2007年03月29日
2057年 太陽への旅
-サンシャイン2057(4月14日公開)-
英国のダニー・ボイル監督はちょうど50歳。作品毎に必ず新たな挑戦があり、新作が楽しみな監督である。一昨年「Yahoo!」のインタビューで監督は「大きな予算がないときっていうのは、自分たちのしたいことを実現するのは難しいけど、その不可能の中で撮りたいことをなるべく実現させなきゃいけない。想像力を最大限に生かして作る―」と語っている。子役を主演にした前作「ミリオンズ」の完成直後だったこともあり、「今までのどの映画よりも学んだことは多かったと思う」と天真爛漫な子供たちから、多くの創作ヒントを得たことも口にしている。
この「ミリオンズ」は、ひょんなことから大金を手にした子供の意外な、というか大人には想像できないような行動を描いていた。出世作の「トレインスポッティング」(96年)では、対照的にドラッグ常用者たちを描きながら、その行動にはらしくない想定外があった。どの作品でも登場人物たちは日常と非日常の間をいともたやすく行き来する。言い方を変えれば、どんな状況に置かれた人たちにも日常はある。ボイル作品はその境目の越え方が実に自然というか、スッと“次元”移行がなされるのである。想像力が人一倍たくましいのだろうし、いい意味で稚気の持ち主だからできることなのだろう。
宇宙を舞台にしたSFスリラーの今作は今までになくスケールが大きい。想像力の活かしがいがあろうというものだ。
近未来、太陽が弱り、地球は氷河時代のような様相だ。最後の望みをかけて太陽に向けて飛び立った宇宙船の目的は太陽の内部に核爆弾を撃ち込んで、再生させようというもの。8人のクルーは人種も性別も世界の縮図のような配分になっている。船長が日本人(真田広之)というのがちょっとうれしい。道中は、同じミッションで太陽に向かいながら行方不明になっていた先遣宇宙船との交信があったり、人的ミスを発端に計画の変更を強いられたりとハプニングの連続だ。
登場する宇宙船は細長く、太陽熱から船体を守るための巨大な傘型の耐熱盤が先頭に取り付けられているが、その他の部分は「2001年宇宙の旅」(68年)のディスカバリー号に似ている。ボイル監督と同い年だからわかるのだが、同作の公開時には12、13歳。強烈な影響を受けているはずだ。
「2001年―」もそうだったが、今作も細部にリアリティがある。耐熱タイルが損傷して、船外活動で補修するところはスペースシャトルを彷彿とさせる。弱っているとはいえ、メラメラとすべてを焼き尽くすような太陽熱の描写も迫力がある。船内のきめ細かさ、シンプルでありながら、スケール感を損なわない地球上のシーンなど、決して潤沢ではないだろう予算でしっかり“大作感”をかもしている。フレームの外側を意識させる、否応なく想像力をたくましくさせる撮り方である。
「死」を意識したときのクルーそれぞれの葛藤は生々しく、対して太陽や宇宙の描写は幻想的なのだが、ボイル監督の手に掛かって巧みに溶け合っている。
主演は「プルートで朝食を」のキリアン・マーフィ。他にローズ・バーン、クリフ・カーティスらが出演。
2007年03月22日
鉄人世代の心にしみる
-鉄人28号 白昼の残月(3月31日公開=日本)-
確かに昭和30年代は街灯の数も限られ、暗がりがそこいら中にあった。そのままのアニメ映像である。「オーラの泉」でおなじみの矢島正明のナレーションも講談調で時代がかって聞こえる。鉄人世代はワクワクするが、春休みに合わせた公開は子供たちがターゲットではないのか。大丈夫なのか、こんなにマニアックに作ってしまって。妙に心配になる。
05年公開の実写版「鉄人28号」(富樫森監督)について、ネットコラムで「鉄人に漂う哀しさ」と書いたことがある。舞台を現代に移したこの作品は、春休み作品として子供向けのサービスも施されていたのだが、リモコンの行方しだいで悪の手先となってしまう鉄人の仕組みそのものが改めて哀しかった。今作は原作の生まれた昭和30年代を舞台に戦火に翻弄された人たちの悲しい運命や戦時中の罪の清算という“負”のイメージをそのまま鉄人が背負っている。2年前の実写版からさらに“鉄人原理主義”の度合いを増して、ひたすら悲しいのである。
