鉄矢多美子 Field of Dreams

2005年08月23日

第95幕 あの夏の野茂

 都市対抗野球が始まった。開幕初戦から野茂英雄が設立した「NOMOベースボールクラブ」が登場するとあって、大勢のマスコミがつめかけ注目を浴びた。企業チームと違って、メンバーの中にはパチンコ店などでアルバイトをしながら生計をたて、ここまで戦い抜いてきた苦労人が多い。そうした彼らからは「野球ができる喜び」と「その環境を与えてくれた野茂への感謝の気持ち」がほとばしり出ているのを感じた。

野茂について語る、NOMOベースボールクラブの清水監督

 開会式直後、緊張感の中で戦いに挑んだ選手たちは、持てる力を十分発揮できないまま敗れた。東京ドーム三塁側通路付近に悔しそうな表情をした選手たちが姿を見せ始めると、なぜか1988年、あの夏の日にそこにいた野茂と彼らの姿が重なりあって見えた。社会人2年目で、まだ18才だった野茂は、前の試合をその三塁側の通路脇から見ていた。ユニフォームの胸には「Sakai」という文字が並び、背番号「11」が縫い取られていた。先輩に「こいつのケツ周り110センチもあるんですわ」と冷やかされてテレていたことを思い出した。

 その野茂が、2回戦の大昭和製紙富士戦で延長17回を一人で投げ、打者64人と相対して223球を投げ抜いた。相手打者が「ボールが途中で消えた」と驚いた、覚えたてのフォークボールが面白いように決まり14三振を奪った。投球に幅を持たせるため習得した野茂のフォークボールは、当時チームにいたベテラン投手から見よう見まねで技術を習得し、あるときは投球術を教わりながら完成度を上げていったのだ。そのフォーク使いの名手こそが、現在、NOMOクラブの監督を務めている清水信英だった。

 常々「日本は野球をやりたくても十分な受け皿がない」「若くて有能な芽をどこかで摘んでしまっている」と閉塞感を語ることの多い野茂が、一向に改善されない日本の野球環境に「ならば自分ができることをやるしかない」という思いでクラブチームを作った。そして社会人時代、苦楽を共にした清水を迷わず監督に推したのだ。野球をあきらめかけていた選手たちに「夢をあきらめるな」と鼓舞し、自ら奔走して彼らがプレ-できる環境を整えてきた。

 野茂の熱い思いに応えるかのように、創部3年目のクラブチームが、予選で企業チームを倒し、大舞台の切符を手にした。本大会では初戦突破こそできなかったが、彼らは野茂の思いを背負って桧舞台に立った。清水監督は試合後の会見で「野茂が今頑張っているから僕らも頑張れる」と胸を張り、「逆境の中で今もなお頑張り続けている野茂の姿に教えられるものがある」と語った。

 あの夏から17年。野茂は自分が立ち上げたチームの選手たちが、東京ドームの同じ場所に立っていることなど想像だにしなかったことだろう。

August 23, 2005 02:50 PM