2007年12月31日
林、自信をつけた「躍」の1年:酒井俊作
つい先日、大阪・北新地のバーで、知人から尋ねられた。「今年1年、キミにとっての漢字1字で表すと何?」。年の瀬を迎え、07年を回顧する。世相を示す字は食品偽装多発に象徴される『偽』だった。身辺で変化がなかった我が身を振り返ると『留』(とどまる)といったところか。シーズン終盤、逆転首位に立ちながら失速したタイガースは…。激動、そして波乱に満ちた07年が終わる。
今年も、野手を中心に取材した。台頭した林威助の連載「威風一撃」を担当させてもらったのは記者冥利に尽きる。いまでも忘れられない言葉がある。7月上旬、岡山駅のプラットホーム。前夜3日はヤクルト戦で石井一から本塁打を放つなど大暴れした。連日スタメンに名を連ねるのは初体験。ねぎらうつもりで「カラダ休めればな。疲れもあるだろうし…」と聞いたときだ。普段は温厚で軽妙なジョークも飛ばす林が、珍しく語気を荒げて言った。
「休めないやろ。疲れがあったら休めばええの? 休めるわけないやんか。やるしかないんやから…」。あれほど感情をあらわにしたのは、たった1度だけだった。立ち止まってしまえば、レギュラーを手放すリスクをはらむ。わずかなスキも見せまいとする強い意思が言外から漂っていた。
5月の試合で帰塁の際、右肩を負傷。以来、痛み止めの注射を打ちながら、試合に強行出場。プロ入り前からの古傷である右ひざを保護するため、テーピング固定してプレーしたこともあった。1度は離脱したが夢中で1年を駆け抜けた。
林にとっての07年は『耐』だろうか。いや、そうではないと思う。歯を食いしばり耐えたから、いまがある。自信をつけた『躍』の1年だった。「向こうで頑張ってくるわ」。そう言って機上の人となった。12月14日、苦慮の末に米国で右肩の手術を受けた。年越しは母国台湾で過ごす。復帰まで、しばしの時間がかかる。08年は、さらに縁起良き1字を描けることを祈りつつ、ひとまず今年最後の筆をおく。
December 31, 2007 03:00 PM | トラックバック (1)
2007年12月25日
忘れられない、球児のひと言:佐井陽介
球児さんの“あの”ひと言が、脳裏に焼きついて離れない。あれは今月12日のこと。球児さんは西宮市内の球団事務所で2度目の契約交渉にのぞみ、将来的なメジャー挑戦の希望を球団側に伝えた。「メジャーリーグでチャレンジしたい」。記者会見での言葉はもちろんだが、それ以上に忘れられないひと言があった。
この日、僕は球児さんにお願いしなければならないことがあった。読者プレゼントとして、Tシャツにサインをおねだりしようと思っていた。今日を逃せば、もう年明けまで、球児さんと顔を合わすことができないかもしれない。千載一遇のチャンス! 迷惑であることは百も承知だったが、無理を言って、何としてもサインをゲットするつもりだった。
だが、会見の冒頭でプランはもろくも崩れ去った。球児さんが、将来的なメジャー移籍希望を表明-。緊張感に支配された会見場。もうサインなんて頼む訳には行かない。とにかく、球児さんの発する言葉を聞き漏らさないよう、必死だった。報道陣の問いかけに、真摯(しんし)な態度で受け答えをする球児さん。会見は長時間に渡った。
やがて最後の質問が終わり、球児さんは会見場を後にした。「批判は覚悟しています」。表情には疲労の色が見てとれた。無用になったTシャツを握り締め、しばらくして僕も会見場を離れた。ふと視界を横にずらすと、球児さんがいた。
ビックリした。迷いに迷った挙句、何故かその方向にダッシュしてしまった。取材時間はとっくに終わっている。こんな重大な会見の後に、今さらサインをねだろうとするなんて…。自分のバカさ加減が恥ずかしくなったが、もうどうしようもない。ただうろたえていると、10メートル先の球児さんが気づいてくれた。「僕ですか? 僕だったら大丈夫ですよ」。
一目散に駆け寄ってしまった。「こんな時に、本当にすみません…。ここにサインをお願いしたいんですが…」。球児さんは優しく答えてくれた。「いいですよ」。そして、少し寂しそうな表情でこうつぶやいた。
「僕なんかでいいんですか?」
思いもよらぬひと言だった。「えっ…」。僕は言葉が続かなかった。
メジャーへの強い思い。もちろん、それに対して賛否両論があるのは当然だと思う。ただ、球児さんは本当に苦悩している。いつもは鈍感な僕ですが、この日、それだけは強く感じました。そして、とことん間の悪い自分を、深く深く反省した次第です。
December 25, 2007 12:14 AM | トラックバック (0)
2007年12月17日
頭が下がる新井の紳士的な応対:福岡吉央
