2006年10月22日
第132幕 「勝つ、勝つ」と響く名将のスパイク
球場に着くやいなや、何をさておいても、まずスパイクを履くジム・リーランド。ポストシーズンゲームの記者会見場にも、そのスパイクの歯の音をカツカツと響かせてやってくる。ディビジョンのヤンキース戦を3勝1敗。リーグチャンピオンシップのアスレチックスを4勝0敗でスイープしたときなど、そのスパイクの音が「勝つ、勝つ」と聞こえたから不思議なものだ。
四六時中スパイクを履いている理由を聞くと「野球というものはスパイクを履いてプレーするものだ」とガツンと答え、さらに理由を続けた。「監督として選手に要求することは“いかに勝つための準備をするか”であって、決して“試合に勝つこと”ということではない。私がいつもスパイクを履いているのは“勝つための準備を怠らない”ことにほかならない」。
練習が始まるといきなり内野のノックを始め、その後ぐるりと外野を1周。それもただの1周ではなく、フィールドにいる選手一人一人に声をかけ、必要だとみれば、そこでしばらく話し込むこともある。「オフシーズンに選手たちに手紙を送り、話し合いを持った。1番目の選手だろうが25番目の選手だろうが差別なく、同じ対応をすると彼らにははっきり伝えた」という。指揮官と選手とのゆるぎない一体感はこんなところから生まれている。
リーグ優勝決定戦の第1戦で大活躍したブランドン・インジはチームが快進撃を続けてきた理由の多くは監督にあると言い切った。「ジムは筋の通ったことを言うし、一貫性もある。選手がゲームプランから外れないようにしてくれることも大きいし、集中力をより高める環境を与えてくれる。僕たちはこれまでにない状況の中で、プレーに集中することができている」という。
その集中力といえば、練習中の選手に声をかけてはいけない決まりを作った。ポストシーズンに入ってからは、選手と記者が雑談を交わしていても「やめろ!」と厳しく律するようになった。より集中力を増すためだ。「みんながベストを出し尽くせば優勝はありうることだ。それには常に一番いいプレーを目指し、心を一つにしていい野球をすること。ただそれのみに集中することだ」。
そして、ワールドシリーズ。対戦相手がカージナルスとなったことに、リーランドは感慨深いものを持っている。ロッキーズの監督を最後に、1999年にユニホームを脱ぎ、2000年から昨年までの6シーズンはスカウトという肩書きで、カージナルスに籍を置いていた。同じ年のラルーサ監督とは30年来の親友で、スプリングトレーニングではノックバットを握り、紅白戦では2人が分かれて監督をつとめた。ラルーサ監督のチーム作りを手伝ったそのチームとくしくも「世界一」を争うことになったからだ。
瀕死の虎を生き返らせ、タイガースの選手たちを「夢舞台」にまで押し上げたリーランドの手腕はだれもが認めるところだ。そして、彼が四六時中履いている「スパイク」こそが、猛獣使いのムチのような役目を果たしてきた。「勝つための準備を怠らない」。この言葉に象徴される名将のスパイク。世界一をかけた戦いの中で再び「勝つ、勝つ」と鳴り響くのだろうか。
October 22, 2006 11:47 AM
2006年10月15日
第131幕 バック・オニールさんの死を悼む
思いがけない訃報だった。8月上旬にバック・オニールさんを訪ねてカンザスシティーに行ってから2カ月後。あんなに元気でインタビューに答えてくれたオニールさんが亡くなった(10月6日)ことが、俄かに信じがたかった。94歳だというのにシャンとしていて、記憶力も抜群。7月末にはクーパースタウンで「演説」を行うなど、野球の発展のため精力的に活動していた。インタビューでは、子供のころ野球と出会った話から今日までのことを、理路整然と話してくれた。
日本でオニールさんの名前が知られるようになったのは、今年7月18日に米独立リーグのオールスターゲームで、94歳ながら1日限定の「現役復帰」を果たし、実際に打席に立ったことが話題になってからだ。「プレーしないかって誘いがあったから行ったんだ。打席に立って四球で一塁に出て、その後、チームが、僕を相手チームにトレードしたからまた相手チームでも打席に立ったんだ。すごく楽しかったよ」。少年のような目をして言った。
