2007年04月26日
オジサンも教えられる女子高生の生き方
-あしたの私のつくり方(4月28日公開)-
この作品を見ながら思い出したのが、04年に芥川賞を受賞した綿矢りさの「蹴りたい背中」だ。主人公がオタク少年に抱く「恋愛とは違う微妙な感情」が本すじなのだろうが、気になったのは最初の方に出てくる学級の様子である。
クラスは2人から数人のグループ(気の合った仲間)にきっちりと細分され、いずれにも属さない子は無視される。きっと昔からあったことなのだろうが、もう少し漠とした感じだった、はずだ。グループ間の線引きが余りにもくっきりとしていることに私の世代は違和感を覚える、のだと思う。
「蹴りたい背中」の主人公は疎外されていても、逆にグループ化されたクラスの状況を批判的に見る強さがあった。が、違うな、と思いながらも仲間にすがりつきたい人間はどうするのだろう、どうすればいいのだろう。今作ではそんな心の揺れが描かれる。実は、自分を偽って相手に合わせることは年齢を重ねるに従って増えるものである、少女たちを描きながら、どこか心に響くところがあるのはそのせいだろう。調子良く周囲に合わせるオジサンたちこそ見るべき映画なのかもしれない。
離婚した両親を気遣い、良い子であろうとする女子高生の寿梨(成海璃子)は、学校でも仲間外れにならないように気配りしている。一方、小学校から同級生だった日南子(前田敦子)は、クラスの“憧れの優等生”からあることをきっかけに無視される存在に転落、転校していく。
寿梨は日南子に対し、人気者“ヒナ”の幸せな生活を描いた「ヒナとコトリの物語」を匿名の携帯メールで送り続ける。最初はいぶかった日南子だが、物語のヒナの魅力にひかれ、真似するようになる。結果、誰からも好かれる人気者となっていく。寿梨は自分のことのように喜び、日課のように物語を送り続ける。
だが、それでいいのか、それが本当の自分なのだろうか? 2人は当たり前の疑問に行き当たり…。
ヒロインの成海は05年の「瑠璃の島」(日本テレビ)以来注目している。みずみずしい中に大人っぽさがのぞくところ、というか、ようするに美少女の上に妙に演技が上手いのである。それも、小賢しいのではなく、自然なところがいい。今回も14歳の彼女がまるで物語にそって成長しているようにみえる。最後の吹っ切ったような表情にジーンとさせられる。普通、いい年をしたオヤジは気持ち悪く思われないように美少女をほめたりしないものだが、ほめずにはいられないのである。
今回、彼女の魅力を引き出したのは市川準監督。映像の中でストーリーの進行そのままに成長して見える理由は公式ホームページのプロダクションノートに詳しい。“市川準マジック”の片鱗がうかがえる。AKB48の前田敦子、石原真理子、石原良純ら一見異色のキャストも市川ワールドにすっかり溶け込んでいる。
2007年04月19日
雰囲気に泣かされる
-バベル(4月28日公開=米)-
泣ける映画にも2種類ある、気がする。ベタな展開は分かっているのだが、条件反射のようにぽろぽろと泣かされてしまうタイプと、漂う空気のようなものにいつの間にか目頭が熱くなるタイプだ。前者を突き詰めれば、くりぃむしちゅーの「ベタなドラマ」(日本テレビ系)で紹介されたパターンのいずれかに分類されることになる。後者に類型はないが、そこに漂うのはいずれも「物悲しさ」といったらいいような空気だ。「万葉集」の昔から表現されているうらがなしさ、何となく悲しいのである。
どちらがいい、悪いではないのだが、いざ批評のまな板にのせられると、前者は比較的突き放された言い方をされ、後者は“アート”として扱われるケースが多い。一方で、実際に涙の量が多いのは前者である。「ベタなドラマ」のスタジオVTR観賞がクライマックスに差し掛かると、それまでゲームのように展開を楽しんでいたタレントの何人かが決まって涙し、そこが一つの見どころにもなっていた。対して、悲しみの“輪郭”が見えにくい後者を見たときの涙の量はどうしても少なくなるものである。
今作はまぎれもなく後者に属するのだが、私の場合は年甲斐もなくぽろぽろ泣いてしまった。“物悲しさ”がたちこめるように濃いのだ。久々の泣ける“アート”なのだ。