原作者・横山光輝の大ファンという今川泰宏監督は、作品の奥にある“横山イズム”を徹底的に増幅する。もともと旧日本軍の兵器だった鉄人はその宿命から永遠に逃れられないようだ。作品イメージは、同じ昭和30年代を“希望”という視点から描いた「ALWAYS 三丁目の夕日」(05年)と対照的といっていいだろう。
鉄人の生みの親、金田博士が遺したもう一つの負の遺産「廃墟弾」を巡る争いが本筋になっている。博士の遺児、正太郎少年はまだ鉄人の操縦が未熟であり、廃墟弾を狙うナゾのロボットとの戦いにも苦戦する。博士の養子で戦時中に鉄人操縦の訓練を受けた義兄ショウタロウ、「残月」と名乗るナゾの結社、米国の財団らが登場し、物語は意外な方向に進む。登場人物それぞれの微妙な“情”もからみ、思わず見入ってしまった。
話は変わるが、来春、18メートルの鉄人28号像が神戸市長田区にお目見えするそうだ。「鉄人28号」の原作者、横山光輝氏が同市出身ということもあって、復興のシンボルとするのだという。総工費は約1億3000万円に上る。
ある情報番組がこの件で、地元の人たちにマイクを向けていた。計画に関わった商店主らや通りかかった年配の男性は「元気が出ますね」と当然のように笑顔を見せる。が、一方でOLか大学生くらいに見える女性は「何ですかそれ」。女子高生も当然「何それ」である。知る人のこだわりが強い分、知らない人とのギャップも大きい。
話は戻って、この作品の公式サイトに俳優の辰巳琢郎さんが「大人向けのシリーズだと思っていたが、これは是非子供にも見せたい傑作―」とコメントしている。私もこの作品には知る、知らないの世代ギャップを埋める力があると思う。
(このコラムは毎週木曜の更新です)
2007年03月15日
ケタ違いの体当たり
-ブラックブック(3月24日公開=オランダ他)-
映画館で本編が始まる前に決まって上映される海賊版撲滅キャンペーンはご存知だろう。実はメディア向けの試写会でも、作品によってはカメラ、録音機チェックのために空港並みの手荷物検査が行われる場合がある。盗撮、違法コピー蔓延の象徴といえる。だが、ほんの十数年前には大らかというか、奇妙な光景がまれに現出した。試写会場後方にカメラの三脚が林立していたのである。
私が映画記者として頻繁に撮影現場を訪れていたころである。後方カメラの狙いはもっぱら「有名女優の体当たり」。つまり初めてのヌードシーンを撮ることにあった。だが、本来撮影禁止の試写会で、なぜ「三脚の林立」などが許されたのか。これは取材する側にとっても、著作権を守る映画会社にとっても今では考えられないグレーゾーンの行為であった。
武智鉄二監督の「白日夢」(81年)のように撮影現場があからさまに公開されるものもあったし、撮影現場はオフリミットでも、後日、監督、出演者の許可を得て写真がメディア各社に配布されるケースも少なくなかった。
が、女優さんが「問題場面はあくまで映画館のみ」にこだわった場合、前出の「スクリーン撮り」という手法が使われた。メディア側が上映中に問題場面を写真撮影し、これを紙面掲載するのだ。
映画会社の宣伝部が厳しいチェックを行い、小型カメラのミノックスなどで文字通り隠し撮りするケースもあったが、多くは試写会場へのカメラ持ち込みは見て見ぬふりをされ、「林立」も許された。これを有効なPRと考える映画会社は、一方で女優さんには「マスコミが勝手に撮影したので仕方がありませんね」と言い訳がたつ。問題場面に差し掛かるとさざなみのようなシャッター音が聞こえることもあった。どの道、著作権や肖像権が確立した現在では考えられない光景である。
そんな昔のことを思い出したのは、女優の格、質もその内容も「体当たり」という点で今作がケタ違いのレベルにあるからだ。
ヒロインはオランダのトップ女優カリス・ファン・ハウテン(30)。第二次大戦中ドイツ支配下のオランダでナチスによって家族を皆殺しにされ、レジスタンスのスパイとして身を捧げる。ナチス将校に近づくことには成功するのだが、情報の行き違いからレジスタンス側から裏切り者と誤解され、戦後も身の証を立てるため孤独な戦いを余儀なくされる。
