鉄矢多美子 Field of Dreams

2007年09月25日

第167幕 明と暗

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 明と暗。勝負の世界では、非情にもそれがくっきりと浮き彫りになる。9月23日(日本時間24日)、マリナーズに勝ち地区優勝を決めたエンジェルス。歓喜の輪を尻目にベンチから引き揚げるマリナーズの選手たち。一時はポストシーズン進出の可能性が大きく膨らんでいただけに、彼らの無念さ、悔しさはいかばかりかが察せられた。

 「明」。地区優勝を決めたエンジェルスのクラブハウスでは、シャンパンファイトが始まり、上へ下への大騒ぎと化していた。2002年のワールドチャンピオン以来、ポストシーズン進出の常連チームになっているとはいえ、チーム一丸となって勝ち取った「優勝」は、彼らにとっていつでも特別なものだ。シャンパンを冷やしていた大きな樽のようなバケツに飛び込んだり、パンツ1枚でひょうきんな踊りを見せたりと、決して普段は見せることのない姿を露呈して喜びを爆発させていた。

 「暗」。スプリングトレーニングからここまでただひたすら、1つの目標に向かってひた走ってきた思いが潰えたとき、エンジェルスの選手たちの歓喜は頂点に達していた。マリナーズの選手たちは落胆の色を滲ませながら、それでもあるものは記者の質問に答え、あるものは食事をとり、またあるものは淡々とシアトルに戻る準備をしていた。

 歓喜のシャンパンファイトに沸くエンジェルス。そのざわめきをどこかで感じながら球場をあとにするマリナーズ。「やっぱり勝負は勝たなければ…」。彼らの無念な思いを乗せたバスが球場を発つと、そのあとには秋風のようなひんやりした空気が流れ、それが勝者と敗者の輪郭をくっきりと描き分けているように思えた。

※写真はシャンパンファイトに沸くエンジェルスのナイン

September 25, 2007 09:14 PM

2007年09月17日

第166幕 秘密のGMノートに込められた野球愛

 ミネソタ・ツインズの本拠地、メトロドームの放送ブースに並んで位置するGMの部屋には、常に黒い表紙の分厚いノートが置かれている。それを開くと、米粒のような数字や文字が余白を残すところなくびっしりと書き込まれている。選手たちの一投一打が網羅されている「秘密のGMノート」だ。

 そのノートの持ち主であるテリー・ライアンGMが、オーナー側からの引きとめも固辞し、9月13日に突然、辞任を発表した。1994年9月13日にGMに就任して以来13シーズン、就任と区切りの日が同じ日だったのは、決して偶然ではなかったような気がする。

 何がそれを決断させたのかは、断片的に入ってくる情報でしか知りえないが、地元紙などに目を通してみると、勝負へのこだわりのようなものに対するモチベーションが保てなくなったということが主な理由らしい。それにしてもライアン氏がGMに就任したころのツインズは、1991年にワールドチャンピオンになって以降、急速にチーム力が下降し、2000年までの6シーズンは下位に低迷して、球場には閑古鳥の鳴く日が続いていた。

 オーナーのカール・ポラード氏は資産家ではあるが、なぜかあまりツインズにはお金をかけたがらない。2000年、2001年は球団のペイロールが30球団中の30番目で、「弱小、貧乏球団」の呼び名をほしいままにしていた。球団バジェットの関係で、ツインズで育ったデビット・オルティスやAJ・ピアジンスキーなど有能な選手を次々に手放さなくてはならない苦汁の選択に迫られることが多かったが、そのたびにマイナーから若手選手が上がってきては活躍する。チームが低迷する間も、ライアン氏は地道に強化策をまさぐり、そういう組織を作りあげていた。

 休日は年間に数日。それ以外は時間を惜しむようにマイナーリーグを巡回し、ベネズエラやドミニカ共和国などにも足しげく通っていた。スカウトからの報告を分析し、それを自分の目で確認して選手集めに奔走した。昨年のア・リーグMVPジャスティン・モルノーを1999年のドラフトで指名すると、その年の12月に行われたルール5ドラフトでは、ツインズに入って2度のサイヤング賞に輝いたヨハン・サンタナをフロリダ・マーリーンズから獲得。2001年のドラフトでは全米「いの一番」で、昨年首位打者になったジョー・マウアーを指名するなど、その「眼力」を発揮し続けた。

 球団消滅問題を乗り越え存続が決まると、ツインズは2002~2004、2006年とポストシーズンの常連として名を連ねるチームになる。その手腕が高く評価され、ライアン氏は2002年についで2006年にも「最優秀GM賞」ともいえる、エグゼクティブ オブ ザ イアーに輝いた。選手はもとより、他チームの首脳陣やエイジェントなど誰に聞いても「誠実でウソがない」「信頼ができる」と、その人間性は高く評価されている。

 筆者のような取材側の立場のものにも、自分から歩み寄ってきては握手を求めてくる。いつでもしっかり目を見て、手の指が骨折するのではないかと思うほどきつく、野球愛と信頼感が伝わってくる握手である。

 「チームに対する愛が消えたのではない。愛があるから一線を引く」。取り囲んだ担当記者にそう語ったという。救いは、辞任後もツインズに留まり、新GMのビル・スミス氏とともにチーム作りを続けることだ。苦しい時代を乗り越え「いいチーム」だという評判を作り上げたライアン氏は、9月30日のボストンでの今季最終戦で13年間のGMの仕事を終える。その日、野球愛がぎっしり詰まったあの「秘密のGMノート」の最終章にはどんなことが記されるのであろうか。