モロッコに端を発した悲劇がアメリカ、日本、メキシコと糸で結ばれたように連鎖していく。悲しい連鎖、それぞれ独立したエピソードが一つに紡がれる構成は「クラッシュ」(05年)を連想させる。が、文字通り坩堝のようなロサンゼルスで人種間の対立がドミノ倒しで連なっていくあの作品とは違い、「糸」と呼ぶにふさわしい細い連鎖だ。旧約聖書の創世記に由来するタイトルに相応しく、“運命”の色合いをより濃く感じさせる構成である。
ある悲劇から冷えてしまった夫婦仲を修復しようとモロッコにやってきた米国人夫婦(ブラット・ピット、ケイト・ブランシェット)―オオカミよけのために友人からライフルを手に入れた地元の羊飼い一家―かつて現地を訪れ意気投合したガイドにライフルをプレゼントした日本人ハンター(役所広司)と娘(菊池凛子)、ライフルから発射された銃弾が米国人妻の肩を射抜いたことから、この3家族が運命の糸につながれる。さらに米国人夫婦が自宅に残してきた幼い子供たちはハウスキーパーの中年女性に連れられ、彼女の息子が挙式しているメキシコにいた-。
偶然は1発の銃弾だけで、あとは必然ともいえる悲しい出来事が日常の一部として脈々と連なっていく。詳述はさけるが、壁となるのは国境や言語だけではない。家族の中でさえ、心に抱えた悲しさを互いにぶつけることさえできない。菊池ふんする聾唖の娘のもどかしい思いが何しろ悲しい。米国で彼女が高い評価を得たことも納得できる。
ラストにほんのいっとき、家族が互いの悲しみを支えあう象徴的なシーンが登場する。さんざん酷い目にあった幼子が、何気ない優しい言葉にワッと泣き出してしまうように、私もこのシーンに不覚にも落涙してしまった。
「21グラム」(03年)で注目されたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(製作・原案兼)があらためて力量の確かさを示している。
2007年04月12日
本場でウケる中華料理の本当の味
-イノセントワールド 天下無賊(4月21日公開)-
テレビ局にとって4月と10月は番組改編期であり、バラエティーに富んだ特番が放送される。中でもフジテレビ系「FNS番組対抗NG大賞」は毎回外れがない。
ご覧になった方なら分かっていただけると思うが、キー局や関西の準キー局より、ローカル局のNGの方が圧倒的に面白い。初めて知るローカル番組がほとんどなので、NGは脇において番組そのものに感心してしまうこともある。地域独特の濃い~味わいが何ともいいのだ。
資料によれば、最初の放送は86年であり、「--NG大賞」の息は長い。他の系列局もこれに類する特番を制作しており、私が見た限りそれぞれに味わい深い。知られざる人気ローカル番組には、必ずといっていいほど飽きのこない魅力がある。
スケールは違うが、今作の中国フォン・シャオガン監督の魅力も優れたローカル番組のそれに重なるところがある。国際的に評価も知名度も高いチャン・イーモウ、チェン・カイコー両監督とは対照的に、ひたすら中国国内に向けて娯楽作品を作り続けているシャオガン監督の作品には、ひと度その味を知れば、クセになるような魅力がある。
01年、実はひそかにブレイクを予感していた。同年公開の「ハッピー・フューネラル」は“笑って泣ける葬式”を描いた怪作であり、ハリウッド資本も後押ししていたのだ。が、結局、日本ではほとんど注目されなかった。実は今回の作品も中国公開から3年を経てようやくの日本公開である。
が、05年の中国正月興行で圧倒的な1位を記録した今作も文句なく面白い。舞台となるのは長距離列車。詐欺とスリに天才的な能力を持ったカップルと出稼ぎで貯めた結婚資金をカバンに入れた純朴な青年が乗り合わせる。カモのはずが余りの純朴さにカップルはしだいに彼を守ろうとするようになる。が、列車には冷徹なリーダーに統率された窃盗集団も乗り合わせていた。青年の金を巡り、カップルVS窃盗集団の攻防戦が展開される。さらにやり手の刑事も居合わせて…。
