鉄矢多美子 Field of Dreams

2005年08月30日

第96幕 サミー・ソーサの罪と罰

 本塁打歴代5位(588本)の記録を持つサミー・ソーサが8月28日に、今季2度目となる故障者リスト入りして戦線離脱した。鳴り物入りでボルティモアに入ったソーサだったが、出場した102試合で、打率2割2分1厘、本塁打14、打点45、と期待外れの数字しか残していない。比較的温厚なボルティモアのファンも、ソーサの覇気のなさに我慢の限界を越えたらしく、打席に立つたびに激しいブーイングを浴びせかけるようになっていた。

戦線離脱したサミー・ソーサ

 ボルティモアの担当記者も「こうなることは目に見えていた」と実に手厳しい。その理由のひとつに、技術は別にして「野球人としての謙虚さ」が欠落していることを挙げた。「いくら本塁打を量産しようと、新記録を打ち立てようと、その栄光にいつまでも寄りかかり、ふんぞり返っているような選手は、人々には受け入れられない。謙虚さを忘れた選手はその時点で選手生命の限界だ」という地元記者の話には妙に説得力があった。

 当初、カブスで総スカンを食らった問題児を加入させたことで、リー・マジリ監督は「クラブハウスをどうまとめていくのか」という質問攻めに遭っていた。それに対し「テハダとモーラもいるし、何かあれば彼らがうまくやってくれるだろう」と答えた。確かにこの2人は性格が温厚で、同じスペイン語圏出身でもあることから何かとソーサの面倒をみて、もり立てようと努力してきた。だが、肝心のソーサはそんな彼らの心遣いに気付きもしなかった。

 4月下旬から6月下旬にかけてボルティモアは首位を走っていた。それを引っ張っていたのはロバーツ、テハダ、モーラたちだった。彼らがいくら頑張ってみてもソーサのところでチャンスがつぶれるというケースが目立った。そういうことを繰り返しているうちに、チームの勢いに陰りが見え始める。7月初旬には不振のソーサにスタメン落ちを言い渡すなどしたが、どんな手を打っても悪い流れは止まらず、気がつけば借金生活に突入していた。そして、8月5日にマジリ監督が解雇されるという最悪の事態にまで発展したのだった。

 ソーサは13年間在籍したカブスで、95年から10年連続で本塁打35本以上を記録するなど、名実ともにカブスの「顔」的存在だったが、だんだんとそれにあぐらをかくようになってきた。クラブハウスをわが物顔で闊歩(かっぽ)し、大音量で音楽を響かせるなどして、他の選手の迷惑など顧みていなかった。そんな態度にへきえきとしていた選手も少なくなかった。ソーサが去ったあと、クラブハウスに残していったラジカセに選手たちが次々にボールを投げつけて、ブチ壊してしまったという話を聞いたとき、彼らの「怨念」がどれほど積もり積もっていたかを思い知らされた。

 ボルティモアのファンたちも敏感だった。ソーサの行状を伝え聞いているだけに、いくら不振を極めようと「身から出たさび」と言わんばかりの厳しい反応を示している。もちろんチームの低迷は決してソーサ1人の責任ではないが、少なくともソーサの加入によってズタズタにされたという被害者意識にも似た感情を持っているのは事実だ。そうでなければ自分のひいきチームの選手に向かってブーイングなど浴びせるわけがない。自分の内なる罪と罰。それに気が付き、受け止めなければ、ソーサの再浮上は望めない。。

August 30, 2005 02:53 PM

2005年08月23日

第95幕 あの夏の野茂

 都市対抗野球が始まった。開幕初戦から野茂英雄が設立した「NOMOベースボールクラブ」が登場するとあって、大勢のマスコミがつめかけ注目を浴びた。企業チームと違って、メンバーの中にはパチンコ店などでアルバイトをしながら生計をたて、ここまで戦い抜いてきた苦労人が多い。そうした彼らからは「野球ができる喜び」と「その環境を与えてくれた野茂への感謝の気持ち」がほとばしり出ているのを感じた。

野茂について語る、NOMOベースボールクラブの清水監督

 開会式直後、緊張感の中で戦いに挑んだ選手たちは、持てる力を十分発揮できないまま敗れた。東京ドーム三塁側通路付近に悔しそうな表情をした選手たちが姿を見せ始めると、なぜか1988年、あの夏の日にそこにいた野茂と彼らの姿が重なりあって見えた。社会人2年目で、まだ18才だった野茂は、前の試合をその三塁側の通路脇から見ていた。ユニフォームの胸には「Sakai」という文字が並び、背番号「11」が縫い取られていた。先輩に「こいつのケツ周り110センチもあるんですわ」と冷やかされてテレていたことを思い出した。