激しく人種差別が行われていた困難な時代に生き、野球をするにも苦労の連続だった。だが「そんなことより、(差別のため)高校や大学に入れなかった事のほうがずっと辛かった」。その後、1947年に黒人選手としてメジャーリーグ史上初めてジャッキー・ロビンソンがMLBでプレーできるようになった時には「やっとこの時がきた」と感慨深かったのだという。そして、これまでの野球人生で一番印象に残っていることはと聞くと「1943年。メンフィス、テネシー。メンフィス・レッドソックスが相手のイースターサンデー」と遠い記憶を懐かしむように語りはじめた。
「その日の試合の最初の打席はシングル、次に二塁打、その次がレフトオーバーのホームラン。次に打った左中間のフライは、フェンスにぶつかれと祈りながら走っていた。ボールはちょうどフェンスのてっぺんに当たって転がり、三塁コーチがランニングホームランだと肩を回したけど、僕は三塁で止まったんだ。なぜならそれでサイクル安打にしたかったからね」。
「その夜、ホテルへ戻ってくつろいでいたら、チームのトラベルセクレタリーからちょっと会ってほしい人がいるからロビーにきてくれないか? と言われた。学校の先生だった彼の奥さんが、他の若い先生たちを連れてホテルに来ていたんだ。僕は降りていって、一番前にいた若い女性に“初めまして、バック オニール です”と自己紹介して握手した。その女性と結婚して51年間一緒に過ごした。だから僕の野球人
生で一番印象に残っている日は1943年、メンフィステネシー、イースターサンデー、サイクルヒットを達成し、未来の妻の出会った夜」。
自らもプレーしたニグロリーグの発展に寄与し、2度の首位打者にも輝いている。カブスのスカウト時代にはアーニー・バンクスやルー・ブロックなど殿堂入りした名選手を次々にスカウティングし世に送り出すなど、野球界に数々の功績を残しているが「人生の一番」はそのいずれでもなく「未来の妻と出会った夜」を挙げた。そんなところに、オニールさんの人間性が滲み出ていた。
インタビューを終え「日本にも来てください」と水を向けると「ええ、近いうちに行くんじゃないかという気がしてるよ。でも一気に日本まで飛ぶのではなくて、途中ハワイによってから行こうかな。ゆっくり。ゆっくりとね」。海を越え、オニールさんの魂が日本にやってくる日を、ゆっくりと待つことにしよう。
October 15, 2006 12:15 PM
2006年10月07日
第130幕 風貌も態度も、新人らしからぬ新人
その風貌からはとても23歳のルーキー投手とは思えない。実年齢に10歳プラスしたとしても、全く違和感がない堂々たる「老け顔」のジャスティン・バーランダー。その彼が5日(日本時間6日)のディビジョンプレーオフで初マウンドを踏んだ。勝敗こそつかなかったが、ヤンキース相手に5回3分の1を3失点と合格点。ゲームメイクして立派に先発の役目を果たした。
今季は新人で17勝。ア・リーグ新人王の最有力候補にもなっている。デトロイトが誇る超特急軍団の一角を占め、これまでの最高スピードは101マイル。それだけでも驚きだが「僕がいくら101マイルを投げたってこのチームでは一番速い投手にはなれないんだ」と苦笑する。恐るべき21歳のセットアッパー、ジョエル・ズマヤがいるからだ。
そのズマヤはシーズン中に出した最速103マイルを、この日のディビジョンプレーオフのヤンキース戦でも連発し、おかげでバーランダーの101マイルはすっかりかすんでしまった。彼らはブロウンスキーGMの「とにかく速い球を投げる投手を探せ」という命令のもとで、発掘されてきたタレントで、今季揃って花開かせている。
デトロイトが躍進した点については「すばらしい監督(リーランド)がきたことと、ベテラン選手と僕ら若手のミックスがすごくうまくいっている」という2点をあげた。目標は?と聞いてみても「僕はあまり目標を作らないようにしている。一日一日を大事に、一試合一試合に集中してプレーしていくことだけを考えている」と地に足のついたお答え。
苦手とするバッターは、パワーヒッターより、コツコツ当ててくるイチローのようなコンタクトヒッターで、理由は「僕のスピードのある球を自分のバットに有利に使われてしまうから」。そのイチローとは「数回対戦して、何回も打たれてしまったね。まあ、イチローは、イチロー。いつもの彼だった」と、むしろ、打たれても仕方ないと妙に折り合いをつけているところなども、新人らしからぬ新人である。
October 7, 2006 02:40 PM