September 17, 2007 04:20 PM

2007年09月10日

第165幕 復帰したペドロ・マルティネスの野望とは

 地区優勝に向けて突き進んでいるメッツに、心強い味方が戻ってきた。昨年9月27日にマウンドを去って以来、約1年ぶりにペドロ・マルティネスが元気な姿で復帰を飾ったのだ。9月3日の今季初登板で白星を飾り、さらにこの試合では、レッズのアーロン・ハラングから三振を取って、史上15人目となる通算3000奪三振も記録した。

 苦しみが多かった分、その大台に到達した喜びも大きかっただろう。今季初となる2999個目の三振は、レッドソックス時代に自分の球を受けてくれたスコット・ハテバーグからだった。正捕手バリテックの控えで、当時はあまり日の目を見ることのなかった彼だったが、黙々とペドロの球を受けて、調子を引き出そうと努力してくれた恩人だ。巡り巡って対決することになった2人は、お互いどんな気持ちで向かいあったのだろうか。

 ここ数年は「エース」という気概と生来の責任感の強さから、傷めた右足親指の付け根が万全でないまま試合に臨むことが多かった。右足ふくらはぎの故障から1カ月の離脱を経て、9月中旬にチームに合流したときも、おそらく一か八かの賭けに出たのではなかったのだろうか。地区優勝まで「マジック1」となった試合で復帰登板をしたが、その試合から3試合連続でKOされ、以来マウンドから姿を消した。

 昨年、リタイアする原因となった左ふくらはぎ筋の腱断裂、右肩のけん板断裂は、すべて右足親指の付け根の故障が波及したものだった。MRI検査で故障の原因を突き止めると、1週間後の10月5日には右肩の手術を行っていた。この手術を受けると最低8カ月は投げられないことになるという大きなリスクを背負うことになったが、それでもペドロは決断した。

 いつもは母国ドミニカ共和国でゆったり過ごすオフも、手術後はリハビリ、トレーニングの場所をアメリカに求め、リカバリーのために孤独な戦いを続けていた。それに打ち勝てたのは「もう投げられなくなるかも知れないという不安より、もう1度マウンドに立って投げるんだという気持ちのほうが勝っていたから」と振り返った。

 10月25日には36歳になる。かねがねペドロは自分の誕生日を「家で迎えるのではなく、野球人ならフィールドで仲間と一緒に迎えるのが理想的」(その時期にワールドシリーズを戦っているという意味)と言い続けてきた。昨年はそれが叶わなかったが、今年はその分も取り返そうと意気込んでいる。レッドソックス時代に続き、2個目のチャンピオンリングへの野望は大きく膨らんできた。

September 10, 2007 09:42 PM

2007年09月03日

第164幕 親子2代本塁打王へ、P・フィルダー

 残り試合が少なくなり、優勝争いとともに、タイトル争いからも目が離せなくなってきた。中でも9月2日(日本時間3日)のピッツバーク戦で、今季40号本塁打を放ったミルウオーキーのプリンス・フィルダーが、親子2代で本塁打王を獲得する可能性が高まっており、がぜんその打棒が注目を浴びている。

 プリンスが野球を始めたのは、父がトロントから阪神に移った前後の4~5才のころで、甲子園球場でボールを打って遊んだことははっきりと記憶にとどめている。打撃にかけては子供のころから父譲りのパワーを見せつけ周囲を驚かせていたが、とりわけ筆者がその神童ぶりを目の当たりにした1997年2月の出来事は忘れられない。

 当時ヤンキースでプレーしていた父に連れられスプリングトレーニングにやってきたプリンスが、いきなり室内練習場で打撃練習を始めると、クラブハウスにものすごい打球音が轟きわたった。その打球音に驚いたヤンキースの選手たちが、バッティングケージに駆けつけてみると、打球音の主が12歳の少年であったことに驚きを隠せなかった。

 それは、前年新人王に輝いたデレク・ジターやバーニー・ウイリアムスらを、しばらくその場に釘付けにするほどの衝撃だった。「みんなオレより強く打ってるよ、などと驚いた様子の声が聞こえてきて、自分の中でちょっぴり嬉しかったし、楽しかった」と、プリンス自身もメジャーリーガーたちを驚かせた日のことをはっきりと記憶している。

 「いつも父親と比較されてばかりいたから、嫌気がさした」と、野球をやめてバスケットボールの道に走った一時期もあった。再び野球に戻った理由を「僕にとってバスケはコートが狭すぎたから」と照れながら説明したが、実は1996年にヤンキースがワールドチャンピオンになった際、父親に帯同してその興奮を体験したことで再び野球をやる気になっていた。次の年のキャンプでヤンキースの選手たちのド肝を抜く一件があって以来、プリンスにもう迷いはなかった。

 それから6年後、2002年6月のドラフトでミルウオーキーに1位指名を受けると、その2週間後の6月19日にはルーキーリーグのオグデン・ラプターズでプロデビューした。そのデビュー戦で満塁ホームランを含む4打数2安打5打点と華々しいスタートを切ったその試合を偶然見ていた筆者は、驚きのあまりしばらく言葉が出なかった思い出がある。

 その5年後の今季は、開幕から打棒爆発。オールスターにも選出されるなど一流選手の仲間入りを果たした。昨今は父のセシルがギャンブルや不動産投資で失敗し、多額の借金を背負って逃亡しただの、刑務所に入ったただのという噂が飛び交い、野球に集中できないこともあった。その父も今季はフロリダの独立リーグ「レッドフィッシュ」の監督を務めるなど、フィールドに戻って落ち着きを取り戻した。

 一時は父のプレッシャーに押しつぶされそうになったこともあったが、今はその父から受け継いだDNAを開花させ、親子2代の本塁打王目指してまっしぐらに突き進んでいる。

September 3, 2007 07:24 PM