 その野茂が、2回戦の大昭和製紙富士戦で延長17回を一人で投げ、打者64人と相対して223球を投げ抜いた。相手打者が「ボールが途中で消えた」と驚いた、覚えたてのフォークボールが面白いように決まり14三振を奪った。投球に幅を持たせるため習得した野茂のフォークボールは、当時チームにいたベテラン投手から見よう見まねで技術を習得し、あるときは投球術を教わりながら完成度を上げていったのだ。そのフォーク使いの名手こそが、現在、NOMOクラブの監督を務めている清水信英だった。

 常々「日本は野球をやりたくても十分な受け皿がない」「若くて有能な芽をどこかで摘んでしまっている」と閉塞感を語ることの多い野茂が、一向に改善されない日本の野球環境に「ならば自分ができることをやるしかない」という思いでクラブチームを作った。そして社会人時代、苦楽を共にした清水を迷わず監督に推したのだ。野球をあきらめかけていた選手たちに「夢をあきらめるな」と鼓舞し、自ら奔走して彼らがプレ-できる環境を整えてきた。

 野茂の熱い思いに応えるかのように、創部3年目のクラブチームが、予選で企業チームを倒し、大舞台の切符を手にした。本大会では初戦突破こそできなかったが、彼らは野茂の思いを背負って桧舞台に立った。清水監督は試合後の会見で「野茂が今頑張っているから僕らも頑張れる」と胸を張り、「逆境の中で今もなお頑張り続けている野茂の姿に教えられるものがある」と語った。

 あの夏から17年。野茂は自分が立ち上げたチームの選手たちが、東京ドームの同じ場所に立っていることなど想像だにしなかったことだろう。

August 23, 2005 02:50 PM

2005年08月16日

第94幕 世界最速投球167キロの謎

 横浜のクルーンが日本最速投球161キロを記録して日本中が大騒ぎになったようだが、メジャーにはもっと速い球を投げるつわものがいる。ノーラン・ライアンやランディー・ジョンソンなどはその筆頭グループだが、今年5月31日、マーリンズの剛速球投手A・J・バーネットが、それまでのメジャー最速記録102マイル(約164キロ)を抜いて104マイル(約167キロ)を出し、あらゆる意味で大きな話題を呼んだ。

史上最速記録について語るバーネット

 この記録が出たのはアウエーのピッツバーク・PNCパークだったが、ネット裏にいたスカウトのスピードガンが101マイルしか出ていなかったことから、スコアボード用のスピード計測器の誤作動ではなかったのかと言われ始めた。マーリンズのマッキオン監督までが「そんな速いボールを投げる投手は見たことがない」と否定的な発言をしたため、地元紙も一斉に「計測器の故障によるもの」と記録を認めない記事を書きたてた。

 この報道に怒り心頭だったのがバーネット本人。「自分はコンスタントに100マイルは投げている。だから104マイルが出たって何も不思議なことじゃない。なぜ疑われているのかが分からない」とぶちまけた。同僚のドントレル・ウイルスやミゲル・カブレラなども「計測器がどう示していたのかは見ていないが、A・Jはいつも100マイル、101マイルを出しているから、彼だったらそれくらい出てもおかしくない。僕たちは信じてるよ」とかばっている。

 では、当時バーネットに相対した打者はどう感じていたのだろうか。パイレーツのフレディー・サンチェスは「あんなに速い球に遭遇したのは僕の野球人生で始めて。投手は常に自分の投球の違いが分かっているものだし、彼が104マイルと感じたのなら僕はそれを信じる。そしてメジャー最速記録におめでとうと言いたい。彼の投球にはただびっくりしたし、104マイルなんて恐ろしいこと」と、打者として感じた素直な気持ちを述べている。

 となれば、がぜんバーネット関連の新聞の見出しや記事には「104マイル」が出てくる。彼が調子を上げてきたことによって、周囲からだんだん周知の事実として認められる傾向になってきているのだ。もちろん当の本人は「そんなことは今になって言われなくてもあの時点で分かりきっていたこと」と反論しそうだが、いずれにしろ本当に世界最速記録が出たのか出なかったのかは依然、謎に包まれたままである。

