの憎まれ役

-フリーダム・ライターズ(7月21日公開=米)-

 実話に基づいた作品の場合、どんな憎まれ役にもたいていは救いがある。「根はいい人なんだなあ」、そこまでいかなくても、せめて「いいところもあるんだね」くらいのエピソードが織り込まれているものだ。存命であろうと亡くなっていようと、モデルとなった人は実在するわけだから、丸ごと悪役キャラを描くには製作側にも勇気がいる。

 今回は実録ものには珍しい、救いのない憎まれ役が登場する。理想に燃える新任教師ミスG(ヒラリー・スワンク)の活動にことごとくケチをつけ、妨害するキャンベル教科主任(イメルダ・スタウントン)だ。

 舞台は94年、ロサンゼルス群ロングビーチの公立高校。ロス暴動の2年後で、校内は人種対立で荒廃している。授業もままならない状況に正面から立ち向かおうとするミスGが、「アンネの日記」を教材にしたいと申し出ると教科主任は「予算の無駄。彼らには無理」と突き放す。それでもミスGがあきらめないと、瑣事をあげつらいことごとく校長に言いつける。度重なる妨害はあまりにも見え見えで稚拙だ。このキャラはどこから見ても救いがない。

 彼女を突き動かしているのは、理想主義に対する現実主義でもなければ、若い情熱に対する嫉妬でさえもない。ひたすら目障りなものを潰そうという暗い衝動である。

 イメルダ・スタウントンはロンドン生まれで王立演劇学校の出身。91年に演劇界の権威オリヴィエ賞に輝き、今回劇中で火花をちらしているヒラリー・スワンクと04年のアカデミー賞を争った折紙付の演技派だ。一見笑っている顔で目が笑っていない表情―白目のど真ん中に黒目(彼女の場合が青みがかった灰色だが)が来る状態―はものさしで計ったように緻密な印象だし、その目の焦点がしだいに遠くなる表情の変え方は、キャンベル主任の暗い、どす黒い衝動をひしひしと伝える。

 くしくもスタウントンはこの映画の前日公開となる「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」にも先生役で出演。これが“キャンベル主任”を魔法界に移したようなキャラである。作品の性格上、人物設定は劇画的に誇張されているのだが、そのまま彼女のシリアス~コメディの振り幅の大きさを見せ付けられた思いだ。

 今回の作品に話を戻すと、人種対立、貧困、銃器の校内持ち込み、家庭崩壊…問題だらけの学級を新任教師が立て直すというサクセス実話である。大学出たてのミスGの理想論は当然のことながら当初生徒たちに拒絶される。

 打開策は彼女が自腹でノートを購入し生徒1人1人に配ったことだった。思いのままに自分のことを書き、読んでほしいときだけ共有のロッカーに入れるというルールだ。ミスGはこれを通じて表面には見えない生徒たちの過酷さ、本音を知る。生徒たちは書くことによって自分の生き方を再認識し、異人種の同級生の辛さも知る。

 人種対立、差別の悲劇の典型として「アンネの日記」を教材にするが、そもそも彼らはナチスもホロコーストも知らなかった。初めて学ぶことを知り、スポンジに水が染み込むように吸収し…。結果、卒業はおろか18歳まで生きることも難しかったようなクラスの全員が大学進学するという奇跡が起こる。

 「金八先生」はシリーズを追う毎に過酷さを増したし、洋の東西を問わず、教育現場がどんどん難しくなっていることは認識しているつもりだ。だから、今作のとんとん拍子の問題解決は何とも楽天的に思える。校内に銃器を持ち込むという、日本では考えにくいレベルに至っていることを考えれば、悪人正機説というべきなのか。知識も倫理観もゼロからスタートした彼らだからこそ、ひとたび学ぶ喜びを覚えた後の更生速度は我々の想像を超えているのだろう、と解釈した。

 さらりとあらすじを追えば、ミスGの苦難の足跡はもちろん伝わらない。映画でも伝えきれない厳しさは少なくないはずだ。が、何よりこれが実話だという、否定できない強みがある。リチャード・ラグラヴェネーズ監督はその辺を十分踏まえた上で、あえてダイジェスト風の匂いを漂わせながら、あまりにも過酷な現実に風穴を開けた実話を心地よい結末で終えている。

 ミスGはその後、UCLAで教鞭を取り、基金も設立したとのことだが、あの教科主任はどうなったのか、ハッピーエンドに心残りである。

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2007年07月05日

淡くて温かい希望

-街のあかり(7月7日公開=フィンランド)-

 十数年前になるが、担当した連載小説の題字を榊莫山さんにお願いしたことがある。一見崩した書体は、時間を追って味わいが深まる。画数が少ない字ほど達人らしい“違い”が顕著になる。突き詰めた“結論”というか、これしかないという形に思えてくるから不思議だ。

 小学生の頃から自分の字の下手さ加減にずっとコンプレックスを抱いてきたのだが、 構造的にシンプルな「字」には上手い下手で決定的な差がでる。複雑なものほど技量の差は見えにくいが、シンプルなものは容赦が無い。映画に置き換えれば、単純なストーリー、単純な構成ほど作者の力量が見えてくるものである。

 アキ・カウリスマキ監督は優れた書道家のように“余計なもの”が嫌いである。シンプルを極め、この人にしか表現できない味わいを伝える。

 主人公は孤独な男。警備会社に勤め、起業の夢を抱いているが、友人はいない。帰宅途中に立ち寄るソーセージ屋を仕切る女性が唯一の話し相手だ。マフィアの男が目を付ける。自分の女を差し向け、彼を利用して警備を担当する店から宝石を奪う。孤独な男は逮捕されるが「女」のことには口を閉ざす。マフィアの男はここまで読みきっていた。出所した男にはさらなる仕打ちが―。マフィアの女という虚飾の“あかり”に惑わされた男は本物の“あかり”を見つけることができるのだろうか…。

 映像はグリーンを基調とした淡い背景の中に赤が際立つような色づかい。背景、小物も最小限のシンプルさだ。だからこそ、その一つ一つが気になる。調度品や小物類といえばビスコンティ作品が思い浮かぶが、あちらがアンティークな魅力に満ちていたのに対し、カウリスマキ作品はどこにでもありそうなものの意外な美しさを再発見させてくれる。花を挿したワインの空き瓶やコーヒーショップの素朴なカップが不思議な質感をかもし出す。

 小物が際立つくらいだから、俳優の演技は嫌でもすみずみまで見える。大仰なセリフ、動きはいっさいない。映画や演劇を見るときは、過剰な部分に“演技”を感じがちだが、カウリスマキ作品ではむしろ日常生活では感じないような些細な部分に目がいく。テーブルから下ろした手、相手の目ではなく、そのやや下を見る微妙な目線…。「引き算の演出」が生むディテールである。

 物語はあくまで悲しい。主人公はサディスティックなまでに世の波にもまれ続ける。が、「嫌われ松子の一生」(06年)のようなコテコテの転落物語ではない。最小限の手管は分かりやすい。男の心理も手に取るように映し出される。

 監督自身が「ラストシーンは希望で光り輝いています」と語っているのだから、ハッピーエンドといっていいのだろう。だが、あくまで、ならではの背景が浮かび上がらせる輝きであり、しっかりと作品のトーンに馴染まないと見えない“ひかり”ともいえる。

 最後に付け加えると、「犬」、「子供」の使い方もいたって素朴だが、上手い。主演は02年のカウリスマキ作品「過去のない男」で脇役を務めたヤンネ・フーティアイネン。

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