スパイ活動のために頭髪はもちろんアンダーヘアも染める。文字通り体を張った潜入活動の果てに裏切り者の烙印を押され、戦後も数々の辱めを受ける。設定にも演出にも容赦がない。悲劇のヒロイン像が生々しく突きつけられる。
母国に帰ったポール・バーホーベン監督は脚本作りにも参加し、ナチスの残虐を改めて描く一方で、これまでオランダでは英雄視され続けてきたレジスタンス内の暗部にも遠慮しない。そんな抉るような演出をハウテンが全身で受け止めている印象だ。
映画史研究家の父親とテレビ局役員の母親の間に生まれたハウテンは映像文化への深い理解があるのだろう。ハードなシーンにまったく迷いがない。揺るがない。バーホーベン監督ということで、どうしても「氷の微笑」(92年)が頭をよぎるのだが、今作の映像には、そんな邪念を突き抜ける迫力がある。セバスチャン・コッホ、トム・ホフマン、ハリナ・ラインらキャストはオランダ、ドイツの一線級がそろっている。
十数年前だったら、試写会の後方に三脚が林立しただろうか。ハウテンの演技の迫力に気圧されて、ちょっとシャッターが切りにくい、気がする。
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2007年03月08日
博物館は楽しい
-ナイトミュージアム(3月17日公開=米)-
博物館が騒々しいテーマパークの様相となる映画を見ながら、最近本物の博物館からは足が遠のいていることを思い出した。小中学生の頃、だいぶ間をあけて自分の子供がそのくらいの年齢に差し掛かった頃にはけっこう頻繁に訪れたのが、そこを外れると途端に縁遠くなる。動物園、水族館と同様である。
だからだろうか。博物館のイメージは子供の頃に抱いた、あるいは子供の気持ちになって訪れたときそのままである。高い天井、薄暗い廊下、響く足音、埃の匂い…現実離れしたような、好奇心と恐怖心が入り混じったような、動物の剥製は今にも動き出しそうな―。最近読んだ「八月の博物館」(瀬名秀明著)もそんな心象風景を縦横無尽に広げたものだった。奇想天外な展開を無理なく読みすすめられたのは、作者の筆力はもちろんだが、“博物館”というタイトルが与える印象も大きかったと思う。
映画はタイトル通り、夜の博物館が舞台である。見学者が帰り、錠が下ろされた後“展示物たち”は活動を開始する。恐竜の骨格が地響きをたて、馬にまたがったセオドア・ルーズベルト大統領の蝋人形が闊歩する。そう、春休みにぴったりのファミリー映画なのである。
新米の夜警ラリーがこの秘密を知ってしまう。彼は気弱な性格が災いして職を転々としている。離婚した妻の新しい夫はやり手のビジネスマンで、息子も新しいパパになつき始めている。ラリーは息子の気持ちをもう一度自分に向けさせるため夜の博物館に招待するのだが…。
いまさら近年のSFXの効用は説く必要もないだろうが、恐竜の骨格が生き物のように追いかけてきたり、主人公がジオラマのミニチュア人形に囲まれて“ガリバー旅行記”の図となるシーンには、やはりちょっとした驚きがある。
ロビン・ウィリアムズ演じるルーズベルト大統領はさすがの貫禄を見せる。が、終盤「私はもともと蝋人形だから」と“一介の存在”であることを明かす。動き出すという意味では同じでも、ミイラから蘇える“本物”のエジプト王子とはパワーが違うのである。この辺の「なるほど」的なルール付けは、ファミリー映画に同行する年配者の楽しみどころにもなる。彼らを動かす“原動力”のナゾも物語の鍵となっている。
ラリーがわがまま放題の“展示物たち”をしだいにコントロールしていき、息子を招いた夜に起きた大事件を解決することで一人前の男になる成長譚というヒューマンな柱もしっかり建っている。主人公のベン・スティラーはユースケ・サンタマリアにキャラがかぶる。監督は「ピンク・パンサー」(06年)のショーン・レヴィ。
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