阪神新井が誕生して10日。星野ジャパンでも4番として大活躍しただけに、阪神ファンの期待も大きい。紙面にも新井の名が踊る日が続いているが、どうやら本人は取材の加熱ぶりに多少面食らっているようだ。
入団会見に集まった報道陣の数は110人。カメラの無数のフラッシュを浴び、まぶしさのあまり思わず目頭を手で押さえた新井は、広島時代との環境の変化を身をもって感じたに違いない。
広島では4番を打ち、選手会長も務めていただけあって、取材には慣れている新井。非常に紳士的な応対でも知られ、五輪予選が行われた台湾では、報道陣が待つエリアを通らずにグラウンドを後にしたことに気付き、わざわざ戻ってきてくれたこともあったという。
だが阪神入団後、大阪、広島、東京…と連日のように新井を追いかけていたら、ついに言われてしまった。「またっすか? さすがにもう聞くことないでしょ(苦笑)」。いや~、正直いつかは言われるとは思っていましたが…。
入団時には、マスコミやファンの注目度が高いことも覚悟した上での移籍だと言っていた新井。そして、その言葉に偽りはなかった。どこまでも後を追い、何もないところからネタをひねり出そうとする記者に呆れながらも、こちらの立場を理解した上で、丁寧に対応してくれたのだった。
いやいや、本当に頭が下がる。キャンプが始まれば、報道各社の取材合戦もさらにヒートアップするはず。それでも新井さん、これからも気を悪くせず、お手柔らかに頼みますね!
December 17, 2007 10:42 PM | トラックバック (0)
2007年12月10日
星野ジャパンを支えた阪神応援団:田口真一郎
星野ジャパンの取材で台湾に行ってきた。会場の洲際野球場で試合前の練習を見ていると、知人とばったり再会した。日本で10年近くも会っていなかったのに、異国の地で名前を呼ばれるなんて不思議な話だ。その知人が妙に関心している。「阪神の応援団って、さすがだ。少ない人数でうまく日本のファンをまとめ上げていた。あの仕切りはすごいよ」。
NPB(日本プロ野球組織)が各球団の公認応援団に募集をかけ、コンペを実施。その結果、阪神タイガース応援団が初めて日本代表の公認応援団に選ばれた。アジア予選で、久保芳秀代表(46)を取材。このときお願いされたことがある。「ここに来るために、全国の阪神の応援団400人以上からカンパをしてもらった。すごく助けになった。このことを、書いてくれませんか?」。公認されたのはいいが、旅費が出るのは5人だけ。「5人は無理だから、10人にしてもらえないか?」とコンペに応募する段階でNPBに頼んでいたが、認められなかったという。
開幕カード「台湾-韓国」を見たときに、想像以上の大応援団で敵地の厳しさを肌で体感した。日本は大丈夫か、という不安を打ち消してくれたのは、阪神応援団の奮闘だった。同じ敵地ながら韓国はチームカラーで統一したり、チアガールを連れてくるなど段取りが良かった。一方で、日本は応援団の技術があったから形になったが、当事者たちの負担は相当のものがあっただろう。公認から出発まで時間があまりなかった、とも聞いた。注目度の高かった大会だ。しっかりと段取りを踏めば、もっと日本らしい応援ができたはず。北京五輪もNPBが公認するなら、しっかり連携して、より良いものにしてほしい。彼らも日本代表なのだから。
December 10, 2007 12:03 AM | トラックバック (0)
2007年12月03日
上園新人王に監督の“裏ワザ”あり:町田達彦
岡田監督の“根回し”が実った。上園投手がシーズン8勝を評価されて、新人王に輝いた。他人事のように書いたが、評価したのは、他ならぬわれわれ野球担当記者だ。5年以上の現場経験がある記者の投票で、トラのルーキー右腕が一生で1度の賞を手にした。
「大阪の記者は力がないからなあ、こっちから洗脳していかんとな」
シーズンが終わると、岡田監督がしきりにうそぶいていた。「勝ち星が上のもんが選ばれんとおかしいやろ」。ライバルの巨人金刃を、1差だが勝利数で上回った。上園に投票が集まるよう、ことあるごとに記者の前で援護射撃をした。
「力がない」と言われては立つ瀬もないが、新人王の他にもMVPやベストナインが記者投票で決まる。もちろん、候補選手の実力を公平にジャッジすることに務めてはいるが、いかんせん、記者の絶対数が東京地区の方が上(球団数が多いので)。在京チーム所属の選手に競り勝つのは、それだけ価値があるのだ。「来年はまたゼロからのスタート」と上園は殊勝に言う。監督の“裏ワザ”が無意味になるよう、そして関西以外の記者が「選んで正解だった」と納得させるような、飛躍を期待したい。
December 3, 2007 07:10 PM | トラックバック (0)