列車という限られた空間の中で繰り広げられる知恵比べ、技比べ。カミソリやタマゴが小道具となって見せ場を作る。この辺のスタイリッシュなアクション、対照的なチベットの壮大な風景、どちらも息を呑む映像である。カップルの“更正劇”という心理描写も緻密だ。心の動きを示唆する目の動き、指の動きにも無駄が無い、見逃せない。
最後になったが、キャストは豪華である。カップルには香港のアンディ・ラウと台湾のワン・リー。窃盗集団のリーダーに中国の名優グォ・ヨウ、その手下に中国若手のリー・ピンピンと“オール中国”の競演である。ヨウの怪演、ELTの持田香織に似たピンピンの新鮮な魅力が印象に残った。
オープニング曲となっている小野リサの「ラヴィアンローズ」もしっかり映像に溶け込んで心地よい。
2007年04月05日
スタローン的生き方
-ロッキー・ザ・ファイナル(4月20日公開)-
90年、つまり17年前のカンヌ映画祭で、私は“スクープ写真”をものにした。シルベスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーがダンスを踊る世にも珍しいスナップである。シュワちゃんは余裕の笑みを浮かべ、スタローンの表情ははにかんで硬い。自分で言うのも何だが、2人の性格を一枚に焼き付けた象徴的なショットである。
米国の映画製作会社が主催したパーティで、居合わせた日本人記者に向けてシュワちゃんがサービス精神を発揮して主導したものだが、あと2人いたライバル紙の記者たちはフィルム交換中(デジカメ時代にはあり得ないが)などで、この数秒間の出来事に間に合わなかった。私のインスタントカメラだけが、幸運に恵まれたのだ。
現在、スタローンが60歳、シュワルツェネッガーは59歳。カリフォルニア州知事の座におさまった後者に対し、前者は不器用なまでに原点回帰のロッキーである。
5作もやったら十分ではないのか、90年に公開された第5作には「最後のドラマ」の副題までふられていたではないか、だいたい、文字通りの高齢者となったロッキー・バルボアは何をするのか、リングに上がるストーリー運びはあまりにも無理があるのではないか…。疑問は怒涛のようにわいてくる。だが、ひとたびスクリーンにむかえば、あくまでストレートなスタローンの思いにねじ伏せられる。いいではないか。年相応に落ち着くのではなく、俺にはコレしかない、という一途な生き方。31年前に第1作を見たときの新鮮な驚きを思い出した、ような気がした。
ボクシング界を引退したロッキーは小さなイタリアレストランを経営している。エイドリアンは他界し、成人した一人息子は“七光り”を嫌って家を出ている。孤独であり、胸の奥にくすぶる情熱とも折り合いが付けられないロッキーはプロボクサーとしての復帰を決意する。地元でマイペースの活動するつもりだったのだが、現役チャンピオンが、というか周りのスタッフが話題性を放っておかなかった。強過ぎるのか、相手に恵まれないのか、結果的に無敵となったチャンピオンは不人気だった。紆余曲折を経て、現役チャンプVSロッキーのエキジビジョンマッチが実現するのだが…。
ストーリーを文字で追えば、先に書いたような数々の疑問はそのままである。が、スタローンは映像で納得させてくれる。後半のファイトシーンの生々しさ。変形する顔はさすがにメークだろうが、パンチの重さがスクリーンからひしひしと伝わってきて、メークには見えない。先の来日時の様子をテレビで見た人はポロシャツ越しに見える体型にも驚いたはずだが、年齢を超越した上半身の筋肉はスクリーン上でさらに迫力を増す。第1作の趣旨に立ち返りながら、ファイトシーンのカメラワークが比較にならないほど練れているのも確かである。
ロッキーの新たな挑戦は、これまでのシリーズ同様周りの人たちを立ち直らせていく。どうしても先が読めてしまう人情ドラマの部分にも、じわじわと胸を熱くなった。観客を決して裏切らず、しっかりと感動させてくれる。強引な展開には違いないが、久々に味わう気持ちの良い強引さである。スタローンはもちろん監督を兼任。相変わらずのダメ義兄、バート・ヤングの枯れぶりも見ものだ。