August 16, 2005 03:37 PM

2005年08月09日

第93幕 イチロー「八艘跳び」の真

 5月15日のマリナーズ対レッドソックス戦でイチローが源義経の八艘跳びを彷彿とさせるプレーを見せたことは深く記憶に残っていることだろう。繰り返されるテレビのスローモーションVTR。限りなく「セーフ」に近いプレーにイチロー自身も猛烈に抗議したが、審判が「アウト」といえば、それに従わざるを得なかった。そしてその真実を知っているのは、当時の捕手、ダグ・ミラベリだけだ。

イチローのプレーの分解写真に見入るミラベリ

 9枚の連続分解写真とイチローが捕手を跳び越えた瞬間の大きな写真。それが掲載されている5月17日付の日刊スポーツを携えて、ミラベリに話を聞くその瞬間を待った。前日に約束は取り付けていたものの、ミラベリは当日クラブハウスでクロスワードパズルに夢中になるあまり、インタビューのことがすっかり頭から飛んでいて、練習開始ぎりぎりになってグラウンドに現れた。

 わずかな時間しかなかったが、インタビューの内容が「八艘跳び」のことだと知ると、ミラベリは練習時間を削って真剣に答えてくれた。「あのプレーは今でも鮮やかに覚えているよ」と切り出すと、新聞に掲載された一連の連続写真を食い入るように見始めた。そして「イチローがいつでも信じられないプレーをすることは誰でも知っているが、とりわけこの日のプレーは、この世のものとは思えなかった」と言った。

 「この世のものとは思えない」といわせた八艘跳び。一番知りたいことは捕手を跳び越える奇襲を見せたイチローのあのプレーが「アウト」だったのか、「セーフ」だったのかである。ミラベリは新聞を手繰り寄せながら、右手に持っているボールがイチローにタッチしていない「証拠写真」を指し示し「あれはセーフだったね」と“告白”した。

 ボストンの取材記者たちに聞くと、ミラベリはあれ以来そのことには触れておらず、初めてその真実を公に明かしたのだと言った。時の経過がそれを言わせたのだろうか。「セーフだった」と答えると、2カ月以上も心にあった小さなわだかまりが消え、すっきりした表情で、仲間たちが練習している輪の中に入って行った。

August 9, 2005 03:35 PM

2005年08月02日

第92幕 電撃トレードの舞台裏

 トレードデッドライン(7月31日)を迎えるまでの数日は、各チームともクラブハウスに落ち着かない空気が漂う。たとえ「自分に限って」と思っている選手であっても、交渉の過程で突然トレードの対象になったりすることもあるから、だれも安穏とはしていられないのだ。事実、29日の試合に出場していたオリオールズのビグビーがトレードを言い渡されたのは、試合中のことだった。

電撃トレードを言い渡された直後に記者会見したネビン

 同日。メジャーリーグのトレードの側面を見せつけられるような現場に居合わせた。パドレスのフィル・ネビンは、その日少し早めに球場にやって来て、ユニホームに着替え、試合前の練習に備えていた。そして彼がまさに練習に入ろうとするその直前に、レンジャーズの朴賛浩との電撃トレードを言い渡されたのだった。

 4日前の25日。オリオールズのポンソンとの交換トレードを拒否(契約にあるトレード拒否権を行使した)したばかりで、その翌日には今季2度目の捕手として4番スタメンで出場した。大塚ともバッテリーを組み見事なリードで無失点に抑えている。マスクをかぶると決まったその試合前、投手陣とのミーティングで「何でも要望があったら言ってくれ」とヤル気を見せていたという。

 今季はこのままパドレスに残留するかとみられていたその矢先の出来事だっただけに、各方面に大きな衝撃が走った。グラウンドに立ったままで、すぐさま移籍会見が行われた。その後方にはパドレスのユニホームをまとったチームメートが練習のため姿を見せ始めていた。このときネビンは着ていたパドレスのユニホームを既に脱ぎ、アンダーシャツ1枚で、帽子もSDマークのものではなかった。

 99年からパドレスの主砲、中心選手としてならしてきたネビンでも、チーム事情によっては容赦のないトレードが言い渡される。「もう僕はここの選手じゃなくなったんだから、ユニホームも帽子もパドレスのじゃ変だからね」。自分の身に起こったほんの数十分前の出来事をネビンはしっかりと受け入れていた。あたふたとロッカーの片付けをして、それからレンジャーズの遠征先だったトロントに飛んだ。

August 2, 2005 01:01 PM